小町の小窓

美女の称号「小町」。小町になりた~い!

小町の恋歌・第四巻

2007年06月28日 | Weblog
今月は4週にわたって「古今和歌集」に集められた小野小町の和歌を紹介しています。

巻第十五 恋歌五
                          小   町
 『822 秋風にあふたのみこそかなしけれ わが身空しくなりぬと思へば』
   
   秋になれば、田んぼの稲穂は十分に実り黄金色に輝くのに、私は
  不作の稲穂のように実が成らず、いずれ捨てられ忘れ去られてしま
  うことでしょう

というように小町の気持ちを解釈すればよいのでしょうか。

 比叡山遠望(京都府立植物園)

巻第十八 雑歌下

   文屋のやすひでが三河の掾になりて、「あがたみに
   はえいでたたじゃ」と、いひやれりける返事によめ
   る
    ※注 三河の掾(ぞう―地方の役人)。文屋康秀は三河の国の八橋というところに国衙の三等官として赴任しています。

 『938 わびぬれば 身を浮き草の根を絶えて、誘う水あらばいなんとぞ思ふ』

小町にしては、同じ六歌仙の一人として和歌に秀でているであろう文屋康秀の誘いの言葉が、あまりにも無神経ないい加減なものだったので、いくら小町が衰えの兆しが差し掛かってきたこととはいえ、プライドが許さず動じなかったということです。言い換えればかなり痛烈な康秀批判とも思えます。

 ノウゼンカズラ(ご近所の「川井様」宅)

文屋康秀
この文屋康秀、小町と同時代の歌人で代表とされる歌として小倉百人一首の第22番にも

 『249 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ』

と読まれています(古今和歌集巻第五 秋風下)。

古今和歌集の仮名序に康秀のことを「言葉はたくみにて、そのさま身におはず。いはば商人(あきひと)のよき衣(きぬ)きたらんがごとし」と紹介されています。

小町にもどって

さらに続けます。

先ほどの文屋康秀の誘いに返した歌の次に、「題しらず」として

 『939 あはれてふ言こそ うたて 世の中を思ひ離れぬほだしなりけれ』

とうたっています。小町は心身とも年老いていく悲しみを感じているのでしょうか。

巻第十九 雑躰 誹諧歌
 『1030 人にあはんつきのなきには 思ひおきて胸はしり火に心やけおり』


巻第ニ十 墨滅歌
   おきのゐ みやこしま         をののこまち
『1104 おきのゐて身を焼くよりもかなしきは 宮こ島べの別れなりけり』

以上、小町の歌十八首を紹介しました。

 ガートルードジェキル(府立植物園)

そして花のように
花のように美しく、宮廷での華麗な生活、天皇の更衣、数あまたの貴公子達との恋物語、深草少将の(一方的)恋物語の悲劇、そして年老いていく末の様子など、波乱万丈の人生を過ごした小野小町の物語は、後世、忘れえぬものです。

わが国初めての勅撰和歌集で、かな文字和歌集である「古今和歌集」の最後に

   思ふてふ言の葉のみや秋をへて下
   そとほり姫ひとりゐてみかどを恋ひたてまつりて
 『1110 わがせこが来べきよひなり ささがにの蜘蛛のふるまひかねてしるしも』

もちろん小町のことではありません。
しかし、古今集の仮名序に小町のことを「いにしへの衣通姫(そとほりひめ)の流れなり」と紹介されています。何か重ねあわされていると見えるのは考えすぎでしょうか。

仁明という帝に出合わなければ小町は、普通の人生を送っていてのかもしれません。帝の逝去という悲しい別れの後、俗世間の男女間のやり取りの渦中にうずもれずに、後に出てくる「竹取物語」のかぐや姫のように月の世界に戻れば、「小野小町はかぐや姫であった」という伝説が生まれたのにと思えてきます。

「花の色は…」と歌った小町の心境を表したく、いろいろな花でブログを飾りました。「…うつりにけりな…」です。

早いもので夏至はすぎ、また徐々に夜の時間が長くなっていきます。六月は夏越の祓え「水無月」です。そして月があければ七月の文月。「七夕様」です。

花しょうぶ2題
 (「府立植物園」にて)

 (「東福寺」にて 京都市東山区)

小町の恋歌・第三巻

2007年06月21日 | Weblog
いきなりですが、前回(6月14日)に投稿した記事の中で、最後の花を「テッセン」と紹介しましたが、いささか自信がなくって植物図鑑などで調べましたところ「クレマチス」の一種で「ジャックマニー系」の花でした。お詫びして訂正します。


クレマチスはアネモネやフクジュソウ、クリスマスローズなどと同じ「キンポウゲ」の仲間で、分類は「キンポウゲ科クレマチス属」に属し、日本では「カザグルマ」、中国では「テッセン」や「ラヌギノーサ」、ヒマラヤでは「モンタナ」などの原種を交配させて、現在では300種類もの「クレマチス」が咲いているといわれています。

さて、本題です
古今和歌集に納められている小町の和歌は、平安時代初期の、当時としては女性としての恋の思いを素直に表わされているとても進んだ感覚を持ったものでした。

前々回、前回に続いて古今集から小町の歌を紹介します。

巻第十四 恋歌四には次の一首が納められています。

 『727 あまのすむ里のしるべにあらなくに うらみんとのみ 人のいふらん』

花の色は…
さらに、巻第十五 恋歌五には

 『782 今はとて わが身時雨にふりぬれば、言の葉さえ移ろいにけり』

と小野貞樹に歌を贈っています。
小町も、いよいよ生涯を一人で過ごさなければならない運命になるかもしれないという不安感でいっぱいになってきた年齢に達したのでしょう。

 ハナショウブ(「東福寺(京都市東山区)」境内で)

十年一昔なら、掃いて捨てるほど自分に言い寄る数多の男がいて、面白いほどに気をもませ、そしてはねつけることの妙味を味わっていたことでしょうが、「花の色は…」と気がついたときには、もう誰も近づいてくれる、相手にしてくれる男性がいなくなっている寂しさを歌ったことでしょう。

この小野貞樹という人、小町が更衣を務めた仁明天皇の皇子である道康親王(後の「文徳天皇」)の世話をした人で、同じ宮中に勤めていたことから小町とは同じ年代で、一説には幼馴染とも言われています。

他の男性が遠ざかっていく中で、唯一、小町の寂しさを聞いてもらうことのできる人だったかもしれません。

小町の歌に対して、小野貞樹は返しています。

 『783 人を思ふ心この葉にあらばこそ 風のまにまにちりもみだれめ』

さらに、不思議な人物が登場して和歌が一首つづいています。「こまちがあね」という人です。
小野小町にお姉さんでもいたのでしょうか。
年を経て、人生を寂しく感じ始めた小町に対する諭しのような歌です。

     あひ知れりける人のやうやくかれがたになりけるあ
     ひだに、焼けたる茅に葉にふみをさしてつかわせり
     ける               こまちがあね
 『790 時すぎてかれ行く小野の浅茅には、いまはおもひぞたえずもえける』

そして小町は

 『797 色みえでうつろふものは 世の中の人の心の花にぞありける』

年を重ねていくごとに、女として最も大切な容姿が色褪(あ)せて行くだけでなく、目には見えないけれど、私に対する人の心もそのように色褪せてくることに小町は気づくのです。

 ロシタ(アジサイの一種 京都府立植物園)

小町のはかなさ
小町が更衣として仕えていた仁明天皇は、わずか41という歳で逝去します。
歴史上には何も記録として残されていませんが、そのときの小町の心情としてはいかがなものだったのでしょう。

彼女の美貌と教養の深さで、小町は天皇からずいぶんと可愛がってもらっていたと推測してもかまわないと思います。
仁明天皇の前の嵯峨天皇には70人もの子供がいたとされています。
一国の統治者として、時の権力者としてその地位を不動のものにするために必要なことは、神という絶対的な力に保護されていること、予知予見能力が長けていること、自分の力になってくれるものが多くいることなどが挙げられます。

ですから、当時としては当然のことととして、権力者であれば何人もの女性がいて種の維持が図られていました。

特に小町は大切にされたのではないでしょうか。教養といい美貌といい申し分がないのですから。
古今集の後半には伊勢も登場しますが、あえて六歌仙の一人として小町は存在するといっても過言ではないでしょう。

寵愛していただいた仁明天皇と死別した現実への落胆が大きく、それゆえに天皇への思いをいつまでも大切にして心に留め置きたかった、言い換えれば時が止まったかのようにして小町の人生という舞台が進行しました。
静かに暮らしたい、第二の舞台は山科の小野に移るのです。

そして、気がつけば「我が身世にふる、ながめせしまに」という第二のステージに小町は立っていたのでした。

 テッポウユリ(隣の和田さん宅)
 サボテンの花(我が家)

小町の恋歌・第二巻

2007年06月14日 | Weblog
先週に引き続き、古今和歌集に収められている小野小町の歌をご紹介します。

前回は、古今集第十二巻「恋歌ニ」から紹介しました。今回は同第十三巻「恋歌三」からです。

『623 みるめなきわが身をうらとしらねばや かれなであまの足たゆくくる』
  ― 会う気がないのに、なぜ男達は通ってくるのでしょう。まったく海藻も
   ないのに足がだるくなっても海女が期待を込めて遠くまで海藻を取りに来
   るようで。

 イメージ ― 百夜通い道(伏見区深草)

百夜通い
 深草少将は、“おそらく小町は自分に会うことはしないだろう”ということを感じていたことと思われます。
多くの若い貴公子たちが小町に言い寄っていました。
小町にしては、深草少将も他の人たちと変わりはないのです。
でも、少将はあきらめることをしませんでした。小町には“他の男達とは違うのだ”ということを強烈にアッピールしたかったのです。
小町は「他の人たちとは違うという証拠を示してください。」と少将に言います。
少将は真剣そのものでした。「毎日、百夜、あなたの元に通います」といいました。
小町は「それほどおっしゃるなら、百夜通ってきていただいた日に考えて見ましょう。ただし、お願いがあります。必ずお一人で歩いてお越しください。」

お供を連れてとか、牛車や馬に乗って通ってこられると、必ずや人目につくはず。小町はそれを恐れたことと、そのような過酷な条件を出せば、少将はいずれあきらめて通ってくることはなくなるだろうと思いました。

小町にすれば、しかし誤算でした。

深草少将は山科の小町の元へ通いだしたのです。伏見の墨染から片道6キロの道のりです。



小町は会う気はないのに。
深草少将、後から古今和歌集を読んで小町の心を知ったら、どんな思いだったでしょう。
「卒塔婆小町」や「通い小町」に謡われ舞われているごとく、怨霊となって小町にまとわりついて成仏させない心情がよく物語っています。

小町の本心
小町には、他に恋焦がれている男性がいたことは確かです。

『635 秋の夜も名のみなりけり あふといえば事ぞともなく明けぬるものを』
  ― 秋の夜は長いといいますが、好きな人との時間はすぐ明けてしまいますよ

深草少将は、肌寒くなった秋の夜更けを一人小町の元へ通うのです。


    題しらず                こ ま ち
『656 うつつにはさもこそあらめ 夢にさえ人めをもると見るがわびしき』

『657 限りなき思いのままに夜もこむ 夢路をさえに人はとがめじ』

『658 夢路には足も休めず通へども うつつに人目見しごとはあらず』

私の心から慕い思うような人が、今現実に深草少将が通ってきてくれるように、私の元に通ってきてくれればいのに。

そんな小町の気持ちを知らず、少将は通い続けます。

深草少将の立場から見れば、小町は許すことのできない非情な女性となります。小町に好かれた男性から見れば、夢にまで恋焦がれてみるような、思い込んだらどこまでもという多感な女性だったのかもしれません。

表面と内面との差がとても大きいように思われますが、和歌を読むとか、当時の宮廷に通用する美貌がよく教養も十分にあるタイプの女性だったからこそ、三大美人とかもてはやされたのでしょう。

さらに、古今集では在原業平や僧正遍照との恋歌が出てきます。六歌仙内での和歌を通した男女間の激しいやり取りです。
次回に紹介したいと思います。

初夏の花々
近畿地方もやっと梅雨に入りました。
花々が水滴にぬれて、とても嬉しそうです。
府立植物園では、初夏の花が多く見ることができます。いくつかご覧ください。

 コレオプシス(キク科)

 トケイソウ

 カンナ

そして


ご近所の街道沿いに植えておられました。テッセンではないでしょうか。

小町の恋歌

2007年06月07日 | Weblog
「小野小町」という女性の存在が初めてこの世の中に登場してくるのは、「古今和歌集」の中からでした。
ご存知の通り、この「古今和歌集」、醍醐天皇が紀友則や紀貫之らに命じて編纂させた初の勅撰和歌集です。

この和歌集の仮名序に「小野小町」が紹介されていて、僧正遍照、在原業平、文屋康秀、僧喜撰、大友黒主とともに六歌仙の一人としていくつかの小町の歌が編纂されています。

花の色はうつりにけりな いたづらに 我が身世にふるながめせしまに
(巻第二 春歌下 113)

は、小町の代表とされる歌で小倉百人一首にもでてきます。

この歌のほかに3月8日の記事にも紹介しましたが

  思ひつつぬればや人の見えつらん 夢と知りせばさめざらましを
                      (巻第十二 恋歌ニ 552)
  うたたねに恋しき人を見てしより ゆめてふ物はたのみそめてき
                             (同 553)
  いとせめて恋しき時は むばたまの夜の衣をかへしてぞきる
                             (同 554)
などがあります。



どなたがお決めになられたのか存じませんが、世界三大美女の一人といわれた小野小町の美人で理知的で才媛の女性が歌った物としては、あまりにも妖艶すぎ、それを通り越して艶かしい内容ではありませんか。
こんな歌を短冊にしたためていろいろな人に贈ったのでしょうか。

 
シラン(隣の「和田氏」宅)

カンパニュラ(フウリンソウの仲間 府立植物園) 

恋の文
随心院に小町文塚があり、その中に数多の貴公子からの恋文を納められていて、深草少将のものもあるとされています。

「恋文」という言葉、携帯メールのこの時代になって、この文字や「ラブレター」という言葉はもはや死語に近く、絶滅の危機に貶しています。

素敵な女性に思いを馳せて、「恋しい恋しいと」手紙を書いて郵便ポストに投函し、返事が届くのを今か今かと首を長くして待っている時代もありました。
とても純粋で、かわいくもロマンも感じます。
「恋しい恋しい」を「変しい変しい」と書いて有名になった小説などもありました。

恋の贈答歌
さらに「古今集」で次のような贈答歌があります。

安倍清行朝臣が何かの法事で真静法師の唱えた経文をヒントに小町に対する恋歌を作り送ったことが記されています。

      下つ出雲寺に人のわざしける日、真静法師の導師に
      ていへりけることばをうたによみて、小野小町がも
      とつかわせりける         あべのきよゆきの朝臣
  556 つつめども袖にたまらぬ白玉は 人を見ぬ目のなみだなりけり

      返し               こ ま ち
  557 おろかなる涙ぞ袖に玉はなす 我はせきあへず たぎつ瀬なれば

清行から送られた歌に返して、「心からの恋でないために、白玉なんて涙が袖にたまってしまうものです。私は真静法師のお言葉に感激のあまり、涙が滝のように流れ出ましたよ。」と応えるのです。上っ面の恋文に厳しい返答です。

恋に燃えている感情を直接話し言葉で相手に伝えず、和歌という限られた30と1文字の数に限りなく言葉を駆使して作り上げ短冊にしたためて相手に恋の言葉を贈るのですが、またたくみに返答を歌に託してこのように小町は返答するのです。
今の時代に小町が生きていたとすれば、どのようにケイタイで和歌を作るのでしょうか。

 ウララ

 デルフィニューム(キンポウゲの仲間)

病魔、携帯メール
先ほど「恋文」は死滅状態と述べました。
携帯電話の発達とメール機能の高度化は、私たちの日常生活にいやおうなしに深く浸透しています。いまや欠かすことのできなくなった通信手段です。

お友達との待ち合わせの連絡、会社からの指示、さまざまな日常会話のシーンがメールでやり取りされています。
特に、メール交換を通した親しい人との付き合いは、人生そのものを凝縮しているような錯覚に陥れられます。

とりわけ、若い世代の人々にとって、友達から送られてきたメールは重要な物です。
即答しなければ、あの人は「いい加減な人、ルーズな人」と評価され、いつかは仲間はずれにされてしまう恐ろしい状況に陥れられるからです。封建的な時代とは異なり、今日のように平和で近代的な生活を送ることができるのにもかかわらず、昔からの「村八分」がうごめくように私たちの日常生活の舞台に悪魔のように浸透しているのです。

メールは、時・所かまわず身近に侵入してきます。
ですから、家の中にとどまらず、歩行中や買い物中、電車の中や自動車を運転しながら、自転車をこぎながらメールが届いていないかをチェックし、着信していればすぐに返信する、まるでハイル・ヒットラーのような忠誠心で「ケイタイ」との神経質なお付き合いをさせられているのです。

若い母親は幼子がむずかっているのにもかかわらずケイタイのメールに打ち込み、歩きながらメールをし、また、メールを打ちながら反対側斜線の歩道を自転車に乗って赤の信号を無視して向側に渡っている学生など、周りの状況をまったく考えもせず省みることもなく、日常生活のストレスの発生源のような状態がごく当たり前に起こっています。
だのに、その発生源がまたストレスで悩んでいるなんて、もう手の施しようがないのでしょうか。

子供の参観日に学校に行って、授業中にも関わらず知り合いの母親と平気でペチャクチャとおしゃべりをしたり、ケイタイでメールをしたり、それで学校生活を送っている子供の様子がどれだけ分かるというのでしょう。
「授業の妨げになるからお静かに願います」と担任が言っても、あの担任なっていないと評価するなんてどんな神経の持ち主なのでしょう。

教師が教育を崩壊したのではなく、こうした家庭教育の崩壊という社会現象が公共心を含めて「思いやりの心」を崩壊させているのにも気づかず、教員免許を更新するなど教師の資質向上にのみがベターな対症療法としてとらわれていますが、公共心や社会生活無視という癌病巣には手をつけない状況で、どうして健康な国を作り上げるんでしょうか。
すでに、子供たちがその病魔に侵されています。

「メタボリック症候群」ならぬ「携帯メール中毒症候群」と名付けてみました。

ストレスの発生源がストレスに悩み「癒し」を求めてさ迷い歩く自己中心的日本の姿。これも「美しい国」なのでしょうか。

だから和歌を詠むなどのスローな世界が必要とおもわれてきます。


賀茂川(京都市北区北大路橋から)

嵯峨天皇から始まった宮廷のサロンの中での和歌。このような風流かつ教養の高さで和歌が詠まれ、今日まで残っている雅な文化をいつまでも残して行きたいものです。
まだまだ続きますが、今日はここまででごめんなさい。
次回をお楽しみください。