「あなたがいたから、プロで24年やれました」
前田智徳さん。元;広島東洋カープの選手です。
熊本・熊本工業高校から1990年にドラフト4位で入団。2年目から卓越した打撃センスと強肩、俊足の外野手として活躍しました。
その打撃技術は、落合博満さん(現;中日ドラゴンズGM)やイチロー選手(マイアミ・マリーンズ)から「天才」と呼ばれました。しかし、入団6年目の1995年に右足アキレス腱を断裂してからは、ケガとの戦いを強いられ、「ガラスの天才打者」と呼ばれ、2013年に24年間の現役生活を終えました。
前田さんは高校時代に3度、甲子園に出場しましたが、目立った活躍は出来ませんでした。同期の大阪・上宮高の元木大介さん(元;読売ジャイアンツ)の存在が際立っていました。
それでも、夏の甲子園が終わってから、全球団が挨拶に行き、特にダイエーホークス(当時)は、3位での指名を早い段階で明言していました。地元・九州の球団ということもあり、前田さんはホークスが第1希望になっていました。
しかし、ドラフト当日、ホークスからは指名がなく、カープから4位指名となりました。前田さんは「(ダイエーに)騙された」と思い、現実を受け入れられなかったそうです。下宿先に引きこもり、登校拒否になったそうです。そして、気持ちは社会人で野球を続けることに傾いていたそうです。
ドラフトから数日後、指名挨拶でカープのスカウトと会ったときに「ウチは4位で指名すると言って実際に指名した。約束を守ったよな。でもダイエーは3位で行く、と言っても、約束を守らんかった」と言われたそうです。
それでも、社会人に進む決意は変わらなかったそうですが、その後もスカウトは強く説得を続け、「オレは約束どおり指名したぞ。男なら約束を守ったらどうだ」と前田さんを一喝したそうです。そして、次第に「(入団を)拒否することによって、高校の先輩方の顔に泥を塗ることは出来ないし、後輩がプロに入れなくなるのも困る」と考えたそうです。また、前田さんが熊本工高で野球を続けるために、両親が熊本市内の下宿代を出してくれ、経済的な負担もかけていたこともあり、プロに入れば両親を少し楽に出来るかも知れないと、返答期限当日まで迷いに迷い、その日の夜12時に高校の野球部長の先生を通じて、「お世話になります」と返事をしたそうです。
この時のスカウトが宮川孝雄さん(後に村上と改姓)でした。宮川さんは前田さんが甲子園に出たとき、「とにかく、打つな。頼むから打つな」とつぶやいていたそうです。甲子園で打つとカープ以外の球団からも注目されてしまう。どうしても欲しい選手だったからだそうです。宮川さんは九州地区を担当し、北別府学さん、津田恒実さん(故人)、緒方孝市監督などカープの屋台骨を支える選手を多く獲得した方です。
カープ入団後の1年目のキャンプは二軍スタートでしたが、宿舎に来た宮川さんから「お前は、握ったバットが手から離れなくなるくらい、バットを振らないと一人前になれん。フォームがああだ、こうだと屁理屈を言うよりも振っていかないと駄目だ」と言われたそうです。
そんな宮川さんは現役時代は代打で活躍し、通算代打安打187本は現在も日本記録になっています。また、自らをとことん追い込む人だったそうで、当時、遠征先で同部屋になることが多かった苑田聡彦スカウト統括部長が「朝食後、部屋に戻ると、パンツ一枚になって昼までスイングする。昼食後にさらに1時間振ってから、球場入りする人でした。代打としてバット一本で勝負する、という姿勢は凄かった」と語っています。
入団当初、宮川さんの教えどおりチームから支給された約1㎏のマスコットバットを振り続けたそうです。当時、メーカーとの用具契約はなく、一本数万円するバットを1ダース購入することは高い買い物だったため、半ダースだけ買い、試合でしか使わなかったので、練習では1㎏のマスコットバットだけを振っていたそうです。そして、バットを振る力を養うことが出来たそうです。
そして、2年目から129試合に出て、3年目の1992年から1994年までほぼフル出場を果たし、打率はすべて3割を超える成績を残しました。打席ではストレートを待ちながら、変化球が来ても、無意識に体が自然に対応する。相手ピッチャーの配球に頭を巡らせず、「来た球を打つ」という「究極の打法」に近づいて行く手ごたえがあったそうです。
中日ドラゴンズ戦でヒットを放ち、一塁に行くと、落合さんに声をかけてもらうようになり、このチャンスを逃さず、落合さんに限らず、打撃の時の力の入れ具合や練習法を、大先輩たちに聞いて回ったそうです。
その一方で必要以上に身体を追い込み、パワーをつけようとウェートトレーニングを積んで、無理やり食べ、体重も増やしたことで、急激に身体を大きくしたことで、足に負担がかかり、1993年からアキレス腱の痛みがひどくなり、1995年のシーズン序盤の試合で一塁への走塁中に右足アキレス腱を断裂してしまいました。
宮川さんがお見舞いに訪れた時「(広島に)入っていなければ、アキレス腱を切ることもありませんでしたね」と憎まれ口を叩いたそうですが、宮川さんは半分笑いながら「バカタレ、お前」と慰めてくれたそうです。
宮川さんは自分が獲得した選手に対し、息子のように愛情を注ぐ方だったそうです。その分、チャンスを生かそうとしない選手には厳しかったそうです。宮川さんとは気安くしゃべれないものの、それでも野球に対して生半可な気持ちではやっていないということだけは理解してもらっていたと思ったそうです。だから、生意気な態度を取っていても、大ケガをした心情を思い、慰めてくれたと思ったそうです。
前田さんが目指した「究極の打法」は、ケガをした右足がポイントだったそうです。打ちにいったとき、踏み出した右足で踏ん張ってしっかり止まり、ボールを捉えなければならないのですが、踏ん張れなくなってしまい、さらには左右の足のバランスが崩れてしまい、無理に動かそうとすると肉離れを起こしやすくなってしまったすです。
1996年は開幕から数試合出て肉離れを発症してしまい、以後、休みながら試合に出るようになりました。2000年には右足を無意識にかばっていた結果、左足のアキレス腱に故障を抱え、手術を受けます。2001年の出場は27試合、入団1年目以来のホームラン0でした。
そのシーズンオフ、前田さんは宮川さんに「もう(現役を)やめます。オーナーにも、その意思を伝えていただけますか」と言いました。宮川さんは「アクシデントがあった中で、よう頑張ったな」と言いましたが、「でも、まだ楽しみにしている人がたくさんおるわけやから、お前ならごまかしてでも、できるだろう」と言われ、契約もしてもらったので、「もう一回勝負をかける。それでダメなら、そこでやめよう」とと覚悟を決めて、今まで以上に厳しいトレーニングを積んだそうです。
オフはもちろん、試合後もルーティンを続けました。試合に出て、リハビリをして、バットを振る。広島市民球場(当時)の試合後には、わざと足が滑る状態を造るために、アップシューズでマウンドの傾斜を利用してバットを振り、踏み出した右足の親指でぐっと踏ん張るトレーニングを誰もいない球場で続けたそうです。
その結果、2002年に3シーズンぶりに打率3割を打ち、カムバック賞も受賞。2005年は全試合に5番・レフトで先発出場し、現役生活最多となる172安打を放ちました。そして、プロ18年目の2007年に2000本安打を達成しました。
前田さんが目指した「究極の打法」はケガのため23歳で断念しましたが、身体が万全でなくても技術でカバーして、チームが求める大事な場面で打つ。それでチームもファンも喜んでもらう活躍をする。それも一つのプロの技なのだ、と思えるようになったそうです。そう考え方を改めることができたのが、引退の決意を告げたとき、現役続行に仕向けてくれた宮川さんのおかげだったと語っています。
2016年1月8日。宮川孝雄さん、心不全により79歳で死去。
前田さんは将来、若い選手を教える機会に恵まれたら、煙たがられても、宮川さんの教えを伝えたいと言っています。
「握ったバットが手から離れなくなるくらい振れ」
プロの本当の厳しさを正直に伝える。それが、真の優しさでもあるのですから。