うっぴっぴっ

     

ブレッソン

2007年08月11日 23時49分05秒 | 芸術
金曜日に国立近代美術館へ行った。ブレッソンがもうすぐ終わるので。
確か『決定的瞬間』だったよな、と思いながら。

『決定的瞬間』とは、別に狙っているのではなくて、自分の持っているコンポジションや、世界との接し方、視覚が、その一瞬に結実する、その瞬間の意味なんだろうと私は思っている。まぁ、沢山の写真が展示してあって、そんなもんなんだけど。私が面白かったのはオリジナルプリント。オリジナルをありがたがる趣味は私にはありません。念のため。

写真を観る時に、私の視線、視点と撮影者の視線、視点とが重なって、そこにあったもの、そこにあった撮影者の位置を垣間みる、その影をみて、見る側は自分の知識や経験や解釈を積み重ねることになる…と思ってるんだけどね。

オリジナルプリントの場合、撮影者が、写真をどのように扱っていたかを知ることになる訳で、それはまた面白い体験ではある。

小さめのプリントに柔らかな現像、紙の退色なのかそういうプリントなのか。

沢山のデッサンも展示されている。とはいえ、決してブレッソンは絵画主義なのではなく、やはりそこが『決定的瞬間』なんだろうと思う。写真の写真である場所。

あまりの展示数の多さにぎょっとしたけれど、結構、興味深い展示だった。

ちょっと気になるもの

2007年04月18日 00時51分05秒 | 芸術
東京国立博物館でダヴィンチの受胎告知が公開されてて、国立新美術館にてモネの大回顧展をやっている。

学生の頃、振袖の代わりに、親に頼み込んで行かせてもらったヨーロッパ旅行で行ったウフィツィ美術館、そしてオランジェリー美術館の大壁画が懐かしくなり、行きたいな、とも思った。

でも、これは良き想い出の一環でしかないのであって、東京で出向いたなら、同じような想いをもっや、残念ながら、そういった機会に遭遇することなく、想い描いて来た人たちが沢山観に来るに違いなく、おそらく、全く別の体験をするに違いないと想像している。
しかし、やっぱり、ダヴィンチもモネも観たいかもなぁ。

芸術とは体験なんだよなと。
いくらパソコンの前でぶちぶち唱えたところで、あの体験は何物にも代え難い。

アタゴオルで始まって荒木経惟他を経て大竹伸朗で終わって黒豆を煮ている一日

2006年11月05日 23時16分43秒 | 芸術
今日は3連休にしようと思っていたことを全部しようと思いました。このところ、モチベーションが低下していて何も出来ていないから。

まずは「アタゴオルは猫の森」。ますむらひろし原作のアニメーション。音楽は石井竜也で、最初、音楽うっせーなー、と思ったけど、だんだんとそのうるささが快感になっていきました。でも、オープニングの石井竜也のプロモーションフィルムは絶対にいらないと思う。映画の中での曲は悪くないけど、逆効果。
必ずしも、目立つことが評価に繋がるとは限らないのよ。特に、こーんなマニアックな映画の場合は。
評価の善し悪しはしらないけれど、生きる力の弱まっている今日この頃の私には、何があっても花より団子で生き延びるというヒデヨシパワーは大変よろしかったです。

終了後、同僚からもらったチケットで写真美術館へ。「パラレル・ニッポン現代日本建築展」写真美術館所蔵の建築写真も使って都市と建築の再構成。
久しぶりに石元泰博の桂離宮を観た。構成的で美しい写真。彼はシカゴバウハウスで学んだのだ。それを聞いて、私もどんなにシカゴアートインスティテュートへ行きたかったことか。
それから宮本隆司の廃墟の写真などなど。

建築展。
もともとの建物を生かした象設計集団の丹後宇川温泉・よし野の里http://www5.nkansai.ne.jp/org/ukawaonsen/(リニューアル中らしい)、それから隈研吾さんや藤森照信さんの柔らかい光が入って来る建物だったり、自然な素材を使っていたりする建物がよかったな。

荒川周作の三鷹天命反転住宅はすごい。
http://www.architectural-body.com/mitaka/
これ、建てちゃったんだ…て感じ。でも、住むヒトは毎日刺激があってよいかも。でも、まさか、部屋の中に傾斜はないよね。

見終わってフロアを上がって石内都の展覧会へ「mother's」というタイトル。亡くなった母親の遺品や写真。記憶と想い。特に目新しい写真はなかったけれど、人はなぜ、写真を見たがるのかな、と疑問に思った。

ちょっとややこしく考えると…。
被写体が公共のものであれば、私たちはある種の客観性を持った媒体として写真を見ることができる。
が、目線が私的になり、被写体が撮影者との関係が個人的になった途端、写真はごくごく私的な眼差しによって捉えられた世界を映し出す。被写体と撮影者との関係から疎外された第三者は、写真を観る時に撮影者と眼差しを重ねざるを得ない。が、そこで得られる体験は、撮影者の体験の疑似体験、そして、自分の体験の中からしか追体験することができない。
人はなぜ他人の写真を見るのだろう?

で、見終わったので、とりあえずマクドナルドで腹ごしらえ。今日はゆっくり食事をする時間はない。

今度は、新聞屋さんからもらったチケットで北斎をみに「江戸の誘惑展」へ。ともかくすごい人出に驚く。蒔絵なんて上から沢山の人が覗き込んでいて、ともかく見られたもんじゃない。まぁ、そこそこにして出て来る。

常設展で偶然やっていた荒木経惟展を観る。荒木経惟をきちんと観るのは初めてじゃないか。それとも観たことがあるのかな。写真展と写真集は、ともかく沢山観たので忘れちゃったものもある。

荒木の写真は嫌いだった。メディアに出て来る荒木の写真はコントラストも強く、情緒的で私生活を売り物にしていて、ともかくいただけなかった。写真はそれでいいのかと思った。

ところがどっこい。今日写真を観て驚いた。明るいのね、底抜けに。さっきも書いたけど、個人的な写真というのは被写体と撮影者の関係によって、まずは成立するわけなんだけど。

荒木の写真は楽しそうなのよ。驚いた。多分、この人は全ての人に興味があって全部が楽しいんだと思う。そこに在ること、生も死もひっくるめて全肯定で、もちろん、写真はそこにないものは撮影できないので、一種の存在を肯定している道具だと思うんだけど、だから荒木は写真を使うんじゃないのかなぁ。

荒木の写真のプリントは汚い、というのが私の持論だったんだけど、ところがどっこい。きれいなプリントですわねぇ。確信犯なのね。ネガが荒いのもコントラストが強いのも。それをきれいにプリントしているわけですわ。
私が荒木経惟に持っていた偏見はふっとびました。はぁ。

さて、江戸東京博物館を出たのは夕方4時。展覧会を観るのは体力がいります。結構くたくた。最後の東京現代美術館へ向かいます。

大竹伸朗展です。1955年から2006年までの全景です。この人も好きじゃなかった作家の一人です。何となくどろっとしていて苦手でした。今回、大量の作品を観て面白いと思いました。意外だったのは奥さんと二人の子供を描いた作品。
3フロアにわたって、50年間の作品が展開されています。私は展覧会をさらーっと流して、要所要所を観る、という見方をするので何とか生きて帰還しましたが、1つ1つ、これはどういう意味だろう、などと考えてみていたら1日では絶対に見切れません。
作品はレイヤー構造を以て語りかけてきます。しかし、これは、絵画とレイヤーということを知っているから、そう思うのであって、普通、初めて彼の絵を観た人たちはどのように思うのでしょうか。
本当に沢山の作品がありました。普通の画家はこんなに絵を描かないだろうとも思いました。この人はある種の天才なんだと思います。

少々くたびれました。今週、観ようと思っていて観られなかった上野の科学博物館は、また改めて行こうと思います。80年代から90年代、私が観てきた色々なものを改めて評価した一日でした。荒木経惟については、もう少し調べてみようと思います。

家へ帰ってきてから、黒豆を初めて煮てみました。

表参道ヒルズ

2006年09月14日 16時57分41秒 | 芸術
職場の行事で船の科学館へ。同僚と新橋周りで帰る筈が、電車を降りたらなぜか豊洲。仕方ないので有楽町線で永田町経由表参道へ。

表参道ヒルズで食事をするため。ブランドぺかぺかのカタカナビルという偏見ありありで入ってみると何とも優しいすばらしい建物。さすが安藤忠雄。上部住宅、脇の住宅外観は昔の同潤会の面影を宿す。
しかし、結局、込んでいて入れず。病院の裏の店へ。これも風情のある飲み屋で、とてもお気に入りになった。焼いたお魚を出してくれるお店。食事もお酒もおいしい。

ちょっと忙しくてくたびれ気味の私は眠くなって帰宅。電車の中で立ったまま眠ってしまいそうになり、がくっと来て目が覚め、あたかも何もなかったかのごとく。

写真は表参道ヒルズ。写真撮っておこられないのかな?まあ、いいや。

creativeとinnovative

2006年07月18日 20時48分06秒 | 芸術
またまた同僚A氏のブログに反応してしまうのです。
「私」をどんなに消去していっても、「私」を消すことは出来ない。これは不幸であるとも言えるんだと思います。
逆に「創造性」だとか「個性」だとか唱えた途端に、既にその言葉の範囲で考えるしかなくなってしまう。

何かを創ろうとする時に、私たちの出来ることってなんなのかと言ったら、私の頭の中に既にある何かを基に考えて行くこと、思いつくことでしかない。「モノを創る」ということはとても不自然な行為で、創る私がいないと成立せず、で、個性なんて物はつぶしてもつぶしても、そこにいるのは私でしかないという変な状況なのです。
誰かが何かを言った、というのが気になって仕方ないと言うのは、誰かに認めてもらわないと不安になってしまう画一的で保証された「個性的な私」なんだろうなと思います。
だからといって、変なことばっかり口走ってしまう「私」というのもどうなのかしらね。少しは人にあわせろ、て感じ。
今日は気圧がとても不安定のようで、アレルギー持ちの私は大変つらい思いをしていて、ちょっと分裂気味です。

横浜トリエンナーレ

2005年12月19日 23時34分16秒 | 芸術
昨日、横浜トリエンナーレへ行った。12時からの歌舞伎に間に合うように、10時開場直後に入場し、11時過ぎに帰るまで、会場を駆け抜けた。奈良美智の展示はさすがにすごいと思った。あれだけの空間をしつこくしつこく埋め尽くすエネルギーはすごい。サッカーゲームも面白そうだったな。色々な国の文脈から出て来た現代芸術が、一つ所に集まり、相互に影響し合いながら、また、異なる空間を産んで行く、それは、とても面白かった。こんなに大勢の人が観に来る現代美術というのも、何となく不思議な感じがした。美術は様々な要素で構成され、その作家のおかれた状況を語らざるを得ないのだけれど、現代美術の文脈を知らない人が観た時に、どのくらい面白いものなのだろうか。
こういったお祭りは一つのきっかけで、昨日で終了し、また次なるものが現れ出るのであるけれど。

北斎展

2005年11月28日 01時46分25秒 | 芸術
大人気の北斎展に土曜日に足を運んだ。
が、観られなかった。
60分待ちで~すっの声にくじけて、グッズ売り場へ向かった。
火曜日から又ベトナムなので、チケットが無駄になった…。

八月納涼歌舞伎「隅田川続俤 法界坊(すみだがわごにちのおもかげ ほうかいぼう」

2005年08月13日 22時55分12秒 | 芸術
昨日は、またまた歌舞伎座へ行く。
何の前知識もなく行ったので、現代演出家による歌舞伎の舞台装置に、まず驚く。まぁまぁ、芝居は見ている方だけれど、串田和美の演出を観るのも初めてだった。でも、楽しかった。
殺陣もあったし、見栄も切ったし、この演目は歌舞伎の演目だし。歌舞伎の伝統を踏まえて現代の味付けをする、と解釈するんでしょね。
子供の頃、ちょうど歌舞伎が低迷していた頃に観た歌舞伎は、やっぱり、伝統芸能の域を出なかった気がする。ここのところ、何度か観ている歌舞伎は、歌舞伎ではあるのだけれど、十分に現代の視点から物語に入り込む事が出来る。この違いは何なのだろうか。私が年をとったのか、というのは簡単だけど、そうではない気がする。やはり、歌舞伎界の努力ではないか。
もちろん、伝統芸能としての側面は持ち合わせちゃいるのだけれど、その前に、やはり、芝居は「観た~」という気持ちよさがないといけない。どんな芝居でも。
で、七之助はパパと一緒にいると、子ギツネが親ギツネと一緒にいるみたいで、何だか可愛らしい。法界坊に殺されちゃう野分姫なんだけど、しとっとした感情があふれでている。
いやいや、こういう視点で芝居を観てはいけないのっでしょね。
2部も観たかったけどこの暑いのに当日券並ぶ気には、なかなかならないな。遊ぶのに忙しいし。
それにしても、どうして日本の芝居って、当たり前のように幽霊だの、化物だのでてくるんでしょう。

今日は、運動して、マッサージへ行って、買い物して、駅から外へ出たら、突然の雷雨。
その後、きちんとした夏空が見えて、やっと夏だなと。

歌舞伎座のチケット販売システムと八月納涼歌舞伎「祇園祭礼信仰記 金閣寺(ぎおんさいれいしんこうき)」

2005年08月10日 23時00分16秒 | 芸術
本日、初日。豪華なキャスティング。
祇園祭礼信仰記金閣寺。雪姫に福助。
三津五郎って、八十助だったのね。
ホントに私が歌舞伎なんて観ているのは十年ぶりくらいで、私が子供の頃とは、みんな名前が変わっていてわからないよぉ。
福助の雪姫、きれい。

お弁当を食べている時、隣の「通な」おじさんが言うには、今は女形と言えば福助なんだそうな。新聞や雑誌なんかの劇評なんかより、よっぽど、このおじさんの方が知っているんだろう。おじさんに、「誰か贔屓の役者さんはいるのかい?」と聞かれて、「いえいえ、まだまだ、そこまで深くありません」と応えた私。おじさんのファンになっちゃうわよ。おじさん曰く、『近頃は切符が手に入りづらくてねぇ、世の中が便利になると、不便になっちまうんだよ」とぼやいていた。歌舞伎座さん、古いファンを大事にしなくちゃぁいけません。もちろん、若いファンは大事かもしれませんが、こういうおじさん達が、芝居のクォリティを支えているんです。並んで買える切符も、ちゃんとつくってください。コストダウンも大事ですが、ファンは大事にしましょう。工夫して、おじさん達も楽しめるようにしましょう。頭使わなくちゃだめです。今のチケット販売システムは怠慢です。

「橋弁慶」七之助の牛若丸、永遠の少年という感じ。
「雨乞い狐」義経千本桜の狐の末裔の堕落した狐、という設定。
「義経千本桜」では、ご先祖の皮の小鼓を追って来た狐だった。猿之助で観たのよ。むかぁし。勘太郎の狐、その、「むか~し観た狐忠信」を思い出して、じんわり来てしまう。可愛いのよ。
若手はいいねぇええええ。

この日は休みの予定だったけれど、都合で、その後、仕事。来週は夏休みだから頑張るぞ。