「ガラスのさかな」のとんぼ玉じゃないタワゴト

とんぼ玉作家のブログが、いつしか健康ブログに。
なので、健康ネタを独立させました。

変えたい時なんやなあ

2017-11-24 02:35:58 | 健康
 ちょっと、この頃、内面のカミングアウトで暴走していたので、その辺の公開をやめました。
 こういうことを考えてしまうのは、背後にあるのは、「今を変えたい」って、自分で思っている時なんだよねえと、自問自答する。

 本当に、人のありようは、かなりの幅があって。
 例えば、反社会的だったり、極端に破滅型だったりするのはまずいとして。
 こうでなくてはならないという物は、ないと思うんですよね。
 今回、いろいろ考えてしまって、あらためてそう思った。

 友田明美さんの「子供の脳を傷つける親たち」という本を読んで。
 ホンマに、考えてしまった。

 とても気になった部分というのは、「マルトリートメント(不適切な養育)を経験した子供がみな、社会的不適応に陥ったり、心の病に陥ったりするわけではなく」、というところです。
 困難な状況に置かれても、上手く順応できる能力、あるいはその過程や結果のことをレジリエンス「精神的弾力性」「精神的回復力」と呼ばれるらしい。
 因子は、「個人的な特性」として、高い知能、自己肯定感、前向きな気質など、「家族的な特性」として、温かな家庭、連帯感、両親の積極性など、「地域的な特性」として、社会のネットワークの充実などが上げられますと、書かれている。
 今までは、問題を抱えるケースに関する調査研究が主だったけれど、レジリエンスが高いグループに関しても研究対象として、注目されているようです。
 ホンマに、そこは必要だと思います。

 いろいろ、いつものように考えが暴走していたのですが。
 一つ思いつくと、その思い付きを打ち消すような「反例」に気づき。
 考えが、あちらへこちらへと暴走します。
 どうにも、とことん考えないと気になるし、中途半端に置いておく方が、精神衛生面で、返って良くないというか。
 いや、自分自身のことであっても、どこか他人事のように「知ってみたい」好奇心のようなものが、あるんですね。
 蓋をしてしまう方が痛くないというのに。


 自分自身で気づいて行ったものを、頭の中のあちこちに、別々の要素として置いていたりします。
 今回、それをシャッフルしていると、やはり思うのです。
 シンプルな結論に行きつきます。
 「気分転換がうまいこと」
 これが、重要だと思います。

 どうしても、考え込む質です。
 DNAに書かれていると思う。
 父も、とにかく考え込む質でした。
 母に言わせると、「考え過ぎてなかなか動かれへんとこがあって、見とってもいじいじしよった」んだそうです。
 へえ、感覚の人の母が、そういう風に思っていたんですねえ。
 母は、あまり小難しく考えない人です。
 でも、そんな風に考えていたんやなあと思う発言を、この頃、良く聞きます。
 感覚の人の母と、ウザいくらいに理論派の娘。
 考え方のギャップなんかで、ケンカも多かったです。
 最近、介護関係で、私が母にやさしくしているからか、そんな話を聞く機会が多い。
 あ、話が逸れました。

 そう、「考え込む」です。
 最近買って、たまたま読んでいる本が、『「すぐやる人」と「やれない人」の習慣』という本なのですが。
 この本にも、考え過ぎるだけでは、結果がついてこないと書かれています。
 「考えるために動く」のが良いと。

 昔、会社員だった頃、思ったことがある。
 嫌なことがあって、頭の中を、同じことがめぐり続けた時があった。
 まあ、良くありましたけど。
 特に若い頃。
 そんなときでも、朝が来て、会社には行かないといけない。
 電車に乗ると、混んでいて、隣のおっさんの整髪料が臭くて、などなど、他のストレスに遭遇する。
 考えにとらわれ過ぎていては、いくら慣れた道でも、さすがに危ない。
 そうして、通勤が始まることで、考えに「中断」が入ることが、救いだなあって。

 それから、困りごとにあった時。
 自分なりの解決法は、「本を読む」ことでした。
 経験豊富な人に相談するっていうのでない所が、私ですよね。
 人との関わり薄いからなあ。
 でも、この本を読むというのも、結局、他者の意見に接することな訳で。
 自分の頭の中だけで考えていては、解決は難しいのだと思います。
 私も、今さらですけど、人に相談するみたいな部分ももっとあったらなあと思います。
 ただ、あんまり、自分の中で重い話は、人に相談しにくいですよね。
 あ、でも、この頃は、生徒さんに愚痴を聞いてもらっている。
 おいおい。(^^;

 そうそう、ちょっと面白いのが。
 病院で働いている知り合いがいましてね。
 つい、ちょこちょこっと、連絡したりします。
 便利ですよね、SNSみたいなの。
 そうすると、何やそうなんや、と、他の視点から見た意見が聞けて。
 モヤモヤが解消することも多いです。

 人の視点を借りたり、人に相談したり、人の意見を聞いたり。
 結局、人は人と関わらないと、困りごとは解決しないんだと思います。

 そして、この一年の介護。
 非公開にした中にも、何度も書きましたが。
 介護は否応なく、向こうから物事がやって来て。
 何とかしないといけないことが目の前にあると、逃げれはいられない。
 事態はどんどん変化していき。
 千切っては投げ千切っては投げみたいなことになっている。
 それって、「走りながら考える」とか、「動くことで考えるヒントが得られる」とかいう状態が起こっていたということで。
 考え込んで動けない傾向のある私にとっては、状況によって、強制的に動かされることで、何かを考えるに当たっても、袋小路から抜けられないという状態を回避できたってことやもんねえ。
 そうやって人と関わることで、眠っていた何かが起こされる気がする。
 で、ヘタレだと思っていた自分が、意外にも頑張れると、少し、自分に自信がつく。

 「レジリエンス」が高い人が、どんな方法で、困難を切り抜けたのか。
 それは、とても知りたい。
 でも、方向として、そういうことではないのかなあと思う。
 もっと広い、もっと多様な、状況や考え方に触れること。
 人と関わること。
 一つの物に囚われ過ぎないこと。
 自分自身に深く問いかける瞬間も、必要なんだと思う。
 でも、「内向き」な発想では、物事は解決できないと思う。
 問題を抱えている自分だったり、問題を抱えている小さな世界があったとして、その外側に世界があることを、ちゃんと分かっていることが、自分を救う気がする。
 価値観も、遠い世界ではまた違い、時代が違えば違う。
 「今」は、長い歴史のつながりの一点に過ぎないから、「今」がこうであっても、過去は違ったし、未来永劫、その状況が続く物ではない。
 そういう、物事を俯瞰して見る視点が、大切な気がするのです。

 考え込む質。
 それを、まるきり否定する気にもなりません。
 これはこれで、職人的気質として、レベルの高い仕事をするために、必要なものだと思います。
 ま、ただ。
 いまどきは、職人的気質が求められる局面が少ないというか。
 職人的気質の評価が低いというか。
 「こだわりが強い」ことは、敬遠されがちな空気感を感じます。
 考え込む質でない人の方が、今の世の中では、適応力が高い傾向があるようにも思うから。
 でもなあ。
 絶対、滅びるとまずいと思う。
 以前、田中耕一さんがノーベル賞を取った時、朝のワイドショーみたいなのでMC(っていうんですかね)の峰竜太が、「いまどき、こういう人もいるんですねえ」と、コメントをしていて。
 まあ、悪い意味で言ってないんだろうと思ったけど。
 プチ切れしました。
 「あんたなあ。理系には、いっぱいおるで。空気を読むのが商売のそっちの業界はどうか知らんけどな。」
 大きな水槽に、海水魚を飼っている、いわばウォッチング派のダイバーの敵みたいな奴に、言われたくないわ! って、思った。
 「一番じゃなきゃいけないんですか」といわれてみたり。
 「これからは、基礎研究ではなく、応用研究に力を入れる」といわれてみたり。
 職人的なハイレベルの仕事が、やっぱり軽視されている時代だなあって、思う。
 何か、悔しいですけど。

 またまた、話が逸れました。

 そうそう。
 シンプルな答えに至ったんです。
 「レジリエンスが高い」人は、結局、「気分転換がうまい」人、なんじゃないかって。
 下手な人もいますから。
 下手な人は、下手な人で、その短所が長所になる気質でもあるので、滅びずに、回復してほしいです。


 最近、出会ったんです。
 そんな環境で生き抜いて、よくぞこんな風になりはったなあっていう人に。
 人間の出来の違いを見せつけられたようで、ちょっと、凹みました。
 まあ、しょうがないか。
 で、あらためて、今考えるとね。
 その人は、どうも、「動く質」のようです。
 ああ、やっぱりなあ。
 考えるために動く。
 いや。
 そもそも、『「すぐやる人」と「やれない人」の習慣』という本のタイトルに目が留まったのは、その違いを見せつけられたからかも知れない。

 とまあ。
 そんなこんなで。
 なんだかねえ。
 もやっと。
 「今を変えたい」
 そんな自分がいます。

もっと早く知りたかったことは、多い

2016-09-05 22:12:00 | 日記
 最近読んだ本。
 「医師の作った 「頭の良さ」テスト 認知特性から見た6つのパターン」本田真美著。

 かなり面白かったです。
 内容は、どちらかというと、「認知特性」に、これほどまでに個人差があるんだよという本で。
 「頭の良さ」テストっていう内容ではなかったと思う。

 認知特性が、6種類かどうかというのは、さておき。

 認知特性を知るために、こんな質問が出て来ます。
 「4~5歳より以前の記憶がありますか?あれば、その記憶の中に、自分はいますか?」

 あります。
 もっと前は、もっとたくさん覚えていたけど、最近は、本当に印象の強かったものしか覚えていない。
 それは、後に、「ひいおばあちゃんがなくなった時」の映像だったことが、後で両親の説明で分かった。
 建て替える前の古い家の、あの部屋の中に、人がいっぱい集まって並んでいる後ろ姿を、隣の部屋から見ていた。
 私が、2歳になったばかりだったらしい。
 もちろん、その映像は、私が見ているのだから、映像の中には、私はいません。

 と、そんなことを思い出すと、芋づる式に、いろんな画像記憶が浮かんできます。
 叔父が、庭で洗車していたこととか。車の色とか。

 4~5歳というと、保育所に行っていた時で。
 保育所に上がる前の年頃の記憶として探すと、あれもそうだしこれもそうだなあと、思ったりする。
 4歳半。
 弟が生まれた朝に、伯母が知らせてくれたこととか。
 その時のお布団の柄とか。
 それより以前の記憶ということでもある。

 こういう記憶がある人というのは、認知特性として、「視覚優位者」なのだそうだ。
 聞いてみると、とんぼ玉教室の生徒さんたちは、多かれ少なかれ、この傾向がとても強い。

 6つのカテゴリー分けとしては。
  視覚優位者・2次元タイプ
  視覚優位者・3次元タイプ
  言語優位者・言語映像型
  言語優位者・言語図式型
  聴覚優位者・話し言葉型
  聴覚優位者・音楽イメージタイプ
 みたいな括りに分けられていた。
 これの1~数個、優位なものがあるということだ。

 このカテゴリー分けは、著者の医師としての経験則によって分けられたもので。
 もしかしたら、このカテゴリー分けが、絶対的なものではないと思うんだけど。

 そう思って、周りの人を見てみると、いや、自分自身を見てみると、これほどまでに、認知様式や思考様式が違う物か!と、あらためて、びっくりだし、本当人間って面白いと思う。


 生徒さんの中には、とんぼ玉のデモの内容のメモが、「絵」と、「単語」だけの人がいる。
 びっくりです。
 多数派は、絵と文章。
 文章多目で、絵が入る人もいる。

 で、「絵と単語しかなかったんだよ~」と、とある生徒さんをネタにして、他の生徒さんに話していると。
 とある人が、自分もそうだと言った。
 その人によると、絵だけ描いていれば、その絵を見ると、映像として前後のつながりのある映像を引き出せるから、文章がなくても大丈夫なんだそうだ。
 へ~!
 というか。
 そういえば、私も、絵一つで、自分が何を考えてその絵を描いたか、大体思い出せるなあ。
 でも、人のデモを見た時は、文章は入るよ、私はね。

 先日。
 母に。
 「食事中に、トイレの話とかされたら、食事中に思い出したくない画像が鮮明に浮かぶし、場合に寄ったら、匂いまで思い出すんやけど、もしかして、お母さんって、そんなことない人なん?」
 「ないで。」
 「あんな、私は浮かぶねん。そやから、食事中に、思い出したくない映像を思い出すような話をしたら、怒るやろ、私。」
 「そんなん浮かんだら、食べられへんな。」
 「そやろ。何で私が怒こっとったか、分かった?」
 「うん。」
 悪気はない、らしい。
 生まれてこの方、何十年も、その違いに気づかなかった。
 初めて知る、親子の違いなのであった。(^^;

 そんな訳で。
 弟が、理論的な話を嫌うのも。
 やたら私のブログに文章が多いのも。
 いろいろ、合点が行くのであった。

 この一年くらい、教室で、良く言っていた、お気に入りのネタ。
 「100人いれば、100人とも、(問題解決のための)アプローチが違う。そのことこそ、人間の創造性らしいよ。茂木先生によると。」
 そうだと思ってはいた。
 でも、思った以上なのかもしれない。
 人間って深いなあ。

 母と私のあの会話からも。
 様式の差ゆえに、無駄な摩擦もあった訳やん。
 そんなこともあるんやなあと思って見てみれば、人との関わり方も変わってくるかもしれない。

 いやそれ以上に。
 自分の特性に気づくと、自分自身を理解できる。

 なぜ、これほどまでに違うのか?
 それは、生命が生き残るために、どうやって問題解決をすれば良いのか、その答えがないからだと思う。
 より多くのアプローチを用意しておけば、どこかで、より良い答えに当たるかも知れない。
 だからこそ、神様は、違いというものを、人間の中に仕込んだんやなあ・・・・・・

 で、思い出す。
 NHKの「Nスペ」でやっていた、人工知能が人を超えるか?って話。
 まあ、人間の数ほど、多くの人工知能を作り、その人工知能ごとに、アプローチの違いをプログラムすれば、そんなこともあるかも知れへんなあ。
 ↑できないはずだって、ことです

 ずっとずっと前。
 会社員になった新人の頃。
 人工知能を何とかしようという、漠然とした部署に配属された。
 人員、私入れて、4人。
 機材、ワークステーションというコンピューター1台。
 本読みはさせられた。
 どうにもこうにもならなかった。
 で、課長が、そのプレッシャーで、胃に穴を開けて。
 数年後、部署名を残したまま、普通のソフトウェア開発をやっていた。
 でも、あの状況でも、何かをどうにかできた人はいるのかも知れないなあ・・・・・・

 だから、なんですよ。
 人工知能の研究というのも、成果を生んでいる。
 あの頃夢でしかなかったものが、実現していたりする。
 きっと、エキサイティングな部分を含んでいる。
 ま、それでも。
 本読みをしたせいで、そのジャンルがどれほど地道な物か、少しは分かる。
 だから、漠然と、「人工知能」「AI(アーティフィシャル・インテリジェンス)」って出されると、何か良く分からんけど、めっちゃ凄そう!
 みたいには、思わない。

 とんぼ玉教室で、先生業をしていると、人間の凄さとか、人間の深さとか、より感じるようになったこの頃です。

謎は解けた・・・・・・

2016-07-03 21:33:18 | 日記
 少し前、Nスペの2回シリーズで、「キラーストレス」の話をしていた。
 何となく、ストレスと名のつく物を積極的に見る気になれず、何となく録画していて、一応見てみた。

 これは、良い番組だと思いました。
 ストレスとは何ものか?
 ストレスが、体にどんな悪さをするのか?
 ストレスを軽減するには、どんな方法があるのか?

 本当に、とてもいい内容でした。
 それと同時に、このブログの大半を占めていた、「糖質制限」に私がハマったきっかけであった、父の認知症ですが、何が悪かったのか、はっきりとわかりました。

 ストレスを感じると、何種類かのホルモンが分泌される。
 そのうちの一つが、海馬を痩せさせるのだそうです。
 まさに、ピンポイントの原因でした。
 性格的に、気分転換がヘタなところがあるからなあ。

 そして、ストレスを軽減する方法も、3種類紹介されていました。
 ①運動
 ②ストレスを前頭葉で認識して、作為的に処理する方法
 ③瞑想

 これらは、何となく効きそうという話ではないんですよね。
 運動は、気分転換に良いから、という漠然とした話ではなくて。
 運動をすることで、運動に必要な部位が盛んに働いている状態が、ストレスで過度に信号が流れている部位の信号を軽減させるというのが、数値で示されている。
 要は、辛い辛いと思って、同じことを考え続けていると、それに関わる部分のシナプスに信号が流れ続けてしまう、そういう状態。
 ところが、運動をすると、体のあちこちをコントロールしないといけなくなり、例えば転ばないということだけでも、かなり脳は使われていて、ストレスを感じた時に信号が流れる部位にばっかり、働きを割いていられないということなんですよね。

 作為的にストレスを処理する方法は。
 今まで自分の経験的に、気分転換になったことを書きあげる。
 こんなストレスにはこんな対処法が効いたので良さそうという対処法を、100種類くらい書き上げる。
 そしてストレスを感じているとき、自分がストレスを感じていることをちゃんと認識し、そして対処法を当てはめる。
 何で良かったんだったかなあ。
 ストレスに関わるところは、原始的な古い脳。
 一方で、この処理に使われる脳は、新しい脳。
 暴走している古い脳を、新しい脳でコントロールして暴走を止めるためのルーティーンだったからだと思う。

 最後の瞑想。
 人間のストレスは、過去の記憶と、想像力による未来への不安が原因の多くを占める。
 今現在、家にいて、ストレス源とは離れているのに。
 ストレス源といた過去の記憶と、明日また顔を合わせるという未来の予測から来る不安で、体が臨戦態勢に入ってしまう。
 番組で紹介していたのは、呼吸をしながら、自分の呼吸にだけ集中するという物。
 以前に、ためしてガッテンだかで紹介されていた、バンジージャンプを跳ぶ前の僧侶は、バンジージャンプへの不安を想像力で増幅させることなく、ただ、そばを流れる川の流れの音を聞いていたのでした。
 雑念を払い、今に集中すること。
 この方法を試すと、海馬が痩せたのが回復したりもするらしい。

 へ~、やってみよう。
 最近、ストレスが多かったので。

 横浜のビーズアートショーに行く前に、叔母が危なくて、危機をっ脱したと思って横浜に行き、戻ってきてほどなくして、亡くなってしまった。
 周囲の人々にとっても、突然のことでした。平均寿命まで、まだまだあったのに。
 私にとっても、結構かかわりの多い叔母で、祖母の最期を看取ってくれた人でした。
 あれから、たった4年。
 そんなとき、ふと、自分の残された時間を、意識してしまいます。
 叔母は、4月に出会ったとき、普通に元気で、でも、字が書きにくいと言っていた。
 その時も、ふと、私、あと何年高いパフォーマンスでバーナーができるんだろうなあと思った物でした。
 父の認知症の時も。
 あと何年、ちゃんと仕事ができるんだろうなあって。

 ストレスからは、逃れようがない部分がある。
 生き物として、生きていて、天敵に襲われたときのための命を守るための仕組みだったものが、切れ目なく続くことで、命を脅かす。

 それでも、自分自身でコントロールできる部分もまたある。

 コントロールできるんだよと、数年前に戻って、父に伝えたとして。
 聞く耳を持っただろうか?
 頑固で、融通が利きにくい性格だからなあ。
 オヤジにありがちですが、めんどくさい性格です。
 叔母もまた、生真面目で、繊細のようでありながら譲れないところは譲れない意思の強さというか、頑固さがあった。
 止まっていたはずのガンを暴走させ、海馬を痩せさせる。

 私自身も、パンパンにたまったストレスを、うまく逃がそうと努力しつつ、結構張りつめていることを感じてしまう。

 作為的にやるストレス解消法は、ランちゃんをなでなですること、とか。
 そして、運動は、ランちゃんの散歩。
 ランちゃんの散歩のときには、雑念を払い、風の音を聞く。

 他に何があったかなあ。
 ストレスがピークで、ろくなことを考えていない自分では、誰とも会いたくないと思ってしまう。
 それでも、教室の日はやってくる。
 教室の時には、比較的慣れて話しやすくなった生徒さんと、たわいのない話をする。
 そうすると、同じところを、ろくなことを考えてない考えに取りつかれて流れ続けていた信号に、割り込みが入る。
 誰にも会いたくなくても、比較的気を許せる生徒さんと会うことが、実は、とっても大きな気分転換になる。

 実は、バーナーは、ろくでもない考えに取りつかれて、雑念だらけでも、できたりする。
 でも、うまく持って行けば、バーナーの音と、炎と、ガラスだけを見て、雑念を払い、今だけに集中することもできる。

 ふ~ん。
 雑念を払うために、今に集中するって、良いんやね。
 脳の中を暴走している、過剰な信号を鎮める。
 それを、意図してコントロールできたら、良いだろうなあ。

 そういえば。
 糖質制限で、自分の体重というか、自分の食欲というか、そういう決して動かせないものだと思っていた物を、かなりコントロールできたことって、結構痛快なところがあった。

 あ、そういえば。
 ストレスピークの折には、チーズケーキを食べまくった。
 セロトニンの材料になるトリプトファンだったかが、たくさん含まれていて、トリプトファンと糖質を一緒に食べると、良く吸収されるんだって。
 へ~。
 後から聞くと、納得。
 あの頃は、やめよう止めようと思っても、チーズケーキ一日一個食べていたのは、トリプトファンを欲していたからだったのか?

 どんなに、コントロールしようとしても、次から次へと、良くないことが起こったら、人間の気持ちって持たないと思うんです。
 なんか、そんな時期でした。
 でも、少し上を向いて来たかなあ。
 小樽に行って、ほんとに良かったです。

 と、そんなこんなで。
 やっぱりストレスか?
 って話でした。

オキシトシン

2016-06-05 01:44:39 | 日記
 朝ドラ、今回のが始まってから、時間的な余裕がなくて、めっちゃながらで見たり、見逃したりしながらも、見ているっていうのは、おもしろいってことかな・・・・・・?
 ちょっと前に、ながらで聞いていたら、女学校の先生役の片桐はいりさんが、質問攻めにあって戸惑っているシーンが。
 「天井のシミが、人の顔に見えてくるのは、なぜなんでしょう?」
 番組内では、ナンセンスな質問という位置づけにされていたこの質問。
 それには、答があると思うんです。
 リケジョ崩れ的に。

 生命にとって、「顔」は、生きて行くうえで、とりわけ重要な情報だから、顔に対して、脳が敏感に反応するようにできているからだと思います。
 顔に見える理由は、シミの側にあるのではなく、それを見る人間の脳の側にある。

 先日、ためしてガッテンで、癒しホルモンのオキシトシンの話をしていた。
 スキンシップでオキシトシンが出るというのは、有名だけど。
 舞台上で緊張する局面で、舞台そでで、母が見ていてくれるというだけで、オキシトシンが出やすくなっていたり。
 緊張する局面が終わった後に、母に慰めてもらうのに効果があったり。
 その場にいなくても、電話で母に電話をして慰めてもらったりするだけで、オキシトシンは出やすいなんて話をしていた。
 なんと!
 電話でも良いんですか?

 ちょっと前に、犬と飼い主が見つめ合うだけで、オキシトシンが出るっていうのは言っていた。
 そういえば。
 じゃ、ランちゃんの抜け毛とりが趣味な私ですが、嫌がりながらも、抜け毛を取られているランちゃんは、オキシトシンが出ているんだろうか?
 あんなに怖い顔をする瞬間もあるのに。(^^;
 ↑それは、ホンマに嫌なんやと思う

 それならば。
 もう、母の声が聞けない人にとっては、どうなんだろう?
 ↑あ、ウチの母は、元気ですが
 その人が、形見を手にして、母の姿を思い出したとき、オキシトシンは出るんだろうか?

 先日、とある冊子に書かれていた文言。
 たしかこんな感じ。
 「仏を思うとき、心の中に仏はある、心に仏があることを知る人は、幸いである」
 みたいな。
 確かに、負けん気で生きて来ないといけなかったから、身内には怖いと言われていた祖母ですが、何の根拠もなく、いざというときは、彼女の霊が守ってくれるはずだと信じている、リケジョ崩れです。
 高1の時の現代社会で、「神仏を信じるか」と聞いた社会科の先生は、和尚でもありました。
 あの時、信じないと手を上げた私たちに、「まあそやろな、若いからな」と言い。
 何で現代社会のカリキュラムで、宗教の話をしないといけないのかと、そのへんを軽く流した先生を、ふと思い出します。
 神仏を信じるかどうかはともかく。
 あれから33年、祖母には祈る私はいます。

 そうそう。
 その人が、形見を手にして、母の姿を思い出したとき、オキシトシンは出るんだろうか?
 そうであって欲しいと心から思う、この頃です。

 その時、形見がパワーを持つのではない。
 それを見る人の脳の側に、パワーの源はある。
 と、つい面倒なことを言っていしまう、リケジョ崩れなのであった。

 だから、水晶をぐるぐるなんかで巻いて、あれこれくっつけて樹脂で固めた物から発される無限のエネルギー源は、水晶周りではなく、人間の側に存在してる。
 もしかして、朝食べた糖質だったり、内臓脂肪から作りだしたケトン体だったりするのかも知れない。
 そのエネルギーを、体の内側から引き出すためのルーティーンのツールだということなのさ。
 と、分かり切ったことを、いちいち書いてみるのだ。

 そう。
 癒しのエネルギーは、テラヘルツ波なのではない。
 ちゃんと計算したら、きっと、エネルギーとしてはどのくらいなのか、数値化できると思うけど。
 それこそ、水素水500mlに含まれる気体の水素がマックスで5.5ccくらいっていうのに負けない(?)くらい、ちょびっとなのに違いない。

 ただ、その黒い物体を、ある人にもらったとしたら。
 ↑私はもらってませんけど
 そのある人が、とても大切な人で、その大切な人が、愛をこめてくれた物であれば、きっと、手に取ればオキシトシンが出るんだろうと思う。
 街中で、電波と電磁波を混同した文言が書かれた黒い石を、店主に売りつけられたものが、果たしてオキシトシンを出す効果があるかどうかは、知らないけど。

 そうやなあ。
 そこに愛があるか?
 やっぱり、そこに尽きるのか・・・・・・

 ランちゃん、黒いですが。
 黒体輻射、測定しやすいんやろか?
 なんて、アホな妄想は置いといて。
 まだしばらく、趣味の抜け毛取りは、続きそうなのだった。
 私の方には、オキシトシンは出ていると思う。(^^;

無限に発し続ける・・・・・・

2016-06-04 00:50:50 | 日記
 リケジョ崩れです。
 しかも、物理専攻の。

 物理学でも、最先端の物は、理解不能です。
 だから、どのへん?と言われると、古典的な物理学周辺は、何となく体感的に分かる。
 私たちの体と同じ大きさの物の挙動の話、ということです。

 その中で、何より、基本的なものは。
 「エネルギー保存の法則」
 「質量保存の法則」
 「運動量保存の法則」
 など。

 そして、もう一つ。
 数量を扱うとき、その「単位」が何かということ。
 その「数量」は、どんな方法で、どんな道具を用いてはかられたもので、どのくらいの誤差を含んでいる値なのかということ。

 そこを、見ます。
 繰り返し、既存の実験で、結果が分かっている物を、自分でも実験で確認し、同じような値が得られることを、追体験し、その時、どのくらいの誤差を含んでいる値として結果が得られたかも、追体験する。
 それが、2年実験、3年実験(大学の2回生と3回生の時のカリキュラムに組まれている実験)で。
 4年実験は、既存の実験ではなく、これから結果を出そうという実験の入り口を経験する。

 なので、何してた?
 と聞かれると。
 3年までの実験は、扱う数値の「単位」「誤差」を、めっちゃ意識することを学ぶ。
 4年の実験では。
 本当の最先端は、本なんかには書かれていないことを知る。
 数値を扱うときに、実験の多くは、実験の値に含まれる、ノイズを取り除く過程だということを、意識する。
 実験の方法論も、自分で考えるということを、教えてもらう。

 その例で聞いたのが。
 ある現象を観測するために、電磁波を測定していて。
 毎日ある時間帯になると、特定の電磁波が急に増える。
 その原因を調べたら、ご近所のお家で、掃除機をかけている、掃除機から出ている電磁波だった。
 っていう話。
 科学っていうのは、そのくらい、「測定」に関して、シビアなもので。
 掃除機の電磁波を、謎のエネルギー放出とか、言わないことなのだ。

 だからかなあ。
 似非科学に、鼻が効くようになるのは。

 という訳で。
 聞いた瞬間、怪しいと思う言葉がいくつかある。
 その一つが。
 「無限に発し続ける」なのだ。

 「無限に発し続ける」
 って、エネルギー保存の法則に、反してませんか?
 無限に発し続ける以上、それが何であれ、エネルギーに換算できる。
 音なら、空気を震えさせるためのエネルギーが、どこからか供給されないといけない。
 光ならば、電磁波を作る元になるエネルギーが、どこからか供給されないといけない。
 放射線もまた、どこからか、エネルギーが供給されないといけない。
 など。

 テラヘルツ波を、無限に発し続ける。
 まあ、それは正しい。

 生命体から、テラヘルツ波が出ている。
 そのエネルギー源は、大きく、2つある。
 一つは、環境から、温められていること。
 太陽光が降り注ぎ、地上の熱が、生命を維持するのに適した温度を保っていること。
 もう一つは、食べ物を食べて、体の中から、熱を作っていること。
 最初のエネルギー源の大元は、太陽光と、地球が内部的に持っている熱など。
 後のエネルギー減の大元は、食べ物、その元をたどれば、植物の光合成で、その元は、太陽から降り注ぐ光のエネルギーだったりする。
 それが、継続的に供給されるから、生命体からは、継続的にテラヘルツ波が、発されるのだ。

 一方。
 生命体でないものから発されるテラヘルツ波は・・・・・・
 「黒体放射(=昔は、黒体輻射と言っていた)」であるということは。
 そのものが、ある温度を保っているから、その温度の電磁波を、発するということで。
 加治屋さんが鉄を焼くとき、黄色く焼けているとかなり高温で、約何度くらい。
 赤く焼けているということは、黄色より低温で、この時に叩いて、伸ばしていく目安になる。
 みたいな。
 この時の黒体輻射は、可視光域なので、波長はテラヘルツ波よりも短く(振動数=周波数が多く)、エネルギーも高い状態にある。
 生命体でないもので、焼けている鉄ほど熱くない物が発する電磁波は、波長が長く(振動数が少なく)人間の目には見えない。
 でも一定の波長の電磁波が、放出されています。見えないけど。
 じゃ。
 その熱エネルギーの元は、何によって供給されている?
 宇宙空間に放り出されたら、冷えひえに冷えて、黒体輻射も起こさないってことになる訳で。
 冷え冷えでないのは、何で?

 まあいえば、地上にあれば、地上の温度くらいの温度が保たれているから、地上の温度程度の物体が発する黒体輻射の振動数のテラヘルツ波を発することができるので。
 じゃ、地上の温度が保たれている大元のエネルギーって何?といわれると。
 やはり、主には、太陽光。
 ついでに、地球のマントルなどが持つ、地熱。
 など。
 地球のマントルの地熱の大元は、宇宙空間を漂っていた塵などが持っていた運動エネルギーが元のはずだし。
 太陽光のエネルギーの元は、太陽内部で起こっている、核融合によるもので。
 アインシュタインが言うところの、「質量」が、「エネルギー」に変換された物。
 なので、太陽の質量は、熱を発するたびに、小さくなっている(太陽が軽くなっている)んです。

 訳分からん?

 まあ。
 その辺にある、黒い物体が、無限にテラヘルツ波を発し続けるのは。
 どこからか、元は存在しないエネルギーが魔法のように取り出されているからではなく。
 太陽光によって、熱を維持できる、その太陽光が、テラヘルツ波の供給源だということなんです。
 ほっ。
 エネルギー保存の法則が、破られなかった。

 例えば、山深いどこかで、無限に光を発する石があったとしたら。
 その石が発する放射線が元だったりして。
 その放射線のエネルギー源は、「核分裂」によって、発生したエネルギーで。
 核分裂でも、石の質量は減ります。
 軽くなっているんです。

 質量がエネルギーに変わる。
 鉄よりも小さい原子では、核融合と言って、原子核がくっついて大きくなると、元の質量より小さくなり、鉄よりも大きな原子では、核分裂と言って、原子核が割れて小さくなると、元の質量より小さくなる。
 その質量が、エネルギーに変換されているのです。

 一見不思議でも。
 背後に何か、ちゃんとしたしくみがある。
 エネルギーが、何もないところから、急に取り出される魔法のような仕組みはないってことなんです。

 そんなこんなで。
 無理無理、なんかありがたい結論で結ぼう。

 太陽光の恵は、ありがたいってことで。
 めでたしめでたし。(^^;