私、水廼舎學人です

久保憲一のプライベートな世界。なんでもありです。

平成九年 パラオ慰霊の旅

2008年09月12日 | 海外
 慰 霊 の 旅 「 パ ラ オ 」 

        

はじめに

 平成九年二月、たまたま私は「大東亜( 太平洋)戦争南洋地域戦没者慰霊巡拝五日間」(平成九年二月二四日~二八日)に加わった。ただ大学教員としてではなく、神職(現在、私は三重県松阪市飯高町赤桶鎮座・水屋神社宮司である)として招待を受け、参加したものである。

1.パラオという国

 ともかく、スペイン、ドイツ、日本およびアメリカによってこの国は四百年間統治されてきたが、アメリカ統治を最後に一九八〇年、自治共和国として独立、一九九七年には国連加盟を果たした。日本から遙か四千百キロメートルも離れた、人口僅か一万五千人の南太平洋上の島々からなる、淡路島程の広さの国・パラオに、どうして私が興味を持ったのかというと、第一の理由は、以前『世界に生きる日本の心』(元高千穂商科大学教授・名越二荒之助著・展転社刊)という本を読んだためである。昨今流行の「国際化」問題を考える際、これは是非読んで頂きたいと思う。

 氏によれば、パラオ国旗は海の青色を背景とする満月のデザインで、「日の丸」の国旗にきわめて似ている。それもそのはず、これは全島から集まった応募作から七十の秀作に絞られ、その内でも「日の丸」に最も似ているということで選考委員の人気が集中、これに決まったのだという。

 またこの国には、日本軍英霊の慰霊塔、慰霊碑がいくつかあり、また外国では珍しく日本の神社が二つも建立されている。一つは「旧官幣大社・南洋神社」。現在はかなり小規模になってはいるが、政府特別顧問のイナボ・イナボ氏や女酋長・日系二世オキヤマ・トヨミさんら現地の方々の要請によって日本から資材を運び、建て直された。もう一つは「ペリリュー( 南興) 神社」、日本軍人一万有余名の眠るペリリュー島に建つ。今回、神職としての私に課せられた任務は、この神社における慰霊祭であった。

もう一つの理由は、現大統領がクニオ・ナカムラという日系二世であり、大統領のご尊父はわが三重県出身ということである。そのためか、三重県とパラオ共和国は、昨年、友好提携を交わした。こうした理由が種々重なり、最近私はこの国に特に親しみを抱いていた。

2.西洋の統治と日本の統治

 初めてパラオを訪れ、私がまず驚いたことは、戦後アメリカの信託統治を五十年も受けてきたというのに、日本海軍省制作による六十年前のフィルム風景とさほど変わっていないことである。つまりこの国は半世紀ほとんど発展していないということである。当時の日本統治は、現地人を尊重し、日本式教育を与え、学校、病院、道路をつくり、農業・海産技術等を教え、この島の「近代化」に尽くした。
 しかし今も当時の日本南洋廰の建物がそのまま最高裁判所として残り、首都コロールの町並みはフィルムでかつて見た日本統治時代の方がむしろ清潔感さえ漂わせている。

大半の島民は、人間の住居とは到底思えないような家畜小屋の如き家に今も住んでいる。国家の財政は観光と漁業に頼るだけである。半分近くの島々には電灯がまだついていない。ただ近年、名古屋ロータリークラブがある島に自家発電用ソーラー電灯を百個ほど寄付したという。

 独立後数年経ち、首都コロールはこれでもいくらか発展したのだと言う。しかし、今も舗装道路の範囲はごく限られ、昨年発生した大地震により、空港に通ずる韓国製の大橋は無残な姿を晒している。勿論地震発生時には日本国や三重県は水・食料などを緊急援助した。またODAで三十億円を投じ、この大橋
を近々架け替えるという。

三十二ある小学校(かつて日本人が造った公民学校)や唯一のコミュニティーカレッジ(前身は日本の造った職業訓練校)の数は依然として日本統治時代と変わっていない。それどころか今ではマリファナ、麻薬などが密かに輸入され、子供の躾けもあまりよろしくない。事実、私は小学生らしい少女に道を尋ねたところ、五セントねだられた。近くにいた大人もそれを咎める様子ではなかった。

アメリカは一体「信託統治」の意味をどう捉え、半世紀の間、この島に何をもたらしたというのか。どうやらこの国を軍事基地としてしか考えず、この海域一帯を原爆実験場としてしか捉えていなかったと見る他ない。国際的に原爆実験が認められなくなるや、今度は国連における支持票獲得のため、この国の独立を渋々認めたというのが実際のところ本音であろう。六十年間全く変化していない(ような)美しい海の色が私の目には皮肉な結果としか思えなかった。

3.嗚呼!ペリリュー

 米軍四万二千人を率いるニミッツ提督にしてみれば、ペリリュー島の中川州仁男大佐率いる日本軍一万二千人など、数日で攻略できると思っていた。しかし日本軍は米軍上陸を二度も阻み、実に七三日間もこの島を死守した。この島のオレンジビーチという名は米軍兵士の血に染められたことに由来する。ニミッツ提督をして「ペリリューの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率( 約四十パーセント) を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者併せて一万人を越える犠牲者を出してこの島を占領せざるをえなかったことは今もって不思議だ」と言わしめたほどである。死闘も衆寡敵せず、日本軍はついに世界史上最も短く美しい電文「サクラ、サクラ」の発信を最後に、玉砕した。日本軍によって前もって他の島に避難させられていた島民たちが戻ると、日本兵の亡骸だけが放置されたままになっている。それを見て号泣したという。英霊は彼らによって丁重に葬られた。

 昭和五七年には、パラオ政府(先代大統領、元日本軍分隊長・パラオ政府特別顧問・イナボ・イナボ氏、女酋長オキヤマ・トヨミさんらを中心として)の要請で「血のペリリュー島」に立派なペリリュー神社が建てられた。また中川大佐を慕う現地の芸者・日系二世のモリモト・ヨシコさんが、最後の突撃に向かう中川大佐らを軍服姿で援護射撃し続けた山がある。その遺体の鉄兜を米軍兵士が足蹴にしたところ、中から茶色の長い髪の毛がこぼれ出た、という悲話の残る山の麓に、今や立派な慰霊塔が立っている。

 そのペリュリュー島での慰霊祭の斎主を私が務めることができる。この上ない喜びである。しかし島に到着しても、何かの手違いで祭具が殆ど届いていない。英霊には何とも申し訳ない祭となった。さらに突如激しい雨にも見舞われた。少し遅れた開始であるが、まずは慰霊碑前において神宮、皇居、そして慰霊碑の順序で拝礼した。

 引き続き神社での慰霊祭のため、悪路をマイクロバスでやっと到着すると、神社正面左側には少し草に覆われたニミッツ元帥の「諸国から訪れる旅人たちよ。この島を守るために日本軍がいかに勇敢なる愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」と記された真新しい石碑が目に入った。

 お社に近づくと、銃痕があちこちにいくつもある。祭に先立ちお扉の開閉を調べようとすると、いとも簡単に開いてしまった。施錠されていない。案の定、御札もない。おそらく心ない何者かの銃による仕業である。悲しくはあったが仕方がない、何度も新しい御札をお納めすればよいと自ら持参した天照皇太神の御札、また人から依頼された御札などを私は丁重にお納めした。

 不備な祭場ではあったが、決して遜色ないお祭をと、全身全霊を込めて私は務めた。祝詞奏上の半ばに来た頃、ついにはらはらと涙が零れ落ち、字も霞み、読めなくなった。私の人生においてこういう感激を何度味わえるだろうか。この得難い幸運を与えていただいた方々に心から感謝申しあげたい。

 4.日本名が意味するもの

 ともかくこの国の六十代以上の老人はたった三十年の日本統治時代が一番よかったと特に懐かしみ、今も日本を愛し続けていてくれるという。これを如実に知らされたのは「日本名」もしくは「日本に因んだ名」を付けた人々・地名などが何と多いことか。もっとも姓と名が逆になったり、私にはいささか滑稽に感ずる名前もなくはなかったが。前述の女酋長「オキヤマ・トヨミ」さんや「クニオ・ナカムラ」大統領は日本人を父に持つので別として、多くの生粋のパラオ人が日本名を持つのには正直驚いた。

 私の専攻は政治学である。そこで自由時間には早速レンタカ-に乗って一人で大統領官邸、国会、最高裁判所など政府建造物を巡った。この国では必ずしも国際運転免許を必要としない。日本の国内免許でも運転できる事は実に有り難い。慣れない左側通行の道路を左ハンドルでおそるおそる私は走った。

 大統領官邸はわが三重県庁より遙かに小規模。故郷の町役場よりも小さい。玄関に入ると目にいきなり飛び込んできた歴代大統領の肖像写真。そして生粋のパラオ人の初代大統領が「ハルオ・レメリク」というにまず驚いた。

 私は官邸内をビデオを回して歩くことを許された。そこで各部屋入口のネームプレートに目を留めると、副幹事長は「コハマ(Karen Kohama)」という生粋パラオ女性であった。特に興味をそそったのは大統領特別補佐官である。彼の名は「セオドア“テッド”アイタロウ(Theodore “TED ”Aitaro) 」。周知の如く“テッド”とはアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトのニックネームである。アイタローさんの親はこの大統領も尊敬したのであろう。なんとも微笑ましい。

 国会議事堂の見学中、たまたま出会い、親しく話した下院外交委員長・兼教育・青年・文化副委員長の名になると更に面白い。名が「ケライ(Kerai Mariur)」というのには私もさすがに笑いを噛み殺した。

 この国唯一の大学、パラオ・コミュニティーカレッジでも同様の体験をする。学長名は「フランシス M・マツタロウ(Francis M.Matsutaro) 」。理事長名も「マサアキ(Masa-Aki Emesiochel) 」。書記兼財務担当理事は「ヨウイチ(Yoichi Rengiil)、理事たちに「ユキオ(Yukiwo Dengoki)」や「オカベ(Felix Okabe) 」。また顧問は「ハジメ・モリ(Hasime Mori) 」。溶接学の助教授は「アズマ(Azuma Joze)」、土地無償払下計画コーディネーターは「アヤノ(Baules Ayano)」というように、ほぼ四割、日本名が連なっていた。探すとキリがない。もしパラオ人が日本の統治時代を憎んでいるなら、半世紀間に亘るアメリカ統治時代に日本統治の痕跡は悉く消されたであろう。当然改名も認められたはずであるが、戦後生まれの若者にさえ、例えば「ハルミ」「ヨウコ」「キミコ」「ムラコ」という名が付け続けられているのはどういう事か。そう言えば、パラオ共和国の独立式典が催された場所も「アサヒ球場」である。

 その国や人の存在の根源的意味を示す国旗や氏名に、彼らはどうしてこれほど日本に執着するのかよく考えてみる必要があろう。

 おわりに

 日本の多くのマスコミや進歩的文化人と呼ばれる人々はこの国を到底理解できまい。我々は戦後の教育やマスコミから常に「侵略国日本」とばかり聞かされ、自虐的歴史観をいやというほど聞かされ続けてきた。それだけに、この国の驚くべき実態に私は奇妙な気持ちを抱かざるをえない。この異常なまでの親日感情は、裏を返せば、スペイン、ドイツ、アメリカの植民地支配(愚民政策や経済搾取など)がどのようなものであったのかおよそ察しがつくというものである。と共に、昨年訪ねた台湾高砂族の方々に会い、思ったことでもあるが、当時のアジアにおける日本統治の目的、在り方、意味を再確認させられた。

 わが国は敗戦以来、この国から多くの恩義を被り続けた。現在も変わらない。例えば第一回環境会議など国際会議において、国会運営や国内政治状況によってわが国が国家的体面を失いそうになったとき、パラオがわが国の演説順序を交代してくれたニュースは記憶に新しい。パラオは小なりといえども立派な一国である。この国への日本のODAは少額でも大きな効果をもたらそう。感謝もされず、憎まれ口を叩くような国に多くの無駄金を棄てるより、こうした国にもっと使われるべきである。われわれは、この国のこれまでの信義に報い、この国の将来に特別な配慮を払うべきではないか。



この文章は拙著「水廼舎の日本学」にも所収。
ご照覧いただければ幸いです。
















               


最新の画像もっと見る

コメントを投稿