「ガラスのさかな」のとんぼ玉じゃないタワゴト

とんぼ玉作家のブログが、いつしか健康ブログに。
なので、健康ネタを独立させました。

さよなら、パウダー

2018-01-22 00:04:35 | その他
 一昨年の夏から、メイクに目覚めた。
 糖質制限で、マイナス16キロ減を実現し、20代の体重に戻った物の、自撮り写真がめっちゃ残念だった。
 そこで、梅田の写真スタジオで、メイクをしてもらってプロフィール写真を撮ってもらった。
 「こんなにしてもエエんや」って、思った。

 メイクを始めて、ビューラーを使い始めたら、一週間で二重になった。
 そこで、もう一度、二重になった記念で、写真スタジオに行ってみたのだが。
 残念な結果になった。
 分厚いファンデと、つけまに阻まれて、年季の浅い私の二重が、二重にならず、目が開いてなかった。
 これでは、一重の時と、大差ないやんか。
 「二重になった記念」だった筈なのに。(TT)

 一部の生徒さんは、心から、「きれいに撮ってもらっている」と言って下さり、一年半前の写真よりは、ずっと反応が良かった。
 まあエエか。
 ただ、スルドイ生徒さんが、上手いこと、言ってくれた。
 「先生よりキレイなオバサンが写っとる。先生、もっと元気で若い。」
 分かってくれるかい?
 そやねん。
 何か、キャラ違うねん。
 私は、私のままのキャラで、2~3割増しの上げ底感のある撮りにしてほしかった。
 せっかくやし、パチッと目が開いた状態で。
 「今の私」を、残しておきたかった。
 残念。(TT)

 ただ、そういう、私史上最高の写真は、進歩を阻むらしい。
 でもなあ・・・・・。


 という訳で。
 「さよなら、パウダー」なんである。
 テレビで、メイクの話をしていた。
 ちょうど、いろいろ気になるお年頃の人を対象にした企画で。
 そこで、パウダーにさよなら的な表現をしていて、「賛成やわ」って思った。
 でも、使ってるやん、パウダー。
 「パウダーファンデ」は使ってない。
 でも、他のパウダー、使うんやな。
 何か、私のとは違うんやわ。

 あちこち気になるお年頃である。
 たるみとか、張りのなさとか、小じわとか、乾燥とか、ほうれい線とか。
 デブだったあの頃。
 全く気にしてなかった。
 乾燥も小じわもあったはずなのに。
 脂肪が押し上げていたので、ほうれい線とかは、マシやったんやろうか。(^^;
 でも、そういう問題でもないな。
 どうでもよかったんやと思う、あの頃は。

 そう、なんてったって、乾燥と小じわですよ。
 「さよならパウダー」のその理由。

 そもそも、メイクの参考にした本は、「女子アナメイク」という本で。
 メイクの前に、水分をたっぷり含ませた肌に、オールインワンジェルみたいなクリームでBBくりーむを更に溶いて伸ばしたものを、ベースに塗る。
 厚塗りをしないという物。
 他には、アイメークは、ブラウン系のみなど。
 素肌が美しいんだろうなあとか、すっぴんもきれいなんだろうなあと思わせる、メイクをしているけどメイクを感じさせないメイクという物で。
 実際、生徒さんに、「先生、肌がもともときれいやから」と言われた。
 文脈を考えると、本気でそうおっしゃったんだと思う。
 「私はそうではないから、そんなメイクはとても無理」的なニュアンスだった。
 これは、まんまと、狙いが当たっているということになる。

 ところがですよ。
 最近、冬場で、乾燥がひどいと、夕方には、目の下の小じわがひどいことになっている。
 これは・・・・・・。
 プレストパウダー(粉おしろい)がイカンのではないだろうか?
 リキッドファンデやBBクリームで、ベースを仕上げると、大概、仕上げに、粉おしろいをはたく。
 この頃のメイクと、バブルの頃のメイクで、違うなあと思うことの一つが、肌の仕上げ方。
 昔は、「白磁のような肌」が良いとされていた。
 きめ細かくて、マット感がある、テカっていない肌が、上品とされた。
 ところが、最近は、ツヤ感が重視されている。
 まあ、脂で、テカっているのとは、ちょっと違うツヤ感ではあるけど。
 マットな肌に仕上げようと思うと、パウダーファンデかBBクリームでベースを作ると、最後の粉おしろいは必須ということになる。
 でも、最近、朝一に、メイクの仕上げに粉おしろいをはたくと、せっかく薄付きの印象に出来上がった物が、一気に、塗ってますだ感を増す気がするのですよ。
 要らんな。
 実際、朝一のメイク直後の質感を見ても、ない方が良い。

 で、その勢いで、今朝、粉のアイシャドウを使うのも、やめてみた。
 我流ではあるけど、目元用コンシーラーを使っているので、コンシーラーで白っぽく仕上がるので、白いハイライトを省略してもまあ、許せる気がする。
 ブラウンの部分は、「ヴィセ リシェ アイクレヨン ブラウン」というのを使って、少し面積を出してぼかすことで、ブラウン系のパウダーのアイシャドウを省略した。
 その上から、リキッドのアイラインを入れた。
 良い!

 後は、アイブロウは、パウダーで。
 眉毛に、BBクリームがダマになって固まりやすいので、その上からパウダーで書いたものを、BBクリームがキャッチしてくれる。濃いめに付いてしまったBBクリームが、下塗りの役目をはたして、ちょうどいい感じ。

 マスカラは、フィルムタイプで伸びの良いのを見つけてあるので、それで最初に全体を塗って、乾ききる前に立ち上がりを強力にキープしてくれるウォータープルーフタイプのを見つけてあるので、それで部分的に立ち上げる。

 チークは、「ヴィセ リシェ リップ&チーククリーム」のみ。
 女子アナメイクでは、この後、パウダータイプを使うと書かれているけど、特に必要ないと思う。
 ただ、このリップ&チーククリーム、ケースの蝶番の部分が、買ってすぐに壊れた。
 こういうところは、残念。ケースに原価をかけてないってことやんな。

 さて、夕方、家に帰って来て。
 ふと思い出してチェック。
 全然違う!
 乾燥感と、小じわ感が、全然違う。
 かなり、防げている。

 とまあ、そんな訳で。
 アイブロウ以外の、全てのパウダーと、しばらくサヨナラして、様子を見てみることにしたのである。



 実は、20代のころ、メイクが嫌いだった。
 というのは、当時の定番であるパウダーファンデを使うと、汗をかいた時のドロドロ感の汚さが、嫌で嫌でたまらず、こんなことなら、何にも塗ってない方がマシなのでは?って、いっつも思っていた。
 一番最悪なのは、鼻の下ですね。
 ホンマに、汚い。
 見たくない。
 その気持ちは、今も変わらない。
 あんな汚い落ち方をするなら、塗らない方がマシ。

 今の私に言わせても、パウダーファンデが、なぜこの世に未だに存在しているのか、理解できない。
 断然、私は、BBクリーム派だ。



 何故、汚いのか?
 それはね。
 パウダーの粒子が荒いから。
 ここら辺から、リケジョ崩れ的、論理的分析の本題なんですけど。
 ざらざらの粒子が、肌の凸部からは、きれいに剥がれ、毛穴、小じわ等、あらゆる凹部に、引っかかって、泥汚れみたいになる。
 まあ、大きな粒子を使いたい気持ちも分かる。
 絵具や、筆記用具や、プリンターのインクで言えば。
 パウダーの大きなものは、いわゆる「顔料インク」にあたり、不透明感が強く、別の言い方をすると、「カバー力」がある。
 シミやくすみを隠したいということであれば、カバー力が欲しいってことになる。
 ただ、間違いなく、厚化粧感は出る。
 間違っても、素肌がきれいだと、思ってもらえることはないと思う。

 さらに、粒子が細かいはずのプレストパウダーでもダメなのは、何故か?
 画材で言えば、パステルと一緒で、粉を定着させるためのメディウムが、ない状態だから。

 もっと分かりやすく言えば、チョコですね。
 BBクリームは、チョコ本体に、チョコレートコーティングした状態。
 プレストパウダーや、パウダーファンデは、コーテイングの上から、ココアをかけた状態。
 泥団子の仕上げに、細かい土をまぶして、きめ細かく仕上げたのと一緒で、層としてはかなり厚付きになるし、場合によっては、層の厚さにムラが出る。
 朝一の仕上げの段階でも、塗ってますだ感が出るというのに、夕方、乾燥が進んでくると、ココアがキャッチできずに、浮き上がって剥がれ、シワなどの低いところにたまる。
 どうしようもなく、皺が強調されるし、乾いているのが、見え見えや。


 とはいえ、しっかり塗らなかったら、日焼け、くすみ、シミが、カバーできないんじゃないのか?
 って疑問はありますよね。
 私の個人的な感覚ですが。
 BBクリームでも、SPFの方ではなくて、PAの値が大きい物を選ぶと、良いと思うんです。
 PAが高い物は、紫外線予防、特に肌の深層に達して、コラーゲンの網目を破壊するUVB対策には、欠かせないってところですが。
 私の場合、薄くつけるので、果たして、どれほど紫外線対策になっているのかは、謎です。
 はっきりと確かめたわけではないのですが。
 PAの値の大きなものは、可視光線域の紫系の色の反射も強い気がします。
 日焼け止めクリームを塗ると、白塗りっぽくなるのと、一緒だと思います。
 この白さで、日焼けやくすみ感を、幾分カバーできる気がします。
 わざわざ、肌色の壁(粒子の大きなパウダーの層)を、そこまで頑張って厚く塗らなくても。


 人間の肌を考えた時、人間の肌は、肌表面では、光を「全反射」していないと思います。
 幾分、肌の奥にも、光は届いていて、少し深い所からの反射もあると思います。
 極端な例えをすると、「落雁」と、「ういろう」の違い。
 半透明というと言いすぎですが、少し深い所からの反射があるというのは、「ういろう」の状態で、それが、肌のみずみずしさや透明感を感じさせているんじゃないのかなあ。
 あまりにも、カバー力の強い粒子の大きな粉を、ガッツリ塗ってしまうと、「全反射」の状態を作ってしまう。
 それが、厚塗り感や、塗ってますだ感を、感じさせる。
 人工的な、厚塗りの漆喰の壁みたいに見せてしまうんじゃないだろうか?

 ところが、紫外線を反射し、可視光域の紫を反射する成分が入っているBBクリームや日焼け止めはどうかというと。
 紫外線はカットしつつも、可視光域の光は、幾分、透過しているんじゃないのかなあと思う。
 だから、少し深い所での反射も起こる。
 全反射とは、質感が違って見えるんだと思います。

 いくら、黄色っぽい、青っぽいといったような、地肌の色味を調整しても、全反射をしてしまえば、自然な地肌の持つ透明感は、失われてしまう。
 と、思うんですよね。


 で、「先生より、キレイなオバサンが写っている」なんですよ。
 理由は、いろいろあると思う。
 前髪が伸びた状態で行ってしまったがために、髪型が、カチコチに固められていたこともそう。
 ↑最初の予約が、母のシャントの手術の日に当たってしまったため、キャンセル
 ↑↑それから、49日後(7週間後)にリベンジしたので、伸びまくってました
 でも、もう一つは、この全反射問題ですね。
 厚塗り感が、めっちゃしてます。
 ストロボ光が、上手く反射しつつ、幾分透明感を残しつつ、くすみ感を消す、そういう撮影用のファンデがあれば良いんですけどね。


 ちなみに、プチプラの化粧品でメイクをしているのBBクリームの定番は、「コーセー ファシオ BBクリーム モイスト」です。
 今、前に買った他のもあるので、不本意ながら、前に買った物を少量混ぜて、2色ブレンドですが、使い切ったら、この一種類だけで行こうと思っています。
 もう一つPA値が高いのもあるのですが、美白効果のある化粧品に、以前アレルギーを起こしたことがあるので、BBクリームもオールインワンジェルも、あらゆるもの、「美白」と書かれた物が怖いんです。


 化粧水は、水溶きグリセリン、水対グリセリン、おおよそ10対1の物を、3日ほどで使い切れるだけ、こまめに混ぜています。
 3日ほどで使い切れたら、防腐剤も入れなくても大丈夫だし。
 これなら、絶対、アレルギーは起こらないし、お安いし。


 あ、書き忘れてましたが。
 「ヴィセ リシェ クレヨン アイカラー」にも、もちろん、茶色い粒子は入っていますが、「メディウム」に当たる物がしっかりしていて、ちょっとオイリーな感じで粉をしっかりキャッチしていてくれて、滑らかに付いています。
 もともと、これの緑を使っていたのは、アイラインの下地としてで、オイリー感があって、リキッドアイラインの滑りが良くなって書きやすいから。緑だったのは、茶色の補色に近いので、ダークブラウンのアイラインの下地に使えば、アイラインの仕上がりを、より黒に近く見せつつ、黒でない色に出来そうだったから。


 とまあ。
 そんなこんな。
 「さよなら、パウダー」宣言。
 もっと、潤いのある若い肌なら、パウダーOKなんですかねえ?

 それにしても。
 この年にして、こんなにまじめにメイクを始めるなんて。
 若い頃の私が知ったら、どれほどびっくりするだろう?
 だってさ。
 やってみれば、意外と上手かったんやもん。(^^;


認知のゆがみについて、ふと、考えてしまったのだった

2018-01-20 03:30:59 | その他
 本題の前に。

 駄々をこねる母と、意地の張り合いをしてしまった。(^^;
 母をパジャマに着替えさせるとき、ズボンを下ろしたり、はいたパジャマのズボンを上げたりするとき、車椅子から立ち上がってもらうのですが。
 本当は、要領良くすると、それなりに立ち上がれる母ですが、支えにする手すりの高さや、足の位置や、前かがみの姿勢を作りやすい状況なのか、等によって、うまく誘導しないとできなかったりします。
 「足は、もうちょっと後な」
 「足の場所よりも前に、体が半分出てな」
 とか、誘導するのですが。
 虫の居所が悪いと、「立たれへん。もっと手伝うて。」と、駄々をこね始める。
 私もムキになって、「あんな、私の力では、重たいアンタを立たされへんねん。ちゃんとしたら、一人で立てるやろ。」と、理詰めで、頑張りを要求してしまう。
 で、しばらく押し問答。
 「もうほんなら、そのままの格好で、ランちゃんの散歩から帰って来るまで、待っとく?」
 「何でよ、こんなかっこのまんま、放って行ってまうんか?」
 まあ、上はパジャマ着ているし、ズボンは脱げてないし、エアコンは付いているし、寒くはない。
 「夜、どんどん寒なるから、早よう行かな、寒いのんは私の方やからな。」
 「ランちゃんなんか、死んでもたらエエねん。」
 おまえ~!
 と、本当に放ったまま、自室にランの散歩仕様の服に着替えに行った。
 で、一旦、母のところに戻り。
 「ランちゃんの散歩の前に、着替えて、ベッドに行く?ランちゃんの散歩から帰るまで、ここで待っとく?」
 と、聞いてみる。
 「今着替える」
 だそうだ。
 意地の張り合いっこが、不毛なのは、重々分かってはいる物の。(^^;

 「手伝うて」という、母の主張を聞き入れて、いつもよりやや強めにズボンの後ろを引き上げたら、自力で立ったんだろうなあ、と思う。
 要は、自分の言い分を聞いて、自分にかまってもらえる、気にかけてもらえることで、やる気を出すねん、っていう意味なんだろうなあと、分かっちゃいるけど。
 時々、ムキになる私がいる。(^^;
 まあ、駄々っ子(母)と、ちょっとドライな母(私)って関係に、なっている気がする。

 着替えさせて、ベッドに移譲させて、ベッドに寝かせる。
 母の自力、8割、私の手伝い、2割。
 で、横になった後、頭側にもうちょっと移動してほしい時、ベッドの頭側に立って、母の両脇を持って、引っ張る。
 勢い余って、ベッドに軽く頭をぶつけた母。
 「痛いやんか。」
 「ごめんごめん。」
 悪気はなかったんだけど、つい、勢い余ったのさ。(^^;
 大げさに痛がって、さっきの復讐に出ようとする母ですが。
 先に私が笑い転げてしまい、母の復讐は、失敗に終わる。

 とりあえず、入院前の、8割がたの機能は戻っているので、後は、繰り返しで、足の力が付いてくるだろうと思う。
 介護施設の理学療法士さんも、がんばって下さるらしいので。
 ↑理学療法士さんにも、糖質制限を伝授してしまいました


 本題ですが。
 前置き、長!

 認知のゆがみについて、ふと、考えてしまった。
 最近知り合ったある人が、言っていた言葉として、前にも書いていたと思うのですが。
 「私たちくらいの年になると、誰でも、一つくらいは発達障害的な認知のゆがみを持っているらしいですよ。」
 いやいや、深いですね。

 とある人が、実家の兄弟の嫁が、自分の実母が生前やっていたレベルで、パーフェクトに家の掃除をしないことに、不満を抱いて干渉する。
 実母のように、パーフェクトにきれいにすることを要求するのは、当然と考える。
 その権利は、自分にあると思っている。
 第三者から見ると、違うと思うなあと、思う。
 どんなに汚くても、そんなことを強いる権利は、ないと思う。
 それを当然と思うのは、ちょっと、支配的な考え方なんじゃないだろうか?
 そもそも、その実家の実母という人のキレイのレベルが、また高かった。
 世の中の人の、どれほどが、そこまできれいにしているだろうか?
 自分自身も、家をきれいにしている人なので、そう考えることに、何の疑問も持っていない。
 いや。
 そこを言われると。
 私、まずいもんな。
 しかも、介護してたら、車いすを上げるから、土が家に上がるけど。
 いくら対策しても、パーフェクトは、無理やしな。

 彼女、今も、両親は、完璧だと思っている。
 そうなんだろうか?
 で、後から思ったんです。
 彼女が結婚するときに、彼女の夫の職業について、両親がめっちゃ干渉し、いわゆる安全で無難と両親が考える内勤の仕事を探して転職させたよな。
 その後、何年もたってから、彼女の夫は、元の職種に戻った。
 戻った時に、私なら、干渉したことを、ちょっと申し訳なく思っんじゃないかと思う。
 私なら、両親からの干渉が、支配だと感じて、もっと反発しただろう。
 けっこう、干渉の多い、父親だったんじゃないのかなあと思う。
 でも、彼女は、「親は私のことを思って言ってくれている」と感じている。
 結果的に、良い悪いは置いておいて。
 彼女は、彼女の父の考え方が、ある意味支配的であったとは、感じてはいない。

 だからか。
 彼女が、兄弟の嫁に対して、支配的な発想をしてしまうことが、それが支配的であると気づいていないのは。
 ある意味、認知のゆがみやな。

 自分の親の支配的な部分を、支配的と感じて、真っ向から反発して、酷い言葉の応酬になって、傷つくのが、私のパターン。
 自分の親の支配的な部分を、そのまま受け入れて、自分も支配的な発想をしてしまったときに、それに気づかないのか、彼女のパターン。

 どっちが、幸せなんでしょうかねえ。
 気づいて、にこにこ笑いながら、逃げるのがうまいっていうのが、一番賢い気はする。
 そんな、賢い人でありたかった気がする。
 今後は、ぜひ、そうありたいと思うこのごろです。
 そんなに上手くは、なかなかやれないのが人間なんでしょうけど。(^^;

 できれば、そうありたい。
 ホンマに。(^^;

母が、退院しました

2018-01-17 02:54:18 | その他
 母が、退院しました。
 今日は、介護施設でお泊りです。
 なので、従姉と焼肉に行きました。
 今、行っておかないと、機会を逃しそうだったので。
 母の入院は、ほぼ2か月に及びました。
 予想外の長さでした。
 ただ、2か月も入院していたのに、入院前の機能に近い所まで回復して退院できたことは、嬉しいことです。
 最初は、シャントの閉塞(透析のために作ってある、透析の針を2本差すための血管が、血栓で塞がってそこから透析できなくなった)によって、北播磨総合医療センターに入院。
 循環器内科で、カテーテルで通らないかやってもらったけど、血栓で詰まった範囲が広すぎて無理でした。
 そのあと、心臓血管外科で、新しいシャントを作ってもらった。
 で、そこから、2週間ほどで、回復期の病院に転院。
 最速なら、人工血管を使っていれば、手術から2週間で、シャントが使えるようになるのだそうだ。
 それでも、人工血管はトラブルが多いらしく、自分の血管で作れるうちはそうしたほうが良いということで、自分の血管でシャントを作った。
 その場合、傷口が塞がって、血管周りが癒着して安定した場所に固定された状態になるのに、しばらくかかる。
 さらに、今回は、透析で水分の排出が効率的にできてなかったせいで、血管周りにむくみがあって、安定的に針がさせるようになるまで様子を見ていたので、手術から、1か月と5日かかった。
 そこへ、年末がやって来て。
 年末年始と重ならなかったら、シャントが使えるようになってから、一週間かからず退院できたはずだった。
 思いがけず、長くかかりました。

 手術を担当した先生から説明を受ける際、長くかかることが不安だと言ったんですけどね。
 母の場合は、ホンマに時間がかかった。
 本当なら、2か月も入院していたら、それで寝たきりになりかねない。
 それなのに、車いす生活に何とか戻れたのは、回復期の病院、小野病院が、リハビリをちゃんとしてくださったおかげですね。
 だから言うたやん。
 長くかかるのが不安やって。
 今回の自前の血管のシャントは、針を射せる範囲が狭いので、上手な人でないと、難しいらしく。
 良かった。今までの病院で針を射せる人がいて、今までの病院で透析が受けられて。
 手術をしてくださった先生は、当然、自前の血管の方を選ぶべきという空気感でしたが、やっぱり、リスクはあっても、人工血管を選ばないといけないケースだってあるんだろうなあと、ぼんやりと思った。
 結果的には、リハビリのお陰で、車いす生活に戻れたし、元の病院で透析の針を射せる人がいたので病院を変らなくて済んだし、長くかかった割には、元の生活に戻れたので、うちの場合は、自前の血管でというので、良かったってことなんかなあと思う。
 ただ、自前の血管のシャントがどれだけ持つかに関しては、使ってみないとわからないですもんねえって、介護施設の看護師さんが仰ってた。
 だよね。
 ま、手術を担当してくれた先生、患者家族への要求は厳しいし、何でやねん!?って思える言動も多少あった物の、職人肌で結果にこだわるまじめなところと、母にはすんごく優しかったところで、まあ許す。
 結果的に、新しいシャントからの透析が始まって、一回目の透析が終わった時に、明らかに体調がよさそうで、母自身が、不調でもうアカンかも的空気だったのが、一気に気持ちも変わったので、良かったんだと思う。
 失礼な言動は、まあ許す。(笑)
 基本的に、職人肌の理系君は、嫌いじゃない。
 コミュニケーションに、おいおいなところがあるのも、慣れているので、笑って流せる。
 ただ、持ち合わせたポテンシャルは高いんだから、もうちょっと、そこんとこナントカ努力しとかないと、笑って流してくれる患者家族ばっかりじゃないと思うんだけど、と、他人事ながら、おせっかいなことを思った。

 介護施設からのお迎えが、初めてのスタッフさんで。
 おなじみの人でなかったので、ちょっと一瞬がっかりしかかったのですが。
 名札を見ると、名前の上に「理学療法士」って、書いてある!
 リハビリのPTさん、入りはったんや。
 やった~!
 しかも、優しそうな女性。
 なんか、めっちゃ嬉しい。
 施設の方で、ずっと募集をかけて張ったんですが、なかなか見つからなかったらしく。
 2か月ぶりに、施設に戻ってみれば、スタッフさんも利用者さんも増えていて。
 ああ、ここも、できて一年が経過して、いよいよ、形が固まって来たなあと思いました。
 知らない人が増えているので、早く、母が慣れてくれたら良いなあ。

 思いがけず、長くかかったおかげで。
 私は、すっかり楽を覚えました。
 今日と明日はまだ、介護施設でお泊りですが。
 その次の日から、いよいよ、家へ帰ってきて、その次の日から、家で晩御飯を食べる。
 ああ、手抜きができなくなる。
 それと共に、母に引きずられて、糖質制限が崩れるのではないかと、ちょっと危惧してますが。
 入院中は、母の食事時に、一日一回は、様子を見に行っていた。
 病院が、工房の目の前なので。
 退院したら、まあ、ご飯を一緒に食べるようにはなる。
 思っている以上に、時間を取られるので、大変と言えば大変。
 でも、母がいなくなって、時間ができたら、それはそれで、きっと、一人の食卓はさびしいんだろうあと思う。
 それでも、それなりに、母に手がかかる。
 それはそうなので、ちょっとお泊りと、施設での夕ご飯の頻度を増やしてもらって、あんまり頑張り過ぎないように、ぼちっと行こうと思います。

 もう、ふく蔵さんの作品展の製作にかかっていなくてはいけない時期なのですが。
 まだ、DMも決まっておらず。
 焦りますが。
 まあ、しょうがないですね。
 できることしかできない。
 明日というか、もう今日ですが。
 一日、ちゃんとお仕事をしたいです。
 今から、もう一回寝ようっと。

孤独な糖質セイゲニストは、正月からAIについて考える

2018-01-03 03:27:39 | 健康
 例年に増して、孤独な正月です。
 父は、亡くなり。
 母は、入院中。
 入院中のお陰で、正月くらいと思い、ランちゃんの散歩を昼間にする。

 余談ですが。
 元旦に、猟師のMさんに、久しぶりに遭遇しました。
 散歩で、Mさんが借りて耕しておられる畑の隣を通りかかり。
 ちょっと離れたところから、Mさんの車が見えた。
 ランが、激しく反応する。
 Mさんのことが分かったか?
 と思ったら。
 Mさんが捌いているイノシシの匂いに気づいたかららしく。
 元旦に、Mさんからイノシシ肉の油身のところをおやつにもらって、ラッキーなランちゃんでした。
 私の方は、畑で採れた小さ目の白菜をいただきました。
 鍋、5~6回分はあると思う。
 元旦に孤独な糖質セイゲニストは、昼食後にランの散歩に出かけ。
 おそらく、元旦に孤独な猟師のMさんは、元旦からイノシシをさばく。
 ちなみに、大晦日は、鹿を捌いてはったらしい。
 糖質セイゲニストから言えば、イノシシ肉やシカ肉は、スーパーで売られている正月のオードブルセットよりも、優れた食材なのだ。
 多分、父より少し年上のMさんですが、お元気で何よりでした。
 ランちゃんのファンなんです。
 以前、山で鍛えたら良い猟犬になるやろうなあって、めっちゃ褒めてくださった。
 昼間散歩も、良いもんです。

 さて、そのほかにすることもなく。
 だったら働くのはどうだろう?
 母の退院が見えて来て、介護がそろそろ復活しそうなので、ある意味、お仕事が贅沢ともいえる。
 でもま。
 今日は良いんだわ。

 ってことで、本を読みました。
 「人工知能と経済の未来」っていう本です。
 去年、めっちゃ売れたらしい。
 そうか、この本が、一回たまたま見たNスペの内容の大元だったのねと、気づく。

 著者は、マクロ経済学者で、それとは別にAIに関する勉強を過去にされていた人らしい。
 AI(=アーティフィシャル・インテリジェンス=人工知能)です。
 実は、会社員時代に、最初に配属された部署が、「知識システム課」という部署で。人工知能を、会社の収益につなげられないかという部署でした。
 結局、当時の状況では、AIなんて全く歯が立たず、3~4年後には課の名前はそのままで、普通のソフトの開発になり、その中でも、私はまともに仕事ができた意識がなくて。
 自分としては、その部署に配属された一連の経緯は、苦い思い出になったのでした。

 でも、世の中、何がどう転ぶかは、分かりませんね。
 AIに関して、「良く分からない物」っていう意識は持たずに済んでいる訳だから。
 当時のAIブームは、不発に終わったらしい。
 だからやね。
 私の苦い思い出、挫折感。
 そして新たなブームが。
 それは、「ディープラーニング」という学習のさせ方が登場したかららしい。

 「人工知能が人間を超えるか?」という、シンギュラリティ(技術的特異点)は、本当に起こるのか?に関しては、著者の井上智洋さんと、ほぼ同意見です。
 今は、「特化型人工知能」と呼ばれる、目的が限定された人工知能が、せっせと発達している状態。
 井上さんの予測では、2030年ごろに、「汎用人工知能」と呼ばれる、目的を限定せずに自律的に学習する人工知能が登場するだろうということで。
 そう聞くと、すごいことのように聞こえる。
 「汎用人工知能」って、人間と同等の能力、もしくはそれ以上の能力を持つってことなん?って、思える。

 まあ、すごいことやとは思う。
 「特化型人工知能」が、発達するっていうのはどういうことかというと。
 例えば、アイロン。
 人間が、この衣服のシワを伸ばしたいと考える。
 が、温度やスチームの使いかたや、当てている時間などが最適でなかったせいで、皺が伸びない。
 ところが、アイロンがけに特化した「特化型AI」搭載したアイロンだと、布地やシワの加減や、気温や湿度や、欲しい仕上がり感を、上手く考慮して、アイロンの当て方を教えてくれたりする。
 便利。
 すごい!

 例えば、「介護の見守り」。
 認知症老人が、徘徊してお外に出てしまわないか?
 いや、その前に、おとなしくベッドで寝ていてくれているのか?
 そうでなくて、人が駆けつけて、不測の行動を止めないといけないのか?
 不測の行動を止めないといけない局面でだけ呼ばれたら、どれほど楽だろう。
 四六時中、その老人が大人しく寝ているのかに気を配り続けることは、不可能なのに、心配で神経をすり減らすことになる。
 それが、個人の家でも、介護施設でもそう。
 介護施設であっても、複数のカメラやセンサーで、複数の老人をチェックし、人工知能が、通常の大人しくしている状態か、人が行って対処しなくてはいけない状態かを判断してくれたら。
 当直の人が少なくても、対処ができる。
 見守りに割かれる人員が少なくて済む。
 そして、人は、人間同士の交流の部分を担うところが、メインの仕事になる。
 何を持って、通常の状態とみなすのか?
 何を持って、駆けつけないといけない状態とみなすのか?
 そういう判断が、よりきめ細かくなって、人間の判断に近づく。
 ありがたい!
 素晴らしい!
 「特化型人工知能」が、「ディープラーニング」という手法で学んで、発達をして、人の役に立つというのは、そういう使われ方になるんだろうなあと思う。

 「汎用AI」はどうか?
 どこまで発達するのかが、読めない所はあるけど。
 見守りもできて、アイロンもかけられて、お肉の焼け具合も教えてくれて、家のお掃除が上手にできる、そういう司令塔的な人工知能になるってことですね。
 お勉強のさせ方一つで、いろんなことができる。
 そのお勉強を、持ち主がやる必要はきっとないと思う。
 アプリをダウンロードするように、誰か専門的な人がさせた学習の結果を、ダウンロードで取り込めば、いろんなことができる司令塔がお家の中に配置される。
 反乱は起こさないのか?
 起こすでしょうね。
 誰だったか、芸能人が言っていた。
 「ルンバ」だったかにお掃除させていた。
 彼女は、室内犬を飼っていて。
 ルンバは、ウンチをうまく処理できず、部屋中に、室内犬のウンチが塗り込められてしまった。
 これは、もはや反乱です。
 もう起こってます。
 反乱。

 反乱について言えば。
 例えばこういうこと。
 私のタントに載っている、何とかいう危険を感知する機能。
 これは、人工知能というレベルでは全然ないけど。
 例えば、信号待ちで、前の車から少し後ろに停まっている、タントと私。
 前の車が、まだ青になる前に前進を始めると。
 「車間距離が開いたよ」と、教えてくれる。
 「ええい!うるさい!」
 兵庫県南部ではな!青は進め、黄色は急げなんやで!
 こんなとこで、見込発進する車になんかついて行ったら、うっかりしたら、黄色は急げの車に当たられるやんか!ドアホ!
 まあ、こんなところですね。
 人の意図しない動きをする。
 これで、教えてくれるだけでなくて、車自体を動かす機能があれば。
 人の側の正義(正解)とは違う、機械の思う正義(正解)を押し通すとすれば、簡単に人は傷つけられる。
 なので、お任せにすればするほど、人は傷つけられる。
 人工知能が高度であればあるほど、人は判断を丸投げにしがちで。
 めっちゃ信用していたのに、思いもかけぬところで裏切られる。

 人工知能が発達しようとも、こういう機能が、どこまでも高度に発達するということで。
 それはそれで、今までできなかったことが、よりきめ細かくできるということなので、まあ、そう悪いことではないと思う。私も。
 ただ、著者の井上さんがテーマとして上げられているのは、それによって、人の雇用が奪われる未来というのを、どう整合性を取って行くのか?ってところです。
 AIの導入は、やらないと、よその国が結局やって来て、同じ状況になるだろうし、日本の企業で推進して実現しなければ、よその国の企業が収益を持って行くので、結局、避けられないらしい。
 相当量の雇用は奪われるという予測をされている。

 経理などの事務処理、データ解析、かなりいろんなジャンルで、雇用は奪われるんだそうだ。
 で、「ベイシック・インカム」の導入を、提案されている。
 まあいえば、全ての人(老若男女すべて)が、一律に年金を貰うことで、富を分配する制度。
 そうなるのか。
 ホンマにそうなったら、それはそれで、良いのかも知れない。

 で、最後の結びになる。
 「有用性」と「至高性」のお話。
 「役に立つもの」が「価値があるもの」とされてきた価値観が、「良い物」であることが「価値があること」にちゃんと戻って行くだろうという予測。
 分かりづらいですよね。
 「役に立つもの」と「良い物」が、ほぼイコールの価値観の中に、どっぷりつかっている訳だから。
 こないだまで、「経理ができるという能力」が「価値がある」とされていたのに、AIに取って代わられたら、その瞬間に、役に立たないものになってしまい、価値のない物になってしまう訳なので。
 何に価値を見出し、何をすればいいんだい?
 そうも言いたくなる。
 そんな未来を予測している。
 SF的だ。

 そうそう。
 この本は、AIが人類を越えなくても、一定の発展を遂げることで、経済的なインパクトが避けられないだろうなあという本でした。
 著者の考え方では、シンギュラリティ(人工知能が人間を超えるという事態)は、今の発展の状況の先には起こらないと予測している。
 そこは、全く同意見です。
 これは、著者の書く、文系的な情緒的な話ではなくて、理系的な見方で考えてみてもです。

 根拠は何?と言われると。
 人間の「モチベーション」の拠り所が、まだ、脳科学で解明されていないから。
 まだ、ちゃんと読んでないのですが。
 「ミラーニューロンの発見」という本を読みながら、思っていたこと。
 サルの実験でも、サルが見ているサルが、右手を使って物を掴む動作をしたとき、自分の右手は動いてはいないのに、脳の中では右手を使うという箇所が、発火している(電流が流れて働いた状態になっている)ことが分かっている。
 これを人工知能で置き換えようとすると、その辺まではできるはず。
 ただ、「ミラーニューロンの発見」という本によると、この真似をすることで学ぶという生き物の脳の働きが、「他者との共感」ということに結びついているらしいことも予測されていて。
 同じ動きをすることで、同じ動きをする他者のその時の心情まで、自分の脳の中から呼び起こして理解するという機能が、備わっているようなのです。
 これを見た時、ミラーニューロン周辺の研究が、自閉症スペクトラムなどのメカニズムを解明するかもしれないなあって、ちょっと思った。
 まだ、もやっとしていて、論理的には整理して説明しがたいのですが。
 それは、とんぼ玉の先生をしていて、人の学ぶことの多様性に、いっつも感心させられるから。
 人の学びのアプローチの多様性は、奥が深いなあって、良く思うから。

 著者の井上智洋さんも書かれているけれど、全くこの世に存在しないメロディーのバリエーションを生み出しても、それが、人にとって心地よいのかどうか、そこを判断する能力が、汎用AIにない限り、真の創造性(クリエイティビティ)を持つことはなく、上手な模倣に過ぎないって。
 人にとって心地よいかどうか?
 どんな欲望を、潜在的に持っているのか?
 「既に、何らかの形でデータ化されて、この世に存在している物」以外を、AIは予測できない。
 既存のデータの中からは(=有限なデータの作る宇宙の中からは)、出ることはできない。
 そう思うのです。

 ただ、人工知能が人を超えることを目指して研究が勧められたら、超えないまでも、人間の脳を、もっと客観的な科学的なアプローチで数値化して解明できていけば、発達障害やら自閉症スペクトラムやらが、人間の脳のどの部分の働きに関わって起こるのか、そのメカニズムに迫れるかもしれないなあって、思う。
 人を超えることだけが、この研究の意味ではないように思う。
 今までわからなかった部分で、人をもっと深く知ることができるかもしれない。
 それは、とてもエキサイティングなことなんじゃないのかなあって、思う。


 そうそう。
 人工知能に、いろんな仕事を奪われるとは言うけれど。
 人が、人工知能がやってくれていることを、もうやらなくても良いということにはならないんじゃないかなあと思う。
 「とんぼ玉」に例えてみよう。
 将来、細かな動きができるロボットアームができたとしたら。
 微妙な力加減を、AIが学んだとしたら。
 例えば、「ゴッドハンド」と呼ばれるレベルの作家さんの手の動きから学べば、大概の人よりも、AIが、上手に玉を巻くことはできるんじゃないかと思う。
 パーツも作れると思う。
 パーツを作るための設計図も、書けるんじゃないかと思う。
 作りたい複雑なお魚があったとして、その魚の実写画像から、デフォルメを入れた画像を書くことができるんじゃないかと思う。
 その時、作家のだれだれさん風の絵とか、絵のバリエーションも選べたりして。 
 で、それに従って、パーツを作ってもらおう。
 作ったパーツを、玉に配置するバリエーションも、選べたりして。
 めっちゃすごいパーツの入った玉の完成だ!
 そう遠くない将来、ここまではできると思う。
 本気でやれば。
 さて。
 とんぼ玉で、そこまでやる必要があるのかと言われると、何ともですが。
 例えば、既存の作品でない、まだこの世にないアプローチの新しい技術を生み出そうとすれば、それは、人間の創造性をもってすること。
 さて、それを発想しようと思ったとき。
 人間の脳は、自分の手を動かさずに、それを発想できるだろうか?
 できる物もあるだろう。
 頭の中で、立体的イメージを操って考えることもできるだろう。
 でも、手を動かしたことで、初めてできる物も、きっとあると思う。
 それは、何故と言われたら、自分の経験値でそうだから。
 何故と言われたら。(以下、翌日思いつきました)
 そうそう、思いつきました。
 頭の中で考えるだけでは、ガラスは予測できないから。
 実際に手を動かしてやってみると、思ったのと違う動きをすることはごく普通で。
 その違った動きに初めて出会うことで、新たな着想が生まれることもある。
 だったら、人間は、AI搭載ロボットに試作させて、その様子から、違った動きに出会うこともあるだろう。
 それを見て、着想できるんじゃないのか?
 できることもあると思う。
 ただ、人の手に返ってくる感覚もまたデータなので。それを数値化されて伝えられた時と、自分の手に伝わって来たものを感じ取った時とでは、きっと着想に差が出るだろうと思う。

 だからこそ。
 AIがとんぼ玉を巻いてくれる日が来たとして、それが、私よりもうまかったとして(いやきっと私よりうまいだろう)、人が、とんぼ玉を巻き、パーツのデザインを起こし、パーツを作る作業を、全くしなくなったとしたら。
 この世に生み出せないものが、きっと出てくる。
 というか、AIが上手かろうと、人が下手だろうと、人が手を動かして作ることの意味は、そこにつながって行くんじゃないのかなあと思う。
 それは、文系的な情緒的な願望ではなくて。
 もっとシビアに、理系的な分析的な見方をしても、きっとそうだろうと思う。
 AIが、真のシンギュラリティを迎えない以上。
 AIが上手いから、人がやらなくなってしまうと、どこか、既存の物の範疇から抜け出せなくなる、そんな限界が、どこかでやって来て、そこで発展が頭打ちになる飽和点みたいなものが、やって来そうな気がする。

 そう。
 やっぱり、人は、経験の生き物で。
 実体験の凄味は、何にも勝ると思うのです。
 情緒的な、願望ではなく。
 ホンマに。

糖質制限、再び・・・・・・

2018-01-02 01:52:36 | 健康
 「江部康二の糖質制限革命」読みました。
 内容が被っている。
 そうでしょうねえ。
 糖質制限を語るには、概論はどこかに入れないといけない。
 被っているだろうけど、また読んでしまうのだ。

 昔、ハーレクインロマンスというシリーズの小説があって。
 知人がハマっていた。
 おなじようなパターンの恋愛小説だそうで。
 ギリシャのミコノス島に、豪華客船が入港してくる。
 そのミコノス島の、継母に虐げられている(シンデレラみたいやな)美しい娘が、豪華客船で地中海クルーズを楽しむ富豪と恋に落ちるんだって。
 何冊も出たけど、大体、そんな内容。
 でも、読んでしまう。
 そういえば、その知人とギリシャ旅行をした際、彼女の意見で、ミコノス等に行き、「クレタ島のひみつ」という子供向け冒険小説に心を熱くしたことのある私の意見でクレタ島に行ったんでした。

 と、糖質制限者にとっての、「また読んでしまう」本でした。
 同じことを書いてある。
 そうそう、そうやったな。
 緩みかかっている自分の食生活を、またまた反省するのでした。
 夏井先生の新しい方の本に、一旦、糖質制限で良いコンディションを手に入れたのに、それを手放して糖質まみれの体に戻りたい人は、そういないだろうと書かれていた。
 そこは、夏井先生、自制心があるんやなあと思う。
 そういう能力が高い人ほど、社会的に大成するっていうし。
 そこは、サボりがちなヘタレとんぼ玉作家と、お医者さまの違いかしらん。(^^;
 でも、いくらヘタレでも、戻りたくない。
 あのデブで醜くかった頃には。(TT)

 いくらヘタレでも戻りたくない。
 あのデブで醜くかった頃には。(TT)
 ↑しつこく繰り返す

 あの頃。
 既に、高血圧のお薬を飲んでいた。
 ↑激痛に苦しんだ持病とは別
 高血圧のお薬を飲みつつ。
 糖質制限を始める直前には、実は、同じ要領のお薬を飲んで、2~3年経過すると、血圧の値が、じりじりと上がり始めていた。
 いよいよ、これ、どうする?
 なことになりかかっていた。
 しかも、体が重かった。
 動きも悪い。
 頭も働かなくなっていた。
 とんぼ玉を作る際に、時々、作りたいものの形をざっと図形にして、サイズを概算したりする。
 必ずしも必要ではないんだけど、ガラスの量を、だいたい割り出せると便利だから、時々、そういうこともしていた。
 ところが、三角関数を使ったシンプルな計算が、できない。
 「あれ?こっちの辺が分母で・・・・・こっちの数字はこっちの・・・・・・あれれれれ、こっちの辺が分母やから・・・・・・」
 同じところを何回確認してるねん?
 みたいに。
 脳ミソに霧がかかったみたいなことになっていた。
 若い頃なら、するっと一回で出来た計算に、もたついていた。

 ああ・・・・・・。
 デブで。
 顔も地味で。
 性格もめんどくさくて。
 動きもヘタレで。
 血管硬くて。
 頭まで働かんとなったら。
 もう、私に取り得は、何もない。(TT)
 何も、ない。
 このまま、小汚いオバサンから、小汚いおばあさんへ、まっしぐらに落ちて行くんや。

 近所のイオンに服を買いに行ったら。
 大きいサイズのコーナーで買うか、通常サイズのコーナーが、少しサイズの幅を広げ始めたので、幾分入る物もあって、通常サイズのコーナーの一番大きいので、デザインによっては入る物もあるので、試着して買う。
 ジーンズも、相当大きいのを、いくつか試着してみると、入るのもある。
 冬場は、そういうジーンズが3枚で、それを順番に機械的に回して履いていた。
 セーターも、3~4枚を、くるくる機械的に回して着ていた。
 靴は、お決まりのオバサン向けスニーカーで、同じものの2色を、ダメになるたびに、交互に買っていた。
 まあ、着る物の楽しみは、微塵も無かったな。
 アクセサリーを作りながらも、自分で付けようとか、あんまり思わなかったし。
 作品展をしても、作家ですだと、人前に立とうとはあんまり思わなかった。


 元は、認知症予防にと思って始めた糖質制限だった。
 ダイエット目的ではなかったんです、私の場合。
 いろんな人と話していて一致するのは。
 40歳を過ぎたころから、何をしても痩せなくなって。
 そう、そうなると、水分の変化ですら、500グラムも痩せない。
 というか、体重は、じりじりと増え続けているのだ。
 そんな日々から、糖質制限で、3キロくらい落ちたんでした。
 衝撃でした。
 3キロ、落ちた!
 これは・・・・・・!

 3キロ落ちた。
 その頃、やはり、食後の眠気が軽減されるのは、自覚していた。
 食後2~3時間後(おやつの時間)の空腹感も来ない。
 それはもちろん、お昼ご飯を食べた後、晩ごはんの前でさえ、空腹感がない。
 そういう、健康面での変化は、明らかに感じていた。

 そして、本気を出してからという物、5カ月ぐらいで、さらに8キロ落とし。
 最初の糖質制限から、一年くらいで、トータル16キロ落とした。
 その頃には、肋骨が見えて来ていたので、私としては限界だったと思う。
 骨太なので、同じBMIの数値でも、体脂肪率は、相当落ちていたと思う。
 血液検査で、パーフェクトだと、言われ。
 血圧も、下がり始めていた。


 あの頃。
 イオンの服屋さんのMサイズは、ほぼ全て入った。
 年齢相応のコーナーのGパンなどは、足がパツパツなら、ウエストがガバガバだった。
 何着ても、一時よりは、ずっと似合うし、試着が楽しくて仕方なかった。

 その後かなあ。
 SNS用に、自撮りしたら、意外と悲しかった。
 痩せても、そこはどうにもならへんなあ。
 地味な顔。

 と、そんな話を生徒さんにしたら、本人じゃないみたいに、奇跡の一枚を撮ってくれる写真スタジオがあるらしいと、教えてもらった。
 メイクがすごくて、直接見たら明らかにヘンなんだけど、写真を撮るとキレイに写る。
 本人じゃないみたいに、写るらしい。
 じゃ、行ってみようかな。
 で、行ってみましてね。
 まあ、私にしては、ぼちぼち、きれいに撮ってもらえているかも。
 まあ、元が地味やからね。

 その帰り道。
 メイクは、写真撮りの時から変更してもらって、表を歩いても変じゃないくらいにしてもらって、電車に乗ったんです。
 わ~、慣れないメイク。
 ヘンじゃない?
 でも、その時、視線を感じたんですよね。何度か。
 ああ、小汚いオバサンだった頃には、なかった感じ。

 へ~。
 こんなにやってもエエんや。
 鏡を見て思った。

 まあ、あれですね。
 お魚のムリーニを作る場合に、実物と同じ比率の目にすると、小さくなるようにムリーニを引いて、たまにさあ埋めようかとすると、目が小さすぎる。
 縮小されたときに、目やヒレなどは、やや大きめにデフォルメする方が、リアルに見える。
 そんな感じ?
 そういえば、中村玉緒さんのアイラインはすごいけど、あのアイラインごと、中村玉緒さんやもんな。
 松岡茉優ちゃんも、きれいやけど、多分、元の顔はまあまあ地味目。
 きれいにメイクしてもらって、ちょっと華やかになってあのくらい。
 そう思って、雑誌のモデルさんとかを見ると、メイクの奥に、地顔が見えてくる。
 モデルさんの内、すっぴんで文句なしにきれいなのは、多分、1~2割くらい。
 他は、けっこう努力でカバーしてはったんやなあ。
 と、雑誌を「ムン」と、睨んで、そう思った。
 そういう意味では、一切、努力を放棄して生きて来たんやから、まあ、小汚くもなるよなあ。
 デブだった頃。
 食欲の奴隷(ってタイトルの、ナントカ順子さんのエッセイがあったなあ)だった。

 で、翌日から、メイクに目覚めた。
 ビューラーで、まつげを立ち上げるようになって、一週間せずに、二重まぶたになった。
 さらに一週間で、すっぴんでも、二重まぶたが定着した。
 それ以来、ごみ出し以外は、すっぴんでは出かけなくなった。

 それが。
 5キロリバウンドしたあの日。
 まぶたの二重が、崩壊していた。
 うわ。
 脂肪が、皺を押し上げたんや。
 でも、ほうれい線は、押し上げてはくれず。
 あごの線に、たるみの凸凹ができていた。
 ああ。
 これは・・・・・・加齢か?(TT)
 あの一年が、私の最後のピークやったんや。

 嘆いている間もなく。
 デブだったころの服はあらかた処分していたので。
 このままでは、手持ちの服が、パツパツやん。
 そんなシビアな現実が、目の前に見えてましてね。

 いや。
 この、手持ちの服を着た時のダサさが、悲しい。

 そこで、緊急ダイエットになった訳ですが。
 そしたら。
 1.5キロ戻しただけで、あごの凸凹は消えた。
 良かった。
 加齢ではなくて、脂肪だったか。
 いや、その無駄な脂肪は、加齢を加速するんだそうだ。
 で、そのまま続けていると。
 また、ちょっとだけ戻って来ていた食後の眠気と、ごはん前の空腹感が、消えた。
 やっぱり、健康面も、影響するよね。

 戻りたくない。
 あの、壊れきったあの頃には。
 再び、そう思ったのです。

 そうそう、そういえば。
 激痛に苦しんで、仕方なく駆け込んだいつもの病院で、相談の結果、対処療法として別の痛み止めをもらい。
 まあ、だましだまし、行けそうで。
 そっちのピークは越えたんですけどね。
 その病院の待合室で、釜池豊秋さんというお医者さんの書いた「糖質ゼロの食事術」という本が、ぼろぼろになって置かれているのを見つけまして。
 ↑2007年に出版されていた
 あ、聞いたことのある名前!
 江部先生と、どっちが糖質制限が先だったか、話題になった人!
 それが、こんなにボロボロって。
 ここの先生のだれかが、糖質制限の本をこっそり(なのか、堂々なのかは知らんけど)読んではったってこと?
 で、手に取って読もうとすると。
 サイン本や!
 直接、出会ってはったってこと?

 どなたの持ち物か、真偽のほどは、確かめてません。
 糖質制限って、病院では言ってはいけない禁止ワードなんだと、ずっと思ってきた。
 糖質制限教の、隠れた信者だと、ずっと思ってきた。
 でも、世の中は、ちょっとだけ変わったのかな。

 母の今回の入院。
 最初は北播磨総合医療センターで、術後しばらくして、回復期の今の病院に移ったんですけど。
 北播磨総合医療センターで、栄養士さんに栄養指導してもらったとき、彼女は「糖質量ハンドブック」(江部先生の本)を手にして話していた。
 そこも、おおって、ちょっとチェックを入れてしまった私がいた。


 糖質制限。
 今までの栄養の理論がまちがっていて、こっちの方が、より正しいことが、じわりと浸透してきている感がするこの頃です。
 やっぱり、江部先生が、今回の本でも書かれているように、「常識」が、変わって行く、その変化が、ジワジワと見えつつある気がします。
 以前は、「炭水化物」の量しか書かれていなかった表示が、炭水化物の内、「糖質」と「食物繊維」の内訳も表示されるようになった食品が、少しずつ増えてきた。
 正直に書くと、とんでもない糖質量のため、とても書けない食べ物が多いこともあって、書きたがらないメーカーもあるだろうと思う。
 でも、そんなことをしていたら、そもそも手に取ってもらえない商品へと、変わって行くのかも知れない。
 その圧力で、糖質量を書かないと仕方のない時が、早く来れば良いのに。
 もっと言えば。
 そもそも、堂々と書けるような、内容のちゃんとした食品が、もっともっと増えるべきだと思う。
 糖質制限を一切知らない人でも、何気に手に取ったら、自然と糖質の摂り過ぎを防げているような、安心な食品が、ごくごく普通に売られているような時が、来ればいいのに。


 そうそう。
 イヂワルな愚痴ですが。
 最近、うちの工房の近所にできたコンビニですが。
 特に、糖質制限者からすると、食べられるものが、同じコンビニの他の店舗より少ない気がするんです。
 そこって、裁量の範囲だと思うんですが。
 なんか、残念です。
 そもそもですが。
 バイトも含めて、デブが多い。
 意識改革を、求めたい!
 ホンマに。
 心から。