ちょっと、この頃、内面のカミングアウトで暴走していたので、その辺の公開をやめました。
こういうことを考えてしまうのは、背後にあるのは、「今を変えたい」って、自分で思っている時なんだよねえと、自問自答する。
本当に、人のありようは、かなりの幅があって。
例えば、反社会的だったり、極端に破滅型だったりするのはまずいとして。
こうでなくてはならないという物は、ないと思うんですよね。
今回、いろいろ考えてしまって、あらためてそう思った。
友田明美さんの「子供の脳を傷つける親たち」という本を読んで。
ホンマに、考えてしまった。
とても気になった部分というのは、「マルトリートメント(不適切な養育)を経験した子供がみな、社会的不適応に陥ったり、心の病に陥ったりするわけではなく」、というところです。
困難な状況に置かれても、上手く順応できる能力、あるいはその過程や結果のことをレジリエンス「精神的弾力性」「精神的回復力」と呼ばれるらしい。
因子は、「個人的な特性」として、高い知能、自己肯定感、前向きな気質など、「家族的な特性」として、温かな家庭、連帯感、両親の積極性など、「地域的な特性」として、社会のネットワークの充実などが上げられますと、書かれている。
今までは、問題を抱えるケースに関する調査研究が主だったけれど、レジリエンスが高いグループに関しても研究対象として、注目されているようです。
ホンマに、そこは必要だと思います。
いろいろ、いつものように考えが暴走していたのですが。
一つ思いつくと、その思い付きを打ち消すような「反例」に気づき。
考えが、あちらへこちらへと暴走します。
どうにも、とことん考えないと気になるし、中途半端に置いておく方が、精神衛生面で、返って良くないというか。
いや、自分自身のことであっても、どこか他人事のように「知ってみたい」好奇心のようなものが、あるんですね。
蓋をしてしまう方が痛くないというのに。
自分自身で気づいて行ったものを、頭の中のあちこちに、別々の要素として置いていたりします。
今回、それをシャッフルしていると、やはり思うのです。
シンプルな結論に行きつきます。
「気分転換がうまいこと」
これが、重要だと思います。
どうしても、考え込む質です。
DNAに書かれていると思う。
父も、とにかく考え込む質でした。
母に言わせると、「考え過ぎてなかなか動かれへんとこがあって、見とってもいじいじしよった」んだそうです。
へえ、感覚の人の母が、そういう風に思っていたんですねえ。
母は、あまり小難しく考えない人です。
でも、そんな風に考えていたんやなあと思う発言を、この頃、良く聞きます。
感覚の人の母と、ウザいくらいに理論派の娘。
考え方のギャップなんかで、ケンカも多かったです。
最近、介護関係で、私が母にやさしくしているからか、そんな話を聞く機会が多い。
あ、話が逸れました。
そう、「考え込む」です。
最近買って、たまたま読んでいる本が、『「すぐやる人」と「やれない人」の習慣』という本なのですが。
この本にも、考え過ぎるだけでは、結果がついてこないと書かれています。
「考えるために動く」のが良いと。
昔、会社員だった頃、思ったことがある。
嫌なことがあって、頭の中を、同じことがめぐり続けた時があった。
まあ、良くありましたけど。
特に若い頃。
そんなときでも、朝が来て、会社には行かないといけない。
電車に乗ると、混んでいて、隣のおっさんの整髪料が臭くて、などなど、他のストレスに遭遇する。
考えにとらわれ過ぎていては、いくら慣れた道でも、さすがに危ない。
そうして、通勤が始まることで、考えに「中断」が入ることが、救いだなあって。
それから、困りごとにあった時。
自分なりの解決法は、「本を読む」ことでした。
経験豊富な人に相談するっていうのでない所が、私ですよね。
人との関わり薄いからなあ。
でも、この本を読むというのも、結局、他者の意見に接することな訳で。
自分の頭の中だけで考えていては、解決は難しいのだと思います。
私も、今さらですけど、人に相談するみたいな部分ももっとあったらなあと思います。
ただ、あんまり、自分の中で重い話は、人に相談しにくいですよね。
あ、でも、この頃は、生徒さんに愚痴を聞いてもらっている。
おいおい。(^^;
そうそう、ちょっと面白いのが。
病院で働いている知り合いがいましてね。
つい、ちょこちょこっと、連絡したりします。
便利ですよね、SNSみたいなの。
そうすると、何やそうなんや、と、他の視点から見た意見が聞けて。
モヤモヤが解消することも多いです。
人の視点を借りたり、人に相談したり、人の意見を聞いたり。
結局、人は人と関わらないと、困りごとは解決しないんだと思います。
そして、この一年の介護。
非公開にした中にも、何度も書きましたが。
介護は否応なく、向こうから物事がやって来て。
何とかしないといけないことが目の前にあると、逃げれはいられない。
事態はどんどん変化していき。
千切っては投げ千切っては投げみたいなことになっている。
それって、「走りながら考える」とか、「動くことで考えるヒントが得られる」とかいう状態が起こっていたということで。
考え込んで動けない傾向のある私にとっては、状況によって、強制的に動かされることで、何かを考えるに当たっても、袋小路から抜けられないという状態を回避できたってことやもんねえ。
そうやって人と関わることで、眠っていた何かが起こされる気がする。
で、ヘタレだと思っていた自分が、意外にも頑張れると、少し、自分に自信がつく。
「レジリエンス」が高い人が、どんな方法で、困難を切り抜けたのか。
それは、とても知りたい。
でも、方向として、そういうことではないのかなあと思う。
もっと広い、もっと多様な、状況や考え方に触れること。
人と関わること。
一つの物に囚われ過ぎないこと。
自分自身に深く問いかける瞬間も、必要なんだと思う。
でも、「内向き」な発想では、物事は解決できないと思う。
問題を抱えている自分だったり、問題を抱えている小さな世界があったとして、その外側に世界があることを、ちゃんと分かっていることが、自分を救う気がする。
価値観も、遠い世界ではまた違い、時代が違えば違う。
「今」は、長い歴史のつながりの一点に過ぎないから、「今」がこうであっても、過去は違ったし、未来永劫、その状況が続く物ではない。
そういう、物事を俯瞰して見る視点が、大切な気がするのです。
考え込む質。
それを、まるきり否定する気にもなりません。
これはこれで、職人的気質として、レベルの高い仕事をするために、必要なものだと思います。
ま、ただ。
いまどきは、職人的気質が求められる局面が少ないというか。
職人的気質の評価が低いというか。
「こだわりが強い」ことは、敬遠されがちな空気感を感じます。
考え込む質でない人の方が、今の世の中では、適応力が高い傾向があるようにも思うから。
でもなあ。
絶対、滅びるとまずいと思う。
以前、田中耕一さんがノーベル賞を取った時、朝のワイドショーみたいなのでMC(っていうんですかね)の峰竜太が、「いまどき、こういう人もいるんですねえ」と、コメントをしていて。
まあ、悪い意味で言ってないんだろうと思ったけど。
プチ切れしました。
「あんたなあ。理系には、いっぱいおるで。空気を読むのが商売のそっちの業界はどうか知らんけどな。」
大きな水槽に、海水魚を飼っている、いわばウォッチング派のダイバーの敵みたいな奴に、言われたくないわ! って、思った。
「一番じゃなきゃいけないんですか」といわれてみたり。
「これからは、基礎研究ではなく、応用研究に力を入れる」といわれてみたり。
職人的なハイレベルの仕事が、やっぱり軽視されている時代だなあって、思う。
何か、悔しいですけど。
またまた、話が逸れました。
そうそう。
シンプルな答えに至ったんです。
「レジリエンスが高い」人は、結局、「気分転換がうまい」人、なんじゃないかって。
下手な人もいますから。
下手な人は、下手な人で、その短所が長所になる気質でもあるので、滅びずに、回復してほしいです。
最近、出会ったんです。
そんな環境で生き抜いて、よくぞこんな風になりはったなあっていう人に。
人間の出来の違いを見せつけられたようで、ちょっと、凹みました。
まあ、しょうがないか。
で、あらためて、今考えるとね。
その人は、どうも、「動く質」のようです。
ああ、やっぱりなあ。
考えるために動く。
いや。
そもそも、『「すぐやる人」と「やれない人」の習慣』という本のタイトルに目が留まったのは、その違いを見せつけられたからかも知れない。
とまあ。
そんなこんなで。
なんだかねえ。
もやっと。
「今を変えたい」
そんな自分がいます。
こういうことを考えてしまうのは、背後にあるのは、「今を変えたい」って、自分で思っている時なんだよねえと、自問自答する。
本当に、人のありようは、かなりの幅があって。
例えば、反社会的だったり、極端に破滅型だったりするのはまずいとして。
こうでなくてはならないという物は、ないと思うんですよね。
今回、いろいろ考えてしまって、あらためてそう思った。
友田明美さんの「子供の脳を傷つける親たち」という本を読んで。
ホンマに、考えてしまった。
とても気になった部分というのは、「マルトリートメント(不適切な養育)を経験した子供がみな、社会的不適応に陥ったり、心の病に陥ったりするわけではなく」、というところです。
困難な状況に置かれても、上手く順応できる能力、あるいはその過程や結果のことをレジリエンス「精神的弾力性」「精神的回復力」と呼ばれるらしい。
因子は、「個人的な特性」として、高い知能、自己肯定感、前向きな気質など、「家族的な特性」として、温かな家庭、連帯感、両親の積極性など、「地域的な特性」として、社会のネットワークの充実などが上げられますと、書かれている。
今までは、問題を抱えるケースに関する調査研究が主だったけれど、レジリエンスが高いグループに関しても研究対象として、注目されているようです。
ホンマに、そこは必要だと思います。
いろいろ、いつものように考えが暴走していたのですが。
一つ思いつくと、その思い付きを打ち消すような「反例」に気づき。
考えが、あちらへこちらへと暴走します。
どうにも、とことん考えないと気になるし、中途半端に置いておく方が、精神衛生面で、返って良くないというか。
いや、自分自身のことであっても、どこか他人事のように「知ってみたい」好奇心のようなものが、あるんですね。
蓋をしてしまう方が痛くないというのに。
自分自身で気づいて行ったものを、頭の中のあちこちに、別々の要素として置いていたりします。
今回、それをシャッフルしていると、やはり思うのです。
シンプルな結論に行きつきます。
「気分転換がうまいこと」
これが、重要だと思います。
どうしても、考え込む質です。
DNAに書かれていると思う。
父も、とにかく考え込む質でした。
母に言わせると、「考え過ぎてなかなか動かれへんとこがあって、見とってもいじいじしよった」んだそうです。
へえ、感覚の人の母が、そういう風に思っていたんですねえ。
母は、あまり小難しく考えない人です。
でも、そんな風に考えていたんやなあと思う発言を、この頃、良く聞きます。
感覚の人の母と、ウザいくらいに理論派の娘。
考え方のギャップなんかで、ケンカも多かったです。
最近、介護関係で、私が母にやさしくしているからか、そんな話を聞く機会が多い。
あ、話が逸れました。
そう、「考え込む」です。
最近買って、たまたま読んでいる本が、『「すぐやる人」と「やれない人」の習慣』という本なのですが。
この本にも、考え過ぎるだけでは、結果がついてこないと書かれています。
「考えるために動く」のが良いと。
昔、会社員だった頃、思ったことがある。
嫌なことがあって、頭の中を、同じことがめぐり続けた時があった。
まあ、良くありましたけど。
特に若い頃。
そんなときでも、朝が来て、会社には行かないといけない。
電車に乗ると、混んでいて、隣のおっさんの整髪料が臭くて、などなど、他のストレスに遭遇する。
考えにとらわれ過ぎていては、いくら慣れた道でも、さすがに危ない。
そうして、通勤が始まることで、考えに「中断」が入ることが、救いだなあって。
それから、困りごとにあった時。
自分なりの解決法は、「本を読む」ことでした。
経験豊富な人に相談するっていうのでない所が、私ですよね。
人との関わり薄いからなあ。
でも、この本を読むというのも、結局、他者の意見に接することな訳で。
自分の頭の中だけで考えていては、解決は難しいのだと思います。
私も、今さらですけど、人に相談するみたいな部分ももっとあったらなあと思います。
ただ、あんまり、自分の中で重い話は、人に相談しにくいですよね。
あ、でも、この頃は、生徒さんに愚痴を聞いてもらっている。
おいおい。(^^;
そうそう、ちょっと面白いのが。
病院で働いている知り合いがいましてね。
つい、ちょこちょこっと、連絡したりします。
便利ですよね、SNSみたいなの。
そうすると、何やそうなんや、と、他の視点から見た意見が聞けて。
モヤモヤが解消することも多いです。
人の視点を借りたり、人に相談したり、人の意見を聞いたり。
結局、人は人と関わらないと、困りごとは解決しないんだと思います。
そして、この一年の介護。
非公開にした中にも、何度も書きましたが。
介護は否応なく、向こうから物事がやって来て。
何とかしないといけないことが目の前にあると、逃げれはいられない。
事態はどんどん変化していき。
千切っては投げ千切っては投げみたいなことになっている。
それって、「走りながら考える」とか、「動くことで考えるヒントが得られる」とかいう状態が起こっていたということで。
考え込んで動けない傾向のある私にとっては、状況によって、強制的に動かされることで、何かを考えるに当たっても、袋小路から抜けられないという状態を回避できたってことやもんねえ。
そうやって人と関わることで、眠っていた何かが起こされる気がする。
で、ヘタレだと思っていた自分が、意外にも頑張れると、少し、自分に自信がつく。
「レジリエンス」が高い人が、どんな方法で、困難を切り抜けたのか。
それは、とても知りたい。
でも、方向として、そういうことではないのかなあと思う。
もっと広い、もっと多様な、状況や考え方に触れること。
人と関わること。
一つの物に囚われ過ぎないこと。
自分自身に深く問いかける瞬間も、必要なんだと思う。
でも、「内向き」な発想では、物事は解決できないと思う。
問題を抱えている自分だったり、問題を抱えている小さな世界があったとして、その外側に世界があることを、ちゃんと分かっていることが、自分を救う気がする。
価値観も、遠い世界ではまた違い、時代が違えば違う。
「今」は、長い歴史のつながりの一点に過ぎないから、「今」がこうであっても、過去は違ったし、未来永劫、その状況が続く物ではない。
そういう、物事を俯瞰して見る視点が、大切な気がするのです。
考え込む質。
それを、まるきり否定する気にもなりません。
これはこれで、職人的気質として、レベルの高い仕事をするために、必要なものだと思います。
ま、ただ。
いまどきは、職人的気質が求められる局面が少ないというか。
職人的気質の評価が低いというか。
「こだわりが強い」ことは、敬遠されがちな空気感を感じます。
考え込む質でない人の方が、今の世の中では、適応力が高い傾向があるようにも思うから。
でもなあ。
絶対、滅びるとまずいと思う。
以前、田中耕一さんがノーベル賞を取った時、朝のワイドショーみたいなのでMC(っていうんですかね)の峰竜太が、「いまどき、こういう人もいるんですねえ」と、コメントをしていて。
まあ、悪い意味で言ってないんだろうと思ったけど。
プチ切れしました。
「あんたなあ。理系には、いっぱいおるで。空気を読むのが商売のそっちの業界はどうか知らんけどな。」
大きな水槽に、海水魚を飼っている、いわばウォッチング派のダイバーの敵みたいな奴に、言われたくないわ! って、思った。
「一番じゃなきゃいけないんですか」といわれてみたり。
「これからは、基礎研究ではなく、応用研究に力を入れる」といわれてみたり。
職人的なハイレベルの仕事が、やっぱり軽視されている時代だなあって、思う。
何か、悔しいですけど。
またまた、話が逸れました。
そうそう。
シンプルな答えに至ったんです。
「レジリエンスが高い」人は、結局、「気分転換がうまい」人、なんじゃないかって。
下手な人もいますから。
下手な人は、下手な人で、その短所が長所になる気質でもあるので、滅びずに、回復してほしいです。
最近、出会ったんです。
そんな環境で生き抜いて、よくぞこんな風になりはったなあっていう人に。
人間の出来の違いを見せつけられたようで、ちょっと、凹みました。
まあ、しょうがないか。
で、あらためて、今考えるとね。
その人は、どうも、「動く質」のようです。
ああ、やっぱりなあ。
考えるために動く。
いや。
そもそも、『「すぐやる人」と「やれない人」の習慣』という本のタイトルに目が留まったのは、その違いを見せつけられたからかも知れない。
とまあ。
そんなこんなで。
なんだかねえ。
もやっと。
「今を変えたい」
そんな自分がいます。