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385万円を放置するとどうなるか?

明治維新は徳川幕府の内部抗争も関係している?

2013年08月27日 13時19分08秒 | 歴史 群像
 最近のデフレの状況は明治維新や終戦と比肩される激変の時代であるにもかかわらず、対応が生ぬるいのではないかと言う話が喧伝されています。
では、明治維新というのは一体どういうことだったのだろうかということを理解するため、改めて学習致しました。

 明治維新を考える場合、私には三つの漠とした疑問がありました。
一つは「攘夷から開国是認になぜ転換したのだろうか」、もう一つは「公武合体がなぜ列藩合議制になったのだろうか」、三点目は「幕府という最強組織がなぜ瓦解したのだろうか」というもので、その疑問を解くために調べてまいりました。

 まず「攘夷」とは何かといいますと、中華思想に基づくものです。
自分のところが中心で、四方は全部夷荻(東夷、西戎、南蛮、北荻)で野蛮人だと考えています。
こういう考えが根底にあった状態で、我国はアメリカから強要されてしぶしぶ開国したのです。
しかし、それまで開国を要求したのはアメリカだけではありません。
ロシアやイギリス、フランスなどが、ことあるごとにやって来ましたが、日本は鎖国をしているといって撥ね付けておりました。
しかし、アメリカの執拗な要求と脅しで開国したわけです。

 なぜそんなにアメリカが我国を開国させたかったのかといいますと、当時、鯨から油を採って灯りに使っていたため捕鯨船の食料・薪水の補給などが必要だったこと、また列国との帝国主義競走の遅れへの焦りもあったろうと思います。
そのため、日本に来て力ずくで扉を開いたのです。

 開国から幕府崩壊過程への道程と資料に記載してありますが、どういう歴史の流れになっていったかを見てみたいと思います。
アメリカと開国をしますと、これまで我国に居住していなかった外人が、攘夷論者が神州と考えている我国で活動することになります。
異人は中国や東南アジアで民衆に対して取ったと同じ態度(居丈高で蔑み、侮蔑)で接するので、誇り高い人々の怒りをかいます。

 また、開国によって物価が上がるなど国内でも生活が苦しくなってきます。
そこで、開国と同時に攘夷熱が発生します。
これを幕府としては抑えなければならず、いわゆる安政の大獄が起こります。
反対する者は全て抹殺するということで攘夷活動は一応沈静化します。
しかし、攘夷の熱が燎原の火のように広がり、それが猖獗するという非常に厳しい状況になって来て、桜田門外の変以降、生麦事件まで攘夷に関連した事件が次々と起ってきます。

 そうなると開国をした幕府としては対応に苦慮します。
このため、皇室と組み公武合体で自己の体制を強化せざるを得なくなります。
そこで、十四代将軍の徳川家茂の奥方として和宮の降嫁をお願いします。
しかし、そこには、幕府が崩壊する大きな種が一つ宿されておりました。

 異人恐怖症で攘夷の権化のような孝明天皇に、和宮降嫁の条件として攘夷の決行を約束させられたのです。
このため、幕府は攘夷派からなお一層攘夷の決行を迫られることになります。
しかし他方で、諸外国と開国の条約を結んでおりますから、そうもいかず、幕府は自己撞着の状態に陥るわけであります。

 一方雄藩と言われる長州や薩摩は攘夷の固まりですから、攘夷決行ということで下関事件や薩英戦争で外国と戦争をするわけです。
しかし、藩を挙げての攘夷の決行には無理もありました。
藩の中では一般に藩主や重臣が公武合体派で、尊王攘夷を唱えているのは若い武士連中だったのです。

 このため、尊王攘夷に酔い変革を叫ぶ連中と、幕府に従わなければならないと考える佐幕派との二つのグループの間で相克が起こります。

 明治維新の牽引役となるのは薩摩と長州ですが、両藩は最初反目しました。
長州は総じて尊王攘夷一辺倒ですが、薩摩は当初は公武合体派が主流だったのです。
この方針の違いもあって両藩は敵対し、八月十八日の政変と禁門の変という二つの戦で、薩摩と長州は仇敵同士になります。

 長州にとりましては、にっくき薩摩と会津という状態がしばらく続きますが、結局は雄藩連合ということで坂本竜馬の斡旋で薩長同盟が行われます。

 では、何故薩長が手を握るようになったのでしょうか。「日本はこのままではいけない、幕府では現在の国難を乗切れない。
列藩が合議して国を運営しないと我国は滅ぶ」という話を勝海舟から聞いた薩摩の西郷隆盛が、「なるほど」と納得し、長州と手を握る決心をしたからです。

 攘夷派の急先鋒の長州を攻めるということで、幕府は第一次、第二次長州征伐を行います。
しかし、薩摩が陰ながら長州に味方したので、第二次長州征伐では幕府はとうとう長州に敗北します。

 高杉晋作の発案で一般民衆を民兵として戦力化すると共に、蘭方医の大村益次郎が外国の兵書を読んで習得した洋式の戦闘法も導入され、長州藩の武力が一段と強化されました。
更に、薩摩藩に委託して手に入れて最新の武器弾薬で武装しました。

 その結果、旧態依然の軍装で戦意の乏しい幕府軍に対して長州藩が勝ちを占め、幕府の弱体化が露呈したのです。
そうなると時の勢いとして、雄藩の導く方向に世の中の流れが変るわけです。

 徳川慶喜は非常に頭の良い策士的な方だったろうと思います。
幕府が政治の実権を握っているとのことで雄藩から攻められているであるから、「私は知りません。
政権を戻しますよ」と申し出れば、雄藩連合は上げた拳を下ろしようがないということを狙って、慶喜は大政奉還をやるわけです。

 これはいわゆる起死回生の秘策ではないかと思うのです。
これが成功すれば、幕府の財産や実質的な権力は温存され、ただ形式的に政治権力だけを移すことになるのです。

 一方列藩としては、やはりどうしても幕府を潰さなくてはいけないと、薩摩や長州、岩倉倶見などの公家が合議しまして対策を練ります。
大政奉還された状況では、徳川幕府を討つ理由がないのですが、幕府と開戦する方策をいろいろ考えます。
まず、小御所会議では、幕府の人民や土地を全部取り上げるという過酷な要求を慶喜に突きつけるわけです。

 ところが、徳川慶喜は巻き返しを図ります。
山内容堂とか松平春嶽などの公武合体派の藩主に依頼して、三職会議(大政奉還によって新しくできた組織)で、「徳川幕府は応分の税金だけ払えば良い。
農地、農民の返還はやらなくて良い」という決議に逆転させます。
そうなったら薩長は困るわけです。

 どうしても開戦しなければならないと、江戸では薩摩藩の武士達が市中を荒し、幕府を挑発する陽動作戦に出ます。
この挑発に耐え切れずに、慶喜の堪忍袋の緒が切れたというよりも、部下が暴発し、大阪から京都に向けて幕府軍が進軍を開始します。
これに対して、薩長軍が大砲を射掛け、鳥羽伏見の戦が始まり、幕府軍は敗れます。

 このような歴史の経過をつぶさに見ていきますと、幕府はやはり明治維新の礎を築いたと、私自身は思っております。
世の中はどういう方向に流れるかということを見て、幕府は手を打っているわけです。
例えば、ペリー来航後に、天皇の勅許を得ずして日米和親条約を結び開国します。
正しいと確信して断行したのです。
当時の攘夷かぶれの薩長に開国をやれるわけがありません。
やはりこの時点で開国したのは良かったわけです。

 開国後は外国の新しいことをいろいろ学ばせるために海軍操練所を長崎に作って、幕府だけでなく各藩の優秀な若者を集めて外航船の操舵や航海術などを教育します。
また幕臣を留学させ、外国の進んだ技術や文化の習得を図ります。

 咸臨丸でアメリカに幕閣を派遣して外国の状況も見聞させました。
そして、いわゆる民主主義を知るわけです。
例えば「大統領が自分の女中の生活まで考えている。
初代大統領のワシントンの子孫が現在どうなっているか分からない。
また偉い人は賢い人で、賢い人が偉くなっている」というようなことを見てきます。
そうして、洋行した勝海舟などは門閥世襲の幕府の体制ではとても我国を運営できないということを実感します。

 更に1862年に和宮降嫁(公武合体)で自己の組織の強化を図るとともに、攘夷熱が激しくなって来ると、幕府に対して最も忠勤な会津の松平容保を創設した京都守護職に配します。
会津藩の藩祖は、恐妻家で有名な二代将軍秀忠の唯一の御落胤である保科正之であり、幕府への忠勤を藩是としていたのです。

 また、剣で一旗挙げようと目論んでいる浪人や郷士などを募って新撰組を作り、攘夷浪人などの不逞の輩の取り締まりを強化し、京都の治安の維持を図ろうとしたのです。

 1864年には海軍操練所を創設して最初の海軍を作り我国の海軍の礎を築きます。
また、長州征伐という形で幕府にたて突く藩は征伐する強い意志を示します。

 一方で、やはり外国に伍して行くためには工業を興さなければならない。
そのためにはやはり最初は鉄だということで、フランスに依頼して横須賀造船所を造るのです。
こういう手を幕府が打ったことによって最終的には明治になっていろいろな所で役にたってくるのです。

 資料に記された水戸藩の事跡は全て攘夷活動です。
また、水戸藩の王政復古時の生存者の欄が白紙になっていますように、明治時代に活躍した人は誰もいません。
藤田東湖が生きていたら、水戸藩は、こうはなっていなかっただろうといわれますが、そうでもないかも知れません。

 水戸藩は大日本史を編纂し、尊皇攘夷の思想的な支柱を打ち建てますが、自分自身がその水戸学の思想にどっぷりと浸かってしまいます。
このため、例え幕府に逆らっても天皇に弓を引いてはならないという考えに囚われます。
尊王が最優先なのです。

 また、一方で水戸藩は徳川幕府の親藩です。このため、尊王攘夷派と公武合体派の内部抗争が起こり、有能な人材は互いに殺しあってしまったのです。

 明治維新での水戸藩が関係した功績を強いて挙げると、桜田門外の変での伊井直弼の暗殺ではないでしょうか。
勿論、暗殺団の主力の水戸浪士は脱藩しておりますので、桜田門外の変は厳密にいえば水戸藩ではなく、脱藩浪人の仕業なのです。

 もし、伊井直弼が暗殺されなかったら、当時はまだ幕府の力も強かったので、安政の大獄が続き幕府に反対する攘夷派の人材は根絶やしにされ、明治維新も遅れたと思われます。

 長州は一番過激です。
1864年はある意味で長州にとって生きるか死ぬかの瀬戸際の年です。
7月に禁門の変があり、8月には外国の艦隊から攻撃され、第一次長州征伐では幕府から攻められており、普通なら崩壊しても可笑しくない状況です。

 これだけの多事多難を乗り切ったのは、高杉晋作が民兵化した軍隊の力と松下村塾で育った若者たちがこの新しい国造りに情熱を燃やして対応したからだと思います。
資料にあるように大村益次郎、木戸孝光、井上馨、山県有朋、伊藤博文など我々の知っている人々が王政復古後も活躍しています。
当時は殆どが20~30歳台の若者です。若者の努力と熱意で長州は苦境から這い出ることが出来、明治時代に活躍する逸材を輩出したということであります。

 薩摩は人的な損失が少ないですね。
唯一の内部抗争が寺田屋事件です。
公武合体派で実質的な藩主の島津久光が尊王攘夷派の暴発を止めさせるために上意討ちにしました。
その後、生麦事件で大名行列を乱した英国人を殺傷したということはありますが、内部的には大きな抗争はなく、従って人材は温存されています。
大久保利通に代表される人々が明治維新で腕を奮うことになるわけです。

 不遜ながら、各藩の対応を評価してみたいと思います。

 幕府は大河の流れは分かっていたのでしょう。
その流れに乗って自分の力を温存するという思惑が、権謀術数に負けて挑発に乗り、思惑が絶たれて奔流に呑まれます。

 一方水戸は「水戸学」と「佐幕」の中で自家中毒。伝統に殉じました。
攘夷決行に対して優柔不断な幕府の態度に業を煮やして暴発し、藩として攘夷を決行したのは長州藩だけです。
長州藩は、外国の艦船を砲撃して一生懸命夷狄を攘おうとした攘夷中毒でした。
しかし、外国の力を知り攘夷を止め、「民活」クーデタという形で復活し、最終的には勝者に踊り出ました。

 薩摩は生麦事件を起こします。
意地になって、「攻めて来るなら攻めて来い」と鹿児島で英国の艦隊と戦います。
しかし、格が違う。戦って見て力が隔絶していることを認識し、攘夷の方針を開国是認に変えます。
そして、英国の支援を得て、明治維新では一番強力な藩となるわけでございます。

 こういう歴史の流れを見て来ますと、現在でも同じことで、

 1.情報を遍く集め、

 2.技術の流れやビジネスの流れがどういう方向に行くのかということを
    よくよく見極めると共に、

 3.成功体験に囚われず、伝統に固執しないで、

 4.決断する時には躊躇せず、

 5.変革を断行することが、

勝者への道だと思います。

最後に三つの疑問を現代に置き換えて考えてみますと、 (1) の攘夷から開国是認への思想転換は、国内だけのビジネスからグローバルにビジネスへの転換を、
(2)  の公武合体から列藩合議への変化は、官民の癒着などで規制に守られたビジネスから市場競争で勝つビジネスへの脱却を意味しているのではないでしょうか。
(3) の幕府という最強組織崩壊の根本原因は、徳川慶喜が水戸学を信奉し、朝敵になることを恐れたためです。
目的を明確にして割り切り、目的達成に邁進することが重要だったのです。
過去のものの考え方に囚われ過ぎてはならないという教訓である。

と考えました。

http://members2.jcom.home.ne.jp/8240bl/03hstjp/01rvrnc/hstjp1.htmlより

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