野球小僧

宮本武蔵 vs. 佐々木小次郎 / 巖流島の戦い

巖流島(がんりゅうじま)とは、山口県下関市にある関門海峡に浮かぶ無人島です。正式な島の名前は船島(ふなしま)であり、住所は「下関市大字彦島字船島」となっています。

島全体は平らな地形であり、最も高い場所でも標高は10mもありません。島の東海岸にある遊歩道などからは関門海峡を行きかう大型船を間近に見ることができます。また、島の相当部分は公園として整備され人工海浜や多目的広場が設けられています。

さて、将棋界の最高棋戦で、羽生善治竜王に、今、最も強いと思われる広瀬章人八段が挑戦している第31期竜王戦七番勝負第7局が12月20日、21日に山口県下関市の春帆楼(しゅんぱんろう)で行われました。共に3勝し、2年ぶりのフルセットになった今シリーズですが、後手の羽生竜王が広瀬八段に敗れ、対戦成績3勝4敗で竜王を失冠しました。羽生竜王は27年ぶりに無冠となり、今回はタイトル獲得通算100期の大記録達成はなりませんでした。勝った広瀬八段は初の竜王を獲得しました。

対戦の前日の12月19日の午後に現地入りした羽生竜王と広瀬八段は、宮本武蔵さんと佐々木小次郎さんの決闘で有名な巌流島を訪れ、両雄にちなんだ全力での戦いを誓っていました。ちなみに、そもそもこの2人がどうして決闘したのか、知らないままの方も多いのではないかと思います。

「臆したか!!」と鞘(さや)を投げ捨てる小次郎さん。「はや散るを急ぐか」と武蔵さん。

時は1612年慶長17年4月13日。関門海峡に浮かぶ巌流島で諸国武者修行中で向かうところ敵なし武蔵さんが小倉藩剣術師範として仕える天才剣士の佐々木小次郎さんに挑みました。戦いは長さ100cmという小次郎さんの剣をかわして、舟の櫂(かい)を削り作った木刀を小次郎さんの頭に振り落とした武蔵さんの勝利しています。

武蔵さんのお父さん・新免無二(しんめんむに)さんと交流のある細川家の家老、長岡佐渡さんを通じて武蔵さんが試合を申し込んだといい、誰も2人の対決に差し挟むことがないよう、海に囲まれた巌流島が選ばれたそうです。島には陣幕が張られ、小次郎さんほか検分役として佐渡さんら数人の小倉藩士がいたそうです。

さて、試合時刻の午前7時が過ぎても下関側から舟に乗って来るはずの武蔵さんは現れません。実は、武蔵さんは吉岡道場の当主・清十郎さんと京都・蓮台野で戦ったときも遅刻したことは有名であり、小次郎さんはこのことも知っているはずなのに、どうしてもいらだちをおさえ切れない小次郎さんだったそうです。これは、すでに小次郎さんも清十郎さんと同様に武蔵さんの術中にはまっていたのだそうです。

 

なお、試合開始時刻の7時ころは武蔵さんは朝食をとっていたらしく、巌流島に姿を現したのは午前9時ごろだったそうです。清十郎さんとの戦いでは1時間余りの遅れだったのに対して、今回の小次郎さんとの一戦ではなんと2時間も遅刻したのです。

そして、到着後、ゆっくり舟から裸足でおりた武蔵さんが手に持っていたのは舟の櫂を削り作った木刀でした。回船問屋の屋敷を出る前に古い櫂を譲り受け、島に着くまでの間、小刀で使えるまでの細さに削っていたのです。つまり、遅刻した2時間の間に朝食を食べ、移動中に木刀を作っていたのです。

武蔵さんの近くまで走り寄る小次郎さん。ようやく対戦相手がきたということもあろうが、小次郎さんも優れた兵法者。波打ち際で足を海水につけたままで動きの鈍い武蔵さんと有利に戦いたかったのです。

「臆したか武蔵!!」と刀を抜き、鞘を投げ捨てた小次郎さん。ここで有名な台詞の「勝つつもりならばなぜ鞘を捨てる。はや散るを急ぐか」と不敵な笑みを見せた武蔵さん。2人は距離を保ちつつ海岸線沿いに走り出します。

そこに突然、武蔵さん目がけて小次郎さんの剣が横一文字に切り裂く。ここで小次郎さんは武蔵さんが少し後ろにさがって剣を避けるところを見て、剣を切り返えそうとしたが、パッと武蔵さんの姿が視界から消えると、小次郎さんの頭に衝撃が走ります。この一瞬で勝負は決まりました。

実は、武蔵さんの木刀の長さは140cm近くだったと言われています。刀の平均の長さが70cm前後といわれた当時、「物干しざお」といわれた約100cmの小次郎の剣よりもさらに長かったのです。小次郎さんは勝負の焦りの中で、木刀の長さまでは見抜いていなかったとみられています。

さて、肝心の決闘の理由ですが、小倉藩に召し抱えられた2人の剣術師範の優劣を巡り、二刀流の武蔵さんか、それとも岩流兵法の小次郎さんかで、両者の弟子が起こしたいざこざがもとで行われたという説があります。

まあ、身内の派閥争いという、なんというか、世間を巻き込んで大騒ぎするような話ではないのです。

さらに、決闘当時の年齢ですが、武蔵さんは19歳~29歳とされる一方、小次郎さんは50歳代から70歳代だったとのことです。さらに、小次郎さんについては、ほとんどの資料に佐々木姓はなく、岩流とか小次郎とか。あるいは上田宗入という謎の名前も出てくるそうです。

なお、木刀で殴られた小次郎さんは武蔵さんに殺されずにいました。細川氏の史料「沼田家記」には、武蔵さんが去った後、小次郎さんは息を吹き返しましたが、隠れて見ていた武蔵さんの弟子によって殺されたそうです。

勝った方の武蔵さんは細川氏の家臣に警固されて藩外に逃げ、その後、消息を絶ちました。

突き詰めればなんとも締まらない話になってしまいます。


コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
さすが、勉強されてますね。そう、小次郎さんは「いなかった」説もありますね。となりますと、あそこで戦ったのは武蔵の一人芝居だったのでしょうか。

さて、猪木 vs. マサとも考えたのでしたが、長くなってしまいましたし、将棋のことも書きたかったのですが。

何はともあれ、羽生さんには、次の時代も活躍しもらいたいものです。
eco坊主
おはようございます。

猪木さんvs斎藤さん?
と思いきや羽生さんと広瀬さん
そしてやはり武蔵&小次郎でしたね。
ホンに燕返しのように切れ味鋭く二刀流のように変幻自在な切り口のブログ・・相変わらずお見事です!

佐々木小次郎よぼよぼ説は本当でしょうか?
実在しなかったという説もあるようですけど・・
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