昨日、夫に頼まれて、『インストール』のDVDを借りてきた。
私は興味がなかったので、見なかったけど。
『インストール』の原作者は、
去年20歳前後で芥川賞をとった、
綿矢りささん。
で、
去年夫が自分は読まないくせに買っていた、
『文藝春秋』で、
受賞作の『蹴りたい背中』は読了していた。
(綿矢さんや、金原ひとみさんの顔が見たかったから、買ったんだろうなぁ)
★
『蹴りたい背中』。
ちょっと衝撃的だった。
主人公の女の子が徹頭徹尾感じているのを、
私なりに共振して一言で言うなら
「無力感」だ。
女友達に対して。クラブ活動に対して。
オタッキーな男の子に対して。
(↑まだこの男の子は希望的存在かな……でも、幼稚。
背中、蹴りたくなる気持ちも、よくわかる)
★
「もしも人生の中で、
三年、記憶を消さなくちゃいけないとなったら、
どこを消す?」
と聞かれたなら、
即、「高校三年間」と答えれるくらい、
私は高校生活に思い入れがないのだが、
それは私が、自分の高校に
「違和感」を持っていたからだ。
で、主人公の女の子が感じているのは、
「違和感」なんてもんじゃないなと思えた。
それよりも深刻な「無力感」。
気の毒に……と、その主人公に同情してしまった。
★
「違和感」と「無力感」の違いを説明しておく。
例えば、私の場合は、クラスで味わっていたことを、
この主人公は、クラブ活動で味わっている。
クラスの中における先生。
クラブ活動における先生。
自分の嗜好云々関係なく強制的にいるしかなかった、クラス。
クラスの授業・イベントにより
関わらざるを得ない先生という存在。
対して、
自分が興味を持ったクラブ活動において、
存在する先生。
名ばかりでも、自分の好きなことに熱中するためには、
立っているだけの存在で十分だった先生。
★
私の頃でも、基本的に、
先生は一目置かれていない。
都合よく利用できるか、利用できないか、
そんな利己的な対象でしか、
見ていない人が、とても多かった。
先生というだけで、
「(尊敬するかどうかは別として)自分たちとは次元が違う人」という前提が、
私なんかはあったけど、
そういう認識すら崩壊していて。
利用できるか、利用できないかを見極めて、
パブリックとプライベートの顔を、
あからさまに使い分けていく何人もの人々と、
イジメやシカトの対象にならないように、
でも染まらないように距離を置きながら付き合うバランス。
そんな選択できない集団の中に身を置かなければならない、
そのあきらめの境地が「違和感」。
でも、クラブ活動では、
先生は存在しているだけでよかったので、無関心だった。
クラブ活動はクラス活動とは違い、
やりたくて、やっているわけで、
また、やりたい人たちが集まっているので、
その一点さえ共有し合えてたら、
ほかのことは眼中外で、
先生を、
利用できるか、できないかなんて、
そんな意識の対象にすらならしなかった。
★
が、『蹴りたい背中』の主人公の女の子の周囲は、
クラブ活動そのもの(陸上部)に対する
モチベーションすら皆無なので、
いかに、クラブ活動(夏休みの活動)を、
公のかたちで無しにするのか、
そんなことばかりを考えていて、
そのために先生を
いかに利用するかばかりを考えていて。
走ることが好きな主人公は、その状況に戸惑い、
(陸上部なのに、そんなマトモさのある子は、この主人公だけ)
でも、夏休みの遊びの計画に、
自分も誘われたら、ほのかな喜びが、
胸に込み上げてくるのも、まぎれもない感情で。
(結果的には誘われなかったが)
能力的なものはともかく、
互いの嗜好が、モチベーションが一致しているのが、
大多数で前提だった集団ですら、
もう、崩壊していて。
そして、情けないほど、利用される存在として
描かれた、
クラブの中の顧問という、先生。
ここまでいくと、
自分の芯を保つことは難しい。
「違和感」は自分の芯は保ててて、
周囲のぐんにゃりした感じに対して思える感触。
が、『蹴りたい背中』の主人公の世界は、
自分の芯を維持することすら困難。
周囲がぐんにゃりしてて、
自分の芯を、少しでも支える集団、いや、人すら、
見つけられないから、「無力感」。
★
クラスの中にあった「グループ」という集団も、
『蹴りたい背中』では崩壊している感がある。
私の頃は、思い出すと「なんちゃってグループ」だったな、
とは思うけど、
クラスの中で生き抜くために、便宜上グループになってた
ひとりひとりの寄せ集めグループはまだあった。
(顔は漠然と思い出せるけど、
名前、もう、忘れた。
そのくらい、便宜的に固まっていた)
「グループ」という単位も壊れていれば、
「たった一人のお友達」という単位も、たがが外れかけている。
★
あるタレントに対して、
オタク的な情熱を注ぐ、
周囲に関心がない男の子に、
主人公は
ある種の共感を持っているが、
自分のその
「ある種の共感(恋愛じゃないと思うよ。)」すら、
その男の子に、相手にされない、主人公の女の子。
へんな、惨めさ。
ただの普通の女の子であればあるほど、
周囲とコミットメントできないでいる、主人公が、
とにかく気の毒に思えた。
★
青春小説として、読み継がれるには、
気の毒なことばかりで、感動はあまり喚起しないので、
古典になることはないだろうけど、
学校が、ここまで壊れていることを、
ちゃんと知るには(悲しくて、怖かったけど)、
いい本だったと思う。
で、最初に戻って、『インストール』のDVD。
見終わった夫に、感想を聞くと、
イマイチだったらしい(上戸彩さんはかわいかったらしい)。
が、そのつまらないオチを聞いたら、
原作の本のほうは、かなりおもしろいかも、と私は思った。
『インストール』も、なんらかの無力感を描いている予感がする。
綿矢さんの綿密・緻密な描写で読むと、
面白いかも、とふと思った。
誰か読んでないだろうか。
読みたい気はないけれど、誰かの感想は聞きたい気分だ。
私は興味がなかったので、見なかったけど。
『インストール』の原作者は、
去年20歳前後で芥川賞をとった、
綿矢りささん。
で、
去年夫が自分は読まないくせに買っていた、
『文藝春秋』で、
受賞作の『蹴りたい背中』は読了していた。
(綿矢さんや、金原ひとみさんの顔が見たかったから、買ったんだろうなぁ)
★
『蹴りたい背中』。
ちょっと衝撃的だった。
主人公の女の子が徹頭徹尾感じているのを、
私なりに共振して一言で言うなら
「無力感」だ。
女友達に対して。クラブ活動に対して。
オタッキーな男の子に対して。
(↑まだこの男の子は希望的存在かな……でも、幼稚。
背中、蹴りたくなる気持ちも、よくわかる)
★
「もしも人生の中で、
三年、記憶を消さなくちゃいけないとなったら、
どこを消す?」
と聞かれたなら、
即、「高校三年間」と答えれるくらい、
私は高校生活に思い入れがないのだが、
それは私が、自分の高校に
「違和感」を持っていたからだ。
で、主人公の女の子が感じているのは、
「違和感」なんてもんじゃないなと思えた。
それよりも深刻な「無力感」。
気の毒に……と、その主人公に同情してしまった。
★
「違和感」と「無力感」の違いを説明しておく。
例えば、私の場合は、クラスで味わっていたことを、
この主人公は、クラブ活動で味わっている。
クラスの中における先生。
クラブ活動における先生。
自分の嗜好云々関係なく強制的にいるしかなかった、クラス。
クラスの授業・イベントにより
関わらざるを得ない先生という存在。
対して、
自分が興味を持ったクラブ活動において、
存在する先生。
名ばかりでも、自分の好きなことに熱中するためには、
立っているだけの存在で十分だった先生。
★
私の頃でも、基本的に、
先生は一目置かれていない。
都合よく利用できるか、利用できないか、
そんな利己的な対象でしか、
見ていない人が、とても多かった。
先生というだけで、
「(尊敬するかどうかは別として)自分たちとは次元が違う人」という前提が、
私なんかはあったけど、
そういう認識すら崩壊していて。
利用できるか、利用できないかを見極めて、
パブリックとプライベートの顔を、
あからさまに使い分けていく何人もの人々と、
イジメやシカトの対象にならないように、
でも染まらないように距離を置きながら付き合うバランス。
そんな選択できない集団の中に身を置かなければならない、
そのあきらめの境地が「違和感」。
でも、クラブ活動では、
先生は存在しているだけでよかったので、無関心だった。
クラブ活動はクラス活動とは違い、
やりたくて、やっているわけで、
また、やりたい人たちが集まっているので、
その一点さえ共有し合えてたら、
ほかのことは眼中外で、
先生を、
利用できるか、できないかなんて、
そんな意識の対象にすらならしなかった。
★
が、『蹴りたい背中』の主人公の女の子の周囲は、
クラブ活動そのもの(陸上部)に対する
モチベーションすら皆無なので、
いかに、クラブ活動(夏休みの活動)を、
公のかたちで無しにするのか、
そんなことばかりを考えていて、
そのために先生を
いかに利用するかばかりを考えていて。
走ることが好きな主人公は、その状況に戸惑い、
(陸上部なのに、そんなマトモさのある子は、この主人公だけ)
でも、夏休みの遊びの計画に、
自分も誘われたら、ほのかな喜びが、
胸に込み上げてくるのも、まぎれもない感情で。
(結果的には誘われなかったが)
能力的なものはともかく、
互いの嗜好が、モチベーションが一致しているのが、
大多数で前提だった集団ですら、
もう、崩壊していて。
そして、情けないほど、利用される存在として
描かれた、
クラブの中の顧問という、先生。
ここまでいくと、
自分の芯を保つことは難しい。
「違和感」は自分の芯は保ててて、
周囲のぐんにゃりした感じに対して思える感触。
が、『蹴りたい背中』の主人公の世界は、
自分の芯を維持することすら困難。
周囲がぐんにゃりしてて、
自分の芯を、少しでも支える集団、いや、人すら、
見つけられないから、「無力感」。
★
クラスの中にあった「グループ」という集団も、
『蹴りたい背中』では崩壊している感がある。
私の頃は、思い出すと「なんちゃってグループ」だったな、
とは思うけど、
クラスの中で生き抜くために、便宜上グループになってた
ひとりひとりの寄せ集めグループはまだあった。
(顔は漠然と思い出せるけど、
名前、もう、忘れた。
そのくらい、便宜的に固まっていた)
「グループ」という単位も壊れていれば、
「たった一人のお友達」という単位も、たがが外れかけている。
★
あるタレントに対して、
オタク的な情熱を注ぐ、
周囲に関心がない男の子に、
主人公は
ある種の共感を持っているが、
自分のその
「ある種の共感(恋愛じゃないと思うよ。)」すら、
その男の子に、相手にされない、主人公の女の子。
へんな、惨めさ。
ただの普通の女の子であればあるほど、
周囲とコミットメントできないでいる、主人公が、
とにかく気の毒に思えた。
★
青春小説として、読み継がれるには、
気の毒なことばかりで、感動はあまり喚起しないので、
古典になることはないだろうけど、
学校が、ここまで壊れていることを、
ちゃんと知るには(悲しくて、怖かったけど)、
いい本だったと思う。
で、最初に戻って、『インストール』のDVD。
見終わった夫に、感想を聞くと、
イマイチだったらしい(上戸彩さんはかわいかったらしい)。
が、そのつまらないオチを聞いたら、
原作の本のほうは、かなりおもしろいかも、と私は思った。
『インストール』も、なんらかの無力感を描いている予感がする。
綿矢さんの綿密・緻密な描写で読むと、
面白いかも、とふと思った。
誰か読んでないだろうか。
読みたい気はないけれど、誰かの感想は聞きたい気分だ。
でも染まらないように距離を置きながら付き合うバランス。
そんな選択できない集団の中に身を置かなければならない、
そのあきらめの境地が「違和感」}
ああ、うまく言うなあ、稲田さん。
あのときの
確かに私が感じていた
あの違和感は
この違和感に違いない。
イジメやシカトの対象に
ならないように
でもそまらないように…
あきらめの境地が違和感、か…
すとんと、オチタ…。
時々、稲田さんと話していて
同じところをイタイと感じる人だな
と思うときがあります。
ああ、そこそこ!みたいな…
そんな稲田さんもとてもイタクて
私なんかよりもっともっとイタクて
せつない。
でもそこをイタイと感じる
あなたでよかった。
あなたの紡ぐ五行歌も文章も
そんな誰かをきっと勇気づけてる。
少なくとも今日、確かに私が…。
見つめ返された気持ち……。
ありがとうございます。
恐縮しまくりです。
その当時「違和感」を持っていた人って、
意外とそんなに、
少数派ではなかったと思っているんですね。
(多数派でも決してないでしょうけど)
でも、ダメだろうなぁ。
わかっていても。
今の私があの世界に戻ったって、
やっぱり小さくなるしか、打つ手ないと思う。
大人になってからのほうが、断然楽しいです。
(特に、ミソジを過ぎてから)
だから、大袈裟でもなんでもなく、
私の頃より、もっと過酷だと思える、
「無力感」を抱えた今の子たちは、
何とか生き延びて、大人になってほしい。
それはそれで、ハードなこともあるけれど、
いろんな世界があるから。
自分のマトモさを信じて、
ここまできてほしい。
綿矢さんの本が売れたのも、
彼女の年齢だけでは決してなくて、
この「無力感」に共感した人が、
沢山いたからだと思う。
沢山の人が同じイタミを持っている証拠だと思うから、
本当に、
生き延びてほしいです。