「徒然 雑記」 (こころ のままに…)

日々 感じたり・考えたり・創作したものを気ままに綴る…雑記です!

偏差値教育と社会人!!

2009-01-03 19:55:04 | Weblog・ブログ(日記)・つぶやき
以前「偏差値教育」の弊害が強調され過ぎて、学校教育が否定され、学校へ毎日ランドセルを背負って通う子供に
「勉強なんて、適当にしておけばいいんだ!」
式の熊っぁん・八っぁんの親も増えた時期があったようです。
マスコミの問題の取り上げ方が、
経済的要因が、生徒の教育機会を左右してしまうと確定的に論じている
(実際は、正の相関関係)のと、
教育水準が高い生徒が、犯罪者になると興味本位で「ニュース」報道・特集をしてしまい視聴者が、社会を錯覚をしてしまうのが、原因のようです。
(犯罪は「悪」ですが、特殊性という「ニュースバリュー」の関係で…」
また社会には「経済的富」と「知識の富」を平準化する憲法上保障されている国民の権利を否定する思想・組織・団体が存在している事もあるのかも知れません!
(端的に言えば、「個人の幸福追及の自由」を法律以上に制約して、個人より社会全体を優先させる全体主義思想…
それが、政策又は、法制化してしまえば、憲法条文は形骸化して正当性のみ獲得しそうですが…?)。
以前、「偏差値教育」の弊害をある本で読んだ事があるんですが、
中学生の進路の問題で、ある生徒は、将来大工
さんになりたかったのですが、英語の成績がわるかったので、「いい大工さん」に成れないのではないか悩んでいたそうです。
まぁ、考え方ですが、
まず「そんな事はないだろう!」
大工さんをしてから頑張れば英語の成績が悪くても…。
また英語も頑張って習得し、大学の建築科へ進学し一級建築士の資格を取得すれば、より将来的に…、
将来は、不確実だから、選択肢が多い方が、本人にとってプラスになるのでは…。
本人にとっては、「他人事でない」訳ですから…。
「社会」に明るい事は、一つの幸福な事でもあるだろ。
などいろいろ考えさせられました。
ただ、条件の下で誰でも一生懸命が理想です。

(著者は、偏差値教育の「弊害」の論点の趣旨からのみの例でしたが…。)

「偏差値」とは!?

2009-01-03 19:52:47 | Weblog・ブログ(日記)・つぶやき
「偏差値」とは、全体の中で占める個人の学力・知能の程度を示す数字。
(新版 国語辞典 講談社学術文庫)
ですが…。
受験生・その親の方でも偏差値を勘違いしている人が、多いようです。
例えば、
「・・大学は、駿台模試で偏差値が55だったけど、ライオン社模試では、70だから、偏差値が上がった」とか…
「私(親)の時代は、偏差値55だったけど、今は60だから、レベルが上がった」とか
よく聞きます。
まず生徒の偏差値は、
「その試験」を受験した生徒の平均点を50とし、平均点からどの程度良い(50以上)
悪い(50以下)を示す指標です。
そして、標準偏差(点数の度数分布)を加味したものです。
テストの平均点が35点なら、35点をとった生徒の偏差値は50となります。また、試験問題が難しいと偏差値によって得点が低くても成績が、調整されます。
平均点(偏差値50を基準)よりどの程度良かったか、悪かったかが、わかります!
但し、低い点数が、高い点数より偏差値が、高くなる事はありません。
つまり各試験の受験生のレベル(質)によって、個人の偏差値は、変わります。
また「大学進学率」は以前より高いですから、成績が下の生徒も受験しますから、平均点が下がり、逆に偏差値は高くでます。
大学受験生の上位校を受験する生徒は、以前と同水準と想定すると、
(東大に入学する生徒のレベルは、以前と同水準…)
偏差値が上がっても、東大のレベルが上がったのではなく、大学受験生全体の平均点が下がっただけという事になります。
また大学間のレベル差を考える場合は、偏差値の数値を考えるのではなく、序列の順番を見て判断すればいいだけです。
例えば、上智大学はかなり以前は、中堅大学だったらしいですが、
1980年代頃から、「早稲田・慶應大学」と比肩されるレベルになったので、中堅大学からレベルアップしたという事に…。(まぁ、私立大学は一般入試でも成績順に合格する訳では、ないらしいですけど…。
受験生の選択で、成績の良い生徒が私立大学の「上位校」を受験しますから、選抜試験以外の条件で合否を決めても、上位校に学業成績のいい生徒が多い結果になるでしょうから…!!

とりあえず、「その時々」の大学偏差値と模試などの生徒の偏差値を尺度にして、志望校を選択する事は、合否可能性に於いては、意味のある事のようです。