麓まで住宅開発が進みましたが、中央の山が石切山(いしきりやま)、写真では判りにくいかも知れませんが、この山に寄り添っていて、白い建物が見える山が釣鐘山です。西宮にある甲山(かぶとやま)はつとに有名でありますが、兵庫県川西市から宝塚市に続く、この山のことどもを知る古老も随分と減り、この山がかえりみられることは少ないようです。
実は、この釣鐘山は一種の霊山で、そのことは登っていくと見られる様々な石仏からもよく解るのですが、実際には見た目以上に神聖な山として長い間崇敬されてきました。しかしながら今現在は、単に「何となく寺の跡のような気がする」程度で、かといってハイキングでもさほど有名ではなく、まあどちらかというと忘れられた存在になっているように思われます。
いつの時代かは、今ひとつ判らないのですが、この山の頂上で行者が自ら穴を掘り、その穴に入って入定することがあり、その際に毎年夏にこの山で火を焚いてくれるならば、この一円では日照りの害はないと遺言を残したので、土地の者は毎年8月15日にこの山の稜線に沿った形で火を焚いたという話が伝わっています。この山の入会権等は、麓の小戸(おうべ)集落が有していましたので、この集落の人たちが中心になって火を焚いていたのですが、既に古老死に絶え、今は行われていません。この小戸集落はもともとは釣鐘山のすぐ麓にあったようなのですが(共同墓地は今も残る)、いつの時代にか山を下り、猪名川の畔に村ぐるみで移住したようです。式内社たる小戸神社がもとより現在の地にあったとすると正確には、現在の小戸集落を構成する人々(近年の外来者は除く)の先祖がある時点で、この小戸の地に移ってきたということになります。但し、小戸神社そのものも釣鐘山の麓にあったという説もあり、こちらの方が納得できます。
昭和の初め、空覚尼という一種の超能力者が、この山を仰ぎ見て何かに感応し、この山を小戸集落より買い取り、中腹に白いドームを建立、仏像を安置しました。その落慶法要は昭和11年11月11日に行われたとのことです。この空覚尼さん、法話をEPのレコードに吹き込むハイカラ尼さんだったのですが、「わたくし、空覚と申します。」で始まる法話、かつて小戸集落の古老に聞かせてもらったことがあるのですが、その古老も今は亡く、レコードの所在も不明です。空覚尼さんその人のことについても、今となってはこの地域でも話は全く伝わりません。また土地の人が失った大金の所在を言い当てた話もありますが、そのようなことを言うのも、ここでの話が最後になるでしょう。と、言っておいて時間がとれるようになったら徹底的に調べようと思っていますが。
その仏像の向きは、隣の池田市のある一点を見据えて置かれたとのことですから、何かの結界を張る目的があったのかも知れません。小生の如き凡人には推し量ることの出来ぬ世界です。現在は、池田市側の施設は小綺麗な地蔵堂になっていますが、その結界が今も生きているとすれば何から何を守ろうとしたのでしょうか。その時点からしばらくの間、つまり空覚尼の存命中は、この山は清浄な上に清浄な山として崇敬されたようで、村人が空覚尼さんに栄養をつけてもらおうと卵を持ち込み、膳の上に置いたとたんに膳がひっくり返ったなどという話も伝わっていました。釣鐘山関係者には、これらの話は伝承されているであろうと願いますが、もしかしたら、これらの話はやはりここでしか知られぬことになっているかも知れません。好事家のより話を掘り下げられんことを。現在は、この空覚尼さんの後を受けた慈光会が山を管理しています。
釣鐘山頂上から石切山(火打ち石を切り出した伝承有り、麓に火打(ひうち)集落あり。)を超える途次は、この山の西斜面を買い取った某芸大の「わしの土地じゃ!」「わしの土地じゃ!」という看板がうるさくなりました。この山を越えると満願寺です。清和源氏の崇敬を集めたこの寺、謡曲「仲光」のモデルとなった藤原仲光父子の墓や、源頼光の家来であった坂田金時(金太郎)の墓があります。
この寺から、源満仲の屋敷跡つまり現在の多田院に下る道は、以前は栗林がずーと続く道だったのですが、今は新興住宅地の中の妙味のない道になってしまいました。満願寺境内の金時茶屋で一杯飲んで、だらだらと歩むことにいたしましょう。多田院の前のほてい屋も現役です。
(08年2月の記事に加筆して再録)
実は、この釣鐘山は一種の霊山で、そのことは登っていくと見られる様々な石仏からもよく解るのですが、実際には見た目以上に神聖な山として長い間崇敬されてきました。しかしながら今現在は、単に「何となく寺の跡のような気がする」程度で、かといってハイキングでもさほど有名ではなく、まあどちらかというと忘れられた存在になっているように思われます。
いつの時代かは、今ひとつ判らないのですが、この山の頂上で行者が自ら穴を掘り、その穴に入って入定することがあり、その際に毎年夏にこの山で火を焚いてくれるならば、この一円では日照りの害はないと遺言を残したので、土地の者は毎年8月15日にこの山の稜線に沿った形で火を焚いたという話が伝わっています。この山の入会権等は、麓の小戸(おうべ)集落が有していましたので、この集落の人たちが中心になって火を焚いていたのですが、既に古老死に絶え、今は行われていません。この小戸集落はもともとは釣鐘山のすぐ麓にあったようなのですが(共同墓地は今も残る)、いつの時代にか山を下り、猪名川の畔に村ぐるみで移住したようです。式内社たる小戸神社がもとより現在の地にあったとすると正確には、現在の小戸集落を構成する人々(近年の外来者は除く)の先祖がある時点で、この小戸の地に移ってきたということになります。但し、小戸神社そのものも釣鐘山の麓にあったという説もあり、こちらの方が納得できます。
昭和の初め、空覚尼という一種の超能力者が、この山を仰ぎ見て何かに感応し、この山を小戸集落より買い取り、中腹に白いドームを建立、仏像を安置しました。その落慶法要は昭和11年11月11日に行われたとのことです。この空覚尼さん、法話をEPのレコードに吹き込むハイカラ尼さんだったのですが、「わたくし、空覚と申します。」で始まる法話、かつて小戸集落の古老に聞かせてもらったことがあるのですが、その古老も今は亡く、レコードの所在も不明です。空覚尼さんその人のことについても、今となってはこの地域でも話は全く伝わりません。また土地の人が失った大金の所在を言い当てた話もありますが、そのようなことを言うのも、ここでの話が最後になるでしょう。と、言っておいて時間がとれるようになったら徹底的に調べようと思っていますが。
その仏像の向きは、隣の池田市のある一点を見据えて置かれたとのことですから、何かの結界を張る目的があったのかも知れません。小生の如き凡人には推し量ることの出来ぬ世界です。現在は、池田市側の施設は小綺麗な地蔵堂になっていますが、その結界が今も生きているとすれば何から何を守ろうとしたのでしょうか。その時点からしばらくの間、つまり空覚尼の存命中は、この山は清浄な上に清浄な山として崇敬されたようで、村人が空覚尼さんに栄養をつけてもらおうと卵を持ち込み、膳の上に置いたとたんに膳がひっくり返ったなどという話も伝わっていました。釣鐘山関係者には、これらの話は伝承されているであろうと願いますが、もしかしたら、これらの話はやはりここでしか知られぬことになっているかも知れません。好事家のより話を掘り下げられんことを。現在は、この空覚尼さんの後を受けた慈光会が山を管理しています。
釣鐘山頂上から石切山(火打ち石を切り出した伝承有り、麓に火打(ひうち)集落あり。)を超える途次は、この山の西斜面を買い取った某芸大の「わしの土地じゃ!」「わしの土地じゃ!」という看板がうるさくなりました。この山を越えると満願寺です。清和源氏の崇敬を集めたこの寺、謡曲「仲光」のモデルとなった藤原仲光父子の墓や、源頼光の家来であった坂田金時(金太郎)の墓があります。
この寺から、源満仲の屋敷跡つまり現在の多田院に下る道は、以前は栗林がずーと続く道だったのですが、今は新興住宅地の中の妙味のない道になってしまいました。満願寺境内の金時茶屋で一杯飲んで、だらだらと歩むことにいたしましょう。多田院の前のほてい屋も現役です。
(08年2月の記事に加筆して再録)
それにも増して忘れ難いのは甲山の地名です。例の無罪(疑わしきは何とやらで)となった某保母の保育園事件で地名を知りました。保母を犯人と断定した清水一行「捜査一課長」が回収処分されました。私はこの小説を持っていたのですが、人に貸したままになってしまい、未だに残念に思う次第です。閑話休題でした。謝々です。
昔はこのあたりも奥深い山で行者さまの聖地だったのでしょうか。
霊山といえば、東海自然歩道を歩いていたとき、柘植の南にある霊山、富雄近くの霊山寺、それと葛城山地などを思い浮かべるのですが、あちこちにあるのですね。役小角さんが浮かんできますが、今回のお話はその雰囲気では無いですね。
大和三山を歩いていたとき、畝傍の山頂で瞑想にふける青年の姿を見ました。天川村の川原では霊気を感じられるとのことですが私にはわかりませんでした。
楽しいお話深謝。
話は飛びますが、京都の観光寺を思うとき、信長出でよ、という気持ちを持つ我が身でございまする。
天川弁財天、縁のない者は辿り着けないといいますが、小生も鈍感で今ひとつ解りませんでした。
別に信長が嫌いではないのですが、テレビや小説の信長像にちょっとうんざりしているという風な話を近くアップしようと思っていますので、mfujino様にどつかれるかな?けれども今の観光寺院の恥ずかしい有様を見ると信長いでよ!というお気持ちは本当によく解ります。漢研の問題では、理事長と映る貫首の姿が何度も放映され、清水寺がずっと恥を晒していますね。
信長出でよ、とは金儲けに走っている坊主をやっつける信長を象徴的に持ち出しているだけでございます。どう料理されるのか楽しみです。通説をひっくり返す話は大好きで~す。
いろいろと調べているうちにこちらのページにたどりつき、三十数年来の謎が解け、たいへんうれしく思っています。
興味深いお話を読ませていただき、空想は広がるばかりで、いつかこの話を元に小説が書けたら、などと妄想していたりします。
仏像が見据えている一点とは、五月山の下、中橋と絹延橋の間あたりにあるお地蔵様でしょうか。
ドーム内の仏像と向かい合っているのは呉服橋のたもと、呉服座跡の下の辺りにあるお地蔵さんです。この話をしてくれた古老が亡くなって既に30有余年が経っております。