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おやじの背中

2009年09月05日 04時51分22秒 | ハチパパのひとり言

朝日新聞の連載企画「おやじの背中」・・・有名人が語るおやじ。
生き方、家族との葛藤、子供への教育などなど・・・。「おやじ」の姿を通して、自分がどう育ったか、どういう影響を受けたのか、赤裸々に語られていて興味深い。時々ホロっとする。

我が家に置き換えると、息子たちは私のことをどう思っているんだろうか・・・。いつかは様々なことを語られる時が来るであろう。とにかく放蕩無頼の人生で、酒と道楽に金と時間を注ぎ込み、一銭も残さず逝ってしまった酷いおやじと言われることは略間違いない。

私のおやじは72才で亡くなったが、晩年は好好爺としていた。あんなに夫婦喧嘩ばかりしていたのに、おふくろにも優しくなっていた。
あの太平洋戦争で出征、南方シンガポールまで行っている。右肩に髑髏の刺青をしていて、戦後まもなく糸染業を営んでいた。大小5つの釜の水を、石炭で熱して糸を染めたり、硫酸を使ったタンクで糸を漂白するなど、化学薬品の臭いのする工場の中で、汗びっしょりになって働くおやじの姿は、豪快に見えたものである。

モーレツに働いてモーレツに遊んだおやじ、ギャンブルも好きだった。私がまだ小学生のとき、オートレース場が出来て連れてってもらったことがある。ダートコースでコーナー近くでは炭殻のような粉が観客席に飛び散ってくることもあり、迫力があった。当時、田中健次郎という常勝の強い選手がいたことを今でも憶えている。車券の買い方まで覚えてしまった。その後浜名湖に競艇場も出来て、そちらにも連れてってもらいすっかりギャンブルを覚えてしまったが、この数十年間でやったのは数回ぐらいであまり関心がなかった。
しかし、知らず知らずのうちに、子供というのはおやじに似てくるものがあり、親子なんだなと思うときがある。酒と道楽でお金がないところがそっくりである。

子供は私を含めて男ばかり5人、家業に兄三人のうち二人までが従事し、そのほか中学を出てすぐに就職してきた関東出身の若い衆も、数人住み込みで働いていた。とにかく大所帯を切り盛りしていたおふくろは大変だった。

私も織元から糸の束を30も40もリヤカーに積んで、自転車で運んだ覚えがある。そのおかげで足腰が丈夫になり、小学校6年生のときに始まった角力(相撲)大会で優勝した。そのときの賞品は大きな冬瓜1個、虫に喰われた優勝旗は今でも箪笥にしまってある。

私が27才で妻を亡くし、転勤で実家に帰してもらった頃は、そのおやじも病気になったり、気も弱ってきたのかおふくろにも優しくなった。私が実家近くの借家におふくろと幼児だった二人の息子と住むようになった頃は、孫の顔を見に実家からのんびり歩いて来てくれた。人間、年をとると好好爺になってくると言われるが、私のおやじもその典型である。そのおやじが亡くなった年まであと8年である。おやじが亡くなった年までは生きたいと思っていたが、孫の顔を見ていると、もうちょっと80くらいまで生きたいと欲が出てきた。

                  21/3/15 非公開日記より




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