野球小僧

終戦の日 ~幻ではない甲子園

高校球児なら誰もが憧れる甲子園。2020年の夏の大会は中止となりました。選手権大会では、1941年~1945年の5年間(当時の大会名は「全国中等学校野球大会」)は「戦争のため中止」でした。

1941年は春の選抜大会は開催されましたが、選手権大会は地方予選が開催されている途中で中止が決まりました。日中戦争の激化によって兵士や軍事物資の輸送が最優先となり「この非常時に、球児の遠距離移動などまかりならん」ということになったのです。

そして1941年12月に太平洋戦争が勃発。まだ、戦地的には日本には直接影響はなく、野球をすること自体はできました。そこで国は、「戦意高揚に、国民に人気のある中等野球を利用しよう」と考え、「全国中等学校錬成野球大会」を新たに創設したのでした。

主催は朝日新聞社ではなく、文部省(現;文部科学省)と大日本学徒体育振興会のため、公式の記録としては残されていませんが、選手権大会と同じく大会会場は阪神甲子園球場、出場校は地方予選を勝ち抜いた16校となりました。

この大会の決勝は、徳島・徳島商業(現;徳島商業高)と京都・平安中(現;龍谷大平安高)。試合は延長戦にもつれこむ大熱戦になりましたが、11回裏に平安中のピッチャー・富樫淳さんの押し出しフォアボールで、徳島商がサヨナラ勝ちしています。

平安中10000104001 |7
徳島商01000050002x|8

富樫さんは、この大会、「屈指の剛速球投手」と注目されており、初戦の大阪・市岡中学をノーヒット・ノーランに抑えていました。しかし、その後は肩の故障もあり、苦戦していました。実は、当初、準決勝が予定されていた日の広島・広島商業戦が雨によって中止となりましたが、大会の日程の関係で決勝戦が8月29日と決まっており、この準決勝が8月29日午前8時の開始が決定され、決勝戦が同日午後2時という強行日程が組まれてしまいました。

冨樫さんの肩の故障は致命的で、昨夜からの湿布治療に加え、試合前には痛め止めを打って臨んだ準決勝は、腕が伸びず、速球は威力を失い、かろうじてカーブなどで広島商業打線を抑え、なんとか決勝に進めました。

決勝でも、冨樫さんは球速もなく、肩をかばって肘から先で押し出すような投球でした。この投球に徳島商業は戸惑ってしまい、打ちあぐねてしまいます。そこで、7回から徳島商業は制球の定まらない冨樫さんに対し、徹底してボールを投げさせる作戦を取り逆転。ついに、平安中は富樫さんを交代させます。それでも、平安中は打線が8回表に3安打3フォアボールで6-6の同点に追いつき、8回裏から冨樫さんを再びマウンドへ送り、試合はそのまま延長線へと突入。しかし、延長11回裏、2アウト満塁でついに冨樫さんが力尽き、押し出しフォアボールを与え同点。そして続くバッターは、バットを一度も振ることなく押し出しフォアボールでサヨナラ負けとなりました。

現在、高校野球は大人気で、阪神甲子園球場のスタンドはほぼ満員ですが、このときのスタンドも満員だったそうです。

しかし、大会は軍部が主導するという要綱で、阪神甲子園球場のスコアボードには「勝つて兜の緒を締めよ」「戦ひ抜かう(戦い抜こう)大東亞戦」などの横断幕が張られ、選手は「選士」と呼ばれるなど、非常に軍事色の強い大会でした。

さらに、特別なルールが採用され、その1つが「選手交代禁止」でした。これは、「プレー不可能な大ケガでない限り、選手は必ず最終回までプレーする」というのです。理由は、「兵士は戦場で交代などできない」という、現在では訳のわからないものです。実際に、大会中にフェンスに激突して足を何針か縫うケガをした選手も出ましたが、交代させてもらえず、そのままプレーしたそうです。

さらに、「デッドボール(死球)はよけてはならない」というもの。これは、「突撃精神に反する」からとのことで、ボールが当たっても一塁には行かず、そのまま続行だったそうです。

そして、試合中のアナウンスは戦時中の様相を映したもので、「〇〇様、軍務公用です。直ちに家に戻ってください」と流れることもあったそうです。すると観衆から拍手だったそうです。これは、召集令状(在郷軍人・国民兵などを召集する命令文書)が届いたことに観衆が拍手するという、悲惨な状況だと思います。

開催されたのはこの1回だけで、この大会のあと、日本はさらに戦争へと突き進み、公式の大会はすべて中止となりました。

平安中野球部も廃部になり、学校では軍事教練で模擬手りゅう弾の遠投を競う「手りゅう弾投げ」が行われました。ボールを握るはずの手で武器を扱い、肩のケガが回復した富樫さんが投げた手りゅう弾は100m以上の距離が出ていたそうです。

そして、野球部の先輩や大会に出場した選手の中にも戦争でなくなってしまった方は数多くいます。どれだけの球児が「もう一度、野球をやりたい」という思いで戦地へ赴いたのでしょうか。多くの球児の青春は、戦争に奪われてしまいました。

この大会で準優勝となった平安中は戦後の1956年の第38回選手権大会に3度目の全国制覇を果たします。このときに、選手たちに胴上げされた監督は、1941年の大会の富樫さんでした。

富樫さんとバッテリーを組んでいた原田清さんは、「戦争とコロナではまったく違う理由だが、日本中で大変なことになっているのは同じ。コロナが憎いね」「今はこんな平和な時代なのに試合もできないとは、選手はどれほど悔しいだろう」と、同じように甲子園という目標を失った高校球児たちを思ったそうです。

そして、「満員の甲子園でプレーしたことが幻と言われると今も悔しい。でも今の選手の気持ちを思うと、甲子園で野球ができた私の方がまだ良かったと思わないといけないね」と複雑な胸中を語っています。

高校野球で流した汗や涙は決して「幻」ではありません。

新型コロナウイルスによってお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りするとともに、罹患された皆様に心よりお見舞い申し上げます。また、日々新型コロナウイルスと戦っている医療関係など、私たちの命と生活を守るために働いてくださっている関係者の方々に、心からの敬意と感謝いたします。

どうか、みなさまとご家族、関係者の方がご健康であっていただければと思っております。1日でも早く流行が終息の方向に向かうことを願っております。

私のブログにお越しいただいてありがとうございます。また、明日、ここで、お会いしましょう。

コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。

戦争を経験していない世代で、75回目ということでもありませんが、何かこの日は特別な感じですね。

昔は、この時期に合わせて戦争を描いた映画やドラマをどこのTVでも放送していましたが、最近はあまり目にすることが少なくなってきました。戦争を経験した方々が高齢化していき、TVでも伝えられていく機会が少なくなっていますが、日本人として風化させてはいけない出来事ですよね。
eco坊主
おはようございます。

またこの日が来ましたね。忘れてはならない日が。
人が人の命を奪うという行為は本当に悲しいものです。
コロナ禍の中命を救うために戦っておられる多くの方々の姿を見て感じて欲しい!
無慈悲に人の命を奪う戦争は許されないことだと!

多くの散っていかれた御霊に心からお祈り申し上げます。合掌


多くの方に感謝しつつ自ら冷静な行動をしたいと思います。
ここにお越しの皆様もどうかお気をつけください。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

最新の画像もっと見る

最近の「高校野球」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事