星野仙一さんの追悼試合だというのに、中日ドラゴンズはなんていう情けない試合内容なんだろうか。
草葉の陰から見守るどころか、墓石ひっくり返して大激怒していることでしょう。
でも、東北楽天ゴールデンイーグルスに対しては、満面の笑顔でいるのかも知れませんが。
私が中日ドラゴンズのファンになった時には、既に星野さんはエースとして投げていました。
子どもの頃は今と違ってドラゴンズの試合のテレビ中継と言えば、読売ジャイアンツ戦での地上波くらいでしたが、そこで闘志むき出しに投げる姿が印象に残っています。ベタですが、星野さん現役後年の「宇野ヘディング事件」でグラブを地面に叩きつけた場面ですね。この試合は、ジャイアンツが前シーズンから連続試合得点記録が158試合続いており、この試合は159試合目であり、星野さんは7回まで2安打で無得点に抑えていた試合でした。
現役時代の星野さんが、これほどまでにジャイアンツ相手に闘志剥き出しで挑んでいったのは有名な話です。元々、ドラフト指名の約束を反故にされた因縁から始まり、読売新聞に対抗心を燃やす親会社・中日新聞(東京ローカルでは東京新聞)の姿勢にも影響され、V9時代のジャイアンツ打線に立ち向かった際は、臆することなく内角球を投げ続けていたものでした。
また、偶然にも現役時代に仕えていた監督の多くにジャイアンツとの因縁があり、打倒ジャイアンツに燃えていた影響もあったと思います。
この星野さんをドラフトで指名した時のドラゴンズの監督は水原茂さんです。水原さんは現役時代はジャイアンツで活躍し、引退後は監督として指揮をふるい、在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝きました。その後、東映フライヤーズへ移籍し、チームを日本一に導いています。フライヤーズ監督退任後、水原さんはドラゴンズの監督に就任するのですが、ジャイアンツ戦には異様な執念を燃やしていました。ジャイアンツ退団の一因に球団社長とケンカ別れしていた経緯があったからです。
水原さんの後を継いだ与那嶺要さんも打倒ジャイアンツでした。与那嶺さんは監督だった川上哲治さんによって放出されていました。星野さんは「僕が巨人戦に燃えたのも、この二監督の怨念が乗り移ってきた影響もある」と語っています。そして、1974年に大車輪のごとく活躍し、ジャイアンツV10を阻止してみせました。
”野武士野球”でリーグ優勝を果たした近藤貞雄さんもかつてジャイアンツを追われた身であり、ジャイアンツに怨念を抱いていました。
その後、星野さん自身がドラゴンズの監督になり、先頭に立って引っ張る闘将としての雄姿がありました。
監督通算11年で優勝2回Aクラス8回。
でも、数字以上にあの頃のドラゴンズは強く、激しかったと思います。ドラゴンズがドラゴンズとしての存在する理由があったと思われる時代です。
やっぱり、それは強力なライバルへの対抗心があったからだと思います。打倒ジャイアンツ。
水原さん、与那嶺さん、近藤さん、星野さん、色合いはちょっと違いますが落合さん。打倒ジャイアンツを旗頭にしたときのドラゴンズは強かったと思います。
それをもっとも強く感じさせてくれたのが星野さんだと思います。
ライバルの存在は自分を成長させてくれます。ライバルへ向かっていく気持ちをなくしたら、そこで成長は止まってしまう。
今のドラゴンズに欠けているものが、きっとあると思います。
私の青春時代において、大事なことはすべて星野仙一さんに教わったような気がします。