Amadeus

クラシック音楽の解説

池辺晋一郎 音の地平(フィールド)

2015-12-31 04:05:03 | 日記
クラシック倶楽部 2015年9月29日


 池辺晋一郎 音の地平(フィールド)


悲しみの森ーオーケストラのために   池辺晋一郎作曲

       管弦楽:東京交響楽団
       指揮:下野竜也

バイヴァランスIXー2人のトランペット奏者のために 池辺晋一郎作曲

       トランペット:高橋敦、
       トランペット:中山隆崇

軌道エレベーター一声とサクソフォンのために 池辺晋一郎作曲

       カウンターテナー:猫殿
       サクソフォン:須川展也

木に同じくーチェロとオーケストラのための協奏曲 池辺晋一郎作曲

       チェロ:向山佳絵子
       管弦楽:東京交響楽団
       指揮:下野竜也

 [収録:2013年9月15日/東京オペラシティコンサートホール]

画像
  池辺晋一郎

池辺 晋一郎(いけべ しんいちろう、戸籍上は「池邉」が正しい、1943年9月15日 - )は、日本作曲家

茨城県水戸市出身。1963年東京都立新宿高等学校卒業。1967年、東京芸術大学卒業。1971年、同大学院修了。中学・高校時代には、クラリネットを吹いていた経験もある。高校で合唱をしていた際、そこで宇野功芳(音楽評論家)が講師をしていた。東京藝術大学で池内友次郎三善晃矢代秋雄に師事。大学で1年先輩の三枝成彰と親交があり、共に当時の若手作曲家のホープとみなされていた。在学中に書いた室内楽曲「クレパ七章」で注目され、武満徹の目に留まり一時期彼のアシスタントを務めた。8曲の交響曲をはじめとする演奏会用作品の他、黒澤明今村昌平の監督作品をはじめとする映画音楽校歌NHK大河ドラマ[注 2]やアニメ『未来少年コナン』などのテレビ番組の音楽も多く手がけている。

また、アマチュア音楽界、特に合唱とは深い関係を持っている。全日本合唱連盟の役員を長年務める一方で、1984年に混声合唱組曲「悪魔の飽食」を神戸市役所センター合唱団の委嘱で作曲したことがきっかけとなって、うたごえ運動とも交流がある。全日本吹奏楽コンクールの課題曲もたびたび委嘱されて作曲している。2007年より、せたがや文化財団音楽事業部音楽監督を務め、イベントの際には舞台上で短いトークを披露する。

N響アワー』(NHK教育テレビ)に2009年3月までの13年間司会者として出演した。日本作曲家協議会元会長。日本音楽作家団体協議会元会長。東京音楽大学教授。2007年4月1日より横浜みなとみらいホール館長。ダジャレ好きで有名。広島カープファン。女優の香川京子は父の従妹である。


吉松隆 還暦コンサート ~鳥の饗展~

2015-12-30 05:13:47 | 日記
BSプレミアム クラシック倶楽部 2015年9月30日
 
 
 
  


  吉松隆 還暦コンサート ~鳥の響展~
 
 
 

ランダムバード変奏曲 作品23         吉松隆作曲
 
           
    ピアノ:田部京子、ピアノ:小川典子

サイバーバード協奏曲 作品59         吉松隆作曲
 

           サクソフォーン:須川展也
           ピアノ:小柳美奈子
           パーカッション:小林洋二郎
           指揮:藤岡幸夫
           管弦楽:東京フィルハーニー交響楽団
 

 大河ドラマ”平清盛”作品112から”テーマ曲””屹立””戦闘””夢詠み””決意”
                         吉松隆作曲
 

           管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
           ピアノ:舘野泉
           指揮:藤岡幸夫
 

  [収録:2013年3月20日/東京オペラシティコンサートホール]
 

  吉松隆
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 1953年生まれ。慶應義塾高等学校に入学した時は医学部進学を希望していたが、やがて交響曲作家に憧れ志望を変更。慶應義塾大学工学部在学中、松村禎三に弟子入りする。作風において影響は全く受けなかったと隆は自嘲するが、1974年のピアノ独奏曲「シリウスの伴星によせる」(作品番号1)には松村を含む現代音楽の影響が濃厚である。和声対位法を学ぶよう松村に勧められ、東京藝術大学教授の川井学を紹介されたが数ヶ月でレッスン受講を断念。1974年3月には慶応義塾大学を退学した。

またこの頃には芸術音楽としての作曲を行う一方、ピンク・フロイドイエスEL&P 等のプログレッシブロックに心酔し、 キーボード奏者としてロックバンドにも参加した。

1975年、松村の紹介で原田力男と出会い、1978年11月28日、原田主催のプライヴェート・コンサートで「忘れっぽい天使」を発表し、作曲家としてデビュー(ただし作曲料は無償だった)。その間、さまざまな作曲コンクールに20回ほど応募してことごとく落選したが、1980年、オーケストラのための「ドーリアン」が交響楽振興財団作曲賞に入選。次いで1981年に「朱鷺によせる哀歌」が現代の音楽展'81で初演され、高い評価を受け、若い世代の作曲家の1人として認知された。なお青島広志の著書『作曲家の発想術』(講談社現代新書、2004年)には、「朱鷺によせる哀歌」で尾高賞を受賞したという記述があるが(p.263)、誤り。吉松本人も自身のサイトで否定している。シュトックハウゼンクセナキスなど、無調音楽を中心とする現代音楽の非音楽的傾向に反旗をひるがえし、「現代音楽撲滅運動」と「世紀末抒情主義」を提唱。1984年西村朗と共に世紀末音楽研究所を設立。交響曲、協奏曲など数多くの作品を発表。1998年からイギリスシャンドスとレジデント・コンポーザーの契約を結び、交響曲をはじめとする多くのオーケストラ作品が録音された。

プログレッシブロックファンでもある吉松は2009年にEL&Pの「タルカス」をオーケストラに編曲、翌年「タルカス~クラシックmeetsロック」としてCD発売された他、NHK大河ドラマ平清盛の劇中音楽にも採用され話題を呼んだ[2]。コンサートでの反響は「プログレ」ファンと「クラシック」ファンが重なることによるものとの分析もあり、幅広い支持を得る吉松の音楽性を物語る事例としても捉えられる


ラ・ディヴィア・アルモニア 演奏会

2015-12-29 04:58:32 | 日記
クラシック倶楽部 2015年12月28日


  ラ・ディヴィナ・アルモニア 演奏会
  

合奏協奏曲 二長調作品2第2   グレゴーリ作曲

合奏協奏曲 へ長調作品6第9    コレルリ作曲

オルガン協奏曲 へ長調HWV295  ヘンデル作曲

協奏的四重奏曲第1番へ短調    ドゥランテ作曲

カンタータ”憧れの瞳のもとへ”RV.682 ヴィヴァルディ作曲

     オルガン:ロレンツォ・ギエルミ
     古楽アンサンブル:ラ・ディヴィナ・アルモニア
     チェンバロ:ロレンツォ・ギエルミ
     ソプラノ:ヴェラ・ミラー二

  [収録:2013年12月12日/王子ホール]

(c)Sergio Caminata

ロレンツォ・ギエルミ(オルガン、チェンバロ、音楽監督)

イタリアを代表するオルガニスト、チェンバリスト、指揮者で、ルネサンスとバロック音楽の研究家。ヨーロッパ、日本、アメリカなどで幅広くコンサートや、レコーディングを行なう。ドイツ・ハルモニア・ムンディ、ウィンター&ウィンター、アルス・ムジチ、パッサカーユなどからCDを数多くリリース。フレスコバルディとミラノ出身の作曲家の楽譜の出版、16~17世紀におけるオルガン芸術、バッハの作品解釈の研究にも熱心である。現在、ミラノの聖シンプリチアーノ教会(1991年アーレント製作)のオルガニストで、92年から94年にかけてJ.S.バッハのオルガン全曲演奏会を開催。ミラノ国際音楽アカデミーの古楽研究所でオルガン、チェンバロそして室内楽の教鞭を執っているほか、2006年からは、バーゼルのスコラ・カントールムの教授もつとめる。世界中の著名なオルガン・コンクールの審査員、またマスタークラスの講師として招聘されている。イタリアの古楽アンサンブル、イル・ジャルディーノ・アルモニコの初期メンバーとして、レコーディングやライヴに参加したこともある。05年には、自身の古楽アンサンブル“ラ・ディヴィナ・アルモニア”を結成し、ヘンデルのオルガン協奏曲第1集、第2集(両方ともディアパゾン賞受賞)などを録音しているほか、ヨーロッパ各地のコンサートホールや音楽祭、ラジオ放送などに出演している。ラ・ディヴィナ・アルモニアを率いての来日は、今回が初めてとなる。東京カテドラル聖マリア大聖堂のオルガン建設のための芸術コンサルタントを務めた様子は、04年NHKハイビジョン特集「パイプオルガン誕生」で紹介された。最近は、夭折した17世紀のオルガニストで作曲家ニコラウス・ブルーンスの本を書いている。

ラ・ディヴィナ・アルモニア(古楽アンサンブル)

2005年にロレンツォ・ギエルミによって設立された。メンバーはそれぞれがバロック音楽の長い演奏経験を持ちながら、新鮮で独自性のあるものを創造することへの強い関心を保っている。早くからイタリアはもとより、スイス、オーストリア、ベルギーで公演し、08年にはミラノのSerate musicali、アオスタの国際音楽祭、ブリュッセルのボザールなどに招待されている。ベルギーのレーベル、パッサカーユで録音したヘンデルのオルガン協奏曲集第1集、第2集とハイドンの協奏曲集はいずれもディアパゾン・ドール賞などを受賞している。

ヴェラ・ミラーニ(ソプラノ)

アドリアーナ・マリポーネから声楽を、ルカ・フランチェスコーニ、ヴィットーリオ・ザーゴから作曲を学び、コモのヴェルディ音楽院を卒業。フィオレッラ・プランディーニのもとでさらに研鑽を積み、レパートリーを主にバロック音楽に絞り、ミラノ市立音楽院でロベルト・パルコーニに師事。エブリン・タブ、パトリツィア・ヴァッカーリ、フランコ・フッシのマスタークラスに参加。ロレンツォ・ギエルミ(ラ・ディヴィナ・アルモニア)、ステーファノ・モラルディ(イ・ヴィルトゥオージ・デラ・ムーゼ)、ジャンルーカ・カプアーノ(イル・カント・ディ・オルフェオ)などと共演。アオスタ国際音楽祭、ゴットフリート・ジルバーマン・フェスティヴァルなどにも出演している。


ラ・ディヴィア・アルモニア 演奏会

2015-12-29 04:58:32 | 日記
クラシック倶楽部 2015年12月28日


  ラ・ディヴィナ・アルモニア 演奏会
  

合奏協奏曲 二長調作品2第2   グレゴーリ作曲

合奏協奏曲 へ長調作品6第9    コレルリ作曲

オルガン協奏曲 へ長調HWV295  ヘンデル作曲

協奏的四重奏曲第1番へ短調    ドゥランテ作曲

カンタータ”憧れの瞳のもとへ”RV.682 ヴィヴァルディ作曲

     オルガン:ロレンツォ・ギエルミ
     古楽アンサンブル:ラ・ディヴィナ・アルモニア
     チェンバロ:ロレンツォ・ギエルミ
     ソプラノ:ヴェラ・ミラー二

  [収録:2013年12月12日/王子ホール]

(c)Sergio Caminata

ロレンツォ・ギエルミ(オルガン、チェンバロ、音楽監督)

イタリアを代表するオルガニスト、チェンバリスト、指揮者で、ルネサンスとバロック音楽の研究家。ヨーロッパ、日本、アメリカなどで幅広くコンサートや、レコーディングを行なう。ドイツ・ハルモニア・ムンディ、ウィンター&ウィンター、アルス・ムジチ、パッサカーユなどからCDを数多くリリース。フレスコバルディとミラノ出身の作曲家の楽譜の出版、16~17世紀におけるオルガン芸術、バッハの作品解釈の研究にも熱心である。現在、ミラノの聖シンプリチアーノ教会(1991年アーレント製作)のオルガニストで、92年から94年にかけてJ.S.バッハのオルガン全曲演奏会を開催。ミラノ国際音楽アカデミーの古楽研究所でオルガン、チェンバロそして室内楽の教鞭を執っているほか、2006年からは、バーゼルのスコラ・カントールムの教授もつとめる。世界中の著名なオルガン・コンクールの審査員、またマスタークラスの講師として招聘されている。イタリアの古楽アンサンブル、イル・ジャルディーノ・アルモニコの初期メンバーとして、レコーディングやライヴに参加したこともある。05年には、自身の古楽アンサンブル“ラ・ディヴィナ・アルモニア”を結成し、ヘンデルのオルガン協奏曲第1集、第2集(両方ともディアパゾン賞受賞)などを録音しているほか、ヨーロッパ各地のコンサートホールや音楽祭、ラジオ放送などに出演している。ラ・ディヴィナ・アルモニアを率いての来日は、今回が初めてとなる。東京カテドラル聖マリア大聖堂のオルガン建設のための芸術コンサルタントを務めた様子は、04年NHKハイビジョン特集「パイプオルガン誕生」で紹介された。最近は、夭折した17世紀のオルガニストで作曲家ニコラウス・ブルーンスの本を書いている。

ラ・ディヴィナ・アルモニア(古楽アンサンブル)

2005年にロレンツォ・ギエルミによって設立された。メンバーはそれぞれがバロック音楽の長い演奏経験を持ちながら、新鮮で独自性のあるものを創造することへの強い関心を保っている。早くからイタリアはもとより、スイス、オーストリア、ベルギーで公演し、08年にはミラノのSerate musicali、アオスタの国際音楽祭、ブリュッセルのボザールなどに招待されている。ベルギーのレーベル、パッサカーユで録音したヘンデルのオルガン協奏曲集第1集、第2集とハイドンの協奏曲集はいずれもディアパゾン・ドール賞などを受賞している。

ヴェラ・ミラーニ(ソプラノ)

アドリアーナ・マリポーネから声楽を、ルカ・フランチェスコーニ、ヴィットーリオ・ザーゴから作曲を学び、コモのヴェルディ音楽院を卒業。フィオレッラ・プランディーニのもとでさらに研鑽を積み、レパートリーを主にバロック音楽に絞り、ミラノ市立音楽院でロベルト・パルコーニに師事。エブリン・タブ、パトリツィア・ヴァッカーリ、フランコ・フッシのマスタークラスに参加。ロレンツォ・ギエルミ(ラ・ディヴィナ・アルモニア)、ステーファノ・モラルディ(イ・ヴィルトゥオージ・デラ・ムーゼ)、ジャンルーカ・カプアーノ(イル・カント・ディ・オルフェオ)などと共演。アオスタ国際音楽祭、ゴットフリート・ジルバーマン・フェスティヴァルなどにも出演している。


オーケストラの夜明け~山田耕筰管弦楽曲選~

2015-12-28 04:31:01 | 日記
クラシック倶楽部 2015年9月28日


オーケストラの夜明け~山田耕筰管弦楽曲選~

 2015年没後50年を迎えた山田耕筰。

序曲二長調   山田耕筰作曲

交響詩「曼荼羅の華」  山田耕筰作曲

交響曲へ長調「かちどきと平和」  山田耕筰作曲

   指揮:広上淳一
   管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

 [収録:2015年2月28日/NHKスタジオ]

  山田耕筰

山田 耕筰(やまだ こうさく、Kósçak Yamada、1886年明治19年)6月9日 - 1965年昭和40年)12月29日)は、日本の作曲家指揮者山田 耕作としても知られる。

日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。また、ニューヨークカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲を演奏、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団レニングラード・フィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある。軍歌の作曲も多く手がけている。

東京府東京市本郷(現在の東京都文京区)の医師キリスト教伝道者の父の下に生まれる。1896年、10歳の時に実父を亡くす。実父の遺言で、巣鴨宮下(現在の南大塚)にあった自営館(後の日本基督教団巣鴨教会)に入館し、13歳まで施設で苦学する。1899年、13歳のとき、姉のガントレット恒を頼り岡山養忠学校に入学[1]。姉の夫のエドワード・ガントレットに西洋音楽の手ほどきをうける。14歳のとき、関西学院中学部に転校。同本科中退を経て1904年、東京音楽学校予科入学、1908年、東京音楽学校(後の東京藝術大学)声楽科を卒業。

1910年(明治43年)から3年間、三菱財閥の総帥岩崎小弥太の援助を受けてドイツ・ベルリン音楽学校(現在のベルリン芸術大学)作曲科に留学し、マックス・ブルッフなどに学ぶ。ベルリン時代の1912年大正元年)には日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲した。

帰国後の1914年(大正3年)に、岩崎が1910年に組織した東京フィルハーモニー会の管弦楽部首席指揮者を任されるが、自身の恋愛問題により岩崎が激怒し、資金源を断たれて翌年解散する羽目となる。1917年には渡米し、カーネギーホールで自作を中心にした演奏会を開く。1920年(大正9年)12月には帝国劇場においてリヒャルト・ワーグナーの「タンホイザー」の一部などを日本初演。

1924年(大正13年)には近衛秀麿と共にハルビンのオーケストラ楽員と日本人楽員を交えたオーケストラの演奏会「日露交歓交響管弦楽演奏会」を主宰、これを母体に近衛と日本交響楽協会を設立。これは現在のNHK交響楽団の前身であるが、不明朗経理を理由に内紛が勃発。黒柳徹子の父・黒柳守綱ら4名を残し大部分の楽員は近衛と行動をともにしたため、山田派は崩壊した。弟子には内田元らがいる。

1921年文化学院音楽科主任となる。1926年、40歳の頃、湘南の茅ヶ崎町に居を構える。オーケストラ楽団の失敗により多額の借金を抱えていたが、同地で再起。「赤とんぼ」などの童謡名曲が数々生まれる[2]

1930年(昭和5年)、耕作から耕筰へと改名(後述)。1936年(昭和11年)にはレジオンドヌール勲章受章。1937年(昭和12年)には相愛女子専門学校(現・相愛大学)教授に就任。戦時体制が色濃くなった1940年(昭和15年)には演奏家協会を発足させ、自ら会長に就任する。同年11月にオペラ「黒船」(当初の題名は「夜明け」)を初演。また皇紀2600年奉祝演奏会ではジャック・イベールの新作「祝典序曲」を指揮する。1941年(昭和16年)、情報局管轄下の「日本音楽文化協会」発足、副会長に就任、また音楽挺身隊を結成してしばしば占領地での音楽指導にも携わる。将官待遇となりしばしば軍服姿で行動したため、後の「戦犯論争」の槍玉に挙げられることとなる。1942年(昭和17年)に帝国芸術院会員に選出。1944年(昭和19年)には日本音楽文化協会会長。

終戦後、自身の戦時中の行動に関して、東京新聞音楽評論家山根銀二との間に戦犯論争が勃発[3]。論争が収まった頃の1948年(昭和23年)に脳溢血で倒れ、以後体が不自由となる。1950年(昭和25年)、日本指揮者協会会長に就任し、また放送文化賞を受賞。1956年(昭和31年)、文化勲章を受章。離婚・再婚を機に戸籍上の名前も「耕筰」と改める。なお、サインには“Kósçak Yamada”という綴りを使っていた。

 
1956年

1965年(昭和40年)11月初旬、耕筰は聖路加国際病院に入院していたが、家族が東京都世田谷区成城5丁目に広壮な洋館風の邸宅を借りる。同年12月4日、耕筰は成城の自宅に退院してくる。12月29日、自宅2階の南向き10畳間で耕筰は心筋梗塞により死去。79歳没。


ピエール・ロラン・エマール ピアノ・リサイタルほか

2015-12-27 05:41:15 | 日記
クラシック倶楽部 2015年6月29日


 ピエール・ロラン・エマール ピアノ・リサイタルほか


前奏曲集 第2巻  ドビュッシー作曲

弦楽四重奏曲ハ短調 断章D.703  シューベルト作曲

   ピアノ:ピエール・ロラン・エマール

   バイオリン:吉岡麻貴子
   バイオリン:横山若加子
   ビオラ:小林明子
   チェロ:長谷部一郎
 
 [収録:2012年10月20日/島根県川本町悠邑ふるさと会館]

  ピエール・ロラン・エマール

 1957年フランスのリヨン生まれ。パリ音楽院でイヴォンヌ・ロリオに、ロンドンでマリア・クルチョに師事。1973年メシアン国際コンクールに優勝し、弱冠19歳でピエール・ブーレーズからアンサンブル・アンテルコンタンポランのソロ・ピアニストに指名された。1980年代半ばから、親しかったジョルジ・リゲティの全作品の録音に加わるとともに、練習曲数曲を献呈された。
 ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウ管、ロンドン響、ニューヨーク・フィルなどの一流オーケストラや、サイモン・ラトル、ニコラス・アーノンクール、エサ=ペッカ・サロネンら時代をリードする指揮者と共演を重ねている。
 近年ではカルト・ブランシュ(演奏家に自由なプログラミングを託すコンサート)や音楽祭のプロデュースを任されることも多く、2008年にはサウスバンク・センターのメシアン生誕100年祭を企画し注目を集めた。翌年には、オールドバラ音楽祭の芸術監督に就任し、魅力あふれるダイナミックなプログラミングにより、聴衆や音楽評論家から大喝采を浴びた。ケルン音楽大学とパリ音楽院で後進の指導にも励んでおり、2009年には由緒あるパリのコレージュ・ド・フランスで講座やセミナーを受け持つなど、多彩な活動を展開している。

 日本では、「ル・プロジェ・エマール」をトッパンホールで展開。オリジナリティあふれるリサイタルのほか、充実したワークショップなどが大きく注目されている。

パユ プレイズ武満徹~没後20年を前に~

2015-12-26 06:59:34 | 日記
クラシック倶楽部 2015年12月25日

1225

NHKBSプレミアム

午前5時00分~午前5時55分

エマニュエル・パユ 武満徹を奏でる

▽世界的フルート奏者エマニュエル・パユが、2016年に没後20年となる作曲家・武満徹の作品を奏でる▽エマニュエル・パユ(フルート)、クリスティアン・リヴェ(ギター)、高木綾子(フルート)、川本嘉子(ビオラ)、吉野直子(ハープ)▽「声」「海へ」「マスク」「そして、それが風であることを知った」「エア」(武満徹作曲)▽2015年9月13日NHKスタジオで収録

楽曲

「声 ~独奏フルート奏者のための~」
武満徹:作曲
(フルート)エマニュエル・パユ
(5分54秒)
~CT101~

「海へ ~アルト・フルートとギターのための~」
武満徹:作曲
(フルート)エマニュエル・パユ、(ギター)クリスティアン・リヴェ
(11分40秒)
~CT101~

「マスク ~2本のフルートのための~」
武満徹:作曲
(フルート)エマニュエル・パユ、(フルート)高木綾子
(8分30秒)
~CT101~

「そして、それが風であることを知った ~フルート、ビオラ、ハープのための~」
武満徹:作曲
(フルート)エマニュエル・パユ、(ビオラ)川本嘉子、(ハープ)吉野直子
(13分30秒)
~CT101~

「エア ~フルートのための~」
武満徹:作曲
(フルート)エマニュエル・パユ
(7分00秒)
~CT101~
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武満 徹(たけみつ とおる、1930年10月8日 - 1996年2月20日)は日本の作曲家

 


生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲大連に渡る。1937年、小学校入学のために単身帰国し、東京市本郷区の富士前尋常小学校に入学[2]、7年間にわたって叔父の家に寄留する。叔母は生田流箏曲の師匠であり、初期の習作的な作品『二つの小品』(1949年、未完)には箏の奏法の影響が見られる[3][4]。この頃に従兄弟からレコードで聴かされたベートーヴェンメンデルスゾーンなどのクラシック音楽には興味を示さなかったが[5]、その一方で1948年に行われた「新作曲派協会」第2回作品発表会に足を運び、後に作曲を師事する清瀬保二の『ヴァイオリンソナタ第1番』のような、当時としては新しい音楽に感動していたとされる[6]

1943年、旧制の私立京華中学校に入学。額から頭にかけての格好が飛行船に似ていたため、当時の渾名は「ツェッペリン」であった[7]。軍事教練では教官の手塚金之助少尉からしごきを受け、野外演習で入浴中に「あの金坊の野郎、ただじゃおかねえからな」と叫んだところ、真ん前に手塚がいたため「この野郎」と殴られたこともある[7]。在学中の1945年埼玉県の陸軍食糧基地に勤労動員される。軍の宿舎において、同室の下士官が隠れて聞いていた[8]リュシエンヌ・ボワイエが歌うシャンソン『聴かせてよ、愛のことばを』( Parlez-moi d'amour )[9]を耳にして衝撃を受ける。現代音楽の研究者である楢崎洋子は、後年の『鳥は星型の庭に降りる』、『遠い呼び声の彼方へ!』など、いくつかの作品モチーフに、このシャンソンの旋律線との類似点があることを指摘している[10]。戦争中は予科練を受験[7]。戦争末期には「日本は敗けるそうだ」と語った級友を殴り飛ばした軍国少年であった[11]

終戦後に進駐軍のラジオ放送を通して、フランクドビュッシーなど、近代フランスの作曲家の作品に親しむ一方で、横浜のアメリカ軍キャンプで働きジャズに接した。やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に作曲を師事するが、ほとんど独学であった。京華高等学校卒業後、1949年東京音楽学校(この年の5月から東京芸術大学)作曲科を受験。科目演奏には最も簡単なショパンのプレリュードを選び、妹の下駄を突っかけて試験会場に出向いたが、控室で網走から来た熊田という天才少年(後に自殺)と意気投合し、「作曲をするのに学校だの教育だの無関係だろう」との結論に達し[12]、2日目の試験を欠席し、上野の松坂シネマで『二重生活』を観て過ごした[13]。この時期の作品としては清瀬保二に献呈された『ロマンス』(1949年、作曲者死後の1998年に初演)のほか、遺品から発見された『二つのメロディ』(1948年、第1曲のみ完成)などのピアノ曲が存在する[14]

デビュー以前はピアノを買う金がなく、本郷から日暮里にかけて街を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたという[15]。武満は「1軒もことわられなかったから、よほど運がよかったのだ」と言っているが、ときどき同行した友人の福島和夫によると、最初は確かに貸してくれたが、何度も続くと必ず「もう来ないで下さい」と断られたという[15]。のち、芥川也寸志を介してそれを知った黛敏郎は武満と面識はなかったにもかかわらず妻のピアノをプレゼントした[15]

 

パユ プレイズ武満徹~没後20年を前に~

2015-12-26 06:57:32 | 日記
クラシック倶楽部 2015年12月25日

1225

NHKBSプレミアム

午前5時00分~午前5時55分

エマニュエル・パユ 武満徹を奏でる

▽世界的フルート奏者エマニュエル・パユが、2016年に没後20年となる作曲家・武満徹の作品を奏でる▽エマニュエル・パユ(フルート)、クリスティアン・リヴェ(ギター)、高木綾子(フルート)、川本嘉子(ビオラ)、吉野直子(ハープ)▽「声」「海へ」「マスク」「そして、それが風であることを知った」「エア」(武満徹作曲)▽2015年9月13日NHKスタジオで収録

楽曲

「声 ~独奏フルート奏者のための~」
武満徹:作曲
(フルート)エマニュエル・パユ
(5分54秒)
~CT101~

「海へ ~アルト・フルートとギターのための~」
武満徹:作曲
(フルート)エマニュエル・パユ、(ギター)クリスティアン・リヴェ
(11分40秒)
~CT101~

「マスク ~2本のフルートのための~」
武満徹:作曲
(フルート)エマニュエル・パユ、(フルート)高木綾子
(8分30秒)
~CT101~

「そして、それが風であることを知った ~フルート、ビオラ、ハープのための~」
武満徹:作曲
(フルート)エマニュエル・パユ、(ビオラ)川本嘉子、(ハープ)吉野直子
(13分30秒)
~CT101~

「エア ~フルートのための~」
武満徹:作曲
(フルート)エマニュエル・パユ
(7分00秒)
~CT101~
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武満 徹(たけみつ とおる、1930年10月8日 - 1996年2月20日)は日本の作曲家

 


生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲大連に渡る。1937年、小学校入学のために単身帰国し、東京市本郷区の富士前尋常小学校に入学[2]、7年間にわたって叔父の家に寄留する。叔母は生田流箏曲の師匠であり、初期の習作的な作品『二つの小品』(1949年、未完)には箏の奏法の影響が見られる[3][4]。この頃に従兄弟からレコードで聴かされたベートーヴェンメンデルスゾーンなどのクラシック音楽には興味を示さなかったが[5]、その一方で1948年に行われた「新作曲派協会」第2回作品発表会に足を運び、後に作曲を師事する清瀬保二の『ヴァイオリンソナタ第1番』のような、当時としては新しい音楽に感動していたとされる[6]

1943年、旧制の私立京華中学校に入学。額から頭にかけての格好が飛行船に似ていたため、当時の渾名は「ツェッペリン」であった[7]。軍事教練では教官の手塚金之助少尉からしごきを受け、野外演習で入浴中に「あの金坊の野郎、ただじゃおかねえからな」と叫んだところ、真ん前に手塚がいたため「この野郎」と殴られたこともある[7]。在学中の1945年埼玉県の陸軍食糧基地に勤労動員される。軍の宿舎において、同室の下士官が隠れて聞いていた[8]リュシエンヌ・ボワイエが歌うシャンソン『聴かせてよ、愛のことばを』( Parlez-moi d'amour )[9]を耳にして衝撃を受ける。現代音楽の研究者である楢崎洋子は、後年の『鳥は星型の庭に降りる』、『遠い呼び声の彼方へ!』など、いくつかの作品モチーフに、このシャンソンの旋律線との類似点があることを指摘している[10]。戦争中は予科練を受験[7]。戦争末期には「日本は敗けるそうだ」と語った級友を殴り飛ばした軍国少年であった[11]

終戦後に進駐軍のラジオ放送を通して、フランクドビュッシーなど、近代フランスの作曲家の作品に親しむ一方で、横浜のアメリカ軍キャンプで働きジャズに接した。やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に作曲を師事するが、ほとんど独学であった。京華高等学校卒業後、1949年東京音楽学校(この年の5月から東京芸術大学)作曲科を受験。科目演奏には最も簡単なショパンのプレリュードを選び、妹の下駄を突っかけて試験会場に出向いたが、控室で網走から来た熊田という天才少年(後に自殺)と意気投合し、「作曲をするのに学校だの教育だの無関係だろう」との結論に達し[12]、2日目の試験を欠席し、上野の松坂シネマで『二重生活』を観て過ごした[13]。この時期の作品としては清瀬保二に献呈された『ロマンス』(1949年、作曲者死後の1998年に初演)のほか、遺品から発見された『二つのメロディ』(1948年、第1曲のみ完成)などのピアノ曲が存在する[14]

デビュー以前はピアノを買う金がなく、本郷から日暮里にかけて街を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたという[15]。武満は「1軒もことわられなかったから、よほど運がよかったのだ」と言っているが、ときどき同行した友人の福島和夫によると、最初は確かに貸してくれたが、何度も続くと必ず「もう来ないで下さい」と断られたという[15]。のち、芥川也寸志を介してそれを知った黛敏郎は武満と面識はなかったにもかかわらず妻のピアノをプレゼントした[15]

 

西村朗 室内オペラ”パガヴァッド・ギーター”

2015-12-25 05:27:48 | 日記
クラシック倶楽部 2015年12月24日


 西村朗 室内オペラ”パガヴァッド・ギーター”


 インドの神話に基づいた、人類すべての苦しみと葛藤を昇華する壮大な作品をスタジオ演出したもの。

 あらすじ:戦いに疲れ悩む王子アルシュナ(加賀ひとみ)に、友人のクリシュナ(松平敬)はりんねからの解説の道を説く。
 実はクリュシュナは絶対神ヴィシュヌの化身であった。人が目指すべきシャーンティ(永遠の安らぎ)とは

  [収録:2015年2月15日/NHKスタジオ]

  楽曲  室内オペラ 「パガヴァッド・ギーター」  西村朗

  アルジュナ...メゾ・ソプラノ:加賀ひとみ
  クリシュナ...バリトン:松平敬
  指揮:板倉康明
  打楽器:悪原至、安東友樹子、石井喜久子、伊東すみれ、小俣由美子、新野将之
  舞踊:安延佳珠子、阿部裕子、吉森晴美
  影絵操作:スミヤント

 西村朗
 

西村 朗(にしむら あきら、1953年9月8日 - )は日本現代音楽作曲家

 


母校や尚美学園などで勤務後、東京音楽大学に勤務し大学・大学院教授となる。2003年4月から2009年3月までNHK-FM現代の音楽」の番組担当を務めたのち、2009年4月から2012年3月の番組終了までNHK教育N響アワー」の司会を務めた。武満徹作曲賞2007年度、ガウデアムス作曲賞2009年度などの多数のコンペティションの審査員もこなす。2000年よりいずみシンフォニエッタ大阪にて音楽監督を、2010年より草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル音楽監督を務めている。父は大阪市城東区自転車店、母は大阪市城東区役所の職員の息子として生まれる。幼い頃の夢は比叡山僧侶になることだったが、小学校5年のとき放送部に入ったことでクラシック音楽に惹かれ作曲家を志す。大阪では下村米太郎・大橋博・山田光生らに教えを受けた後、大阪府立旭高等学校時代、池内友次郎に師事。東京藝術大学大学院まで矢代秋雄野田暉行に師事。1980年修了。