日々・ひび・ひひっ!

五行歌(一呼吸で読める長さを一行とした五行の歌)に関する話題を中心とした、稲田準子(いなだっち)の日々のこと。

『蹴りたい背中』綿矢りさ(河出書房新社)

2005年05月24日 | 五行歌以外の文学な日々
昨日、夫に頼まれて、『インストール』のDVDを借りてきた。
私は興味がなかったので、見なかったけど。

『インストール』の原作者は、
去年20歳前後で芥川賞をとった、
綿矢りささん。

で、
去年夫が自分は読まないくせに買っていた、
『文藝春秋』で、
受賞作の『蹴りたい背中』は読了していた。
(綿矢さんや、金原ひとみさんの顔が見たかったから、買ったんだろうなぁ)

     ★

『蹴りたい背中』。
ちょっと衝撃的だった。

主人公の女の子が徹頭徹尾感じているのを、
私なりに共振して一言で言うなら
「無力感」だ。

女友達に対して。クラブ活動に対して。
オタッキーな男の子に対して。
(↑まだこの男の子は希望的存在かな……でも、幼稚。
背中、蹴りたくなる気持ちも、よくわかる)

     ★

「もしも人生の中で、
三年、記憶を消さなくちゃいけないとなったら、
どこを消す?」
と聞かれたなら、
即、「高校三年間」と答えれるくらい、
私は高校生活に思い入れがないのだが、
それは私が、自分の高校に
「違和感」を持っていたからだ。

で、主人公の女の子が感じているのは、
「違和感」なんてもんじゃないなと思えた。
それよりも深刻な「無力感」。

気の毒に……と、その主人公に同情してしまった。

     ★

「違和感」と「無力感」の違いを説明しておく。

例えば、私の場合は、クラスで味わっていたことを、
この主人公は、クラブ活動で味わっている。

クラスの中における先生。
クラブ活動における先生。

自分の嗜好云々関係なく強制的にいるしかなかった、クラス。
クラスの授業・イベントにより
関わらざるを得ない先生という存在。

対して、

自分が興味を持ったクラブ活動において、
存在する先生。
名ばかりでも、自分の好きなことに熱中するためには、
立っているだけの存在で十分だった先生。

     ★

私の頃でも、基本的に、
先生は一目置かれていない。

都合よく利用できるか、利用できないか、
そんな利己的な対象でしか、
見ていない人が、とても多かった。

先生というだけで、
「(尊敬するかどうかは別として)自分たちとは次元が違う人」という前提が、
私なんかはあったけど、
そういう認識すら崩壊していて。

利用できるか、利用できないかを見極めて、
パブリックとプライベートの顔を、
あからさまに使い分けていく何人もの人々と、
イジメやシカトの対象にならないように、
でも染まらないように距離を置きながら付き合うバランス。

そんな選択できない集団の中に身を置かなければならない、
そのあきらめの境地が「違和感」。

でも、クラブ活動では、
先生は存在しているだけでよかったので、無関心だった。

クラブ活動はクラス活動とは違い、
やりたくて、やっているわけで、
また、やりたい人たちが集まっているので、
その一点さえ共有し合えてたら、
ほかのことは眼中外で、
先生を、
利用できるか、できないかなんて、
そんな意識の対象にすらならしなかった。

     ★

が、『蹴りたい背中』の主人公の女の子の周囲は、
クラブ活動そのもの(陸上部)に対する
モチベーションすら皆無なので、
いかに、クラブ活動(夏休みの活動)を、
公のかたちで無しにするのか、
そんなことばかりを考えていて、
そのために先生を
いかに利用するかばかりを考えていて。

走ることが好きな主人公は、その状況に戸惑い、
(陸上部なのに、そんなマトモさのある子は、この主人公だけ)
でも、夏休みの遊びの計画に、
自分も誘われたら、ほのかな喜びが、
胸に込み上げてくるのも、まぎれもない感情で。
(結果的には誘われなかったが)

能力的なものはともかく、
互いの嗜好が、モチベーションが一致しているのが、
大多数で前提だった集団ですら、
もう、崩壊していて。

そして、情けないほど、利用される存在として
描かれた、
クラブの中の顧問という、先生。

ここまでいくと、
自分の芯を保つことは難しい。

「違和感」は自分の芯は保ててて、
周囲のぐんにゃりした感じに対して思える感触。

が、『蹴りたい背中』の主人公の世界は、
自分の芯を維持することすら困難。
周囲がぐんにゃりしてて、
自分の芯を、少しでも支える集団、いや、人すら、
見つけられないから、「無力感」。

     ★

クラスの中にあった「グループ」という集団も、
『蹴りたい背中』では崩壊している感がある。

私の頃は、思い出すと「なんちゃってグループ」だったな、
とは思うけど、
クラスの中で生き抜くために、便宜上グループになってた
ひとりひとりの寄せ集めグループはまだあった。
(顔は漠然と思い出せるけど、
名前、もう、忘れた。
そのくらい、便宜的に固まっていた)

「グループ」という単位も壊れていれば、
「たった一人のお友達」という単位も、たがが外れかけている。

     ★

あるタレントに対して、
オタク的な情熱を注ぐ、
周囲に関心がない男の子に、
主人公は
ある種の共感を持っているが、
自分のその
「ある種の共感(恋愛じゃないと思うよ。)」すら、
その男の子に、相手にされない、主人公の女の子。
へんな、惨めさ。

ただの普通の女の子であればあるほど、
周囲とコミットメントできないでいる、主人公が、
とにかく気の毒に思えた。

     ★

青春小説として、読み継がれるには、
気の毒なことばかりで、感動はあまり喚起しないので、
古典になることはないだろうけど、

学校が、ここまで壊れていることを、
ちゃんと知るには(悲しくて、怖かったけど)、
いい本だったと思う。

で、最初に戻って、『インストール』のDVD。

見終わった夫に、感想を聞くと、
イマイチだったらしい(上戸彩さんはかわいかったらしい)。
が、そのつまらないオチを聞いたら、
原作の本のほうは、かなりおもしろいかも、と私は思った。

『インストール』も、なんらかの無力感を描いている予感がする。

綿矢さんの綿密・緻密な描写で読むと、
面白いかも、とふと思った。

誰か読んでないだろうか。

読みたい気はないけれど、誰かの感想は聞きたい気分だ。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
違和感 (美羽)
2005-05-25 22:33:28
{イジメやシカトの対象にならないように、

でも染まらないように距離を置きながら付き合うバランス。



そんな選択できない集団の中に身を置かなければならない、

そのあきらめの境地が「違和感」}



ああ、うまく言うなあ、稲田さん。

あのときの

確かに私が感じていた

あの違和感は

この違和感に違いない。

イジメやシカトの対象に

ならないように

でもそまらないように…



あきらめの境地が違和感、か…

すとんと、オチタ…。

時々、稲田さんと話していて

同じところをイタイと感じる人だな

と思うときがあります。

ああ、そこそこ!みたいな…

そんな稲田さんもとてもイタクて

私なんかよりもっともっとイタクて

せつない。

でもそこをイタイと感じる

あなたでよかった。

あなたの紡ぐ五行歌も文章も

そんな誰かをきっと勇気づけてる。



少なくとも今日、確かに私が…。
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Unknown (いなだっち)
2005-05-26 14:03:57
なんだか、真直ぐに

見つめ返された気持ち……。



ありがとうございます。

恐縮しまくりです。



その当時「違和感」を持っていた人って、

意外とそんなに、

少数派ではなかったと思っているんですね。

(多数派でも決してないでしょうけど)



でも、ダメだろうなぁ。

わかっていても。

今の私があの世界に戻ったって、

やっぱり小さくなるしか、打つ手ないと思う。



大人になってからのほうが、断然楽しいです。

(特に、ミソジを過ぎてから)



だから、大袈裟でもなんでもなく、

私の頃より、もっと過酷だと思える、

「無力感」を抱えた今の子たちは、

何とか生き延びて、大人になってほしい。



それはそれで、ハードなこともあるけれど、

いろんな世界があるから。



自分のマトモさを信じて、

ここまできてほしい。



綿矢さんの本が売れたのも、

彼女の年齢だけでは決してなくて、

この「無力感」に共感した人が、

沢山いたからだと思う。



沢山の人が同じイタミを持っている証拠だと思うから、

本当に、

生き延びてほしいです。
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