小町の小窓

美女の称号「小町」。小町になりた~い!

小町と仏教の時代

2007年11月29日 | Weblog
地球温暖化の兆候が顕著になってきたのか、今年の夏はとても暑かったのですが、それもどこに行ったのでしょうか。
京都市内は全国から紅葉の観光客がおいでになり、23日~25日(日)の連休の観光地はどこも交通渋滞を引き起こしていました。
京都の町は、とても道路が狭いのです。

 
臨済宗大本山「東福寺」の紅葉(京都市東山区)

その京都の町、桓武天皇が延暦十三年(西暦794年)10月22日に京都の郊外「長岡京」の地から平安京の地に遷都された理由は、怨霊のたたりを鎮めるためといわれています。

奈良仏教に対抗するため
元来、桓武天皇は、奈良に都があったころ大陸からはいってきた仏教の力が強大になり、その力を持って天皇政治を左右しようとする動きがあったため、政治の地を仏教から切り離すため長岡京に遷都したとされています。

6世紀の中ごろに大陸から入ってきた仏教は、当初は国家形成・統一のために人心を集約し、また、その教化力で指導力を発揮する必要性から宗教活動を庇護し、仏教もその国家権力の保障がされていたため肥大化したものと考えられます。

当時、わが国には南都六宗といわれる学問的派閥が形成され、中国の僧「鑑真」がわが国に持ってこられた「律宗(唐招提寺)」とか、他に「法相宗」「三論宗」「倶舎宗」「成実宗」そして東大寺の「華厳宗」などがありました。

四神相応
その権力鼓舞を骨抜きするための荒治療が長岡京への遷都であり、平安京への遷都でした。
とりわけ、長岡京での怨霊を鎮めるための平安京への移転先は、中国の国家護持のキーポイントである「四神相応」の地であるかという調査がされ、それにふさわしいと言うことでこの地に遷都されたのです。

この「四神相応」とは、その土地を聖なる獣神が東西南北の四方を守っていて、その地が「都」とされるのです。北には「玄武」が、東には「青龍」、西に「白虎」、南に「朱雀」が守っている土地として新しい都として選ばれたのです。
具体的には、北の「玄武」には船岡山が位置し、東の「青龍」とは鴨川のこと、西の「白虎」は山陰に向かう大道があり、南には現在干拓されてしまい跡形もなくなっているのですが「朱雀」である巨椋池(おぐらいけ)が位置していました。
現在、巨椋池は宇治川の氾濫や疫病のために干拓され、その姿を見ることはできません。国家第1号の干拓地です(京都市伏見区向島一帯)。

 
北の青龍・賀茂川(北大路橋―京都市北区)
※ 撮影地は賀茂大橋(京阪電鉄「出町柳駅」下車すぐ)より北側の「北大路橋」から見たもので、賀茂大橋から上流は「賀茂川」といい、下流は「鴨川」と表記します。

春は「青春」
この四神、季節をも表しています。北の「玄武」は冬の色である玄冬(黒色)を表し、東の「青龍」は「青春」の春を、南の「朱雀」は朱(あか)の色である夏を、そして西の「白虎」は「白秋」といって秋をそれぞれ表します。
 青龍―鴨川 ―東―春(青春)
 朱雀―小椋池―南―夏(あか)
 白虎―山陰道―西―秋(白秋)
 玄武―船岡山―北―冬(玄冬 くろ)
 
桓武天皇にとってもう一つ気になる方角がありました。「北東」です。
この北東は従来から鬼門とされていて、そこを守る必要がありました。今の「比叡山」の地です。そこで、天皇は若き秀才の学徒僧に守らせるために国家の費用で唐に派遣して「天台宗」を学ばせたのです。その若き学徒僧が「最澄」です。
その最澄のときに、もう一人自分の費用で唐に渡って仏教を学ぼうとしている「私度僧」がいました。
最澄が国家の費用で唐に学びにいくために行った「遣唐使」の一行のなかにいたもう一人の僧こそ、彼の名を「空海」といいました。

最澄そして空海
最澄は、権威を着飾った既成の南都六宗に対して、理論上の対抗意識を燃焼させていて批判者としての立場をとっていたため、桓武天皇の意向にかなったといえます。空海は仏陀の教えの根本を学び、大日如来にその根源をなすこと、その実現のために心身ともに同化することを学んだ後、唐にわたるのです。


 比叡山―伝教大師(最澄)開祖の延暦寺から

この二人こそ、平安の新しい仏教の潮流を担うのです。

この二人の大きな格差は、インド伝来の正統な密教(仏教の流派の一つ。容易に知ることができない秘密の教えという意味)をわが国に伝承させたかどうかにありました。
天台山に行き「天台宗」を学んだ最澄は、帰国の際に片手間に「密教」を学びました。帰国後、彼は桓武天皇に「天台」を報告に行きましたが、天皇はすでに天台の教え以上に「密教」そのものに多大な関心を示したので、苦心して学んだ「天台宗」が生かされない思いで一杯でした。

一方、空海は唐で唯一インド伝来の正統な密教(仏教の流派の一つ。容易に知ることができない秘密の教えという意味)の承継者である真言八祖の第七祖「恵果」の次の正当な後継者(空海は第八祖)として、帰国を果たしています。

空海は、その後、天台宗の創始者として天皇から認められている最澄の懇願(先輩である最澄が、後輩である空海に対して)により密教を教えるのですが、空海としては体で体得し経験をつまなければ完成しないという密教を、空海の持って帰ってきた経典などを読んで密教を体得しようとする最澄に対して、最後には教えることを拒否します。

空海は文芸にも卓越した技量を備えていて、唐にいたときに行動をともにした橘逸勢(はやなり)、空海を庇護した第52代「嵯峨天皇」とともに「三筆」とされていることはご承知と存じます。
どんなに卓越した人でもミスを犯すこともあるたとえとして「弘法も筆のあやまり」と今日まで言われています。
一方、もう一人の橘逸勢は、仁明天皇の立太子事件を策謀した一人(承和の変)として逮捕されて流罪となり、伊豆に流される途中に死にました。この事件は、藤原良房の策謀とも言われ、藤原氏一族による他氏排斥の第1号でした。

藤原氏一族の陰謀が起こり始めたその時代に、最澄と空海、後の伝教大師と弘法大師はともに平安の新しい風となり、今日までその教えが絶えることなく伝えられています。

 弘法大師(空海)画像

貴族のために
ただ、当時としては仏教は庶民の宗教となっているかといいますと、どうもそうではないように思えてきます。奈良の興福寺が「藤原家」の個人寺院であるように、貴族の繁栄と安らかな死後を願っての寺院が各所に建立されました。
庶民とは異次元の世界での仏教なのです。

小野小町が、死んでも髑髏をさらして成仏できないとか、成仏しょうと懇願しても深草少将の怨霊が取り付いて妨げているとか、そういったお話は「小町もの」として謡曲の世界を中心に紹介しましたが、しかし、そのお話は14世紀中ごろ、いわば南北朝から室町時代にかけて完成していて、平安時代の当時としての仏教感が伝わっていると考えにくい面があります。

鎌倉仏教から
後のことになりますが、法然上人(浄土宗)、親鸞上人(浄土真宗)や道元禅師(曹洞宗)、日蓮上人(日蓮宗―法華宗)などの時代は、鎌倉仏教が完成する時代にあり、その頃ともなりますと庶民の生活の中に仏教の教えが浸透していると考えられます。

このブログでも紹介しましたとおり、「卒塔婆小町(本年5月3日)」や「関寺小町(同5月10日)」「通小町(5月24日)」などのいわゆる「小町もの」が書かれた時代背景としては、いよいよ地獄と極楽の世界が描かれ、「悪いこと、人をだましたりはしてはいけない」ことの反面教師として「小野小町」が選ばれたのではないでしょうか。

「百夜通い」のお話に至っては、小野小町を悪女とするのにふさわしい好材料ではないでしょうか。おまけに小町は「在原業平や文屋康秀をはじめ、言い寄る男共を手玉に取るし、ろくな死に方をしませんよ。それ御覧なさい」ということを庶民に知らせたかったのでしょうね。

そういえば、あの清少納言や紫式部は文学上でのみ評価されて、小町のような個人像を明らかにされませんでしたね。

まさか、小町に対する罪滅ぼしのつもりで「世界三大美人」の一人としたのではないでしょう。
謡曲の作者には申し訳ありませんが、小町の悪口、信じませんので。観阿弥殿、世阿弥殿。

 小野小町

いよいよ12月。昨年の京都の冬はさして寒くはなかったのですが、今年は逆に本格的な冬が到来するような気がします。
インフルエンザが流行っているようです。ワクチンを注射しても効き目がでてくるのは2週間後からと報道されていました。

まずは、うがいと手洗いをこまめにしましょう。罹(かか)りかけこそ「風邪薬」は効くものです。罹ってからでは手遅れです。ご用心。

 東福寺のある塔頭で

歌の連なり

2007年11月22日 | Weblog
前日22日は、大阪の「いずみホール」で開催された三井ツヤ子さんのリサイタルを聴きに出かけ、23日は京都市伏見区の「伏見西部ふれあいプラザ」の環境コーナーにボランティアとして従事していましたので、今週分の立ち上げが遅くなりました。
いつも御ひいきに読んでいただいておられます皆様方にご迷惑をおかけしまして、誠に申し上げございませんでした。
今後もがんばって続けてまいりますので、ご声援のほどよろしくお願い申しあげます。

  
「京の一品」

贈る・返す歌
このブログでは、今年の6月に4回にわたって「古今和歌集」に収められた小野小町の和歌を数回にわたって紹介をしました。
その第3回目「小町の恋歌・第3巻(6月21日)」に紹介しました小町の歌の中で「小野貞樹」という人物に贈った歌があります。

(巻第十五 恋歌五)

  『782 今はとて わが身時雨にふりぬれば、言の葉さえ移ろいにけり』
                         

これに対して小野貞樹は小町に歌を返しています。

  『783 人を思ふ心この葉にあらばこそ 風のまにまにちりもみだれめ』

小町は、おそらく仁明天皇が41歳という若さで逝去し、心のよりどころであった大きな柱を失った悲しみが彼女の運命を大きく替えていくのでした。
小町は、しばらくは仁明天皇の皇太子である道康親王(後の第55代「文徳天皇」)にもお仕えするのですが、このまま宮中にいることの辛さが耐えられなくなりました。文徳天皇の姿に仁明天皇の面影が重なり、思う心の寂しさが余計に辛く浮かび上がってくるためでした。



いったんは覚悟を決めたものの、宮中を去っていかなければならない悲しみの涙が「わが身時雨にふりぬれば」という言葉で小町は現しました。
涙が時雨となって自分の身に降り注ぎ、仁明天皇はすでにこの世におられないこと、一人身で余命を過ごしていかなければならない悲しみがつのってくるばかりでした。
いまさら、心の底から誰かを恋してその方と一生添い遂げるというような気にもなれず、かの文屋康秀が小町に恋の歌を贈っても、その気にはなれませんと返答するのです。

小野貞樹は、小町の心情をもっとも良く理解している人でした。
この人は、文徳天皇がまだ皇太子であったときに身の回りの世話をした人で、後に承和の頃には従五位上、甲斐守を務めています。
小町も貞樹もともに天皇の身の回りをお世話をしているので、宮中での文のやり取りはしていたのでしょう。

文屋康秀
先ほどにもでましたが、小町に見る「返し歌」の事例として「文屋康秀」が小町に恋の手紙を贈り、小町が断る歌が同じく「古今集」に収められています(2007年6月27日の記事)。「文屋康秀」が小町に対して「田舎見物に来ませんか」と誘うのです。

巻第十八 雑歌下

   文屋のやすひでが三河の掾になりて、「あがたみに
   はえいでたたじゃ」と、いひやれりける返事によめ
   る
    ※注 三河の掾(ぞう―地方の役人)。文屋康秀は三河の国の八橋という  ところに国衙の三等官として赴任しています。

 この手紙に対して小町は

 『938 わびぬれば 身を浮き草の根を絶えて、誘う水あらばいなんとぞ思ふ』

「私は、今はもう若い頃の時のように人を恋うる気力がうせています。おなたが遠い国に行かれることへの慰みとして、私を女房代わりに誘ってくれるのはありがたいのですが、何もかも打ち捨てて私と一生過ごしてくれるなら今までのことを断ち切ってお供を申しあげますが、あなたのお手紙にはそのようなお気持ちを見ることができません。誠に残念に思います」といった心情なのでしょう。

小町にしては、同じ六歌仙の一人として和歌に秀でているであろう文屋康秀の誘いの言葉が、あまりにも無神経ないい加減なものだったので、いくら小町が衰えの兆しが差し掛かってきたこととはいえ、プライドが許さず動じなかったということです。言い換えれば康秀のあまりにも平凡な恋の誘いの手紙に対するかなり痛烈な康秀批判とも思えます。



連歌の世界
宮廷での雅な文化に「連歌」が生まれます。幾人かの歌がいくつにも連なって一つのドラマを作っていくという高尚な和歌の世界が展開されるのです。
後鳥羽院(第82代「後鳥羽天皇」)と藤原定家の時代に形式的に確立します。
京都市が発行している「きょうとシティグラフ 京都」129号に、「古典文学からひもとく京都の魅力」という対談記事が掲載されています。
対談される方は冷泉家当主夫人の冷泉貴美子氏と、「榧(かや)の木祭」で芥川賞を受賞された高城修三氏。

大意をご紹介しますと、明治以降の近代文学―活字を通した文学大系―が移入されてことで、文学が個人中心となったこと、そして現在では知的財産の保護の目的で著作権が確立したことにより、連歌のような多数の人で文学を作り上げる場がなくなったことが対談で述べられています。
連歌を通してお互いに和歌を歌い上げていく「場」が見られなくなったこと、そして「共同で行う」事がなくなり連歌が衰退したと指摘されています。もちろんどのような歌が連綿としてつながっていくのか記録が残されていないということも衰退した一因といわれています。


「きょうとシティグラフ 京都」129号

冷泉貴美子氏
冷泉家では、今日においても旧の七夕の日に「「乞巧奠(きっこうてん」という行事が行われます。織姫と彦星の役となる男女が白い布をはさんで歌のやり取りをしますが、作者が誰かということはあまり重要視されていないことが連歌の世界と貴美子氏は述べられています。

さらに貴美子氏は、今日の短歌のように「この恋の相手は誰なのか」という主体性の話ではなく、和歌そのものが「神様や仏様に差し上げる」性格を必ず持っていると続けます。
ですから、現代の短歌では「自分」のことを詠みますから「喜び」よりも病気になったとか失恋したとかの「悲しみ」の内容が多く、声を出して詠むことが大変難しいと、貴美子氏は述べられています。

京都とは失われそうになっている日本の文化が大切に守られている場、洗練された「美」があると締めくくられています。


 「冷泉家」(京都市上京区)

声を出して
貴美子氏の言われる「声を出して詠むこと」。新年の皇居で行われる「歌会始」、近江神宮での「かるた祭」など、多数の人が一堂に会して声を高らかに歌を詠まれる「場」と「共同」ということが日常の場で見受けられなくなったことが、今日の姿なのだと痛感しました。

お正月の風景に「かるた取り」がありました。小倉百人一首のそれぞれ一首を読み上げ競って下の句を探す光景は気魄に満ちた面もありますが、頬(ほほ)が少し赤らんで心も満ちた気分にもなれます。
「小倉百人一首」のかるたを使って、下の句のカードだけををめくって「お姫様」がでたら・・という「ぼうずめくり」という遊びがありますが、やたら運試しの個人主義的な遊びと考えますと、いま、子供たちだけでなく大の大人も打ち込む「PCゲーム機」はその延長上にあり、まさに個人主義的で競争心をあおるだけで、顔が「青ざめている」人もいます。
「共同」「協同」というコミュニケーションは死語となってしまうのでしょうか。


ことば

2007年11月15日 | Weblog
来年は、紫式部が『源氏物語』の創作を始めて一千年という年でして、式部にゆかりのあるお寺や博物館はその準備に、大わらわのようです。

源氏物語の影に
紫式部は、第66代「一条天皇」に嫁いだ関白藤原道長の娘「彰子」に仕えていました。
当時、天皇には先に道長の兄である藤原道隆の娘「定子」が嫁いでいて、その定子に仕えていたのがかの「清少納言」でした。
道隆・道長兄弟が競って自分の娘を天皇に嫁がせて、露骨に関白の位の分捕り合戦をしていました。
とりわけ、兄に頭を抑えられていた道長の巻き返しは大変なものだったらしく、定子が出産間近なときに、道長は花で飾られた牛車を何台も連ねて娘・彰子の嫁入り行列を行ったという、今日では考えられない熾烈な争いがされていました。

紫式部は、8歳年上の清少納言に対してライバル意識を持っていたらしく、そのせいもあって類まれなる長編の小説を書くことができたとも言われています。
当時、和紙は大変貴重なもので、今で言う公文書にのみ使われていて、今日のように大量に出回ることはありませんでした。しかしながら、式部の並外れた能力を見極めた藤原道長が彼女を十分にバックアップしたことにより、貴重な和紙をふんだんに使うことができ、また周囲の女官たちもこぞって源氏物語を写し取ることができ、貴族達の間ではまわし読みをされていました。わが国初めての物語が完成したのです。


 「清少納言(前)と紫式部」(先日の時代祭で)

八大勅撰和歌集の一つ「千載和歌集」の編者である藤原俊成(1114~1204年)にして、「源氏物語を読んでいない人は、和歌読みというなかれ」と言わしめています。俊成にそのように言わしめるほど言葉の表現や、人の心をたくみに著した優れもので、今日でも愛読されるのは、100万文字とも言われる語彙力の結果ではないでしょうか。

皆様方の中には、すでに全巻を読破された方もおられようかと存じますので、ここでは内容について蘊蓄(うんちく)いたしませんが、平安時代の当時の生活などが垣間見られるようで、式部以前の小野小町の生涯の様子もこうではなかったのではないかと、想像する楽しみが沸いてきます。

ただ、昔に使われていた日本語なので、古典を学んでいない人たちにとっては現代語訳されたものが読みやすく、何人もの作家が訳しています。
さて、来年、源氏物語が全国でどのように展開されるのが楽しみです。


第30帖「藤袴」(京都府立植物園で)

言葉の乱れ
新聞の投書欄を見ていますと、時おり「今日の言葉使いはなっていない。このままでは将来が危ぶまれる」と危惧を抱いておられる方をお見受けします。
なるほど、言葉が擬態化する傾向があり、日常会話で使われる語彙数もずいぶん減っているとある調査に出ていました。

新聞などの活字離れが進行しているといわれているるものの、反面、本屋さんに行くと情報化の進展のおかげか色々な分野で活躍をしている人たちがいとも手軽に本を出版されています。
本の見出しでも、ブログで書いてある内容をまとめて出版されるケースもあるようで、つい最近も「アルバイトで葬儀社に働いている女子大生」のブログ本があったり、「品格・品性」などを使った本もありました。

一方では「上司の見極め方」や上手な面接の受け方などのハウツウ本もずいぶん出版されていますが、これらの本は落ち着きがないのか、読むとすぐにお払い箱のなってしまい、中古本買い増す書店の棚にずらっと並んでいるのも現代の風潮なのでしょうね。

そしてなんといっても手ごろですぐに飛びつきやすく、読めば即座にリサイクルにまわすことができるのが漫画雑誌と女性誌。
女性誌の表紙を飾っているモデルさんの表情を見ますと、若い人から一昔前のギャルまで同じような顔つきをされています。今の化粧の流行なのでしょうか、右へならへのごとく目の周りを真っ黒にアイメイクをし「狼の獲物を狙う眼差しを」したモデルが一杯並んでいて、どの人が「ハナエ・モリ」さんのお孫さんなのか、かのリア・ディゾンさんなのか区別がつかず、右へならえはもっとも大切な「個性の喪失」につながるんだなあとつい考え込んでしまいました。


第20帖「朝顔」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

ビジュアル化の行く道
今日では、活字によらず写真やイラスト、マンガ(コッミク)など視覚的表現に重きを置いているようです。
活字で内容を想像するよりも、視覚的に判断するほうがより効果的だからでしょう。「百聞は一見にしかず」。
活字のよさは、想像力を涵養するところにあり、その想像力もその人が経てきた色々な経験で構築されていくので、千差万別の豊富な考え方が生まれてきます。
反面、ビジュアル化は直接に表現されるのでとても分かりやすいのですが、画一的に陥ることもあり、“右へならえ”ということにもつながります。

で、先ほどの言葉の乱れの問題に戻りますが、このように活字の行列が巷にあるにもかかわらず、なんでもビジュアル化が進行しだしますと、どうも老いも若きも根気良く活字を読み込むという努力が辛くなって来ていること、すぐに結果を求めたく活字を読み砕く忍耐力が低下していることなどが活字離れとなり、言葉が乱れる原因にもなっているようです。

地デジ対応
デジタル化の発展で、テレビジョンの世界でもアナログ放送からデジタル放送に切り替えられようとしています。「地デジ」対応のテレビ受信機が必要となってきます。買い換えなければならないのでしょう。プラズマだとか液晶だとかの超大型のテレビが大型電気店のフロアを所狭しと並べて展示されています。どれを選べばよいのか判断するのに苦慮しますので、どうしても取り扱いやすいことが購入の判断基準となってきます。
しかし、テレビのコマーシャルで、「テレビとビデオがお手軽にリンク」といわれても、果て、何のことやら。
いざ地デジ対応のプラズマテレビとHD搭載のDVDデッキを買ってきて繋ごうとおもい、お手軽に説明書を読もうとしても、テレビもDVDも付属の分厚い説明書に思わず身を引いてしまい、親切なのは「活字」が大きいだけとうんざりしてしまいました。
携帯電話も新しいのに取り替えて、さて付属のマニュアル本の分厚いこと。

この両者も、根気良く言葉を理解し消化し、システムの構成・仕組みを熟知し、しっかりと自分の骨肉にしなければ、いつまでたってもテレビもDVDもただの物状態。持ってきた電気店にセットしておいてと頼むばかり。
でも、テレビでも地デジ、BS,CSなんてあるし、どれを押せばハイビジョンが見られるのか、どのボタンでリンクさせてHVを録画することができるのか、もう????状態です。


「マツムシソウ」(府立植物園)

メディアと言葉
やっと何とかこなせるようになっても、購入したハイレベルにふさわしい番組をやっているかと思えば、活字離れを助長するような非ハイレベル番組が多く、やたら健康に役立つ器具や薬などのCMか通信販売の番組ばかり。
ときおり、BSハイビジョンでヨーロッパの空撮や日本の名峰、動物の生態など自然を取り上げた優秀な番組もあり、かつての名画も放映されていて、ようよう高い映像機器を買った実感が沸いてきました。救われます。

でも、こんなに外来語が飛び交い、日本語と言えば短絡的使いが多く見受けられ、はてまた、それではだめと一念発起して古文を読もうとしても読めません。
かの紀貫之や藤原俊成さん、弘法大師様、紫式部さま、小野小町殿などから21世紀の日本語は乱れすぎどころか、日本語ではないとそっぽ向かれるし。

実際に在阪テレビ局のニュース番組でこんなアナウンスがありました。
「30歳くらいの男性が、血の着いている包丁を振り回していると110番通報がありました。早速警察官が駆けつけてその男を取り押さえ、自宅を捜査したところ、自宅には妊娠4ヶ月の男性の妻がぐったりとして倒れていました。」
どこか変ですね。言葉が親切すぎて不要な部分を多く言い過ぎ、変な内容になったのです。この男性は「妊娠4ヶ月」だったのです。
ここは「妊娠4ヶ月の男性の妻」ではなく「妊娠4ヶ月の妻」で十分なのです。

もう一例。「日本から見ると地球の裏側、チリでは地球温暖化の影響で・・・???」
卵を割った殻の裏側は、皆さんどこにあるのか分かりますね。でも「地球の裏側」って、どうすれば見られるのでしょう。地球を割るわけにはいけないし、割ってもその内部はマントルやらで一杯詰まっているのでしょ。
「日本とは正反対の南半球に位置する国チリでは・・・」ならどの辺りか想像できるのですが。


 地球の裏側ってどこ?

学校や家庭では「人の言うことを良く聞きましょう」と子供たちに教え込みます。
某テレビ局の「朝まで討論」の司会を務めている方、最後まで聞かずに覆いかぶさるようにしてその人の結論を勝手に言い当てようとしていますし、与野党対談ともなると誰が何を言っているのか分からず、ただ騒音だけ。司会者がそうなのでまとまるわけがなく、意見の途中で割り込まれて消化不良に陥る発言者、したり顔の邪魔者。決してこの番組を子供たちに見せたいと思いたくはありません。自分の主張を押し付けるばかりで相手を尊重する気配なんて、どこを見ればあるのでしょう。

言葉の乱れは、本当はこんなところから来ているのではないでしょうか。


「ムラサキゴテン」(府立植物園)
【花言葉】辛抱強い愛情・話好き

日常、古文に接することのないごく平凡な人間にとって、平安王朝文学を直接読もうとすれば大学の文学部でしっかりと基礎を学ぶことが王道でしょう。
ただ、未来の子ども達のためにしっかりとして言葉を身につけなければいけないことを痛感しました。

手紙のやり取りで、相手の様子を気遣って贈った言葉が「?」。それに対しての返事が「!」。まさしく熟達の域ですね。

いよいよ「紅葉」のシーズンに入りました。

 
名所「東福寺の紅葉 昨年撮影」(京都市東山区本町十五丁目)

空と空

2007年11月08日 | Weblog
桓武天皇により京の地に都が遷された延暦十三年(西暦794年)から時を経て、100年後という平安時代の中期、すでに藤原氏一族により政権中枢の大部分を占められるようになりました。


 大菊(府立植物園)

陽成天皇
その頃となると、いよいよ年老いた小町のもとへは誰も通うようなことはなくなり、近江の逢坂の地にある関寺辺りにひっそりとわび住まいをしていました。
ある日、第57代「陽成(ようぜい)天皇」から小町のもとへ一首の和歌が送られてきました。
陽成天皇は貞観18年(876年)から元慶8(884年)に在位されていましたので、その頃の小町は50歳代後半から60歳代前半の年齢と思われます。現在の年齢から見れば、まだまだ頃からの年齢のように思えますが、当時はかなりに老人であったと思えます。

目にとまった小町
何を思って陽成天皇は小町のもとに御歌を送られたのでしょう。小町の若い頃は第54代仁明天皇の更衣であり、その後も、和歌を詠む品の高い女性として宮中の歌会には必ずといっていいほど呼ばれ、また、一説には舞姫といわれてことをして、「小町」は高名であったことでしょう。

何かの短冊に、小町の詠んだ歌が残っていてそれを眼にしたのかもしれませんね。先ほども述べましたが、当時に政治を執り行うものは藤原一族のものが大半を占めていましたので、半ば政治の世界から追い出された天皇のすることといえば、歌を詠むとか雅楽に精通するなどアカデミックな面において道を研鑽をしていた時代でした。
そのなかで、小町の和歌があったことも確かでしょう。
後の第60代「醍醐天皇」は、紀友則・紀貫之らに勅撰和歌集の編纂を命じました。「万葉集」以降編纂されなかった和歌を集めて編纂させてできたのが「古今和歌集」であることは皆様方ご存知でしょうが、そのなかに「小野小町」の歌が18首選ばれていることからも、編纂される以前に小町の和歌が陽成天皇の眼に留まっても不自然なことはないのです。


「国華暁星」
贈り歌
小町の消息を尋ねられた天皇は、小町が滋賀県大津市逢坂山の関寺付近にわび住まいをしているということが分かったので、早速、歌を認め小町に贈られたのでしょう。

「雲の上にありし昔に変わねど見し玉簾のうちやゆかしき」

陽成天皇は、小町の歌をよほど愛でられたのでしょう。「もう一度宮中に戻ってきて、歌の一つでも教えてくれないであろうか」と小町が宮中に戻ることを所望されての歌です。

小町は、昔のことがつい最近のように思い浮かべ、そして、公達たちや宮中の女性たちの醜い争いを十分に知っていました。ですから、いまさら戻ったところでどうなることか不安に思いました。
また、小町には心に決めた大事なことがありました。深草の少将の「百夜通い」のことです。

小町は天皇の誘いを断るべく思いました。「昔の栄華は恋しいけれど、今は見る目も亡き老醜を晒した一介の老婆に過ぎません。今、年老いた姿で戻るとなれば華やかな宮中に暗い影を与えることに成り、良い影響を与えるものではございません。まして、こんなみすぼらしい姿をしたものの(和歌)の教えを誰が好んで受けましょう。」

天皇の遣いのものにそのことを言ってもどのように伝わるか分からないので、贈答歌として一首詠みました。

返 「雲の上にありし昔に変わねど見し玉簾のうちぞゆかしき」

遣いのものには、「もう眼も見えづらくなってきており、頭の力も弱くなっています。ですから、この歌でご返事申しあげます。」と伝えました。
贈られた歌の下の句「うちやゆかしき」を、小町は「うちぞゆかしき」と一文字変えただけなのです。

わずかなことなのです。しかし、これだけ丁寧に相手の気持ちを察しながら、天皇に対して丁寧にお断り申しあげた小町は、人並みならぬ非凡の才を持った女性であることが偲ばれます。
この小町の完成度の高い文字の表現の仕方、日本語のユニークさを知るとともに難しさも知りました。


木立の風景

言葉あそび
小町ほどの高尚なことはありませんが、少し言葉遊びをして見たいと思います。

その1.ある町角の喫茶店で、有名な歌手が時折お茶を飲みに来るので、マスター氏サインを頼もうと店員に「色紙」を買ってきて貰おうとしました。あいにく店員はまだ来ていないのでメモにそのことを書いて、おいて置きました。
店員は色とりどりの「色紙」を買ってきました。マスターは「色紙(シキシ)」店員は「色紙(イロガミ)」と読んだのです。

その2.昔、和服を仕立てていた母親が急に用事を思い出し、店員さんにメモを残して出て行きました。「すそを一寸だけ切って置いてください」
店員さんは一寸切りました。母親はわずかだけ切っておいてほしかったのに3センチ以上も短くしてあってガックリ!
母親「一寸(チョット)」、店員さん「一寸(イッスン)」

他にも、いろいろあります。「ココデハキモノヲオヌギクダサイ」
「ここで履物をお脱ぎください」「ここでは着物をお脱ぎください」

ガレージで。「空あります」・・・「アキがあります」と読むんですね。そそかっしい私。「ソラあります。なにソラって???」


京都府立植物園では丹精を込めたいろいろな菊が展示してありました。

 
「秋の空」 これは「そら」です。

美しい国

2007年11月01日 | Weblog
いよいよ11月となりました。陰暦では「霜月」と呼びますが、陰暦での11月1日は新暦では12月10日となります。なるほど空気が冷え込んで「霜」がたつ時期ということが良くわかります。

霜月の「百夜通い」
小野小町との約束で「百夜通い」をした深草の少将。通い道は今日のような舗装道路でなく、砂利や土の道を歩かれたことと思います。今のような革靴やブーツがない時代、わらで編んだ草履を履いて夜道を通われたことでしょうね。
「霜」がたつ季節ともなると足が凍り付いて、凍傷を負われたのではないでしょうか。その苦痛を乗り越えての「百夜通い」。九十九日目には足腰も立たぬほど、体力を消耗されていたことを考え合わせますと、大雨のときに足を滑らせて川に流されておしまいになり、悲しい結末となってしまいました。

このように悲劇の舞台ともなったこの季節を迎え、いよいよ冬支度をしなければいけません。


 人なつっこい植物園の「アオサギ」(京都府立植物園)

冬場の打ち水
この頃ともなりますと、家の前に早朝打ち水された水が凍りつき、特に舗装された道では滑って転んで、骨折する危険性も生まれてきます。
急に雪が振り出して道路が凍てつき大変滑りやすくなっても、雪に慣れている地域の人とは異なり、靴も無用心に日常のものをはいて歩くので、大勢の人が滑って転び、中には骨折などで救急車のお世話になる人もいます。

なぜ、無神経に打ち水をするのと抗議したくなるのですが、昔からの習慣で止めることはできないそうです。昔から家の前の「掃き掃除」と「打ち水」はしなければならないものと決められているようです。

時代の背景というものが当然あるのですが、家の前の道路がアスファルトやコンクリートで舗装されるようになったのは、自動車の普及によるものであることは自明の理です。
昔の未舗装の状態のままですと“土ホコリ”がもうもうと舞い上がることや、自動車の走行による振動で、家にガタが来やすいこともあり、「舗装」は車の普及とともに必然的なことでした。

でも、時代とともに進歩しなかったのが「打ち水」と考えられます。
もちろん夏の暑い真っ盛りのときの「打ち水」は、気温の上昇を抑える効果があることは確かなので、一概に否定することはできないとは思います。地球の温暖化防止に一役買っていることも実証されています。
また、舗装されたからといってホコリが舞い上がらないとは限らないので「打ち水」の効果は発揮されます。
かといって、冬場での「打ち水」は他の季節と同様しなければならないものかといえば、否定をしたくなります。
なぜならば、凍るからです。凍れば滑るのです。滑ると事故となりやすいからです。

見直せない習慣
打ち水をされるお家は、たいがいなら早起きのご家庭です。早朝といえば急激に温度が下るもの、そこへもって水を撒いてやれば、未舗装なら土の中に水はホコリとともに吸収されていくのですが、舗装された道路に撒かれた水は、すぐに乾燥することができないので、水が凍ったままとなります。
冬場、通行人や通る車をスリップさせるような「打ち水」をしなくても、ホコリなどは「掃き掃除」で十分きれいになるのではないでしょうか。
ただし、冬場でも常に馬が走っている街道は別ですが。

冬場に打ち水を無神経にするなど、周りの状況や雰囲気を読めない人のことを、若い人たちの間では「K・Y」と呼ぶそうです。意味は“空気(K)が読めない(Y)”という頭文字をとったものだそうです。
一方では、「まったく自分のことが分かってくれない、いやな奴だ」と相手を非難するときにも使われるようです。



空気を読むこと
たしかに、空気を読むということは、お互いに相手を尊重しあうという意味で大切なことです。
でも、老若男女を問わず、「尊重されたい」とは思っても他人を「尊重しなければならない」と考えている人はどれほどいらっしゃるでしょうか。

他の人を尊重しその人の基本的人権を大切にする「人権教育」は、近世になって教育関係者や官庁を中心にずいぶん推進されてきました。
「誰もが生まれながらにして平等である」のは、当然のことです。そのことは生まれたときから社会の最小単位である「家庭」において子どもに教育していくべきことで、教師は家庭教育者としての両親なのです。
「この子が大きくなったとき、社会に役立つ子になってほしい、他人に迷惑をかけない子になってほしい」と願うのが健全な社会の一員としての責務であり役割ではないでしょうか。

「おまえ、きしょい!」とか「死んでいなくなれ」とかを平気で他の子どもにいう児童生徒の存在は、教育の現場でありえるはずがないのです。教師に向かって言うとなれば、なおさらのことです。
でも、平気で、まして小学校で現実にそのありえない状況が起こっているのです。



教育現場では、今
学校は、公共性を身につけて学校に来た子どもたちが、大人になって必要とする学問や技術、集団生活での役割の認識などを、専門家である「教師」から教わり、教師は高度の教育手法を駆使して子どもの成長を支援するのです。将来の国家形成を担う子供たちに責任を持って教育を行うため、教師という職は「免許」制になっているのです。
素人が、自分の子どもだけが優位に取り計らってもらおうと土足で教育現場に足を踏み入れることはあってはならないのです。もちろん「いじめ」もです。

いじめを行う子供は、その子の家庭における生育過程において重要な欠陥があるために、その結果として子どもに現れ、他の子どもをいじめだすのです。その欠陥とは、両親が生み育てた子どもを大切に育てていないということから始まります。
子どもがむずかり始めても、根気良く言って聞かせることなく激情的に怒鳴り散らし、有無を言わさず押さえつけ、子どもの人格を捻じ曲げたまま育てていくのです。ですから、子供は防御反応を起こし、その反動として他の子どもに襲い掛かるのです。

今から20年~25年前、「家庭内暴力」が社会問題として取りざたされたことがありました。その当時の中高生が、今の小中学生の親になっている可能性が考えられます。
良い学校に進学させたいために塾などに夜遅くまで通わせ、それがかわいそうだと思う引け目から、何でもかんでも子どものいうことを聞きすぎて、親は子どもの奴隷のように思わせるような子育てがあったかのように記憶しています。父親は会社人間で家庭を振り向かない、大きくなっていく子どもへの対応の仕方が分からないためすぐ母親に責任を押し付ける、母親はただオロオロとするばかり。

その子達も大人になって、社会生活を営むようになり、学校の問題もひと段落が着いたと思うまもなく、「いじめ」による中高生の自殺が次々と起こりました。
まるでいじめの原因が学校であるかのようにマスコミが狂喜乱舞して責任を追及し、いじめた子の親の社会的責任をまったく追及しない社会的ひずみも生じさせ、教育界を捻じ曲げました。
対応のできない現場教師を指導能力のない教師として烙印を押し、教育委員会による教師(教育者)監視、その現場最高責任者としての校長に対する締め付けが行われるようになって今日まで来ています。

いじめの深源
あれだけすばらしいと錦の御旗をあげた「ゆとり教育」や社会に対応した「総合教育」が、結果的に見直しをしなければならないとか、この国の教育をどの方向に向けさせようとしているのか、それとも当事者すら目標も何もかも見えず、暗中模索の中で蠢(うごめ)いているのか。

なぜ、人権を平気で踏みにじるような番組を作っているテレビ局に是正を申し入れるような行動を起こさないのか、まったく不可解です。

表現の自由、当然のことです。でも、人権を平気で踏みにじっている馬鹿番組も表現の自由という立派な言葉を当てはめるのでしょうか。
殺人や犯罪を助長するようなことは決してしていないはずです。人権侵犯問題は同じレベルであることをなぜ気がつかないのでしょう。

漫才師でも言葉が乱暴で、すぐ合い方の頭を平手でぶって、それで笑いを採ろうとしていることが、娯楽という楽しさなのでしょうか。ただ単に「ふざけ合っているだけ」じゃないですか。人に楽しんでもらうために笑いについて勉強し、話術をたくみにするため勉強して勉強して、初めてステージに立ている人ってどれだけいるのでしょう。
すぐズボンを脱いで、お尻の割れ目を見せて、それで笑いを取れたと誤解しているTV局のディレクターさん、番組を提供しているスポンサーの皆様方、「いじめ」もそれによって悔しくて死んでいった若い人たちも、お笑いとお考えなのでしょうか。
見ている人も気がついてください。「その番組を作った責任者は視聴者ですよ」と必ずTV局の関係者は言います。
「視聴者が望んでいるから、作っているんだ」と責任転嫁されているのです。

「赤福」が賞味期限を改ざんしたとしてお怒りになり、年金の着服などにお怒りになる同じチャンネル、同じ放送局でこうも裏表があるのは、極端的過ぎませんか。


サルビア・レウカンサ(府立植物園)
【花言葉】家族愛

いま、教育現場は自分勝手で無神経な保護者達によって教室にゴミ袋を持ち込まれ、それをばら撒かれて、あざ笑うかのように慌てふためいている教師のすがたを見て優越感にひたり、子どもたちは子どもたちで教師から怒られることもないので安心して授業中ふざけあって、学級崩壊を招いているのです。

どうしょうもない子を廊下に立たせたら「体罰」とマスコミは校長が謝罪するまで学校たたきを行うし、このまま続けば、私たちの国はどのようになるのでしょう。
先の戦争の結果、何のためにこの国は生まれ変わり、今日まで歩んできたのでしょう。いったい、何を得られて、何を失ったのでしょう。ただ単に無目的に生きているだけの国には、なってはいけないのです。
安倍前総理の言葉ではありませんが、心の美しい日本に生まれたというホコリがもてるような「美しい国」を、もう一度見直してみようじゃないですか。

今回はずいぶん愚痴っぽくなりました。深草の少将も老齢化し始めましたかな。


「ニリンソウ」(同所)
【花言葉】友情、協力