花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

京街道/守口から光善寺まで

2009年08月03日 | 徘徊情報・河内国
 近年は東海道も五十三次と言わず、京街道の四宿を加えて五十七次などという言い方をしますが、今回は、順序に拘らず行くべき方向に行くべえと先ずは守口に降り立ちました。「何もないで」という先入見は豊中徘徊に於いてぶちのめされましたので、敢えて今まで無視していたところを徘徊することにしたのです。さて、高麗橋に行くべきか枚方宿に行くべきかというところですが、高麗橋には二里、枚方宿へは三里ということで、青年は敢えて難関に立ち向かわねばならぬと枚方宿を目指すことにしました。
 降りたってすぐに「おやおや、さっそくおもろいものがあるやんけ。」というのがトップの写真で守口宿下の見附守居橋あたりなのですが、この部分の道は文禄堤の名残となっています。南下すると守居神社に至るのですが、それはまた今度のこととして、先ず守口宿の徘徊です。この近くに野江の処刑場跡に在ったといわれる巨大なひげ題目碑が建っていますが、大坂夏の陣の後の城方の詮索は非常に厳しく、連日多くの浪人衆が首を刎ねられたといいますから、これぐらい巨大でないと怨霊は鎮まらぬというところでしょうか。まあ、見て気色のよいものではありませんから、写真はやめておきましょう。
 それにしても徳川氏の平和というものは大阪の陣でも島原の乱でも徹底的な殲滅が土台となって築かれたもので、今日のパレスチナ問題などがいつまでも片づかぬのは、ちょっと揉めたらアメリカだの国連だの外部が話し合いをさせるためでしょう。皆殺しが嫌なら揉めるな!という言い方をようせぬ国連などは紛争を長引かせるだけの役割しか果たしていないようです。
 閑話休題、意外に意外、守口宿には「うだつの町並み」が結構残っていました。徳島県の脇町(現美馬市)の保存状況に比べれば随分とけちくさく見えるかも知れませんが、周辺の状況、大阪中心部からの距離などを考えると奇跡に近いのではと思われます。

          
          現在レストランとして使用されています。

          
          現役の写真館です。重厚です。腕も確かでしょう。

          
          提灯屋さんです。営業中です。

 宿場の中程に堤から東に下る細道がありますが、野崎観音から奈良へ続いているようです。

               

 この辺りは蓮如さんの絡みもあって門徒の勢いが強かった地域ですが、守口宿にも東御坊と西御坊と呼ばれる真宗寺院があり、それぞれ盛泉寺、難宗寺といいます。1868年の明治天皇の行幸時には難宗寺が行在所となり、盛泉寺が内侍所となったということで、どちらの寺にも立派な碑があります。今は、境内には誰もおらず、難宗寺の大銀杏が静かに風に揺れています。この近くにある白井家は大塩平八郎が出張講義に来ていた所ですが、乱後は随分と迷惑したでしょうね。このところ、大塩の乱の余波ともいえる能勢騒動についてまとまったものを読む機会があり、いずれ関係した道をたどろうと思っていることもあって、この前を大塩先生が難しい顔をして立ちゃはってんなあ等と思うと感慨深いものがあります。守口宿上の見附辺りには一里塚があったそうで、現在は碑が建っています。ここを過ぎると「ええー!これが京街道?」てな道が淀川の堤に出るまで続きます。

          

          

               
               これも京街道

 淀川の堤に出た後は、基本的にはこの堤の上を延々と歩くことになります。蕪村の春風馬堤曲の世界でありますが、今の季節ですから熱風馬堤曲という感じで、あまりのんびりとした雰囲気は味わえません。

          

 しばらく行くと土手下に八坂瓊神社の林が見えてきます。小生などは非常に大ざっぱな性格で、誤字脱字何でもええやんけと思うことが多いのですが、ここの説明文は折角立派なものを作っているのに間違いが多くて残念な気がします。狛犬は、ちょっと近郷では見られぬ優れたものです。

          

          

           

 さらに淀川の堤を北上し、鳥飼仁和寺大橋という有料橋の手前を右に下りた所が守口市では最も北の集落である佐太ということになります。幽霊の足跡で知られる来迎寺ですが、この寺は何と勅使門まで備えた堂々たる寺です。この寺付近に美濃加納藩永井氏の陣屋がありました。高槻の永井氏は文化面でなかなかエライとかねがね思っておるのですが、その殿様は永井直清、その兄で淀藩藩主であった尚政はこの近くの佐太天神宮の本殿を造営しています。その頃から佐太は永井氏の領地であったのでしょうか。美濃加納に永井氏が入封するのは18世紀の半ばです。天神宮には蕪村の句碑もあります。近くの菅相寺(名前を按ずるにかなり菅原伝授手習鑑の影響をうけているような)境内には永井氏の顕彰碑がありますが、何の説明もないということで守口市教育委員会は今一歩。さらにここには渡船場もありました。その碑の裏に12尺以上の出水時には渡船を停止するとありますが、水かさが3メートル以上増えるまでは対岸に人を渡していたというのは本当でしょうか?なかなか勇敢なる船頭であります。

          
          来迎寺
          
          佐太天神宮
          
          蕪村句碑(窓の灯の 佐太はまだ寝ぬ 時雨かな)
               
               永井氏顕彰碑
               
               佐太渡船場跡碑

 淀川新橋あたりにお鍋茶屋の跡というのがあるらしいのですが、今回は確認できませんでした。酒銭三緡を擲ち、美人に榻を譲って去ろうと思ったのに残念でありました(春風馬堤曲)。茨田の樋は淀川から生活用水を引いた名残、近時有名となった新旭針江の「かばた」とは、ちょっと形状が違いますが、ここらでもその引いてきた水で野菜を洗ったり食器を洗ったりしたそうで、「ひなだ」というそうです。茨田の堤は古代史上屈指の大工事、そういえば昔に北河内で発行されていた郷土雑誌も「まんだ」と言いました。道は春風馬堤曲にいう「楊柳長堤道漸く下れり」と申す処、舗装してあるのはよくないですね。

           

          

          

 さて、光善寺が近づいてきました。「蓮如上人空善聞書」などに「出口殿」として出てくる寺で、蓮如さんの頃は寺の裏手から直接舟に乗ることもできたそうです。この出口の集落も随分と古い集落です。蓮如上人腰かけ石もよく知られています。ただ、寺内町を形成した他の地域の大寺に比べると何気なし寺に元気がないように思われます。蓮如さんも寂しげです。まあ、綺麗にしたら綺麗にしたで風格を損なうといわれ、昔のままだと元気がないと言われるのですから坊さんもやりにくいでしょう。

          
          出口集落内京街道

          
          蓮如上人腰かけ石
          

          

 ここより枚方宿は指呼の間、土地の古老は京阪電車枚方公園駅を「西口」、枚方市駅を「東口」といいますが、これは宿の東西を指しています。ただ本日は、これよりどうしても京橋で飲まねばならぬ用があり、ここで打ち切りです。

               
               京橋の道標

 あれだけテクテク歩いたのに、電車やったら一瞬やなあという感慨を抱いて飲み屋に突撃です。後で「イカ焼き」のやまげんも待っている。

 (09年7月記)

              


4 コメント

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真夏の街道歩きもまた佳し。 (道草)
2009-08-03 14:46:40
京街道は、淀川の右岸と左岸の2本があるとの様に聞いたことがあるのですが。現在はどちらが本道になっているのでしょうか。右岸なら伏見を通るので親近感が湧くのですが、それに、途中の橋本の宿はどちらからでも通過するのですか?面白そうですが(現在は関係ないでしょうけど)。徘徊堂さんにとっては左右どちらを選ぶかは、「さんずい偏」の店がどれだけあるかによって決まるのでしょうけど。やはり「左」でしょうか。
何ですか、川の「右岸左岸」は「川下」に向って決めるそうですネ。私は「川上」に向って決まるのだとばかり思っており、いつでしたか大堰川の件でmfujinoさんにご指摘されて知った次第でした。
私は月末に、帰省している次女夫婦と3人で周山~馬ケ背峠~栃本~中地~明石~熊田~泣き別れ峠~出口~周山と歩いて来ました。走行何キロになるのでしょうか。宇津在の後輩は20キロはあるのでは、と教えてくれたのですが・・・。そんなには無いかも。「せせらぎ」では1時頃に昼飯となりました。お向いのキャットハウスは、店内から眺めている限りは静かでした。
炎天下は暑くて汗が流れましたけれど、明石川沿いは涼しくて彼らは爽快さから歌声など出ていました。もう蜩が鳴いていました。最後は羽田の地ビールで締め括りました。私もお陰様で足腰は健在です。京街道の話から外れて申し訳ありません。
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淀川右岸 (gunkanatago)
2009-08-03 15:14:37
 道草様、コメントをありがとうございます。周山、また歩いてこられたのですね。これだけの距離を歩き通せる方ですから、街道歩きなど絶対に大丈夫です。周山ビールが待っているというのも励みになりますね。気持ちの良い店ですね。小生など欠食児童に見えるのか、先日は昼飯を恵んでもらいました。
 淀川右岸は、西国街道が通っています。京街道は左岸です。西国街道から分岐した勝尾寺街道や吹田街道なども右岸です。橋本へは山崎の渡しで西国街道から船で来ることができました。今も遊郭の雰囲気が色濃く残っていますが、「現役」ではありません。これからも朽ちる一方なのは惜しいことだと思います。最近も、古い娼館が幾つか壊されて、モダンな建物に変わっています。京街道ならば、滝井あたりに「現役」の娼家があります。ただ、これも4軒ばかりで随分と寂しくなりました。
 昨日は中書島から宇治川の堤防をデレデレと歩きました。道草様のご自宅はあの辺りかななどと思うのも楽しいことでした。宇治方面、山裾まで随分と家が建ちましたね。
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歩いてこそ、 (mfujino)
2009-08-03 17:39:57
gunkanatagoさま、 今度は守口ですか。歩いてみると都会の中にもいろいろ昔を語ってくれるものが残っているのですね。こういう徘徊は素晴らしいですね。私も真似をしたくなりました。我が大阪時代の熊野古道歩きは藤白神社の宮司さん作成の地図を国土地理院の地図に落とし込み、古道に忠実に歩きました。ただ、途中有名な神社や名所には立ち寄りますがゆっくりと観察は出来ず、ただ距離を稼ぐ様に歩く感じでした。
gunkanatagoさまのルートはどういう資料で調べられるのですか?また実際歩かれるときの地図は25,000分の一地図なのでしょうか?
今は私は車に頼ることが多くなってしまいましたが、やはり歩かないと発見はないのでしょうね。でも知識や興味がないと見過ごしてしまうのでしょうが。
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実は… (gunkanatago)
2009-08-03 20:10:39
 mfujino様、コメントをありがとうございます。日程が折り合い、街道歩きのお供をさせていただける日を楽しみにしております。今回の道は、昔に自転車でもよく通った道ですが、やはり自転車でも速すぎるようで、見るべきものを見ていませんでした。
 資料については、実はその時その時でバラバラです。地図を用意し、ネットで調べ上げて行くときもあれば、現地調達ということで、観光協会に立ち寄ってもらうこともあります。JR高槻構内の高槻市観光協会の窓口などは本当に充実しています。けれども、アテが外れて地図なしで歩くときもあり、そうなると「見逃した!」と後で思うことが多くあります。
 今回は恩師が用意してくれた「京街道」という本が講師です。けれども、非常に大ざっぱで、分岐点などは詳しく書いてないので、佐太集落ではかなりマイマイコンコンしました。けれども、これもまた楽しみです。守口などでは道を歩いている人に尋ねても、「さあー?」という返事が殆どですが、近江などでは手ぐすね引いて訪ねてくるのを待っているオッチャンがたくさんいます。
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