地球温暖化の兆候が顕著になってきたのか、今年の夏はとても暑かったのですが、それもどこに行ったのでしょうか。
京都市内は全国から紅葉の観光客がおいでになり、23日~25日(日)の連休の観光地はどこも交通渋滞を引き起こしていました。
京都の町は、とても道路が狭いのです。
臨済宗大本山「東福寺」の紅葉(京都市東山区)
その京都の町、桓武天皇が延暦十三年(西暦794年)10月22日に京都の郊外「長岡京」の地から平安京の地に遷都された理由は、怨霊のたたりを鎮めるためといわれています。
奈良仏教に対抗するため
元来、桓武天皇は、奈良に都があったころ大陸からはいってきた仏教の力が強大になり、その力を持って天皇政治を左右しようとする動きがあったため、政治の地を仏教から切り離すため長岡京に遷都したとされています。
6世紀の中ごろに大陸から入ってきた仏教は、当初は国家形成・統一のために人心を集約し、また、その教化力で指導力を発揮する必要性から宗教活動を庇護し、仏教もその国家権力の保障がされていたため肥大化したものと考えられます。
当時、わが国には南都六宗といわれる学問的派閥が形成され、中国の僧「鑑真」がわが国に持ってこられた「律宗(唐招提寺)」とか、他に「法相宗」「三論宗」「倶舎宗」「成実宗」そして東大寺の「華厳宗」などがありました。
四神相応
その権力鼓舞を骨抜きするための荒治療が長岡京への遷都であり、平安京への遷都でした。
とりわけ、長岡京での怨霊を鎮めるための平安京への移転先は、中国の国家護持のキーポイントである「四神相応」の地であるかという調査がされ、それにふさわしいと言うことでこの地に遷都されたのです。
この「四神相応」とは、その土地を聖なる獣神が東西南北の四方を守っていて、その地が「都」とされるのです。北には「玄武」が、東には「青龍」、西に「白虎」、南に「朱雀」が守っている土地として新しい都として選ばれたのです。
具体的には、北の「玄武」には船岡山が位置し、東の「青龍」とは鴨川のこと、西の「白虎」は山陰に向かう大道があり、南には現在干拓されてしまい跡形もなくなっているのですが「朱雀」である巨椋池(おぐらいけ)が位置していました。
現在、巨椋池は宇治川の氾濫や疫病のために干拓され、その姿を見ることはできません。国家第1号の干拓地です(京都市伏見区向島一帯)。
北の青龍・賀茂川(北大路橋―京都市北区)
※ 撮影地は賀茂大橋(京阪電鉄「出町柳駅」下車すぐ)より北側の「北大路橋」から見たもので、賀茂大橋から上流は「賀茂川」といい、下流は「鴨川」と表記します。
春は「青春」
この四神、季節をも表しています。北の「玄武」は冬の色である玄冬(黒色)を表し、東の「青龍」は「青春」の春を、南の「朱雀」は朱(あか)の色である夏を、そして西の「白虎」は「白秋」といって秋をそれぞれ表します。
青龍―鴨川 ―東―春(青春)
朱雀―小椋池―南―夏(あか)
白虎―山陰道―西―秋(白秋)
玄武―船岡山―北―冬(玄冬 くろ)
桓武天皇にとってもう一つ気になる方角がありました。「北東」です。
この北東は従来から鬼門とされていて、そこを守る必要がありました。今の「比叡山」の地です。そこで、天皇は若き秀才の学徒僧に守らせるために国家の費用で唐に派遣して「天台宗」を学ばせたのです。その若き学徒僧が「最澄」です。
その最澄のときに、もう一人自分の費用で唐に渡って仏教を学ぼうとしている「私度僧」がいました。
最澄が国家の費用で唐に学びにいくために行った「遣唐使」の一行のなかにいたもう一人の僧こそ、彼の名を「空海」といいました。
最澄そして空海
最澄は、権威を着飾った既成の南都六宗に対して、理論上の対抗意識を燃焼させていて批判者としての立場をとっていたため、桓武天皇の意向にかなったといえます。空海は仏陀の教えの根本を学び、大日如来にその根源をなすこと、その実現のために心身ともに同化することを学んだ後、唐にわたるのです。
比叡山―伝教大師(最澄)開祖の延暦寺から
この二人こそ、平安の新しい仏教の潮流を担うのです。
この二人の大きな格差は、インド伝来の正統な密教(仏教の流派の一つ。容易に知ることができない秘密の教えという意味)をわが国に伝承させたかどうかにありました。
天台山に行き「天台宗」を学んだ最澄は、帰国の際に片手間に「密教」を学びました。帰国後、彼は桓武天皇に「天台」を報告に行きましたが、天皇はすでに天台の教え以上に「密教」そのものに多大な関心を示したので、苦心して学んだ「天台宗」が生かされない思いで一杯でした。
一方、空海は唐で唯一インド伝来の正統な密教(仏教の流派の一つ。容易に知ることができない秘密の教えという意味)の承継者である真言八祖の第七祖「恵果」の次の正当な後継者(空海は第八祖)として、帰国を果たしています。
空海は、その後、天台宗の創始者として天皇から認められている最澄の懇願(先輩である最澄が、後輩である空海に対して)により密教を教えるのですが、空海としては体で体得し経験をつまなければ完成しないという密教を、空海の持って帰ってきた経典などを読んで密教を体得しようとする最澄に対して、最後には教えることを拒否します。
空海は文芸にも卓越した技量を備えていて、唐にいたときに行動をともにした橘逸勢(はやなり)、空海を庇護した第52代「嵯峨天皇」とともに「三筆」とされていることはご承知と存じます。
どんなに卓越した人でもミスを犯すこともあるたとえとして「弘法も筆のあやまり」と今日まで言われています。
一方、もう一人の橘逸勢は、仁明天皇の立太子事件を策謀した一人(承和の変)として逮捕されて流罪となり、伊豆に流される途中に死にました。この事件は、藤原良房の策謀とも言われ、藤原氏一族による他氏排斥の第1号でした。
藤原氏一族の陰謀が起こり始めたその時代に、最澄と空海、後の伝教大師と弘法大師はともに平安の新しい風となり、今日までその教えが絶えることなく伝えられています。
弘法大師(空海)画像
貴族のために
ただ、当時としては仏教は庶民の宗教となっているかといいますと、どうもそうではないように思えてきます。奈良の興福寺が「藤原家」の個人寺院であるように、貴族の繁栄と安らかな死後を願っての寺院が各所に建立されました。
庶民とは異次元の世界での仏教なのです。
小野小町が、死んでも髑髏をさらして成仏できないとか、成仏しょうと懇願しても深草少将の怨霊が取り付いて妨げているとか、そういったお話は「小町もの」として謡曲の世界を中心に紹介しましたが、しかし、そのお話は14世紀中ごろ、いわば南北朝から室町時代にかけて完成していて、平安時代の当時としての仏教感が伝わっていると考えにくい面があります。
鎌倉仏教から
後のことになりますが、法然上人(浄土宗)、親鸞上人(浄土真宗)や道元禅師(曹洞宗)、日蓮上人(日蓮宗―法華宗)などの時代は、鎌倉仏教が完成する時代にあり、その頃ともなりますと庶民の生活の中に仏教の教えが浸透していると考えられます。
このブログでも紹介しましたとおり、「卒塔婆小町(本年5月3日)」や「関寺小町(同5月10日)」「通小町(5月24日)」などのいわゆる「小町もの」が書かれた時代背景としては、いよいよ地獄と極楽の世界が描かれ、「悪いこと、人をだましたりはしてはいけない」ことの反面教師として「小野小町」が選ばれたのではないでしょうか。
「百夜通い」のお話に至っては、小野小町を悪女とするのにふさわしい好材料ではないでしょうか。おまけに小町は「在原業平や文屋康秀をはじめ、言い寄る男共を手玉に取るし、ろくな死に方をしませんよ。それ御覧なさい」ということを庶民に知らせたかったのでしょうね。
そういえば、あの清少納言や紫式部は文学上でのみ評価されて、小町のような個人像を明らかにされませんでしたね。
まさか、小町に対する罪滅ぼしのつもりで「世界三大美人」の一人としたのではないでしょう。
謡曲の作者には申し訳ありませんが、小町の悪口、信じませんので。観阿弥殿、世阿弥殿。
小野小町
いよいよ12月。昨年の京都の冬はさして寒くはなかったのですが、今年は逆に本格的な冬が到来するような気がします。
インフルエンザが流行っているようです。ワクチンを注射しても効き目がでてくるのは2週間後からと報道されていました。
まずは、うがいと手洗いをこまめにしましょう。罹(かか)りかけこそ「風邪薬」は効くものです。罹ってからでは手遅れです。ご用心。
東福寺のある塔頭で
京都市内は全国から紅葉の観光客がおいでになり、23日~25日(日)の連休の観光地はどこも交通渋滞を引き起こしていました。
京都の町は、とても道路が狭いのです。
臨済宗大本山「東福寺」の紅葉(京都市東山区)
その京都の町、桓武天皇が延暦十三年(西暦794年)10月22日に京都の郊外「長岡京」の地から平安京の地に遷都された理由は、怨霊のたたりを鎮めるためといわれています。
奈良仏教に対抗するため
元来、桓武天皇は、奈良に都があったころ大陸からはいってきた仏教の力が強大になり、その力を持って天皇政治を左右しようとする動きがあったため、政治の地を仏教から切り離すため長岡京に遷都したとされています。
6世紀の中ごろに大陸から入ってきた仏教は、当初は国家形成・統一のために人心を集約し、また、その教化力で指導力を発揮する必要性から宗教活動を庇護し、仏教もその国家権力の保障がされていたため肥大化したものと考えられます。
当時、わが国には南都六宗といわれる学問的派閥が形成され、中国の僧「鑑真」がわが国に持ってこられた「律宗(唐招提寺)」とか、他に「法相宗」「三論宗」「倶舎宗」「成実宗」そして東大寺の「華厳宗」などがありました。
四神相応
その権力鼓舞を骨抜きするための荒治療が長岡京への遷都であり、平安京への遷都でした。
とりわけ、長岡京での怨霊を鎮めるための平安京への移転先は、中国の国家護持のキーポイントである「四神相応」の地であるかという調査がされ、それにふさわしいと言うことでこの地に遷都されたのです。
この「四神相応」とは、その土地を聖なる獣神が東西南北の四方を守っていて、その地が「都」とされるのです。北には「玄武」が、東には「青龍」、西に「白虎」、南に「朱雀」が守っている土地として新しい都として選ばれたのです。
具体的には、北の「玄武」には船岡山が位置し、東の「青龍」とは鴨川のこと、西の「白虎」は山陰に向かう大道があり、南には現在干拓されてしまい跡形もなくなっているのですが「朱雀」である巨椋池(おぐらいけ)が位置していました。
現在、巨椋池は宇治川の氾濫や疫病のために干拓され、その姿を見ることはできません。国家第1号の干拓地です(京都市伏見区向島一帯)。
北の青龍・賀茂川(北大路橋―京都市北区)
※ 撮影地は賀茂大橋(京阪電鉄「出町柳駅」下車すぐ)より北側の「北大路橋」から見たもので、賀茂大橋から上流は「賀茂川」といい、下流は「鴨川」と表記します。
春は「青春」
この四神、季節をも表しています。北の「玄武」は冬の色である玄冬(黒色)を表し、東の「青龍」は「青春」の春を、南の「朱雀」は朱(あか)の色である夏を、そして西の「白虎」は「白秋」といって秋をそれぞれ表します。
青龍―鴨川 ―東―春(青春)
朱雀―小椋池―南―夏(あか)
白虎―山陰道―西―秋(白秋)
玄武―船岡山―北―冬(玄冬 くろ)
桓武天皇にとってもう一つ気になる方角がありました。「北東」です。
この北東は従来から鬼門とされていて、そこを守る必要がありました。今の「比叡山」の地です。そこで、天皇は若き秀才の学徒僧に守らせるために国家の費用で唐に派遣して「天台宗」を学ばせたのです。その若き学徒僧が「最澄」です。
その最澄のときに、もう一人自分の費用で唐に渡って仏教を学ぼうとしている「私度僧」がいました。
最澄が国家の費用で唐に学びにいくために行った「遣唐使」の一行のなかにいたもう一人の僧こそ、彼の名を「空海」といいました。
最澄そして空海
最澄は、権威を着飾った既成の南都六宗に対して、理論上の対抗意識を燃焼させていて批判者としての立場をとっていたため、桓武天皇の意向にかなったといえます。空海は仏陀の教えの根本を学び、大日如来にその根源をなすこと、その実現のために心身ともに同化することを学んだ後、唐にわたるのです。
比叡山―伝教大師(最澄)開祖の延暦寺から
この二人こそ、平安の新しい仏教の潮流を担うのです。
この二人の大きな格差は、インド伝来の正統な密教(仏教の流派の一つ。容易に知ることができない秘密の教えという意味)をわが国に伝承させたかどうかにありました。
天台山に行き「天台宗」を学んだ最澄は、帰国の際に片手間に「密教」を学びました。帰国後、彼は桓武天皇に「天台」を報告に行きましたが、天皇はすでに天台の教え以上に「密教」そのものに多大な関心を示したので、苦心して学んだ「天台宗」が生かされない思いで一杯でした。
一方、空海は唐で唯一インド伝来の正統な密教(仏教の流派の一つ。容易に知ることができない秘密の教えという意味)の承継者である真言八祖の第七祖「恵果」の次の正当な後継者(空海は第八祖)として、帰国を果たしています。
空海は、その後、天台宗の創始者として天皇から認められている最澄の懇願(先輩である最澄が、後輩である空海に対して)により密教を教えるのですが、空海としては体で体得し経験をつまなければ完成しないという密教を、空海の持って帰ってきた経典などを読んで密教を体得しようとする最澄に対して、最後には教えることを拒否します。
空海は文芸にも卓越した技量を備えていて、唐にいたときに行動をともにした橘逸勢(はやなり)、空海を庇護した第52代「嵯峨天皇」とともに「三筆」とされていることはご承知と存じます。
どんなに卓越した人でもミスを犯すこともあるたとえとして「弘法も筆のあやまり」と今日まで言われています。
一方、もう一人の橘逸勢は、仁明天皇の立太子事件を策謀した一人(承和の変)として逮捕されて流罪となり、伊豆に流される途中に死にました。この事件は、藤原良房の策謀とも言われ、藤原氏一族による他氏排斥の第1号でした。
藤原氏一族の陰謀が起こり始めたその時代に、最澄と空海、後の伝教大師と弘法大師はともに平安の新しい風となり、今日までその教えが絶えることなく伝えられています。
弘法大師(空海)画像
貴族のために
ただ、当時としては仏教は庶民の宗教となっているかといいますと、どうもそうではないように思えてきます。奈良の興福寺が「藤原家」の個人寺院であるように、貴族の繁栄と安らかな死後を願っての寺院が各所に建立されました。
庶民とは異次元の世界での仏教なのです。
小野小町が、死んでも髑髏をさらして成仏できないとか、成仏しょうと懇願しても深草少将の怨霊が取り付いて妨げているとか、そういったお話は「小町もの」として謡曲の世界を中心に紹介しましたが、しかし、そのお話は14世紀中ごろ、いわば南北朝から室町時代にかけて完成していて、平安時代の当時としての仏教感が伝わっていると考えにくい面があります。
鎌倉仏教から
後のことになりますが、法然上人(浄土宗)、親鸞上人(浄土真宗)や道元禅師(曹洞宗)、日蓮上人(日蓮宗―法華宗)などの時代は、鎌倉仏教が完成する時代にあり、その頃ともなりますと庶民の生活の中に仏教の教えが浸透していると考えられます。
このブログでも紹介しましたとおり、「卒塔婆小町(本年5月3日)」や「関寺小町(同5月10日)」「通小町(5月24日)」などのいわゆる「小町もの」が書かれた時代背景としては、いよいよ地獄と極楽の世界が描かれ、「悪いこと、人をだましたりはしてはいけない」ことの反面教師として「小野小町」が選ばれたのではないでしょうか。
「百夜通い」のお話に至っては、小野小町を悪女とするのにふさわしい好材料ではないでしょうか。おまけに小町は「在原業平や文屋康秀をはじめ、言い寄る男共を手玉に取るし、ろくな死に方をしませんよ。それ御覧なさい」ということを庶民に知らせたかったのでしょうね。
そういえば、あの清少納言や紫式部は文学上でのみ評価されて、小町のような個人像を明らかにされませんでしたね。
まさか、小町に対する罪滅ぼしのつもりで「世界三大美人」の一人としたのではないでしょう。
謡曲の作者には申し訳ありませんが、小町の悪口、信じませんので。観阿弥殿、世阿弥殿。
小野小町
いよいよ12月。昨年の京都の冬はさして寒くはなかったのですが、今年は逆に本格的な冬が到来するような気がします。
インフルエンザが流行っているようです。ワクチンを注射しても効き目がでてくるのは2週間後からと報道されていました。
まずは、うがいと手洗いをこまめにしましょう。罹(かか)りかけこそ「風邪薬」は効くものです。罹ってからでは手遅れです。ご用心。
東福寺のある塔頭で