私、水廼舎學人です

久保憲一のプライベートな世界。なんでもありです。

妹のパラオ遺骨収集記

2008年09月14日 | 世界平和、諸宗教和合と敵味方鎮魂
         三重ふるさと新聞 平成12年3月2日(木曜日)より

随想倶楽部      パラオ遺骨収集の記   
                           宮崎和子


天地(あめつち)の神にぞ祈る朝なぎの
             海のごとくに波たたん世を

 パラオの波ひとつない朝のひと時の海をながめながら、昭和天皇が詠まれたというこのお歌を私は思い出した。

 昨年九月、突然の御縁にて十四歳の息子と二人パラオへの遺骨収集の旅に参加させていただく機会を得た。
 パラオ本島からモーターボートで約一時間、この地球にこれほどまでに美しい「青」があるのかと叫び出したいほどのみごとなサンゴ礁の海、その海に浮かぶ島々のひとつペリリュー島。しかしその感激は翌日には完全なショツクに変わってしまった。今ではすっかり平和なこの小さな南の島で今から五十五年前の夏、日米の熾烈な戦いのもと約一二〇〇〇名の日本兵が玉砕し、未だ五〇〇〇人分の遺骨が眠ったままだと言う。うっ蒼と生い茂る密林に一歩踏み入れた途端、至る所に日本兵が使っていたという鉄かぶと、飯盒、水筒、ビールびんなどの遺品が散乱している。かつてペリリュー島で戦ったというアメリカの元軍人の人達の親切で熱心な案内の元、たどり着いた洞窟の奥深く、早々と頭蓋骨が二つ見つかった。それらにはまだまだ若々しい青年の美しい歯が並んでいた。私と息子は生唾を飲み込んだ。白骨というより赤茶けた骨だ。運び出されたその頭蓋骨を靖国神社に勤めているという若い女の子が愛しそうに抱きかかえた。まるで母のようなその優しさはとても美しく、この日をどれほどまでに待ち続けていたのだろうかとその御魂を想い涙があふれた。

 倫理宏正会の人達、真光教の高校生、元特攻隊員の方、若い神官さん、立正佼成会の方々、日頃からいろいろ勉強してこの遺骨収集の旅に参加された人達。全国から総勢三十一名。全く疇路することなく次から次へと壕の奥深くにもぐり込む。そして、涙で目を真赤にしながら瓦礫の下に埋もれた遺骨のひとつひとつを丁寧に丁寧に捨い集めている。何の予備知識のないまま参加した私と息子はひたすらその様子を壕の外で見守るだけ。しかし、拾い出された遺骨の入ったビニール袋をしっかりと握り、七十四歳を迎えて参加された女性カメラマンをいといながら密林を慎重に降りる息子の姿をながめ、思い切っってて参加させてもらって良かった…と思った。

いよいよ明日は本島へ戻るという日。最後の洞窟に私と息子は意を決して入った。おそらく手榴弾で自決したのだろうと思われる遺骨、しっかりした太い背骨、大腿骨がバラバラに散らばって埋もれている。入るまではあれほど怖かったのに入ってしまうととにかく一片でも多くの遺骨を…と必死になっている自分に驚く。

 結局、今回の参加で約三十二体分の遺骨が収集出来たという。戦後生まれの私は物語のように戦争の話を聴いてきた。しかしこの日本の繁栄の元がこれらの兵隊さん達の命の上にあることを実感してはいなかった。国内でたったひとつの遺体でも見つかろうならテレビや新聞で大騒ぎをするというのに、確実に南の島に残されたままの遺骨があるというこの事実を知ってしまった以上、なんともせつなく苦しい。日本の今のこの豊かな生活の一部をほんの少しでも遺骨収集の為に使えないかと、思わずにはいられなかった。

それにしても、どうして戦争は起こるのだろうか?絶対に悲劇だとわかっている戦争が今でも地球のあちこちでくり返されている。ある友人が「家の中でも戦争はあるからね」とつぶやいた。

 日々の暮らしの中で、自らの生き方がどうしたら戦争を無くすことにつながっていくのか…と考え込んでしまう。

 パラオの海は実に美しかった。その海に熱帯魚と共に泳いでいる息子のあの笑顔も輝いていた。日米合同慰霊祭には星条旗と日の丸と日の丸をまねたという青い海にまんまるお月さまのパラオの国旗が風にゆれた。
平和そのものの光景に私はまた涙があふれた。祈ろうと思う。
                        (宝石・結納・メガネのミヤザキ)


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