今回はユーチューブ動画から
「人の死をどう受け止めるか」と言う
法話をご紹介します。
亡き人を偲び、只泣き暮れるのではなく亡き人からの、何らかを学び自分のこれから人生に生かして行く大切さを教えられました。
お読み下さい。
引用ここから
5分間法話 人の死をどう受け止めるか
こんにちは禅活の「ちしょう」です。
私たち人間にとって死とは重大で深刻なものです。誰も経験したことがないはずなのに、自分の死は恐ろしく、他者の死の場合は、その方が身近であればあるほど、重く苦しく心に突き刺さってきます。死と言う得たいの知れないもの、今回は人の死の受け止め方について、あるご葬儀での経験をお話しさせていただきます。
私がはじめてご葬儀に携わったのは高校生の頃でした。同士を務める祖父の手伝いをしたのが始まりで、それ以来沢山の亡くなられた方々をお送りして参りました。沢山の葬儀を務めさせていただく中で、強く心へ残った出来事はいくつもありますが、今お話しさせていただくのは友人の、お父さんの葬儀のことです。
今年5月のこと、友人から1本の電話を受けました。あぁ、ちしょう、突然悪いねぇ、いやー親父なんだけどさぁ、どうも危ないみたいでね、今日、明日の話じゃないんだけど、まあ、でさぁ、どうなるかわかんないんだけど、もし亡くなった時には葬儀を務めてくれるか。あー、俺でならもちろんいいよ。
そんなやりというをかわして、時間後のことです。亡くなったという連絡が届きました。私も生前お世話になっていたということがあり、急な知らせに気持ちの整理がついていきませんでした。急いでご葬儀の準備を進めて、迎えたお通夜の日。新型コロナの影響も考慮して、家族と親しい親族だけで送るというお話でしたが、会場には多くの方が弔問に訪れていました。
聞けばその方々の多くが、個人の教え子であるというお話でした。友人のお父さんは教員として定年退職まで勤め上げた方で、かつての生徒たちが口づてに訃報を聞き駆けつけてきたそうです。それぞれが口々に感謝の言葉を述べ、ひたすらに思いを込めてご焼香されている姿を見つめ、私はその様子をお釈迦さまが亡くなられるときの様子に重ね合わせていました。
お釈迦さまが亡くなられる時の様相を示した仏垂般涅槃略説教誡経(ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいぎょう)というお経があります。遺教(ゆいきょう)又は遺教経(ゆいきょうぎょう)と呼ばれ、二月十五日の涅槃会や、亡くなった方の枕経で唱える事が多いお経です。その内容は、まさに死に瀕したお釈迦様は、残されるお弟子様方に、最後の説法を行うというものです。
お釈迦様はそのお命が尽きようとしている最後の最後までお弟子さま方に、教えを伝えようとなされました。お経の最後はこのように結ばれます。汝等且(なんだちしばら)く止みね。また語(ものいう)ことを得ること勿れ。時まさに過ぎんなんと欲す。我れ減度せんと欲す。是れ我が最後の教げする所なり。これはすなわち、弟子たちを静かにするがいいもはや言葉を発してはいけない。時はまさに過ぎ去ろうとしている。私はここで死を迎える。これが私の最後の教えであるという、お諭しです。ここでお釈迦様はご自身の死を通して、命のあり方を解かれたのだと私は思います。
私が友人のお父さんの葬儀にお釈迦様のご最後を重ね合わせていたのは、その教えを受けた方々はきっとこれからも、受けた教えを胸に日々を生きていかれるのだろうと感じたからに他なりません。亡くなったその人の生き様や教えが、残された人の胸に宿り、そして人生を生きる支えとなって行く、これは人の死を受け止める上で、非常に重要なことだと思います。だとすれば人の死を考える際に、大切なことは死んでどうなるのかということ以上に、どのように生き、どんな教えを残すかが大切なことだと言えるのではないでしょうか。それは友人のお父さんだけでなく、私自身に問われていることでもあります。
今回は人の死をどう受け止めればということについてお話しさせていただきましたご静聴ありがとうございました。
引用ここまで
如何でしたか、運営者の深井です。
グリーフアドバイスのサイトでは、今日のお話のユーチューブ動画へのリンクは貼って
ありますので、お立ち寄り下さい。
グリーフアドバイスはこちらです
「人の死をどう受け止めるか」と言う
法話をご紹介します。
亡き人を偲び、只泣き暮れるのではなく亡き人からの、何らかを学び自分のこれから人生に生かして行く大切さを教えられました。
お読み下さい。
引用ここから
5分間法話 人の死をどう受け止めるか
こんにちは禅活の「ちしょう」です。
私たち人間にとって死とは重大で深刻なものです。誰も経験したことがないはずなのに、自分の死は恐ろしく、他者の死の場合は、その方が身近であればあるほど、重く苦しく心に突き刺さってきます。死と言う得たいの知れないもの、今回は人の死の受け止め方について、あるご葬儀での経験をお話しさせていただきます。
私がはじめてご葬儀に携わったのは高校生の頃でした。同士を務める祖父の手伝いをしたのが始まりで、それ以来沢山の亡くなられた方々をお送りして参りました。沢山の葬儀を務めさせていただく中で、強く心へ残った出来事はいくつもありますが、今お話しさせていただくのは友人の、お父さんの葬儀のことです。
今年5月のこと、友人から1本の電話を受けました。あぁ、ちしょう、突然悪いねぇ、いやー親父なんだけどさぁ、どうも危ないみたいでね、今日、明日の話じゃないんだけど、まあ、でさぁ、どうなるかわかんないんだけど、もし亡くなった時には葬儀を務めてくれるか。あー、俺でならもちろんいいよ。
そんなやりというをかわして、時間後のことです。亡くなったという連絡が届きました。私も生前お世話になっていたということがあり、急な知らせに気持ちの整理がついていきませんでした。急いでご葬儀の準備を進めて、迎えたお通夜の日。新型コロナの影響も考慮して、家族と親しい親族だけで送るというお話でしたが、会場には多くの方が弔問に訪れていました。
聞けばその方々の多くが、個人の教え子であるというお話でした。友人のお父さんは教員として定年退職まで勤め上げた方で、かつての生徒たちが口づてに訃報を聞き駆けつけてきたそうです。それぞれが口々に感謝の言葉を述べ、ひたすらに思いを込めてご焼香されている姿を見つめ、私はその様子をお釈迦さまが亡くなられるときの様子に重ね合わせていました。
お釈迦さまが亡くなられる時の様相を示した仏垂般涅槃略説教誡経(ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいぎょう)というお経があります。遺教(ゆいきょう)又は遺教経(ゆいきょうぎょう)と呼ばれ、二月十五日の涅槃会や、亡くなった方の枕経で唱える事が多いお経です。その内容は、まさに死に瀕したお釈迦様は、残されるお弟子様方に、最後の説法を行うというものです。
お釈迦様はそのお命が尽きようとしている最後の最後までお弟子さま方に、教えを伝えようとなされました。お経の最後はこのように結ばれます。汝等且(なんだちしばら)く止みね。また語(ものいう)ことを得ること勿れ。時まさに過ぎんなんと欲す。我れ減度せんと欲す。是れ我が最後の教げする所なり。これはすなわち、弟子たちを静かにするがいいもはや言葉を発してはいけない。時はまさに過ぎ去ろうとしている。私はここで死を迎える。これが私の最後の教えであるという、お諭しです。ここでお釈迦様はご自身の死を通して、命のあり方を解かれたのだと私は思います。
私が友人のお父さんの葬儀にお釈迦様のご最後を重ね合わせていたのは、その教えを受けた方々はきっとこれからも、受けた教えを胸に日々を生きていかれるのだろうと感じたからに他なりません。亡くなったその人の生き様や教えが、残された人の胸に宿り、そして人生を生きる支えとなって行く、これは人の死を受け止める上で、非常に重要なことだと思います。だとすれば人の死を考える際に、大切なことは死んでどうなるのかということ以上に、どのように生き、どんな教えを残すかが大切なことだと言えるのではないでしょうか。それは友人のお父さんだけでなく、私自身に問われていることでもあります。
今回は人の死をどう受け止めればということについてお話しさせていただきましたご静聴ありがとうございました。
引用ここまで
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