山はこれから!

爺様の追っかけで。

相馬山南麓_⑥(在りし日のガラメキ温泉場を偲んで)

2023-07-25 01:06:44 | 日記
1年以上のブランクから、久々の「スルス古道」の散策へ出掛けました。
日々衰える足腰と心肺の不安!を抱えながら。

たまたま同僚から「ガラメキ温泉を案内してほしい!」という要望があって、真夏の下調べと足慣らしを兼ねて、酷暑の7/23に、白川河原から「古道ルート」でガラメキへ。
県道28号19カーブ(黒岩入口)から入る方が近いし、足元も景色も良いことは分かっているけど、古道マニアのこだわりが作用してか、アプローチが長く、ロケーションも悪いし石道で歩きにくいルートを選択しちゃいました(>_<)。(こちらはモトクロスバイク趣味の方々の得意ルートになっています)
七曲りの急登を過ぎてしばらく行くと、大型四駆の車に遭遇。木の枝や倒木を切り刻んで、四輪車両が通れるように奮闘されていました。抜いて抜かされまた抜いて、結局抜かれて・・、この車とほぼ同時にガラメキへ到着。年配のカップルでしたが、この方々のお陰で、現在はスパルタン系四駆車両なら、ガラメキまで行けます。

前置きが長くなりましたが、ワタシの一番の関心事は(温泉自体の現況にも興味はありますが)、「かつての温泉場の様子」を現況に重ね合わせて正確にイメージすることなのです。
昨年知った往時の写真があります。
当時の絵図等から類推するに、中央やや右の大きな建物が「阿蘇山館」左上方が「富士見館」と思われます。
(左下の1階が吹き抜けの建物は不明)

この絵図は、阿蘇山館の経営者(松本福次郎氏)が作成した「宣伝用」のものと思われます。ウソではないけど、かなりのデフォルメがありますね笑。
お陰でかつての様子が窺い知れる貴重な資料です。周辺の名所七選も記されています。
現在の源泉は、当時の湯屋建物の庭に当たる所だと、源泉のヒューム管を埋めた方(前記のガラメキで生まれ育った「中村さん」)が仰っていました。絵図では湯屋が離れて描かれていますが、写真では、写っているのか否か不明です。
ともあれ写真と絵図と残存する石垣とを照らし合わせて、阿蘇山館と富士見館の位置を特定したいのですが、




現存石垣の様子から、写真や絵図の「ここかな?」と思われる部分はありますが、今一決め手に欠けるので、結局旅館の位置も確定仕切れず・・・。
ガラメキ温泉の記で、湧出口の画像を載せないのも💦ですので、一応は・・・
上流からの湧水がなるべく流れ込まないように、よく手入れされています。ヒューム管の中の水(湯)はほんのり温かく、周囲の流水は冷たい!(史跡同好会他の方々、ありがとうございます。)

上記の四駆で到着したカップルですが、男性がさっさと全裸になり入浴したので、女性も入浴したいのかも?と思い、ワタシは場を外して上部の石祠等のある方面へ姿を消しました。

その間に、入浴されたようです😅拍手👏
ちなみに、ワタシは入浴したことありません😅💦
そのあとは、「相馬山表口」石標まで脚を伸ばし、「小野関三大夫氏の透かし彫り」「黒髪山行者堂跡」の現状を確認。「湧宇の滝」と「炭焼き釜跡」見て


長い下りを戻ってきました。
久しぶりの山歩きでしたが、足腰(膝も含めて)には後遺症が出なかった(大した距離でもないからね😅)のですが、ストックを使った右手首の筋肉に痛みが出ています。「あれェ?」🙍

相馬山南麓_⑤(ガラメキ温泉で生まれた人の話)

2023-03-08 21:31:25 | 山歩き
先日「ガラメキ温泉」の旅館に生まれ育ち、子供の時に立ち退きを経験した人の講演を聞けました。
講師(Aさんとしておきます)は、昭和11年生まれ、強制立ち退きの時は10歳、当時の国民学校(小学校)5年生になったばかりの昭和21年4月に、戦争で負けた日本を占領した進駐軍によって、相馬が原~相馬山南麓一帯の広い範囲が演習地として接収され「3日以内に退去せよ!」という命令を受けて、村の人が総出で建物を取り壊し、牛車で運び出してくれたそうです。
(なかなか撤去が進まないので「期限が48時間延長された!」という裏話は、初めて聞きました。)
小学1年生の時から学校まで二里半(約10km)の道を麓の学校まで通っていたとのこと。毎朝6時に家を出るのですが、秋から冬は、外は真っ暗。途中人家もなく、提灯で足下を照らしながら歩き、途中で明るくなると提灯を消して岩陰に置いて、帰りに持って帰る日常だったそうです。
6歳の子供が、人家のない真っ暗な山道を独りで提灯をぶら下げて2時間以上かけて通学していたということですね。(80年近く昔のこととはいえ、すごいことです)
立ち退き先は、とりあえず相馬ガ原近くの叔母の嫁ぎ先の家に移り住み、その後、父親が周辺を開拓して、昭和44年までは、陸稲(おかぼ)の米が主食だったそうです。
Aさんの記憶では、温泉利用のかなりの部分が、汲み上げて持ち帰って火傷の治療も用いる人が多かったこと。
治療のために宿に泊まる本格的な湯治の人は、朝からずっと浸かっていて、お昼だけ上がり、昼食後も夕方まで浸かっていたとか。4週間位浸かっていると火傷痕がほんの僅かで済んだこと。
接収後の米軍の演習の火力の凄かったこと。それ以前も相馬ガ原は、帝国陸軍の第15連隊や予備士官学校の演習地ではあったけど、日本軍の演習とは桁違いのスケール・威力に呆然としたとのこと。(朝鮮戦争の時期なので、米軍の演習も余計にすごかったのかもしれません。)
また砲弾の破裂片を浴びた樹木が木材にならないこと。などなど。
リアルに体験した人しか語れない貴重な体験談を伺うことができた講演会でした。
現在、立ち退き以前のガラメキに住んだことがある方は、Aさんと弟・妹の計3名だけだそうです。

講師のAさんの父上(立ち退き時の家長)が、聞き知っていることをまとめ記した書のコピーをいただきました。

(冒頭部)
(本文、最終部分。中間部分の掲載はここでは略します)
この記によると「ガラメキ温泉の歴史」については、近代以前は数々の伝承はありますが、確実な近代の入植は明治10年中期頃。
(R5.2.18撮影)
現在も現地に遺されている「薬師如来像」に「明治十五年午年 建立」という文字があるので、この石仏は明治時代の初期の入植時の建立のようです。
そしてAさんの曽祖父の一家が入ったのは明治21年。


(上の薬師如来石像の横に現存する屋根部分が崩れ落ちた祠)
右側面に「明治廿一年 ガラメキ温泉」
左側面には、「箕輪本町 中村平作 建之」と彫られています。

現存する石造物の由緒がかなり見えてきました。

富士見館・阿蘇山館・扇屋の3つの旅館の由来についてもこの文書に記されています。(立ち退き時には2軒)
また、温泉湧出口にあった湯屋建物(温泉)は間口三間半、奥行き二間半という大きさ。
などなど。

(※この「上野國ガラメキ温泉誌」には、興味深い事柄がたくさん記されていますが、それは後ほど。)

相馬山南麓への興味④(物見塚~ガラメキ温泉『後編』)

2023-02-28 01:03:11 | 山歩き
(『前編』よりの続き)
ほぼ旧道に沿ってガラメキ温泉へ至るには、「白川河原」(前編参照)に車を停め、三(四?)叉路を左の道を進み、「七曲り」を上り詰めれば、その先は傾斜の緩い道が続きます。
かつては馬子に引かれ荷駄を積んだ馬が通った道。高崎から榛名湖畔へ日用品や食糧を運び、榛名湖畔からは、茅や薪、そして湖で凍った「氷」も運ばれたらしいです。「氷室山」という山があるので、需要季までは、そこで保存して置いたのだろうか?そして融けないように夜間に運んだとも聞きます。
現在のガラメキ温泉へ上る道は、治山工事(堰堤=砂防ダム建設)のために、車両が通りやすいように重機で拡幅された道で、一部はコンクリート舗装がされていますが、今では堰堤工事も一段落、林業も停滞しているので、四輪車はめったには入って来ないようです。替わりに趣味のモトクロスバイクがたくさん入り込んでいます。現行の道は、旧道から外れている所が多いようです。
傾斜緩やかなので歩きやすい!かというと、そうではない。
石がゴロゴロしていて、まるで河原を歩いているような、歩くにはあまり嬉しくない道が続きます。しかも林の中の窪地で左右のロケーションもなくて見所があるわけでもない。

それでも、「古道はこっちだったろう」と思える窪地が林の中に何ヵ所も見られます。

ここも旧道の跡と推測しています。
ガラメキ温泉へ向かって現在のしっかり造られた林道を辿って行っても、2箇所ほど、どっちの道を行こうか?と迷う分岐があります。
地形図にも記されていますが、最初の分岐は右の上りではなく、左の平坦な方の道。次の分岐は舗装がされている新道ですが、左へ下る道ではなく、右の上りの舗装道を選択すれば、迷うことはありません。
そのうちにコンクリート堰堤(砂防ダム)のある大きな沢の左岸に出るので、道なりに上っていくと、高い堰堤の下にぶつかります。ここで、沢を右岸へ渡ります。
(この沢が「湯沢」=温泉の下流です。)
古道のこの沢の徒渉点は、堰堤工事のために寸断されていて不明。


沢を渡って、少し上っていくと「変則な四差路」へ「黄色←」で上ってきます。(※画像アングルは左側の道から撮っています)
ここでは、(黄色コース方向から見ると)右寄りの上り方向の一番上りがキツい道を選べば、到着です。
もし右方向平坦路(画像では直進方向)を選んでも、すぐに温泉下の沢があり、上流を見ると石垣があります。この沢を上っても着きます。


順調に「赤←の上り道」を行くと、石垣が正面にある平地に出ます。到着です。

源泉へ行くには、平地の右から河原へ伸びる石畳を下って行けばわかります。
川の流れが変わったので、今は河原になってしまっていますが、かつては川岸で、ここに温泉小屋が建っていたらしい。

源泉。元々ぬるい上に、川の水が流れ込んで、冷たいだろうと思ったけど、意外や意外、「ぬるい!」
温泉水を触った手は、その時は感じなくても、後でスベスベ感。
往時には、旅館の内湯ではなく、ここに温泉小屋があって、ここへ来て入湯し、温泉がぬるいので、別に薪で沸かした湯が併設されていたらしいです。
(大正元年九月建立)不動明王の石碑。今は中洲になっている。かつては石仏もあったとも聞きますが、不心得者が持ち去ったらしい。かつての川はここより東(左岸)側の河原部分だけで、源泉も石碑・石仏も地続きだったそうです(古い写真では、源泉の周囲が土)。
昭和末期か平成初め頃のある年に、大雨で川が右岸(源泉方向)に氾濫して石河原が広がり、源泉も岩石に埋まってしまったとのこと。
その後、有志が石の中から掘り出してくれたので、現在源泉を目にすることができています。

右岸のたくさんの石垣は、人が住んでいた証。石垣で囲まれた場所も見て回ると、ここに宿があったことが偲ばれます。

(拾い画像ですが、絵葉書と思われます。)
こんな宿屋があったようです。
現在、周辺を探索すると、少し山に入った所に
石垣を積み上げられた上に、(屋根の落ちた)祠・薬師如来石像・庚申塔。そこへ上る石段の痕跡があります。(祠は明治21年建立)
川の近くの文字碑
下には「大黒天」
諸説あって「がらめき」と読む説もありますが、ワタシとしては「薬師如来」と読みたいですね。
それぞれの建立の年月(明治35年。「大黒天」は明治31年)と建立者名も彫られていて、大変に興味深いです。

宿屋は時期によって2~7軒あったそうですが、富士見館(中村さん)・阿蘇山館(松本さん)・扇屋(?)・・・。
それぞれの旅館が何処だった判りませんけどが、生き証人の話を聞くと分かりそうです。

それにしても、数軒の宿屋だけなのに、大量の石垣。往時が偲ばれます。
この画像以外に、川沿いの石垣も大したものです。よくぞ積み上げたものだと感心します。
ワタシは今回で数回目の訪問になりますが、多くの方々が「ガラメキ温泉探訪」の記を遺されています。折角ここにたどり着いたなら、温泉そのもの(源泉)だけでなく、たくさんの石垣や遺物等にも目を向けて、温泉宿があった頃の様子をにも想いを馳せてみることもお奨めしたいです。

このガラメキ温泉跡、自然に任せておけば、この源泉も洪水によって河原に埋もれてしまい(実際に一時期そうでした)、やがてその位置も不明になってしまうことでしょう。
この源泉孔の河原石を除けたり、標識を付けたり、蓋を新しくしたり、排水(湯)流路を整備したり、流れ込む水がなるべく少なくなるように工夫したり・・・、こうした整備活動をされているのは「相満山史跡研究同好会」の有志の方々です。その活動のお陰で、我々は今でも「ガラメキ温泉の源泉」を観ることができています。(感謝です!!)


相馬山南麓への興味③(物見塚~ガラメキ温泉『前編』)

2023-02-24 00:27:51 | 山歩き
群馬県の榛名山中にある「ガラメキ温泉」はその名称のせいもあってか、多くの人の興味を引き付け、探訪に訪れる人が多くいます。
元々宿屋がある温泉場だったのですが、昭和21年に進駐軍(アメリカ占領軍)に相馬山南麓一帯が演習地として接収され、温泉宿の住民が立ち退きを余儀なくされて以降、返還後も復活することなく現在に至っています。

ワタシ自身、大いに興味関心を抱き、数回訪れていたのですが、近々、ガラメキ温泉に生まれ育った方のお話を伺えることになりました。今となっては唯一生存されている方でしょうから、貴重な機会なので、事前にガラメキ温泉に関することを予習ながらに再確認してみました。

温泉宿立ち退きの経緯。
(榛東村誌より)
敗戦・終戦後、米進駐軍が帝国陸軍の予備士官学校があった相馬が原に進駐(キャンプ・ウエア)し、図の広大な地域を演習地として接収しました。
最近のブログなどで「自衛隊の演習地となり、立ち退かされた!」という記する人が見受けられますが、米軍撤収の後に駐屯した「自衛隊の相馬が原演習地」は米軍が接収した図の下の部分だけの狭い範囲だけです。自衛隊の名誉のためにも誤解のないように申し述べておきます。
現在は演習地ではないから、ガラメキ周辺に堂々と立ち入れるわけですしね。

米軍の接収にあたって、県知事宛に出された立ち退き命令は、通告文の日付けから1週間後までに、とのこと。
英文でしょうから県庁で翻訳して、町村役場へ通知文とともに送付。そして住民が知った時は80時間前(3日と8時間)だったそうです。

終戦後、米軍(進駐軍)が相馬が原に駐屯していたこと(昭21~33)、地元でも知らない人が多い昨今です。
(「アメリカさん(進駐軍)」に関する事件やエピソードはいろいろありますが、それは別記)

前置きが長くなりましたが、この春、雪解け後の最初の山行は、足慣らしも兼ねてガラメキ温泉と決めました。

現在多くの人が入る黒岩・鷹ノ巣林道ルートではなく、昭和20年まで、高崎からガラメキ温泉を経てスルス峠を越えて榛名湖畔へ上る往時の主要道(スルス古道)に沿って。
この古道は、相馬が原を通り抜けてたのですが、現在、原っぱの部分は演習地となっているので、そこは辿れません。
しかし古道・廃道マニアのワタシとしては、単にガラメキ温泉に行ければよいというのでなく、なるべく歴史的に古人が歩いた通りの道を辿ることで、古人の気持ちを共有しながら歩きたいというワタシのこだわり。

車での取りつき口としては、松之沢峠へ向かう県道のR2(カーブ)で右に逸れて、採石場へ入っていく道を行くと、広い川原へ出ます。ここは「白川河原」という所。対岸が「古道が通っていた所です。普通自動車は、ここに車を停めて(その先、モトクロスバイクがたくさん入り込んでいるしスパルタン系四駆で入り込む人もいますけど)、古道マニアとしては
「さあ歩こう!」
川を渡った先の四叉路。
左(黄色)が「ガラメキ温泉」方向。
右(青色)は「物見塚」(かつての下り・高崎方向)。
折角来たのだから、古道ルートの中間点である物見塚に立ち寄る。
道はすぐに途切れます。
演習地立入禁止。(正式には、いつも✕ですけど)、特に赤旗が立っている時は「絶対的禁止!」です。「危険な日」です。

物見塚は演習地の外にあります。
かつては、ここから山に入るという位置にある小ピークで、眺望がよく様々な目印ポイントだった丘ですが、ここより下の道が演習場によって寸断されたので、「物見塚」というかつての意義は失われています。今では塚の下は産業廃棄物処理場になっていて、ビジュアル的にも嬉しくない場所です。
ここへ来るのは今日で2回目で、何も見所ないことも知ってるけど、でも登ります。
山腹から、低位部をみる。
頂上は・・・・
かつての「物見塚」という名からは、実に残念。杉の枝で南方角(関東平野方向)のロケが全くない。
今回山頂で見つけた物は😲😱
樹木の皮を剥いたのは誰?
「熊・猪・カモシカ」この辺りに居ることは知っているけど、・・・💦
そして、動物の糞。n?これは誰?ともかく、単独山歩きは危険が大きい!カモシカ以外は出会いたくないですねえ。
と、早急に下丘。戻ります。
先ほどの黄色ルートを進むと、すぐに沢を渡ります。
この沢は「栗の木沢」
先ほどの四叉路を直進する無印の道と並行しています。
この沢はすぐ下流で、本流に合流。
(右側から合流する小さな流れが「栗の木沢」)
左上から流れてくるのは榛名白川の源流ですが、「白川」と呼ばれるのは、正しくはこの「栗の木沢」と合流してから下流のことだそうです。

栗の木沢を渡った先は、九十九折で台地へ登り上げる、通称「七曲り」(実数は6曲がり)ほぼ古道のルートですが、治山工事用にブルで開設され、コンクリート舗装がされた新しい道。2つ目のカーブにある「大山祇命」の石碑。このカーブ地点は間違いなく古道。
この先ガラメキ温泉方面に向かって、工事用に開削された道が続きます。

(この先「スルス峠への古道(ガラメキ古道)」と「ガラメキ温泉」跡については、『後編』に続きます。)










相馬山南麓への興味②(スルス峠下古道の探索)

2023-02-04 22:51:43 | 山歩き
元々は、「『黒髪山信仰登山』のルートを辿りたい!」という動機から「ガラメキ温泉~黒髪尾根登山」をやってみて、「相馬山表口石標からスルス峠への古道」に興味が広がり、「夕日河原(スルス峠直下の割りと平坦な地域)」付近を中心に古道探索しています。
gooブログの「くたびれ爺」様や「榛名古道」様の教示をいただいています。古地図を紹介していただいたり、現地踏破の記を参考に、踏み入っています。
明治40年帝国陸地測図1/20,000

今昔マップより
よくよくみると、「現行のハイキング道(歩く人が少ないので、笹に覆われています)」より東側を通っていたらしい。
「この道の痕跡を探してみよう!」
と、昨年の春先に集中的に探索してみました。
この道は、明治~昭和にかけて、高崎周辺から榛名湖畔へ登るメインルートで、観光客や物資を運ぶ馬が行き交った道。
終戦後にアメリカ進駐軍に演習地として接収されて立入禁止になり、その時に「ガラメキ温泉」の宿も撤去されました。
返還後は、この地域は演習地から外れて立ち入れるようになりましたが、下部が自衛隊の「相馬が原演習地」となり、(多少の立ち入りは黙認されていたものの)街道として大っぴらに通ることはできなくなりました。そのためこの方面から榛名湖へのルートは松之沢峠が主流になりやや狭いながらも車道が整備されて、今に至っています。
「スルス峠の古道」は、下部は主に工事用の林道になっていたり、林道から少し外れた所に痕跡が残っていたりしています。(この方面については後述)
これは、ワタシが探索したスルス峠直下の「夕日河原」と呼ばれた地域の道とその痕跡です。

(拡大して見てください)
分かった部分だけで、未完成です。
左上のスルス峠から、黄色のルートが「右京の無駄掘り」に寄りながら下って行く「現在の主要なハイク道」です。侵食された崩落箇所がありますが、そこを抜けて進むと鷹ノ巣三山の北の鞍部を経て、相馬山表口に至ります。
その途中、1029?の辺りから右に曲がり、(4号方面)の方向へ下るのが「野山を歩く100コース(安中山の会)」の「黒岩の道」。
「◯号」というのは、明治期の「デ・レーケ式堰堤」で、「夕日河原◯号堰堤」と名付けられています。
太めの実線の「ピンク色の道」が、古地図に描かれた「古道」であろうと思われる痕跡です。道幅1間(約180cm)あったと思われます。
分かりやすい所でも、こんな感じ。
すっかり笹に覆われていますが、笹の下の地形をみると、幅のある道です。

(1102地点)画像中央やや右から下ってきて、ここで左へ大きく折り返すヘアピンカーブです。

1113地点の笹の中にある「馬頭尊」の碑(明治三十二年)
かつて物資の運搬に携わった運送業者(馬持ち)が建てた碑。

(1067地点付近)
極太実線は、道跡らしいしっかりした窪地(ここへ取り付く地点が不明。下部(1151)も崩落しています。

画像は昨年の5月の撮影ですが、6月になると葉が繁って見通しが利かなくなり、藪こぎも大変になります。探索するには、落葉後の初冬と雪が融けた春先でないと難しい。
まだまだ、不明箇所があるので、春になったら確かめに行きます。