団野さんの今回の展覧会の評論家 木下長宏氏のコメントをご紹介いたします。
山水と風景のあいだで─団野雅子の作品に寄せて
木下長宏
東洋では古くから「山水」画という言葉があった。「山水」は、そのとき、一種の霊的存在であった。霊は、人のなかに棲みつき、樹々や山や川の流れにも棲みついている、そういう存在だった。
明治という時代を通過したあと、日本列島に暮す人びとは、新しく西洋からもたらされた「風景」画を描くようになって、この古い東洋の「山水」観を忘れていった。
西洋では昔から「風景」は描かれてはいたが、いつも、それは背景でしかなかった。「風景」が独立して絵画の主題になるのは、17世紀になってからである。西洋の人びとにとって、風景は、いつも、人間の眼に映る対象像であって、そこに霊なんぞ棲む余地はなかった。
風景を自然の対象として見る方法を習った日本列島人は、しかし、その結果すっかり「山水」の霊を忘却してしまったわけではない。「風景」画と取り組みながら、無意識の底のほうでは、山水の霊を描き出したい、という欲求にとらわれている。「風景画」を観る人たちも、山水の霊に触れたとき、深い感動にとらわれている。
西洋の方法が制度として固まってきた分、現代では、山水の霊に出会おうとする絵を描くことは、いっそう困難になっていることは確かだ。しかし、画家は、困難であればあるほど、その願いを実現したいと、絵筆をとり、画布にむかう。団野雅子も、そんな西と東の渓谷がつくる山路を旅する一人だ。
ときに、風景は対象となって、画家を突き放し、ときに、深遠な霊の呪文を唱える山水となって、画家を魅了する。手を差し伸べると、すぅっと身を引き、もう及ばないと手を止めると、思いがけなく身近で、山水(という風景)が息づいている。
いまや、わたしたちは、限りない山水と風景の出会いと別れのなかに、自然の息づかいを感じ取るしかないのかもしれない。団野雅子の絵は、そんな自然の息づかいを、色と形と筆触の交響のなかでみつけようとしている。