高橋 美佐子 (新聞記者)
山ちゃんこと、山田泉さんが逝ってもうすぐ2年。このたび、再びスクリーンを通して、多くの人を山ちゃんと引き合わせる機会に恵まれたので、ちょっとだけ書かせていただければ、と思う。
2008年11月に亡くなった直後だった。私のパソコンに、ちっちゃな封筒が添付されたメールが送信された。差出人は山ちゃん。ドキドキしながら開くと、「しばらくの間、天国へ旅行に行っています。あちらでも講演やら出張授業やらで忙しいようなので、家族でよければ下記のアドレスまでメールして下さい」とあった。没後の自動送信。まったくこの人はいつの間にこんな仕掛けを…思わず笑ってしまった。
山田泉という人物を 晩年、数多くの新聞やテレビが取り上げた。長い間、大分・豊後高田の小中学校の養護教諭として性教育や平和・人権教育、障害者支援などにボランティアとして情熱を注ぎ、00年に乳がん発症以降は、自らの闘病経験を生かして「いのちの授業」を実践した。
彼女の人柄に魅了された人は数知れない。私もその1人だ。最期のパリ旅行で出会った仏人チェリスト男性との交流を借金まみれで映画にする人まで現れた。それが今回上映予定の「ご縁玉」だ。
死に際、ホスピスのベッドで突然覚醒し、「生きることは人のために尽くすこと。これで終わります!」と言って生涯を締めくくった山ちゃんは、命の伝道師として、素晴らしい数々の功績を残して逝った。
……そう、それは決して間違ってはいない。でも、それで彼女の魅力を語ったことにはならないと、私は断言できる。
誤解を恐れずに言おう。私の知る限り、山ちゃんはとんでもない「ずぼら」な人だった。甘えん坊で、したたか。
例えば、大分空港で飛行機に乗ろうとチェックインのゲートをくぐる寸前、山ちゃんは自分の荷物を忘れたことに気づいた。「玄関に置いてあったのに。真ちゃん(夫の真一さん)が忘れたの」。本人を目の前にプリプリと怒っていて、自分の失敗は完全に棚上げだった。そんな山ちゃんの傍らで、真ちゃんはいつにも増して、人の良さそうな優しい笑顔を浮かべていた。
「都会は気後れする」などと伏し目がちに言いながら、東京は若いころから研修などでよく通っていたのだと没後に聞いた。「私はちっともモノを知らないっち」と少女のような顔をするが、初対面の著名な作家たちとすぐ意気投合していた。多くの知識人たちが身内か娘のように可愛がった。いつも方言丸出しで、「私はただの田舎の保健室のおばさん」と自己紹介した。なのに中年っぽさも、やぼったさもなかった。子どもたちを「あなた」「この人たち」と呼び、いつも対等な人間として接した。深紅のジャケットが一番自分を美しく見せることを知っていて、好んで着た。私には、時にドキッとするほど魅力的な「大人の女」に見えた。それを証明するかのように、たくさんの男性が、まるでミツバチみたいに彼女の半径3メートルぐらいに群がっていた。
一度だけ山ちゃんの出前授業に同行取材したことがある。山奥の高校で、山ちゃんは校長にあいさつした直後、黙りこくってしまった。「権力のにおい」をかぎ取ったからだろう。もともと職員室が苦手だった山ちゃんは、呼び出しを受けた不良生徒みたいにうつむいていた。その場をとりなしたのは私だが、特段、恩義を感じている風でもなかった。
映画「ご縁玉」には、仏人チェリストが児童養護施設で演奏しながら歌うシーンがある。孤独を訴える歌詞と哀愁漂うメロディーに、耳を傾ける幼い子らがすすり泣く映像の合間、鼻水をぬぐう山ちゃんの姿が出てくる。その表情としぐさは、まるで小学生だ。
大分・湯布院の高級旅館の温泉にご一緒した時ほど度肝を抜かれたことはない。信じられないことに、彼女は湯船を気持ちよさそうに、泳いでいた。山ちゃんは一応「先生」だ。しかも片方の乳房を切除したがん患者で、もう完治が見込めない状態だった。私は直前まで、湯船で彼女とどんな会話をすればいいか、どんな言葉をかけたらいいのか、とても悩んでいた。「そんなことは気にしないで」とでもいうように、山ちゃんは人魚のように泳いでいた。
山ちゃんはあまりに「未完成な人」だった。でも、その完璧でない人柄こそ、他者を魅了してやまなかった。
報道に携わる人間で山ちゃんと直接話したことが一度でもあれば、彼女を伝えたいと思うはずだ。でも、そのメッセージはあまりに当たり前過ぎて、ニュースとして仕立てるのはとても難しかった。誰もが何度もあきらめたり、打ちひしがれたりしたと思う。夫と私も、自分たちが報じた山ちゃんの記事を巡って激しく口論し、殴り合いの喧嘩にまで発展しかけた。「これでは山田泉を伝えきれていない」と。
あのころ、命の期限が迫っていた。私たちは焦っていた。今のうちに会えるだけ会っておかねばと、仕事の合間、足繁く大分へ通った。時計の針を反対回しにできないか、と本気で考えた。山ちゃんが生涯をかけて伝えたかったことがうまく表現できない私は、いよいよ途中でまどろっこしくなって、生身の山ちゃんを、できる限り多くの人と引き合わるという「禁じ手」を思いついた。山ちゃんと出会った何人もから「会わせてくれてありがとう」と涙を流して頭を下げられた。「記者」というの仕事は果てしないものなのだと、短いかかわりの中で学ばせてもらった。
山ちゃんの未完成さには「人を吸い寄せる」だけでなく、「人を動かす」威力が確かに宿っていた。マスコミが大衆から敵視され、新聞がどんどん読まれなくなって、地球の至る所で無駄に命が失われ、絶望だけが語られる時代。死の瀬戸際まで「いのちが大事」と訴え続けた山ちゃんの生き様に、私は「あきらめちゃだめ」と背中を押された。
結局、私は「山田泉」という人物を書ききれなかった。だから、いつまでも山ちゃんにこだわるのだろう。
未完成な「記者」だから、これからも力一杯やらなければと思う。そして、いつか、あなたを書き残したい。
あなたを知ることで元気づけらる人が1人でも増えるよう、とりあえず映画上映を手伝ってみるか…そんな私の最近の行動こそ、天国にいる山ちゃんの「遠隔操作」に思えてならない。
天国にいる山ちゃんからのメール。こんなにも温かな家族への気遣いをして旅立ちの準備をしていた最期の日々を思う。山ちゃんは案外、用意周到な人だったかもしれない。何気ない日常のなかで、今もふと、あの面影を思い出している自分に驚くことがある。
※写真は、死の直前のホスピスで、映画「ご縁玉」のチラシを手にする山ちゃんと夫の真一さん