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「よど号」その後の物語

2005-08-05 10:33:49 | Weblog
         『よど号』その後の物語

2001年 5月15日、『よど号』を乗っ取って北朝鮮に逃亡した元赤軍派メンバーの娘三人が北京発の全日空機で成田空港に到着した。丁度翌16日の紙面は、皇太子妃懐妊の朗報とぶっかった為に扱いは小さかったが、帰って來たのは贋ドル事件でタイで逮捕された田中義三被告の長女、既に死亡したリーダー田宮高麿の長女、残留している小西隆祐容疑者の長女の三人である。日本の世間並みの常識では、彼等のような重要犯罪容疑者の親族は、世を憚る生活を強いられる。しかし、今回の場合は支援者の演出もあるだろうが、全く憚ることもなくその帰国計画を数年前からちらつかせつつ、公表し、遂に実現した。それは、娘たちの問題では無く、既にテロ支援国と言われたくない北朝鮮にとって、邪魔者になり、相次ぐ死亡・逮捕でたった四人になってしまった彼等が、望郷と言う彼等らしくない生臭い心境になり、何とか無理無く『人道の名の下』に帰国しようする為の様子見であろう。おまけに、彼等も支援者逹も当時はハイジャック防止法も存在しなかったので、帰国して逮捕されても適用される罪状は精々監禁罪であり、悪くて10年、旨くすれば5年で出られることを計算済みである。又、訳の分からない人権屋も活躍するのであろう。重信逮捕の時も気になったが、何故か彼等には支援者が付き纏う。重信の支援者の場合は、高槻の病院ぐるみと早くから分かって居ながら、證據固めのために長い期間泳がされたのち、逮捕されて居る。折りしも自民党・加藤派造反劇の真っ最中であった。(後に懲役8か月・執行猶予4年)                                 よど号犯人たちの支援団体は山中幸男事務局長が仕切る『救援連絡センター』である。 彼女たちは1997年に日本国籍を取って居るので、北朝鮮国籍はなくなっている。今回は一時渡航証での片道切符であるが、日本でパスポートをとって、日本と北朝鮮間を往復する連絡役になるのかも知れない。7 月に帰国を計画して居る彼女らの母親には、ヨーロッパでの日本人女性拉致事件が関係して居る疑いもある。その後、この帰国子女たちは、田中義三裁判を傍聴したとかのニュースはあったものの、世間は大した反応を示さない。しかし、あの事件は関係者のその後に付いていろいろな悲劇をもたらした。あれから30年が過ぎ、忘れないために時代背景とその時は英雄であった関係者の運命を記録しておく。
①あの時代
そもそもの始まりは、1960年(S-35)の安保闘争からである。しかし、安保そのものが、この年に出来たのではない。1951年(S-26)の対日講和条約の成立と同時に、日米安全保障条約は締結されているのであり、1960年は岸内閣によってその改訂が行われたのである。その改訂が日米の軍事協定を、より強固にしているとして、左翼陣営から格好の攻撃標的になったのである。国会での強行採決に対して全学連デモ隊が国会構内に侵入し騒乱となり、東大生の樺さんが圧死する事故にもなった。翌年、池田内閣が誕生して所得倍増計画を発表してやや落ち着いた。1962年はキューバ危機、1963年ケネディー暗殺もあったが、1964年には新幹線開通・東京オリンピックと社会は安定する。
しかし、1965年には高度成長が鈍化り、米軍による北爆が開始されたり、軍事協定と見られた日韓基本条約の強行採決で、再び世間は学園紛争も加わって騒乱となる。新セクトが続々と誕生し、原潜寄港反対・ベトナム戦争反対・砂川基地拡張反対・成田空港反対などがからまって、左翼間の勢力抗争も激化し、セクト同志が殺し合う始末であった。ところが1969年(S-44)の東大安田講堂陥落を期に大衆から支持されなくなった過激派は、武装化を始める。
こうした数知れないセクトの中に『ブント』と略称された『共産主義者同盟』があった。実は共産党としての、学生下部組織は『民青』と言われた『日本民主青年同盟』が唯一のもので、ゲバ棒も持たず、ヘルメットも被らず一般学生と同じスタイルで機動隊との武力衝突もできるだけ避ける集団であった。共産党は安保闘争よりずっと早い時期に、その党大会で武装闘争の方針を放棄している。従ってこれらの過激派は発する所は共産党でも過激派イコール共産党と考えるのは間違いである。
ブントは、このような共産党の変節に反発して除名されたり、離党した者たちが結成したものである。共産党はその機関紙で彼等の事を『ニセ左翼暴力集団』とコキ下ろし、縁も所縁もないと突き放して居る。このブントは、全共闘運動が大衆から見放され終息に向かうと、内部対立で関東派と関西派に分裂し、関西派が『共産同赤軍派』を名乗り、1969年には武装化に専念するようになる。この年の11月、首相官邸襲撃を計画して、大菩薩峠で軍事訓練のため集結したところを、警察に察知され53名が逮捕される。この時に逮捕された議長の塩見孝也は、18年の獄中生活を送ったが、先日の重信逮捕劇の解説をしていた。1970年になると、『赤軍派』と名乗る彼等に国内活動の場は無くなり、1 月に『国際根拠地建設』をスローガンにする。これは社会主義国に根拠地を作って活動家を送り込み軍事訓練し、日本に逆上陸させて武装蜂起すると言うものであった。しかし、路線の違いから『北朝鮮脱出組』『レバノン脱出組』『国内残留組』に分かれた。既に明らかのように、国内組は『京浜安保共闘』と合体して『連合赤軍』となって数々の内ゲバを繰り返したがあさま山荘事件で壊滅、レバノン組は多くのテロ事件を起こして国際手配され、先日の重信房子の哀れなパフォーマンスによって事実上壊滅している。
問題の北朝鮮組は、1970年 3月末、大阪万博開催と言う太平ムードに背を向けて、羽田発福岡行日航ジャンボ機『よど号』を乗っとり、平壌に脱出した。メンバーは大阪市大・田村高麿(病死)、東大・小西隆祐、明大・田中義三(逮捕裁判中)、関西大・阿部公博、同志社大・若林盛亮、京大・岡本武(公三の兄、事故死)、大阪市大・赤木志郎、高校生・柴田勝弘(逮捕刑期終了)、工員・吉田金太郎(病死)の九人であるが、北朝鮮に残って居るのは、小西隆祐、阿部公博、若林盛亮、赤木志郎の四人になっている。
②30年の時の流れ
今、一機の美しいジェット機がアメリカの空を飛んで居る。ボーイング727、旧式の機体ながら内装も豪華に改装され、VIP専用のチャーター機としてプロ・スポーツ選手団やロックバンドの花形スター逹を運んでいる。その上、昨年公開のアル・パチーノ主演ハリウッド映画『エニー ギブン サンデー』でフットボールチームの移動シーンにも使わ
れた。この飛行機にはかって『よど号』と言う名前が付けられていたのを知って居るだろうか?                                     今から丁度31年前の1970年 3月31日、羽田発日航351 便・福岡行『よど号』が、学生過激派の赤軍派によって日本で始めてのハイジャックに遭遇し、北朝鮮へ飛ぶと言う衝撃的事件が発生した。
北朝鮮に亡命した赤軍派メンバーたちも、既に50歳を過ぎ、当初の9人は上記のように4人になってしまっている。2000年 4月に彼等の現地での映像が放映された。彼等は現地で日本から渡った支援者たちと結婚して20人もの子供がいる。彼等はこの子供たちのためにも事件の精算を迫られて居るようである。しかしその映像に映る子供達が『父親のやったことは、少し常識を外れて居る、やり方として少し問題があった…』と発言し、同席する親たちが笑い声を立てている。その親たちは『当時の乗客には申し訳なかったと思うが、日本政府や警察には謝罪の必要はないと思っている』と発言している。これらを見ると、全く懲りない面々とはこの連中の事かと思われ憤りが沸いてくる。
この事件ではヒーローが生まれた。乗客の身代わりになって北朝鮮に飛んだ、時の運輸政務次官・山村新治郎代議士(36歳) は事件後も名物政治家として1983年農水相、1989年運輸相になったが、1992年 4月に次女に刺殺されて58歳でまさかの最期を遂げて居る。
そしてもう一人、この事件で時の人となった『よど号機長・石田貞二・47歳』は有名になったことで事件直後の1970年7 月に女性スキャンダルが発覚し、日航をやめる羽目になり、その後各地を輾転とする人生を送り、現在78歳にして警備員で暮らしている。

あの日、よど号は春休みとあってほぼ満席で乗客 131名、乗員 7名を乗せて定刻より10分遅れて 7時21分に羽田を飛び立った。機長の石田は当時47歳、飛行時間一万時間を越えるベテランである。7 時33分、よど号は水平飛行に移り、窓の下に富士山頂が見えた時、10人ほどの男達が日本刀やピストル、ダイナマイト状の物などを振りかざし乗客に向かって『私達は共産主義者同盟・赤軍派である。私達は北朝鮮に行き、そこに於て軍事訓練等を行い、今年の秋、再度日本に上陸して、断固として前段階武装蜂起を貫徹せんとしている』と叫んだ。そして7 時40分、名古屋の上空で機内には『こちらは操縦室です。ただ今赤軍派を名乗る者が押し入りました。皆様の安全のために一応反抗しないように、皆様静かにそのままお願いします』とのアナウンスが流れた。日本初のハイジャック事件はこうして起きたのである。現在の空港の厳しいチェック体制は、その後、世界中で繰り返されたハイジャック犯への対抗手段として徐々に整備されたもので、未だこの頃は危険物の機内持ち込みは現在よりは、遥かに容易であったのかもしれない。
当時の新聞には『手段選ばぬ赤軍派・治安当局も寝耳に水』の文字が躍っている。彼等ハイジャック犯の犯行声明も出たが『我々は明日のジョーである』として当時の人気漫画 『明日のジョー』に自分たちをなぞらえて、燃え尽きるまで戦うと叫んだ二十歳前後の若者たちであった。彼等はこのハイジャックをフェニックス(不死鳥)作戦と命名し、目指した夢の楽園は、北朝鮮であった。
8 時59分、よど号は給油のため福岡・板付空港に着陸する。空港は千人の警官に包囲され厳戒体制が敷かれていた。この事件は日本政府にとっても全く予期しない事態であり、時の佐藤栄作首相を中心とした総理官邸は緊張した。日航本社も対策本部を設置して懸命に対応しようとするが、何しろ始めての経験にどうして良いか分からないと言うのが実情であった。板付空港では給油の間に人質の解放と何としても北朝鮮に行かせてはならないとして説得工作が続いた。13時35分、給油と引き換えに犯人たちは人質の内から女性・子供ら23人を解放した。その直後、よど号は何の通告も無く発進を始め、13時59分離陸して終う。そして北上したよど号が着陸したのは、北朝鮮ではなく、何と韓国の金浦空港であった。何故こうなったか?はこの事件の謎の一つである。金浦空港で事態は3日間も膠着状態になったが、ある人物の登場で進展することになる。運輸政務次官・山村新治郎代議士が身代わりになることを買って出たのである。彼を乗せたよど号は4 月 3日、38度線を越えて北のヴェールの中に消え、19時20分北朝鮮の平壌に到着した。それから31年の年月が流れたのである。
この時の事をリーダーの故・田宮高麿はその著書『飛翔30年』の中で『我々は宿舎に入ると直ちに赤旗を掲げた。それを仰ぐ我々の胸に様々な思いが去来した。この旗の下に闘った日々のこと、この旗の下で倒れた同志たちの事、ハイジャック闘争は未だ終わって居ない。どんな事があっても再び日本に帰り力強く闘争しなくてはならない』と語っている。確かに当初は金日成の配慮で最高のもてなしと、何一つ不自由のない共同生活を保障されたメンバーであったが、日が経つにつれ、日本に凱旋帰国する夢は破れていった。目的の軍事訓練も帰国も許され無かったからである。その様な時、衝撃的なニュースが日本から届いた。国内に残って連合赤軍を結成していたかっての仲間逹が引き起こした1972年2 月のあさま山荘事件である。そして何よりも彼等が驚愕したのが、仲間同志のリンチによる12名殺人の露見である。田宮はその著『我が思想の革命』で『誰よりも貴重な同志たちを自らが殺して終うとは何たる事。それを聞いた時、限りない悲しみと共に憤りを押さえることができなかった。段々空しくなってきた。情けなくなってきた。スローガンを下ろして終えば自分たちがこれまでやってきたことが否定されてしまう気がした。何の為にここに来たのか?何を心の支えにして生きて行くのか?』』と記す。一体何のために革命をしようとするのか?深い疑問が北朝鮮に渡った彼等の心を捕らえた。
こんな挫折感の間にも歳月は瞬く間に流れ、1980年代、日本では学生運動そのものも世間から忘れ去られて居た。そして事件から15年後の1985年、吉田金太郎が 35 歳で病死、その三年後の1988年には岡本武が事故死した。さらにこの年、事件当時 16 歳で一番の年下であった柴田勝弘が密かに日本に戻ったところを逮捕される。しかも1994年彼等が頼りにしていた金日成首相も死去する。その翌年の1995年、リーダーの田宮が心臓発作で52歳で死去、当初の九人は四人に減って終った。そして祖国日本では会うことも適わない彼等の親たちが、年老いてこの世を去って行く。この頃彼等は安部の作った歌を良く歌った。
『何処から來たか?雁はゆく 遠く東の空の果て 祖国日本に行くときは おいら元気と言ってくれ たとえ日が経ち 山河変わろうと 君への思い変わらない』
そして今、彼らを支えているのは革命思想ではない。経済的自立と家族たちである。彼らは貿易会社を設立し平壌市内に事務所を構え、欲しいものはなんでも手に入れる特別待遇を受けて居る。彼らは現地で結婚し、数奇な運命の中で20名の子供を持つ。彼らは衛星放送によって日本事情には詳しく、日本政府と交渉して子供達だけでも帰国させようとしている。海外に逃亡した彼らには時効は停止しているから本人たちの帰国には事件の精算が必要である。それでも今その必要に迫られて居る。
国内でも精算を迫られた男がいた。事件の首謀者でありながら、その直前に逮捕され、18年の刑期を終了している元赤軍派議長・塩見孝也 59 歳であり、彼は2000年4 月の事件30周年に出席し『ハイジャック闘争は誤りであった』と総括した。『英雄性はあったかもしれないが、基本的には自分中心主義で独り善がりであった』と語る塩見は、かっての同志たちに、早く帰ってきて受刑を含めて精算したほうが良いと助言している。
③よど号誘導のミステリー
あの日、福岡空港を飛び立つ石田機長に渡された北朝鮮への地図は、中学生学習用の朝鮮半島白地図コピー一枚だけであった。14時52分、その地図だけを頼りにしてよど号は、38度線を越えて非武装地帯に達した。その時、機内の無線に微かな応答が入った。『こちらビョンヤン ピョンヤン管制塔 これからピョンヤン空港に誘導する』との連絡であり石田機長はその指示に従って機首を大きく南に傾けた。15時16分、よど号は無事にその空港に着陸した。空港には兵士たちが溢れ、チマチョゴリを着た女性たちが北朝鮮の旗を振っていた。しかし北朝鮮にしてはどうも様子が変であった。石田機長の目にも、黒人兵の姿が写り、犯人たちも異変に気付いた。犯人たちは、金日成の写真を持ってこいと要求した。この時の駐韓日本大使館防衛駐在官・塚本氏の記憶では『持ってこいと言われて、どこかにないか?と大騒ぎになった』との事である。益々不審に思った犯人が、機体を警備する兵士に英語で『ここはソウルか?』と聞くと何も打ち合わせのない兵士は『そうだ』と答えた。そこは平壌空港に偽装した金浦空港であった。何故よど号は韓国に誘導されたのか?マスコミは、日・米・韓の陰謀であると書いたが、もしそういう話があるとすれば、日本政府と米国CIAとの間に話があって、事後承諾で韓国が引き受けた物であろう。韓国側としても、人質を乗せたよど号をおめおめと北朝鮮に飛ばせるわけにはいかなかった。
④山村新治郎の悲劇                               何とか飛ばせまいとする韓国当局と乗っとりメンバーがにらみ合う中、日付だけが変わっていった。緊張した膠着状態が続き、乗客たちの疲労もピークに達した3日目の 4月3 日、身代わりになろうと名乗りを上げたのは、当時運輸政務次官(運輸大臣は橋本登美三郎)であった山村新治郎代議士である。この申出を犯人側も受け入れ、3 日 14 時28分、人質全員が釈放された。そして18時 5分、よど号は平壌へと飛び立った。
そして4 月 5日午前9 時、よど号は石田機長ら3人の乗員、そして唯一人の乗客・山村代議士を乗せて羽田に帰ってきた。空港は大変な出迎えで、後に『身代わり新治郎』と言う歌が春日八郎が歌って世に出たほどである。こうして36歳の山村は、一躍国民的英雄となった。しかしこの身代わり人生の栄光は彼に重荷になっていった。彼の家は代々の旧家で
あり、跡取りは『新治郎』を襲名することになっていた。彼の父親も政治家であったが、もともと彼自身は政治に興味が無く、学生時代はボクシングで有名選手になり、就職も商社である。そのために父親の政治基盤は、次男が継ぐことになっていた。しかし、1964年に父親が急死、次の選挙に立つべき次男はまだ、被選挙権を得られる25歳に成っていなかった。そこで次男の身代わりに補選に立候補して当選したのである。よど号事件はその当選から6年後のことであった。有名人になった彼はその後の選挙でもトップ当選を続け、大臣の椅子も歴任する。順風満帆の彼の悩みは、娘の事であった。彼の次女はヒーローの父親に反発、中・高で転校を重ね、退学処分も度々となり、ノイローゼから通院治療をしていた。1992年4 月、山村は日朝関係改善のため金首席誕生式典へ出席する22年振りの訪朝団の団長に決定、7 日に結団式が行われた。しかし、その出発前夜に事件が起きる。事もあろうに次女に就寝中を刺殺されてしまったのである。(この次女は、後に精神鑑定で不起訴となるが1996年自殺している)
⑤もう一人のヒーロー
石田機長は当時 47 歳、北朝鮮着陸の最後の鍵を握っていた。彼が金浦空港を飛び立って北朝鮮の上空に差し掛かったとき、既に日は暮れようとしていた。彼にとっては未知の空域での夜間飛行、空港を探そうにも白地図一枚ではどう仕様もなかった。しかも北朝鮮が積極介入をせず様子見のダンマリを決め込んだので、無線には何の応答もなかった。この儘では山に激突かもしれないと思ったとき、下を見た彼の目に滑走路みたいな物が一本、微かに見えた。空港らしい明りは全く無かったが彼は無理やりにそこに強行着陸した。 19時20分であった。こんな悪条件の場所に着陸できた彼には、それなりの前歴があった。彼は1923年、秋田県生まれ。19歳で小さい頃から憧れていた航空機乗員養成所に入る。 1941年からの太平洋戦争中には、夜間特攻隊の教官であった。この時の飛行技術と体験が他のパイロットでは無理であったかもしれないよど号の北朝鮮強行着陸を可能にしたのである。帰国後の彼は一躍時の人になり、皇居の春の園遊会にも招かれて居る。しかし有名になったことで思わぬ出来事にぶつかる。その年の7 月23日の週刊誌が彼の愛人問題を暴露したのである。ここから彼の苦労が始まる。高く付いた有名税である。
実は彼は4 月からDC10の国際線のパイロットになることが決まって居たのに、最後の国内線飛行で事件に遭遇したのである。勿論普段の彼はそれまでにも決して品行方正とは言えなかった。事件から二年後の1972年、49歳で日航を退社し流転の人生が始まる。
退社後は家族も捨てて、自家用飛行機のパイロットとして日本国中を渡り歩き、不動産屋のお抱えにもなり、週刊誌にも『転職渡り鳥・北海道へ』とも書かれた。その会社も倒産し、漬物屋を自分で起こして頑張ったりしたが、全ては失敗する。そして60歳を過ぎたとき、顔に癌ができ顎や舌の手術を余儀なくされ、はっきりした言葉を発する事が出来なくなってしまった。その後、和解した娘たちが彼を大阪の阪大病院にいれ、命は取り止めた。そして今は夜間の警備員をしながら家族と共に暮らして居る。その彼も78歳になった。そしてあのよど号は、事件後は各国の航空会社を売られながら輾転とし、アメリカのチャーター機専門の会社に買い取られ、豪華に改装され生まれ変わって居る。

1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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山村新治郎について (Unknown)
2011-04-18 03:59:36
次女のノイローゼの原因は山村の次女に対する○○○○です。次女は犠牲者。
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