続いては、 「冬彦さん、雪中に散る」の安政年間(1855~1860年)です。
(前回のお話「ペリーが浦賀にやって来た - 嘉永年間(1853~1855年) -(http://blog.goo.ne.jp/full-count/e/a9fbd425c9e7698fa86e9efc1fdc7433)」)
何しろ、火事とか黒船とか嫌な事ばかり続くのでたまらず改元、安政とします。
安政元年は1855年1月15日からです。一般的に安政期に安政伊賀地震(1854年7月9日)、安政東海地震(12月23日)、安政南海地震(12月24日)、豊予海峡地震(12月26日)は、「安政」への改元前の嘉永7年/安政元年に発生した地震のため、本来「嘉永の大地震」と称すべきなのでしょうけど、なぜか安政の所為にされています。
ただし、安政の7年間には飛騨地震(1855年3月18日)、安政江戸地震(11月11日)、安政八戸沖地震(1856年8月23日)、飛越地震(1857年4月9日)と大きな災害に襲われています。また、日本史的大事件として江戸幕府崩壊の引き金となる安政の大獄や桜田門外の変が起きた転機点です。
何にせよ、改元した途端に大地震が発生、幸先の悪いスタートなのです。
「これからどうすんべ」と困った老中トップの阿部ちゃん、黒船以降慣例を破って全国の大名や朝廷に聞いて回るも攘夷(西欧列強の外国人を実力行使で押しのけようという考え)の大合唱。「できるわけねーだろ」と思いつつ開明派の幕臣を起用したり、自称攘夷の巨魁で「仕事ができるが子どもたちが嫌いだ」でおなじみの徳川斉昭(伊武雅刀)さんを宥めるなどソツなく仕事をこなしていたが過労死。
代わって老中トップになったのはメタボと言われる堀田正睦さん。堀田さんが取り組んだのは朝廷から通商条約調印の許可をもらう事。金の力でなんとか朝廷を動かそうとし、成功しかけたものの孝明天皇の拒絶と反対派の公卿達の抵抗に合い失敗。ちなみに反対した公卿の中に加山雄三さんのひいひい爺さんである岩倉具視(笑福亭鶴瓶)さんが混じっています。
手ぶらで江戸に帰ると、堀田さんの与り知らぬ内にどういうわけか、冬彦(佐野史郎)さんこと井伊直弼さんが大老に就任しており、慶福(家茂)さんが次期将軍に決定していました。一橋派の堀田さんに対し「僕に指図するな! 僕のやり方にケチをつけるのか、君は」と強権発動、罷免してしまいます。
そして、忘れてはならない問題の人物、当時日本に来ていた初代米国総領事タウンゼント・ハリスさん。あの白ヒゲの方です。幕府との交渉では「早ク条約結バナイト、エゲレストカ、オフランストカ来チャウYO!」と言うもんだから焦った井伊さんは早く朝廷から勅許を貰いたい所。しかし、結局願い叶わず、「ヴヴヴむむぅぅぅううううううーぶむぅ。むうぶヴむヴヴヴヴむむーーううぅぅぅぅぅ」と、ついに独断で日米修好通商条約に調印。函館、神奈川(横浜市)、長崎、新潟、兵庫(神戸市)の5つの港が開かれ、貿易がはじまりました。さらに日本で罪を犯した外国人はその国の領事が裁く領事裁判権が適用され(日本が外国人の犯罪を裁くことができない=治外法権)、また、日本に入ってくる輸入品に自由に関税をかけることができる関税自主権が認められないなど、日本にとって不利な内容もありました。これとほぼ同じ内容の条約を、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結んでしまいました。
ちなみにこのハリスさん、ちょっと胡散臭いところがあり、「メリケント通商結ベバ、外国トノ交渉ヲ有利ニ進メルヨウ協力スルYO!」とか調子の良いことを言いつつ裏では国内外の交換比率が違うのを利用して小判を国外に流出させ暴利を貪っていました。そのため、この後、日本国内でインフレが起こります。外国からは、毛織物、綿織物、武器、艦船などが輸入されました。しかし、安い綿製品が大量に輸入されたので、日本の綿の生産地は、大きな打撃を受けました。また、日本からは生糸や茶などが輸出されましたが、これによって日本では品不足が起こり、生糸や茶の値段が上がりました。それだけではありません。生活に必要な米や菜種油などの買いしめもあり、人々の暮らしはますます苦しくなっていきました。
お冠なのは孝明天皇。「もう幕府なんか知らないっ!」と水戸藩に直接「戌午の密勅」を送付。一橋派の松平春嶽メンバーと慶喜メンバーらと天皇を尊び、朝廷の権威を高めようとする尊王論と、外国人を追い払う攘夷論が出てきました。これらの考えが結びつき、尊王攘夷運動が急速に高まっていきます。
これに逆切れした井伊さんは、「ヴヴヴむむぅぅぅううううううーぶむぅ。むうぶヴむヴヴヴヴむむーーううぅぅぅぅぅ」と、世に言う安政の大獄で反撃に出ます。手始めに一橋派大名メンバーを強制的に隠居、朝廷の一橋派メンバーは丸坊主の刑、その他とばっちりで開明派幕臣や吉田松陰さん、橋本左内さんなどが社会的&リアル抹殺されていきます。
しかし、安政7年の3月3日、現代でいうと3月24日。珍しく雪降る端午の節句の日に登城中の井伊さんが水戸藩(茨城県)の十数名の暗殺者によって討たれます。最後に「行くなあ! 触るなあ、僕の妻に汚らわしい手でえええ、あああああ、あああああ、あああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ、、、、、」と言ったか定かではありませんが、これが桜田門外の変です。書いている私は変ではありません。
これで、日本は大混乱となり、武士を中心に外国に対する強い反感が生まれ、未だに漢字の書けない「攘夷」と、どさくさ紛れの「尊王」が始まりました。
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まっくろくろすけ

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