山はこれから!

爺様の追っかけで。

相馬山南麓_⑤(ガラメキ温泉で生まれた人の話)

2023-03-08 21:31:25 | 山歩き
先日「ガラメキ温泉」の旅館に生まれ育ち、子供の時に立ち退きを経験した人の講演を聞けました。
講師(Aさんとしておきます)は、昭和11年生まれ、強制立ち退きの時は10歳、当時の国民学校(小学校)5年生になったばかりの昭和21年4月に、戦争で負けた日本を占領した進駐軍によって、相馬が原~相馬山南麓一帯の広い範囲が演習地として接収され「3日以内に退去せよ!」という命令を受けて、村の人が総出で建物を取り壊し、牛車で運び出してくれたそうです。
(なかなか撤去が進まないので「期限が48時間延長された!」という裏話は、初めて聞きました。)
小学1年生の時から学校まで二里半(約10km)の道を麓の学校まで通っていたとのこと。毎朝6時に家を出るのですが、秋から冬は、外は真っ暗。途中人家もなく、提灯で足下を照らしながら歩き、途中で明るくなると提灯を消して岩陰に置いて、帰りに持って帰る日常だったそうです。
6歳の子供が、人家のない真っ暗な山道を独りで提灯をぶら下げて2時間以上かけて通学していたということですね。(80年近く昔のこととはいえ、すごいことです)
立ち退き先は、とりあえず相馬ガ原近くの叔母の嫁ぎ先の家に移り住み、その後、父親が周辺を開拓して、昭和44年までは、陸稲(おかぼ)の米が主食だったそうです。
Aさんの記憶では、温泉利用のかなりの部分が、汲み上げて持ち帰って火傷の治療も用いる人が多かったこと。
治療のために宿に泊まる本格的な湯治の人は、朝からずっと浸かっていて、お昼だけ上がり、昼食後も夕方まで浸かっていたとか。4週間位浸かっていると火傷痕がほんの僅かで済んだこと。
接収後の米軍の演習の火力の凄かったこと。それ以前も相馬ガ原は、帝国陸軍の第15連隊や予備士官学校の演習地ではあったけど、日本軍の演習とは桁違いのスケール・威力に呆然としたとのこと。(朝鮮戦争の時期なので、米軍の演習も余計にすごかったのかもしれません。)
また砲弾の破裂片を浴びた樹木が木材にならないこと。などなど。
リアルに体験した人しか語れない貴重な体験談を伺うことができた講演会でした。
現在、立ち退き以前のガラメキに住んだことがある方は、Aさんと弟・妹の計3名だけだそうです。

講師のAさんの父上(立ち退き時の家長)が、聞き知っていることをまとめ記した書のコピーをいただきました。

(冒頭部)
(本文、最終部分。中間部分の掲載はここでは略します)
この記によると「ガラメキ温泉の歴史」については、近代以前は数々の伝承はありますが、確実な近代の入植は明治10年中期頃。
(R5.2.18撮影)
現在も現地に遺されている「薬師如来像」に「明治十五年午年 建立」という文字があるので、この石仏は明治時代の初期の入植時の建立のようです。
そしてAさんの曽祖父の一家が入ったのは明治21年。


(上の薬師如来石像の横に現存する屋根部分が崩れ落ちた祠)
右側面に「明治廿一年 ガラメキ温泉」
左側面には、「箕輪本町 中村平作 建之」と彫られています。

現存する石造物の由緒がかなり見えてきました。

富士見館・阿蘇山館・扇屋の3つの旅館の由来についてもこの文書に記されています。(立ち退き時には2軒)
また、温泉湧出口にあった湯屋建物(温泉)は間口三間半、奥行き二間半という大きさ。
などなど。

(※この「上野國ガラメキ温泉誌」には、興味深い事柄がたくさん記されていますが、それは後ほど。)