チェーンスモーカーの後・出師の表

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日本の国旗、国歌の何がそんなに嫌ですか?

2008年03月31日 23時31分43秒 | Weblog
君が代不起立20人を処分 都教委、教員は不服請求へ(共同通信) - goo ニュース
こういう教職員が増えているらしい。いや、増えてはないですね。今は亡き(死んではいませんが)安倍総理が愛国心を育てる政治ビジョンを示してからこっち、そういう人たちが目立ってきているといった方が適確でしょう。

ただ、こういう教職員に対するシンパイザーはそれでもまだ結構いるようで、根津女史なんかはその類では流石に一世を風靡しただけのことはあり、勤めていた小学校を去る際には、別れを惜しんだ生徒が結構いたとかいないとか(教職員の中にも根津女史を擁護、応援する人がいたとのことですが、まあそれは分かる話です。見事にオルグられましたな)。

とはいえ、本当に国を想う気持ちあってのことなら、それもまた良いことであると思います。愛国の形は人それぞれですし、何かと団結力がないと言われる日本にあっては、それもまた国家を考える良い機会なのではないでしょうか(義務教育課程において偏向した教育をするのはかなり非常識ですが)。

そもそも私にとっての日本というのは何だろうか。これは私を生み育ててくれた、そしてまた今後もおそらくはそこで暮らしていくであろう国家である。そして日本という国家には、日本の領有する領土に、日本の国籍の人々が多くいて、主に日本語を介して(私は海外語はからきしです)様々なコミュニケーションをし、そして共に働き(嫌なビジネスパートーナーは勿論いますが)、共に苦しみ(主に税金で)、皆で考え、助け合い、育み、生活を形作っているのである(一部の売国奴を除いて)。

いわゆる国家の三大要素、領土、国民、主権(日本は日本国憲法前文1項)、「ここに“主権”が国民に存することを宣言し」によって国民が主権を持っています)である。これに異論はないと思う。如何に日教組と言えど。そして、この国家の概念において、最も問題になるのが「主権」である。領土、国民を導くのは誰なのかということだ。

私は、国旗、国歌の問題が揺れるのは、実はこの解釈が一番の課題だと思っている。そんなところから、今回は、国旗、国歌の問題について、私も一丁述べてみたいと思う。

×××

国旗、国歌の問題で、一番よく出てくるのが「軍国主義」である日本の軍国主義を象徴するかのような、日の丸(どっちかというと私は、よく戦艦についてた日の丸に後光みたいのが差してるあの旗のほうが軍国の印象が強いのですが・・・)、君が代を、日本帝国が終わった今も掲げ、敬礼することがどうのとう問題です。しかしこれにはついては、もはや今更私が語るまでもないでしょう。こんなことを一番の理由に掲げる人は、中国人、韓国人、金さんをはじめ、心に一物抱える在日とか変な宗教団体くらいです(まあ多いですが・・・)。

しかし、これらはいわゆる日本人とは言えませんので、今回は放っておきます。他国のことに首を突っ込むのは(特にこういう日本国民だけの問題には)、大きなお世話ですので、先ずは自分の国と、自分の身の回りの世話が出来るようになってから考えて欲しい。いや、そうなっても口出しは無用ですが・・・。

まあそれはともかくそんな人たちはともかく、純粋な日本人はどうでしょうか?

この問題は三つに分かれると思う。一つには、とにかく自分に強制、強要を促す者が許せない(日本国憲法も含めて)というものです。二つ目は、デザイン、歌詞、曲が気に入らないというもの。そして三つ目は、国家というそのものの概念が嫌い。というところだと思う。

この内、一番目に挙げたタイプには、若い人が多いと思う。自発的にやりたいんでしょうね、こういう人は。国旗や国歌そのものはいい。でも、強制されたり、強要されるとやりたくない。自分も若い時にはよくありました。実際に、国旗に敬礼もしなければ、国家を歌わないこともありました。そしてよく先生に叱られたものです。たまに日本のスポーツの国際試合なんかでも、それらを拒否する人がいますね。一緒です。私の若い頃とw。

でも、例えば会社に社歌や社是、社訓があるように、また学校には校歌があるように、皆で心や体、声を合わせて歌ったり、発声をするということは、協調性を形作るうえで、とても大切なことだと言えます。今、引きこもりが多いそうですが、賭けてもいい。彼らは、国旗に向かって敬礼したり、国家を唱和したりなどしない。それは、していた時期もあるだろうが、少なくとも引きこもるちょっと前まではしていなかった筈だ。

こういう団体行動の取れない人間、社交性のない人間というのは、団体生活を営むことはできない。そんな人間に人は寄らないのである。これが、そのことを分かった上で、また分別がついた上で行うのならまだいい。それは、それをやるだけの夢や意志があるのだから。だが、少なくとも義務教育課程で、こんな団体行動を取らせない。あるいは、そういう団体行動を行う機会を作らないのは、これこそ引きこもり、孤独への洗脳、斡旋である。

根津女史は、小学校の教諭であり「子供にちゃんと考え、意志をもった上で国旗を掲揚し、国歌を歌って欲しい」と言ったそうだが、子供にそんな分別があるものか。子供は大人の言うことを疑いもなく信用するし、だからこそ誘拐もされやすいんだ!生まれた時からあなたのようなお婆さんのような子供はいないし、自ら望んで孤独に陥ることを選ぶ子供などいない!そんなことは考えも出来ないだろう。あなたこそ洗脳してるんだ!

と、ちょっと熱くなってしまいましたが、一つ目はそういうこと。つまり、団結、協調、協和をとることが許せない。どこまでも自分本位でありたいという意志からである。ただこれは、国旗、国歌が嫌というわけではないと思う。実際に、こういうことをいう人ほど、「じゃあどんなのならいいの?」と聞くと答えに詰まる。国旗、国家というものの必要性、効用性は知っているが、我儘でプライドが高く、それを実行できないのだ。

二つ目は・・・。

と言いたいところですが、今日はこれから所要があるのでこれまで。次回は明日にします。明日、私が爆発するような嫌な事件がなければ・・・。