小町の小窓

美女の称号「小町」。小町になりた~い!

「身」と「世」

2009年01月29日 | Weblog
「式部日記」
昨年は「源氏物語」がこの世に出た1000年にあたり、源氏物語・千年紀の記念行事などが各所で開催され、また関西のみならず全国チェーンのテレビ局でも源氏物語にちなんだ番組が放送されました。世を揚げての王朝・宮廷ブームでした。

源氏物語の原本そのものの所在は明確ではないのですが、その作家である紫式部の日記に物語のくだりにちなんだ話が記述されていたので一千年を迎えることになりました。

「紫式部集」
その紫式部の和歌を集大成した「紫式部集」があります。式部の少女時代、親子ほども歳が藤原宣孝との恋、そして新婚期、そして宣孝との死別など、紫式部の心の変遷を窺い知える和歌集です。


「紫式部集」(実践女子大学図書館所蔵 特殊コレクションから)
(「実践女子大学図書館所蔵 特殊コレクション」ホームページ)
http://www.jissen.ac.jp/library/collection/index.htm

前半の新婚期まで式部の和歌は、父や夫に守られ、取り巻く友達やふるさと、家庭と言う小さな世界でのびのびとした日常の生きている様子が歌われています。
しかし、小さな視淡さはそう長続きはせず、安心して守られているはずの最愛の夫「宣孝」が当時流行った疫病で死去し、わずか3年の結婚生活に終止符を打つという悲劇に見舞われるのでした。
そのときの心中を

「53 消えぬ間の 身をも知る知る 朝顔の 露とあらそふ 世を嘆くかな」

という和歌で詠み、式部はたいそう悲しんでいます。
『命と言うものは朝顔についている露のようで、はかなくもたやすく消え去ってしまう。そのことは分かっていても夫との死別は悲しく、つらいものです。』

式部、夫・宣孝との別れ
京都学園大学経済学部の准教授 山本淳子氏が「源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり」(朝日選書820 朝日新聞社発刊)という本を著されています。この著書でで第29回サントリー学芸賞を受賞されました。


山本淳子氏著「源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり」

その中で、山本氏は夫・宣孝との悲しい別れと言う現実に立たされた彼女は変わり、そこに突然に現われて頻繁に使われる言葉が「身」であり「世」という言葉であると指摘されています(第五章 草葉の露 紫式部の目覚め P175)。
どのように「身」と「世」が使われるようになったのか、山本氏の記述を引用しますと、おおよそ次のようになります。

「身」と「世」は平安文学におなじみの言葉で、「身」ならば女の身とか卑しき身、露の身、身の憂さなどがあり、現在で使われる「身体」という「物理的な身」ではなく女性であるという肉体的・社会的現実を背負った「女の身」であり、「卑しき身」ならば当時の身分社会におかれた逃れることのできない現実的な立場を示しています。そして、生きている以上はだれも避けることのできないもので、最後は必ず死んで消える「露の身」を背負っているという自分の力ではどうしょうもない現実がそこに横たわっています。

そして「世」とは時代とか社会、世間、人間関係、命そして人生と言う「身」を束縛する現実が「世」であると説明しています。社会や世間は人を取り巻く自分の力替えようのないものです。


「紫式部」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

そして「身」と「世」
人生喜びもあれば、嘆きや苦しみが降りかかってくることもあり、しかし人はそれを選ぶことはできず、死が訪れれば受け入れざるを得ないのが「世」と言うことなのです。式部は夫の死別で「身」と「世」と言う辛い現実を痛感し、先ほどの歌を読んだのでした。

しかし現実の悲しみを何時までも持ち続けることは、閉塞感に陥るばかりですが、式部は未亡人となった現実を現実として受け止め「世」を背負うとしても「身」だけではない「心」の活動を発見するのです。
式部は、宣孝との間に授かった2歳の「賢子」。健やかに育って欲しいという親としての願いが縛られたと思った「身」と「世」の閉塞感を「心」で開放したのでした。そして、「源氏物語」執筆が始まり、藤原道長の要請により道長の娘で一条天皇に嫁した「彰子」の身の回りの世話を焼く女房へと人生が展開していくのです。

小町の「身」と「世」
この「身」と「世」を歌った和歌が紫式部の時代の150年ほど前に詠まれています。

わが小野小町を代表し小倉百人一首にも登場してくるおなじみの和歌です。

「113 花の色はうつりにけりな いたづらに 我が身世にふるながめせしまに」
(古今和歌集 巻第二 春歌下)

「身」と「世」のはかなさをまともに「我が身世にふる」と小町は詠んでいますが、この歌を詠んだ心境はいかがなときでしたでしょう。
小町は、奈良の平城京から長岡京、さらに平安京に二度も遷都を成し遂げた第50代「桓武天皇」の孫に当たる第54代「仁明天皇」の更衣を勤めています。

やはり、小町の心境といえばはかなくともそっと心を寄せた「仁明天皇」の崩御による心の空虚感と「身」の厭世観が大部分を占めたのでしょう。
小町には、その空しさを埋めてくれる代償がなかったのではないでしょうか。
それほど仁明天皇の存在が大きすぎて、たの男どもが言い寄ったところで見向き増しなかったことから、小町に対する批判的な評価が先走りして美人で頭も切れているけれども心が冷たく人を人とも思わない冷血な女性と言うレッテルが貼られたのでしょう。

その批判的な伝説が深草少将の「百夜通い」でしょう。


やがては咲くでしょう「花桃」(伏見北堀公園―京都市伏見区深草)

あまりにも短い「命」
小町や式部が生きた時代の人間の寿命と言うものは、今日と比べて大変短く、一条天皇が最も愛した「定子」も24歳と言う若さで亡くなっていますし、かの仁明天皇も41歳で崩御されています。
最愛の人とこの世で一緒にいられる時間の、何と言う短さなのでしょう。

今は、わが国は世界で1番の長寿国。百歳を越えている高齢者ならぬ超高齢者も全国で3万人おられるとか。
私の父も93歳を過ぎ、昨年から年賀状の処理を代わりにしているのですが、現実を理解するのに時間のかかる新年の欠礼の葉書をいただきました。
「昨年、長男の○○が71歳で永眠いたしました」と言う文面です。
お葉書きの主は父親の職場の上司といいますから、おそらく100歳前後の方でしょう。

「父が71歳で永眠いたしました」という文面は、私たちの後輩からのお知らせなら「まだ、お若いのに」といいながら通常の「世」の出来事と受け止められることができましたが、先ほどの方はどのような胸中でおられたのか、辛い「身」を受けざるをえなかった現実とあわせ、心中をお察ししました。

身近な日常生活の中にも「身」と「世」があるのだと、改めて感じ入りました。


「花のいろは・・」小野小町歌碑(真言宗総本山「随心院」―京都市山科区)

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