アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

あめゆじゅとてちてけんじや

2016-12-30 07:21:19 | 文化
 宮沢賢治は愛する妹トシ達の為に数多の童話を書いた。
 皮肉な事に、後世では子供のための読み物というより、大人が読むための童話になった。

 けふのうちに
 とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
 みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
 あめゆじゅとてちてけんじゃ
 (永訣の朝)

 1922年、宮沢賢治が愛する妹トシとの永訣を想って書いた詩である。
 トシがけんじゃと呼ぶ宮沢賢治は生涯を教師として過ごした。
 けんじゃが稼いだ原稿料はたった五円だったと伝わっている。
 けんじゃの不幸は、雨にも負けずの詩が当時の軍国主義の精神と酷似していた事だ。
 けんじゃは、そういう者に成りたかっただけで、軍国主義者達はそういう者を創りたかった。
 宮沢賢治の物書きとしての凄みは、晩年農民の相談を受けた時、メモした物がそのまま詩に成っていた事だ。

 宮沢賢治より三十年ほど前に生を受けた正岡子規は晩年を新聞記者としての給料二十円だけで生計とした。原稿料は勿論、印税などの無い時代だった。子規も又、生涯教育者として生きた。
 子規は弟子を教え、友人達(夏目漱石もその一人)の書いた物を添削した。
 子規は絶えず物を書いていた。漱石が手紙で忠告した程だ。
「御前の如く朝から晩まで書き続けていては此ideaを養う余地なからんかと懸念仕る也」
 子規の膨大な創作を後世に伝えたのが妹リツだ。
「兄が肺病になってどうにもならぬ。看病のために一日おきに帰らせて貰う」と、夫に宣言したリツはそれを実行した。結果二度目の離婚となった。
 リツは幼い時から兄思いだった。子規は幼年期は弱虫で、よく泣かされて帰った。そんな時リツは「兄ちゃまのかたき」と言って飛び出したという。
 そのリツを兄がこう書いている。
「兄ノ看病人トナリ了レリ」
 子規はリツを嘲笑しているのでは無く、リツの看病なしでは生きられぬ己を比喩しているのだ。リツは子規の晩年七年間を支え続けた。
 子規の母八重は、子規とリツをそれぞれ、ノボさん、リーさんと呼んだ。
 リツも兄をノボさんと呼んだかも知れない。
 そんなノボさんは、けんじゃが妹を偲んだようにはリツを想はない。先に他界したからだ。
 子規はリツを酷評する。
「律ハ強情也。人間ニ向ツテ冷淡也」
 この文章の陰にはリツへの愛情が溢れている。
 更に子規はリツを批判する。
「終ニ兄ノ看病人トナリ了レリ」
 リツとトシの違いは、教育の違いだ。リツは小学年までの教育を受けていなかったが、トシは晩年教師となった位だ。

 けんじゃは私たちに数多の珠玉の童話と詩を残して呉れ、ノボさんは一度壊れた日本語を残して呉れた。
 正岡子規と宮沢賢治、わたしは二人が良く似ていると思っている。子規は朗らかで賢治は暗い。
 それでも似ている。
 私は二人を思う時。二人の妹が頭に浮かび。
「涙ガ止マラナク成ツテ了ウノダ」
    2016年12月30日    Gorou
 


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