小町の小窓

美女の称号「小町」。小町になりた~い!

小町への想い

2007年12月27日 | Weblog
いよいよ、2007年もあと数日となりました。
皆様方にとって、2007年・平成19年という年はいかがな年でしたでしょうか。

還暦の記念
猪(いのしし)生まれの私は「還暦」という節目を迎え、何かの記念にとこの「小町の小窓」というブログを立ち上げました。
私の住む町「京都市伏見区深草」にちなんで、深草という町はどんな町なのか調べ始めたのですが、偶然に「藤原俊成」が編纂した「千載和歌集」の中に「深草」を歌った和歌が納められていたことを発見し、「深草」という地名はずいぶん古くから呼ばれていることを知ったことが、深草探求の始まりでした。

 
藤原俊成(菊池容斎・画、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

その歌は、俊成のみならず千載和歌集を代表する和歌として歌われていたものです。

巻第四 秋歌上
 259 夕されば野べの秋風身にしみて鶉(うづら)鳴くなり深草の里
                         (皇太后宮大夫俊成)

歴史の深い「深草」
千載和歌集はいつごろにつくられたのかを調べますと、何と820数年も前のことで、さらに寿永二年(1183年)、後白河院の命令により編纂が開始され、その5年後の文治四年に完成をしているのです。

さらに、驚いたことにはその約250年ほど前の延喜5年(905年)に、醍醐天皇が紀友則・貫之らに命じて編纂させたわが国初めての勅撰和歌集である「古今和歌集」に「深草」の地を読んだ歌が幾度もあったのです。
そうであれば、深草は1100年以前にすでに地名として現われていて、とても長い歴史を持った地域であることが検証されます。



「古今和歌集」の仮名序に、六歌仙が登場してきます。その一人である「小野小町」の歌が18首、揚げられていて、もちろん後の謡曲に登場してくる「深草少将百夜通い」の話が「深草」につながってくるのでした。

この「百夜通い」のお話、深草の住まい人としてとてもやるせなく、辛くって額面どおり受け取ってよいものか、ずいぶんと迷いました。


「深草の里(後ろは「稲荷山」)」(当時は「霞野」とも呼ばれていた)

小町と少将
お話の中身については何度も紹介していますので割愛させていただきますが、さて、小町に恋をした少将が想いを告げたところ、小町は「百日間の夜、一人で通っていただければ、あなた様の求めに応じましょう」と返答するのです。
竹取物語は、主人公のかぐや姫に恋をした5人の若者に答えられないような問題を出し、その求めを断った話ですが、小町の場合も同様に無理難題を提示することで求愛を断わろうとした点は類似しています。

百夜を通いつめる、物理的には「かぐや姫」のような困難な課題ではなく、ただ忍耐力を必要としたのでしょう。その頃の平安京の創始者第50代「桓武天皇」の後を継いだ第53代「嵯峨天皇」から第54代「仁明天皇(にんみょうてんのう)」に至る時代になると、貴族は政治の世界から離れていき歌や音曲に優れることが一つのシンボルとなり、力の弱くなっていく傾向であったので、深草少将もいずれ断念するであろうと小町は思いそのような条件を示したと思われます。



しかし、小町にとっては思わぬ結果が生じました。あと1日残すという日に深草少将は遭難して命を落としたのです。計算外でした。
このために、後味の悪い想いをしたどころか、自分の居場所まで失っていく事態に落ち込んでいきます。
その後、小町は深草少将の菩提を弔うことになり、一生を一人身で送らなければならないのでした。
天皇の更衣として宮廷に使え、六歌仙・三十六歌仙の一人としてその才能を讃えられ、今日でも「世界三大美人」の一人として賞賛されているのもかかわらず、死んでも少将の祟りで成仏することはできず、髑髏(どくろ)は野晒しにされ、なんとも後味の悪い深草のイメージが残像として語り継がれて来ました。

二人の名誉回復に向けて
そのことが、私にとって耐え難い「深草物語」となり、二人の名誉回復をしなければならない思いに駆られました。
歴史的、地理的な背景をもとにいろいろな角度から物語を分析し、真実に近いものを導き出すことも重要です。確かに「古今和歌集」では「小野小町」の文字が見えますが、小町そのものの姿がはっきり見えているものではありません。
全国各地で見る「小町」物もさらに検証をしていくことも必要ですが、そのことを知りえたところで、それがどうしたという結論に導かれるようでしたら、単なる史実か伝説で終わってしまいます。

「百夜通い」をわが国最初の恋物語として位置づけ、小町の才能と美貌を持って織り成す命への愛情を表現していきたいと考えています。
「小町物語」は、まだまだ続きます。来年もどうぞよろしくお願いします。

どうぞ、よい歳をお迎えくださいませ。

 
「ルスティカーナ」(「京都府立植物園」)

中庸の国

2007年12月20日 | Weblog
私こと深草少将は血圧が高いので、2週に1度お医者様に通っています。百夜通いした頃は山科区小野に住む小野小町のもとへ、往復12キロの道のりを毎夜歩き続けたのに、歳をとったものです。

もういくつ寝ると
18日(火)に診察を受けにかかりつけ医に行きましたが、待合室に「年末・年始の休診」の案内が張られていました。お正月までまだ程遠いのに、気の早いことと思いましたが、しかし待てよ、今日は18日。その2週間後といえば1月1日なのです。
ずいぶん時の流れに疎(うと)くなったものと、反省しきり。緊張という言葉を神棚に置き忘れているのかもしれません。


恥ずかしながら我が家のお雑煮。もちろん白味噌です。

まだ子どもだった頃、「もういくつ寝るとお正月」とお正月が来るのを指折り数えて楽しみに待っていたものです。もちろんテレビなんてない時代のことですから娯楽なんて日常生活にあるわけでもなく、ですから家の用事から開放されて、思いっきり遊べる楽しみがお正月にありました。

サンタクロースもやってきた
いつからのことでしょう。昭和30年代の初頭には、確か神武景気と騒がれていた頃でしょうか、枕元に靴下を吊り下げておくと、あくる朝眼が覚めたらプレゼントが置いてあったことが。サンタクロースがやってきてクリスマスのプレゼントをおいて行ってくれたのです。
お正月の前にクリスマスが。いまやすっかり寒くなる季節の風物詩として定着しています。

冬至
ちょうど今頃の節季といえば「冬至」。12月22日(土)です。
わが国では1年で最もお昼の時間が短い日です。もっとも夜が長いのです。
小町のブログを読んで頂いている皆様は、「深草少将は絶対にあの話を持ち出すぞ!」とお気づきのことでしょう。
そうなんです。やはり旧暦の話なんです。
12月22日といえば旧暦でまだ11月13日の「秋」です。そして冬に至る入り口なのでしょう。
旧暦の12月1日は新暦では12月27日で、旧暦の1月1日は、新暦で見れば2月7日。「立春」の3日後となります。
24ある季節の区切り―「節季」の内、冬から春にかかるものを暦の上から見ていきますと、

 新暦1月 5日(旧暦11月27日)― 小寒 寒の入り
    1月20日(旧暦12月13日)― 大寒 もっとも寒い頃
    2月 4日(旧暦12月28日)― 立春
    2月19日(旧暦 1月13日)― 雨水 雪から雨水へと暖かくなる頃
    3月 5日(旧暦 1月28日)― 啓蟄 太陽の暖かさが地中にも届く頃

となります。日の間隔を計算しますと、不思議なことに15日ごとにやってくるようです。


 京都西山の入陽(冬至2日前撮影)

お年賀状のあいさつに「新春おめでとうございます」とか「初春」とか「春」の文字をごく当然のように書きますが、暦の新旧で対比しますとなるほどうなづけます。

今冬も昨年と同じように暖かいような気配がしてきて、京都近辺ではいまだに柿の実が落下せずに鈴なりとなったままです。季節感が薄らいできたのも地球温暖化が顕著になってきた影響なのかも知れませんね。

本来なら大振りのミカンが店頭に並べられてもよい季節なのに、近所のスーパーでは和歌山の有田ミカンの小振りしか見られません。
コタツにはいって、大きなミカンの皮をむいて食べながら「カルタ取り」をしたり、「凧あげ」や「羽根つき」など大勢の人で楽しむゲームがたくさんありました。
そんなアナログ的な遊びよりも、TVゲームなどデジタル的遊びが主流となってきました。時代の移り変わりです。

電飾
一方、時代が変わってとてもすばらしい風景となったのが「クリスマス」のイルミネーションです。一軒のおうちが飾られるようになると、特に小さなお子達がおられるお家で次から次へと電気が伝わるように町のあちらこちらで飾られるようになり、中には対抗意識むき出しで競争していることがありありと目に浮かぶお家もあります。
豪華な飾り付けを見せていただいて、心がうきうきとしてきます。入場料は無料ですし。
夜間の犯罪抑止の必要性から、町内会で推奨している地域も見受けられ、もう何年かもすれば「電飾コンクール」なんてものもできるのではないでしょうか。

 
クリスマスツリー(JR京都駅)

数年前に、クリスマスの時期にシンガポールに行ったことがありましたが、町全体がイルミネーションで飾られていて、その下を二階建ての路線バスで通った思い出が蘇ってきました。
もちろん雪もあるのですが、何と発泡スチロールを砕いたものでした。その下で子ども達は大変嬉そうにクリスマスの夜を過ごしていました。本当の雪を見せてあげれば感動されることでしょうね。

神も仏も
私が入っている合唱団でのことです。
今、クリスマスキャロルの曲を練習しているのですが、クリスマスにちなんで指揮者氏いわく。

『わが国のキリスト教の信者の数は1%おられるそうです。しかし結婚式ともなると80%のカップルが教会で式を挙げています。
お正月は神社に詣でておみくじを引き今年の運勢を占い、お葬式は仏式といわば宗教に関しては無節操といっていいくらい中庸な国民性があります。でも、それは決して非難されるべきものでもなく、何でも受け入れるという感性があればこそ、宗教を取り巻く争いがない自慢すべきものも持っていて、それでいいのかもしれないですね。』

わが国には八百万の神がいらっしゃいます。日本人は生きている間にそれらの神に運勢を訪ねます。不運でないことを祈ります。そして生きて行く上で安全であるように守ってもらうために神に対して祈ります。
「家内安全」「健康長寿」「良縁」「交通安全」「合格祈願」中には「勝ち馬祈願」も(そんなのカンケーねっ!)。
決して神に対して、死ねば極楽に行けますようにと死後の事を祈願している人はいないのではないでしょうか。
極楽往生を願うのは、やはり「仏様」でしょう。「神様」は生きることに対する祈願なのです。生きていることを守ってもらうための祈願なのです。

ずいぶん昔に近所のお寺の和尚様から、「生前に正しいことをすれば死後は極楽浄土に導かれます。ですから生きている間に正しい行いをするように務めなさい。」と教えていただいたことがありました。仏の教えとは生きていることを大切にしなさいということと今でも信じています。
でも、仏様はいつの時代から「死ぬこと」だけにかかわりを持つようになったのでしょうね。何百万と出して「院号」をつけてもらったり。日常生活からお寺様が離れて行かれ、命日のお参りを知らずに今の子供たちは育っていますし、まして仏壇のないお家が大半を占めるようになっています。せいぜい先祖のお墓参りか法事の供養だけ関わりを持っているのでしょうね。

お寺様がこぞってクリスマスのようなイルミネーションを飾ればよいのに。
「不謹慎な!」と叱られそうですが、今の若い世代にとってクリスマスもバレンタインも心に残る年中行事になっていますし、結婚式は教会で「永遠の愛を誓う」のです。お寺で誰が愛を誓うのでしょうか。


 初詣(伏見稲荷大社)

確かに、この世には神も仏も住んでいらっしゃいます。人間の力ではどうすることもできないことがあります。この世に生まれてくることです。
両親を選ぶことも、性別を選択することも、国を選んで産まれてくることもできないのです。

ですから、どのような運命を背負って産まれてこようとも、人間として産まれてきたことに対して感謝の念を持ち続けたいと思います。神も仏も、お住まいは一人ひとりの心の中におられるのではないでしょうか。

神も仏も使い分けができ、仏教もキリスト教も混在できるこの国に生まれたこと、そして、過去の反省から半世紀以上にわたって戦争のない平和な国に暮らしてきたことを感謝し、この国の次代を担ってくれる子孫たちに、かけがえのない地球という宝物をきれいな形で残していかなければならないと痛感しました。


越(こし)の国

2007年12月13日 | Weblog
先週7日(金)から10日(月)にかけて福井県永平寺町に行ってきました。娘の嫁ぎ先です。

年に幾度か娘や孫を訪ねて福井に行きますが、一度は行きたいと思いながら「また来れる」とばかりに一度も行ったことのない観光名所が九頭竜川沿いにあり、今回初めて訪れることができました。
水上勉氏の代表的小説「越前竹人形」の工芸資料館です。


「越前竹人形の里」(福井県坂井市丸岡町)

越前竹人形の里
小説そのものは、現代の感覚で読みますと、とても悲しくて切ない思いで胸が一杯になり、私にとっては、苛立ちすら覚える思いに駆られることしばしばでした。
主人公の引っ込み思案で積極性に乏しい陰気な性格を思いますと、なぜもあのように繊細な芸術作品である「越前竹人形」の製作ができるものかと、理解しがたいものがありました。
ところが現実の竹人形を見ますと、良くぞここまで女性の美を引き出したものとひと時を陶酔の世界に引き込まれていました。

作品の中に「越前小町」と名づけられたお人形がありました。
ちゅうちょせず即座に買い求めました。
越前というロマンの舞台に小町が佇む姿こそが、小町の人を大切に思うやさしい心を如実に著しているのではないでしょうか。
ふと、慈母観音像を思い出しました。

越前の竹から生まれし人形の姿や偲ぶ慈母観音(深草少将)

 「越前小町」

 「紫式部」

小野小町は越前での足跡はなかったようです。竹人形そのものも戦災や震災・水害と三度の大災害から不死鳥のごとく立ち直り、平穏な生活を取り戻した昭和26年代に、師田保隆、三四郎の両氏兄弟と職人三上広氏の三人が白竹・虎竹・黒竹・煤竹を利用した郷土土産品を創作し、後に「越前竹人形」と呼ばれるようになったということです(「越前竹人形の由来」から引用)。

深草の地をはじめ京都の竹は孟宗竹がおもだった竹ですから、小町が越前の地を訪れていたらどのような人形ができたことでしょう。

「越前竹人形の里」
http://www.takeningyo.com/
(ホームページアドレス)

福井と越前
不思議なことですが福井県といいますと行政区での呼び名で、越前といいますと何か親しみやロマンを感じるのは私だけでしょうか。
越前かに(松葉かに)、越前竹人形、越前焼き、越前和紙・・・「越前」を冠にした物はいくつも数え上げられます。

この「越前竹人形の里」の所在地は「坂井市丸岡町」です。
「丸岡町」といえば「日本一短い『母への』手紙」で有名になりましたし、日本で最も古い天守閣を持つ丸岡城がありますが、2006年3月に隣接する「坂井町」と合併して「坂井市丸岡町」となり、かろうじて丸岡町の名前が残ったものの、少しさびしい気がしないでもありません。

この平成の大合併といわれた市町村合併。坂井市のほかにも福井県でも多く行われ、平成17年10月に「武生市」という市が越前和紙の里で名高い「今立町」と合併して「越前市」と市の名前が変わり、その前の1月には「南条町」と「今庄町」などが合併して「南越前町」が、翌月には「朝日町」「越前町」など4町が合併して「越前町」が誕生しています。

「越前市」「越前町」「南越前町」。なんと越前という名の市町が三箇所も誕生したのです。福井県全体で見ますと平成11年3月末には35の市町村があったのですが、この大合併により17の市町に統合され4箇所あった「村」の数が0となりました。

京都府下でも合併後「京丹後市」もあれば「京丹波町」「南丹市」が誕生しました。お隣の兵庫県では「丹波市」が誕生しましたし、その市町がどこにあるのか、もう???状態です。

木の芽峠
さて、福井県に戻りますが、
福井県は、若狭湾に面する「敦賀市」を真ん中にして西と東の地域に分けられ、天気予報での地域呼称は西を「嶺南」、東は「嶺北」と呼ばれていますが、地域的な性格では江戸時代の呼称で西は「若狭の国」、東は「越前の国」と呼ばれています。

敦賀市から加賀百万石の石川県金沢市に向かうには、鉄道や自動車が発達していない時代は、敦賀市の北側に位置する鉢伏山(762m)のふもとを通る木の芽峠という難所を越えなければいけませんでした。その峠を越えて今庄の町に入り、武生から鯖江の町につながって福井市内に行きます。
この難所の峠を越えなければならないところから、峠の越えた先の地域を「越(こし)」というらしく、京都から見れば手前から「越前」「越中(富山県)」「越後(新潟県)」と、途中で加賀の国を挟んで北に進んでいくのでした。

 「木の芽峠」(福井県敦賀市)

北の国に向かうのには、この木の芽峠を越すか、越前海岸沿いに行くかの2ルートに分かれますが、越前海岸沿いは東尋坊のある三国の町(現:坂井市)に到達します。
今の季節なら、海岸に沿っている道路沿いに「越前がに」が豊富に売られています。

「福井に行ってきました」といいますと、関西地方では今頃は「かに」を食べに温泉に1泊旅行をしてきたと思われがちです。越前の国なのです。

娘が永平寺町に嫁ぎましたといいますと、きまって「お寺さんにお嫁に行かれたのですか」と訪ねられます。お寺の名前が町の名前になっているんですから、“さもありなん”です。
和歌山県の高野町、奈良県の天理市などに嫁がれた場合でも、そのようにつながるんでしょうね。

娘の住むお家は「浄土宗」とのことで、「曹洞宗」の永平寺とは何の関係もないのです。

近くなった京都と福井
京都と福井は大変近くなりました。
昭和36年6月に開通した北陸トンネル(北陸本線「敦賀」~「南今庄」間 13,870m)と昭和47年7月に開通した琵琶湖の西岸を走る湖西線とにより京都と福井の時間的距離は大変短くなり、今では湖西線を通過する特急列車のうち「サンダーバード」の一部は京都―福井間がノンストップで走っています。所要時間は約1時間20分。先ほどの「木の芽峠」の下を北陸トンネルが通過しています。

 北陸トンネル

 
北陸特急「サンダーバード」(JR京都線「長岡京駅」)

特急「サンダーバード」は利用客がとても多く、JR西日本のドル箱ともなっています。
ともかくこの列車に乗ろうとするなら自由席で立つことを覚悟する以外は、指定席なら最低でも1週間前までに購入しておくことをおすすめします。
とりわけ、冬場の土・日ときたら北陸方面の温泉とカニの客で超満員で、京都から福井に到着したその足で帰りの指定席を予約しても、ずいぶん遅い電車でなければ席が空いていないのが実情です。

高速道路を利用した場合、名神高速道路から米原ジャンクションを経由して北陸道に入るのですが、米原ジャンクションから福井北インターまで104㌔と距離があり、おおよそ京都東から入ると2時間以上は覚悟しなければなりません。
ただ、名神と比べて北陸道は車両の通行量はずいぶんと少なくなるので走りやすいことは走りやすいです。
また、夕方で天気がよければ下りの「杉津パーキングエリア」で見る夕陽は見事なものです。

 
 日本海夕陽(北陸道下り線「杉津パーキングエリア」で)

「越前竹人形の里」で見つけた「越前小町」人形から、ずいぶん寄り道をしてしまいました。
でも、福井県の嶺北、越前の国は日本で2番目に住みやすい県でもあり、とても親しみを感じています。

スキー道
北陸道の福井北インターから勝山・白山、スキージャムに抜ける「越前街道」が通っていますが、スキーシーズンの土・日の明け方ともなると何台かの車が横転しています。きまって4輪駆動だそうです。
越前街道も、永平寺口あたりまでは道路の中心線に沿ってスプリンクラーによる融水装置があって道路が凍らないようになっていますが、その地点を過ぎるとその装置はなく道路が凍てつき、とてもスリップしやすくなっているのです。
日常、雪道などに不慣れな京都や大阪の若い人たちが、例え4輪駆動であっても慎重に運転しなければならないのに、スリップ対策してあると過信してスピードを出し過ぎ、カーブで曲がりきれなくなってそのような事故を引き起こすそうです。
テレビで宣伝しているようなことにはならないのです。

せっかくの越前です。車でスキーに行かれる方、十分にお気をつけてください。

深草の世話焼き少将からです。


 雪の北陸道(滋賀県「木の本」付近)

冬きたりなば

2007年12月06日 | Weblog
12月になりました。師走です。

冬といえども
最近は何かにかけて季節感が薄れてきましたが、よもや本日6日の1か月後はお正月の三が日もすぎて、相変わらずの日常生活に戻っているということを想像しにくいのです。
しかし、世間では恒例のクリスマス商戦もいまや始まりかけようとしていますし、今年の紅白歌合戦の出場者も決まりました。いよいよ年末なのです。

地球温暖化の原因とは信じたくはないのですが、京都も一時は急激に冷え込むこともありましたが、平均的には昨年と同様に極端に冷え込んではいません。
このため京都市内の紅葉の名所は、平日であっても紅葉見物の観光客の足は途絶える事なくにぎわっています。

 
秀吉の居城であった「桃山城」(京都市伏見区)
遊園地もなくなり、今は運動公園に

小町「秋」歌
古今和歌集に収められている小野小町の和歌のうち、「秋」にかかわる歌は2首あります。

その一は
『635 秋の夜も名のみなりけり あふといえば事ぞともなく明けぬるものを』
                  (巻第十三 恋歌三)
―秋の夜は長いといいますが、好きな人とあっている時間は大変短く思えすぐに明け方になってしまいますね。

ともう一首は
『822 秋風にあふたのみこそかなしけれ わが身空しくなりぬと思へば』
                  (巻第十五 恋歌五)
―秋にもなれば、田んぼの稲穂は十分に実り黄金色に輝くのに、私は不作の稲穂のように実が成らず、いずれ捨てられ忘れ去られてしまうことでしょう。

前の歌『秋の夜も名のみなりけり・・・』は、まだ小町が若い頃の歌と思えます。胸をときめかせながら好きな人と会っているときは「時間よ止まれ」と神ににも祈りたいような思いであるのに、時間とは非情なものですぐに去ってしまいます。その逆は、なかなか時間が過ぎ去ってはくれないと思えるのはなぜなんでしょう。

後の歌『秋風にあふたのみこそ・・』を歌った頃の小町は、彼女の一生を一年の季節に例えて見ますと、すでに年齢を重ねていよいよ秋の季節に入ったのでしょうか。

陽はまた昇る
いったん西に沈んだ陽は、必ず翌朝、また陽は昇ります。人の一生は年齢というスパンで見ますと1回限りの「春夏秋冬」ですが、日々のスパンで見ますと「喜怒哀楽」の繰り返しです。でも、どんな苦しいことでも必ず朝日が昇ってくること、誰でも平等にその朝日がさしてくれることを信じれば、乗り越えることができます。

小町もあきらめなければ、とても素敵な恋をしたかもしれませんね。彼女はマイナス思考だったのでしょうか。それとも時代が許さなかったのでしょうか。

歌手の谷村新司が小町の時代に生きていたら、きっと彼は小町に「陽はまた昇る」という歌を贈っていたことでしょう。
 (歌詞 抄)陽はまた昇る どんな人の心にも
       ああ生きてるとは 燃えながら暮らすこと

とても素晴らしい歌詞です。

冬来たりなば春遠からじ
2週間後の12月22日は二十四節気の一つ「冬至」です。秋のお中日以来、北半球では夜の時間帯がだんだん長くなっていき、この「冬至」で夜が最も長くなる日です。その翌日から、徐々にですが昼間の時間が長くなっていくのです。言葉を変えれば夜が短くなっていきます(あたりまえ!)

冬至が過ぎれば陽は長くなるので暖かくなっていくはずなのに逆に寒くなっていきます。地球が空気に覆われていることや自転していることの結果からそうなるのです。でも、もう3ヶ月経てば「春分の日」ですから暖かくなり「春」はやってくるのです。

今は秋から冬への移り変わりの季節ですので、近くの公園の桜の葉が黄色くなり落ち葉がずいぶんと積もってきました。

 公園の紅葉

この葉を掃除しなければ、道路を流れる水を下水に流すための溝(グレーチング)に覆いかぶさってしまい、この季節ですから大雨はそうは降らないでしょうが雨が溝に流れずに表面に溜まるようになり、厳冬になればその水が凍り付いて滑りやすくなります。
運動をかねてまいにち掃除をしていますが、京都の山々を見回しますと、まだまだ色とりどりの紅葉で着飾っています。

文部省唱歌「紅葉(もみじ)」
ふと昔に歌った文部省唱歌(今では何というのでしょうか?)の一つ「紅葉」を口ずさみました。

「紅葉(もみじ)」
 一 秋の夕日に照る山紅葉(やまもみじ)
   濃いも薄いも数ある中に
   松をいろどる楓や蔦は
   山のふもとの裾模様
 二 渓(たに)の流に散り浮く紅葉
   波にゆられて離れて寄って
  赤や黄色の色様々に
  水の上にも織る錦
      (文部省唱歌)
        作詩 高 野 辰 之
        作曲 岡 野 貞 一

京都市は三方が山に囲まれていますが、伏見のほうから比叡山をはじめ東山三十六峰を見渡しましたが、この歌詞のようでした。

京都も、ご多聞ながら「西山の夕陽」がとても美しく輝きますので、その輝く力「夕陽」でその山々を赤々と照らすのではないかと、ワクワクしながらカメラを構えてその時を待っていたのですが、期待はずれでした。

この季節ともなれば、西山に入る陽の力が弱くなってしまい、かろうじて陽が照っているという程度です。
ですから、茜色で紅葉を燃え上がらすなんて季節はとっくに過ぎ去っていたのでした。

明日から3日間、娘の嫁ぎ先である越前の国にいってきます。
「越前竹人形」が楽しみです。


 色とりどりの「稲荷山」、奥の山は「比叡山」