いよいよ、2007年もあと数日となりました。
皆様方にとって、2007年・平成19年という年はいかがな年でしたでしょうか。
還暦の記念
猪(いのしし)生まれの私は「還暦」という節目を迎え、何かの記念にとこの「小町の小窓」というブログを立ち上げました。
私の住む町「京都市伏見区深草」にちなんで、深草という町はどんな町なのか調べ始めたのですが、偶然に「藤原俊成」が編纂した「千載和歌集」の中に「深草」を歌った和歌が納められていたことを発見し、「深草」という地名はずいぶん古くから呼ばれていることを知ったことが、深草探求の始まりでした。
藤原俊成(菊池容斎・画、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
その歌は、俊成のみならず千載和歌集を代表する和歌として歌われていたものです。
巻第四 秋歌上
259 夕されば野べの秋風身にしみて鶉(うづら)鳴くなり深草の里
(皇太后宮大夫俊成)
歴史の深い「深草」
千載和歌集はいつごろにつくられたのかを調べますと、何と820数年も前のことで、さらに寿永二年(1183年)、後白河院の命令により編纂が開始され、その5年後の文治四年に完成をしているのです。
さらに、驚いたことにはその約250年ほど前の延喜5年(905年)に、醍醐天皇が紀友則・貫之らに命じて編纂させたわが国初めての勅撰和歌集である「古今和歌集」に「深草」の地を読んだ歌が幾度もあったのです。
そうであれば、深草は1100年以前にすでに地名として現われていて、とても長い歴史を持った地域であることが検証されます。
「古今和歌集」の仮名序に、六歌仙が登場してきます。その一人である「小野小町」の歌が18首、揚げられていて、もちろん後の謡曲に登場してくる「深草少将百夜通い」の話が「深草」につながってくるのでした。
この「百夜通い」のお話、深草の住まい人としてとてもやるせなく、辛くって額面どおり受け取ってよいものか、ずいぶんと迷いました。
「深草の里(後ろは「稲荷山」)」(当時は「霞野」とも呼ばれていた)
小町と少将
お話の中身については何度も紹介していますので割愛させていただきますが、さて、小町に恋をした少将が想いを告げたところ、小町は「百日間の夜、一人で通っていただければ、あなた様の求めに応じましょう」と返答するのです。
竹取物語は、主人公のかぐや姫に恋をした5人の若者に答えられないような問題を出し、その求めを断った話ですが、小町の場合も同様に無理難題を提示することで求愛を断わろうとした点は類似しています。
百夜を通いつめる、物理的には「かぐや姫」のような困難な課題ではなく、ただ忍耐力を必要としたのでしょう。その頃の平安京の創始者第50代「桓武天皇」の後を継いだ第53代「嵯峨天皇」から第54代「仁明天皇(にんみょうてんのう)」に至る時代になると、貴族は政治の世界から離れていき歌や音曲に優れることが一つのシンボルとなり、力の弱くなっていく傾向であったので、深草少将もいずれ断念するであろうと小町は思いそのような条件を示したと思われます。
しかし、小町にとっては思わぬ結果が生じました。あと1日残すという日に深草少将は遭難して命を落としたのです。計算外でした。
このために、後味の悪い想いをしたどころか、自分の居場所まで失っていく事態に落ち込んでいきます。
その後、小町は深草少将の菩提を弔うことになり、一生を一人身で送らなければならないのでした。
天皇の更衣として宮廷に使え、六歌仙・三十六歌仙の一人としてその才能を讃えられ、今日でも「世界三大美人」の一人として賞賛されているのもかかわらず、死んでも少将の祟りで成仏することはできず、髑髏(どくろ)は野晒しにされ、なんとも後味の悪い深草のイメージが残像として語り継がれて来ました。
二人の名誉回復に向けて
そのことが、私にとって耐え難い「深草物語」となり、二人の名誉回復をしなければならない思いに駆られました。
歴史的、地理的な背景をもとにいろいろな角度から物語を分析し、真実に近いものを導き出すことも重要です。確かに「古今和歌集」では「小野小町」の文字が見えますが、小町そのものの姿がはっきり見えているものではありません。
全国各地で見る「小町」物もさらに検証をしていくことも必要ですが、そのことを知りえたところで、それがどうしたという結論に導かれるようでしたら、単なる史実か伝説で終わってしまいます。
「百夜通い」をわが国最初の恋物語として位置づけ、小町の才能と美貌を持って織り成す命への愛情を表現していきたいと考えています。
「小町物語」は、まだまだ続きます。来年もどうぞよろしくお願いします。
どうぞ、よい歳をお迎えくださいませ。
「ルスティカーナ」(「京都府立植物園」)
皆様方にとって、2007年・平成19年という年はいかがな年でしたでしょうか。
還暦の記念
猪(いのしし)生まれの私は「還暦」という節目を迎え、何かの記念にとこの「小町の小窓」というブログを立ち上げました。
私の住む町「京都市伏見区深草」にちなんで、深草という町はどんな町なのか調べ始めたのですが、偶然に「藤原俊成」が編纂した「千載和歌集」の中に「深草」を歌った和歌が納められていたことを発見し、「深草」という地名はずいぶん古くから呼ばれていることを知ったことが、深草探求の始まりでした。
藤原俊成(菊池容斎・画、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
その歌は、俊成のみならず千載和歌集を代表する和歌として歌われていたものです。
巻第四 秋歌上
259 夕されば野べの秋風身にしみて鶉(うづら)鳴くなり深草の里
(皇太后宮大夫俊成)
歴史の深い「深草」
千載和歌集はいつごろにつくられたのかを調べますと、何と820数年も前のことで、さらに寿永二年(1183年)、後白河院の命令により編纂が開始され、その5年後の文治四年に完成をしているのです。
さらに、驚いたことにはその約250年ほど前の延喜5年(905年)に、醍醐天皇が紀友則・貫之らに命じて編纂させたわが国初めての勅撰和歌集である「古今和歌集」に「深草」の地を読んだ歌が幾度もあったのです。
そうであれば、深草は1100年以前にすでに地名として現われていて、とても長い歴史を持った地域であることが検証されます。
「古今和歌集」の仮名序に、六歌仙が登場してきます。その一人である「小野小町」の歌が18首、揚げられていて、もちろん後の謡曲に登場してくる「深草少将百夜通い」の話が「深草」につながってくるのでした。
この「百夜通い」のお話、深草の住まい人としてとてもやるせなく、辛くって額面どおり受け取ってよいものか、ずいぶんと迷いました。
「深草の里(後ろは「稲荷山」)」(当時は「霞野」とも呼ばれていた)
小町と少将
お話の中身については何度も紹介していますので割愛させていただきますが、さて、小町に恋をした少将が想いを告げたところ、小町は「百日間の夜、一人で通っていただければ、あなた様の求めに応じましょう」と返答するのです。
竹取物語は、主人公のかぐや姫に恋をした5人の若者に答えられないような問題を出し、その求めを断った話ですが、小町の場合も同様に無理難題を提示することで求愛を断わろうとした点は類似しています。
百夜を通いつめる、物理的には「かぐや姫」のような困難な課題ではなく、ただ忍耐力を必要としたのでしょう。その頃の平安京の創始者第50代「桓武天皇」の後を継いだ第53代「嵯峨天皇」から第54代「仁明天皇(にんみょうてんのう)」に至る時代になると、貴族は政治の世界から離れていき歌や音曲に優れることが一つのシンボルとなり、力の弱くなっていく傾向であったので、深草少将もいずれ断念するであろうと小町は思いそのような条件を示したと思われます。
しかし、小町にとっては思わぬ結果が生じました。あと1日残すという日に深草少将は遭難して命を落としたのです。計算外でした。
このために、後味の悪い想いをしたどころか、自分の居場所まで失っていく事態に落ち込んでいきます。
その後、小町は深草少将の菩提を弔うことになり、一生を一人身で送らなければならないのでした。
天皇の更衣として宮廷に使え、六歌仙・三十六歌仙の一人としてその才能を讃えられ、今日でも「世界三大美人」の一人として賞賛されているのもかかわらず、死んでも少将の祟りで成仏することはできず、髑髏(どくろ)は野晒しにされ、なんとも後味の悪い深草のイメージが残像として語り継がれて来ました。
二人の名誉回復に向けて
そのことが、私にとって耐え難い「深草物語」となり、二人の名誉回復をしなければならない思いに駆られました。
歴史的、地理的な背景をもとにいろいろな角度から物語を分析し、真実に近いものを導き出すことも重要です。確かに「古今和歌集」では「小野小町」の文字が見えますが、小町そのものの姿がはっきり見えているものではありません。
全国各地で見る「小町」物もさらに検証をしていくことも必要ですが、そのことを知りえたところで、それがどうしたという結論に導かれるようでしたら、単なる史実か伝説で終わってしまいます。
「百夜通い」をわが国最初の恋物語として位置づけ、小町の才能と美貌を持って織り成す命への愛情を表現していきたいと考えています。
「小町物語」は、まだまだ続きます。来年もどうぞよろしくお願いします。
どうぞ、よい歳をお迎えくださいませ。
「ルスティカーナ」(「京都府立植物園」)