ようやく訪れてきた春も中ほどを過ぎ、いよいよ連休がまさに始まろうとしていますが、相変わらず「花粉症」に悩まされていまして取材活動もままならず、記事の投稿がまちまちとなり、大変不愉快な思いでおられますことに対し、心よりお詫び申しあげます。
春の舞
絢爛豪華なわが国の春は、大変心を和ませてくれまして、ついつい陽気に誘われお花見などに出かけたくなります。
夕方の電車の窓から外を眺めていますと、夕陽が明々と揺らぎ、やがて西の山に入ろうとする瀬戸際に満開の桜の花を赤く染め出し、外の暖かくなり始めた気温に包まれてわが国の最高の景色が此処にありと見せてくれます。
「西山の夕陽」
東寺の五重塔は、照らされている夕陽にどの様にその姿を映し出しているのだろうか、東山の三十六峯はさぞ気持ちよさそうに風になびいているのであろうなど、想像しただけでも京都の町の夕暮れもまたなにか嬉しそうに舞っている姿が思い浮かんできます。
わが世の春も
それなのに花粉症とは誠に情けないことです。
光化学スモッグが出るような季節でもないのに、日差しが徐々に力を増してきて桧などの花粉が狂喜乱舞して舞い踊るのでしょう、眼がちかちかし、きてやがてショボショボし、挙句の果てには眼底から首筋にかけて杭でも打ち込まれたごとく脳みその隋までズシリと重みが襲い掛かってきます。
清水寺の三重塔はまだ写真に収めたことはなく、「東寺」はもとより「醍醐寺」「仁和寺」「法観寺・八坂の塔」などの五重塔に引き続いてお参りしたいのですがなかなか実現しません。
「清水寺・遠望」(東山武田病院屋上から300mmレンズ)
京都御所では
4月29日まで京都御所では一般公開がされていまして、取りわけ今の天皇陛下が美智子皇后とご成婚された時、パレードに使われた馬車が展示されていて、ぜひとも見に行きたいのですが、花粉が舞い散らないように祈るばかりです。
すぐ歳のせいと・・
何時の間にこんな体質になったのでしょう。
春のうららかなやわらかい日差しの中に京都の町を取材したいにもかかわらず、かような状態ですのでつい出かけるのが億劫となりまして、天気予報で「明日は、雨模様となるでしょう」と予報士の解説にほっとして雨のほうが気が晴れるなんて・・歳のせいなのでしょうね。
まもなく・・ではないでしょうか、紫陽花の雨露がよくお似合いでして、その頃には晴れの天気が恋しくなっているかもしれませんね。
「穀雨」
4月20日は二十四節気で「穀雨」。田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨の降るころを表し旧暦では4月2日。お米を始めとして穀物を育てる大地そのものに降り注ぐ慈雨の季節なのでしょうね。
私にとっても、花粉の舞い散るのが和らぐ慈雨なのです。
「八十八夜」
それが終われば「立夏」ですが、その立夏までに「八十八夜」という雑節があります。立春から数えて88日目にあたる日で、その頃には遅霜が降り農作物に被害をもたらす恐れがあるので農業に従事する人に注意を促すため、その日を八十八夜と呼ばれているそうです。
「茶摘風景」(So-net Photoから)
一方、この日に摘んだ茶は上等なものとされ、この日にお茶を飲むと長生きするとも言われています。
お茶の産地で名高い京都府宇治市などでは、昔ながらの赤いたすきにかすり姿の女性達が茶畑に入って茶摘みの実演を行い、お茶のPRも兼ねて一般の人達も参加するイベントが行われます。
お茶の名産地・深草?
私が寓居する深草の里は、平安時代には都の辰巳の方角として大寺院や貴族の別荘が立ち並んでいたのですが、応仁の乱によってことごとく灰燼に帰し歴史の舞台から消滅しました。
薄などが覆い茂る深草の土地は大阪群層の酸性粘土と水はけの良い礫層(れきそう)がモザイク状に広がっていて、水田には適さなかったものの、そのような土地にぴったりと当てはまる農作物がありました。「お茶」です。
「深草谷口町の地層」(京都市青少年科学センターで展示)
宇治のお茶が近郊作物として発達した背景の一つに京都と言う大都市から排出される人糞を肥料として使うことができたからといわれています。
当然ことながら、宇治と同じ条件の土地であるなら、深草のほうがより京都に近い地理的条件におかれていて有望でした。事実、お茶の栽培がされていました。
茶化されたのでなく軍隊の町に
それを地域産業として奨励されていれば「宇治茶」以上に「深草茶」「桃山茶」が一流のブランドとなっていたはずですが、悲しいことに深草の地が選ばれたのは「お茶」ではなくて「帝国陸軍第十六師団」でした。
深草は軍隊の町になってしまいました。
(「伏見学ことはじめ・第一章 伏見深草の自然環境 久米直明筆」 聖母女学院短期大学伏見学研究会編 思文閣出版)より引用
軍隊が設けられたことで商売を始めた人も数多く見受けられ、事実私の祖父もそのうちの一人だったのでしょう。第十六師団の兵隊さんを見込んでタバコや軍足などの雑貨を売る店を営んでいました。
軍隊の町のことについては別項で述べたいと思いますが、そういう地域でありながらよくぞ空襲にも遭わずに(連合軍から見ますと標的にもせずに)深草の町は残ったものだと思います。
「騎兵連隊跡石碑」(京都市伏見区深草西伊達町)
→16師団の設置に伴い騎兵を始め歩兵隊・野砲隊などが深草に置かれていました。
京都人の京都知らず
不思議なことですが、京都の人間はあまり京都のお寺のことを詳しく知っているものは数が少なく、また、近所でなかったら小学校の遠足で行ったきり一度も足を運んだことがない「金閣寺」と言うように、近くにありすぎていつでもいけるとでも考えているのでしょうね、京都人の京都知らずとはそんなもんです。
深草も同じ。深草原人は数多くいてもどれだけ「深草博士」がいることやら。そんなもんです。
土地への誇り
前回の富山県五箇山でもそうですが、住んでいる土地への尊厳を守っていることのすばらしさは何物にも代えがたい貴重な財産ではないでしょうか。
閉塞感からの脱却、観光資源の掘り起こしなどの方法で住んでいる地域を活性化するとか、その地に生まれ育ち、その地で生きていることへの誇りや、先祖代々、大事に丁寧に守り継いで来た土地の誇り、田植えや家作りを協同で行うなど何よりもその地に住む人たちの強い絆があってこそ、培われてきた地域の財産となってくるのです。その財産は未来の子どもや孫、子々孫々の活力ある資源なのです。
「富山県五箇山」(ひっそりとした「誇り」が漂っています)
深草を始めとして伏見や京都は、先人達のたゆまなく培われてきた大きな財産を持っています。しかし、その財産の上で安閑としていれば過ごす日時が空虚なものとなり、資産の浪費ともなってきます。
「自分の生まれ育った土地を大切にしたい、誇りに思いたい」そんな思いでこのブログを続けていきたいものです。
できたら、花粉も仲の良いお友達になって欲しいものです。
「シャガ」(京都府立植物園)
春の舞
絢爛豪華なわが国の春は、大変心を和ませてくれまして、ついつい陽気に誘われお花見などに出かけたくなります。
夕方の電車の窓から外を眺めていますと、夕陽が明々と揺らぎ、やがて西の山に入ろうとする瀬戸際に満開の桜の花を赤く染め出し、外の暖かくなり始めた気温に包まれてわが国の最高の景色が此処にありと見せてくれます。
「西山の夕陽」
東寺の五重塔は、照らされている夕陽にどの様にその姿を映し出しているのだろうか、東山の三十六峯はさぞ気持ちよさそうに風になびいているのであろうなど、想像しただけでも京都の町の夕暮れもまたなにか嬉しそうに舞っている姿が思い浮かんできます。
わが世の春も
それなのに花粉症とは誠に情けないことです。
光化学スモッグが出るような季節でもないのに、日差しが徐々に力を増してきて桧などの花粉が狂喜乱舞して舞い踊るのでしょう、眼がちかちかし、きてやがてショボショボし、挙句の果てには眼底から首筋にかけて杭でも打ち込まれたごとく脳みその隋までズシリと重みが襲い掛かってきます。
清水寺の三重塔はまだ写真に収めたことはなく、「東寺」はもとより「醍醐寺」「仁和寺」「法観寺・八坂の塔」などの五重塔に引き続いてお参りしたいのですがなかなか実現しません。
「清水寺・遠望」(東山武田病院屋上から300mmレンズ)
京都御所では
4月29日まで京都御所では一般公開がされていまして、取りわけ今の天皇陛下が美智子皇后とご成婚された時、パレードに使われた馬車が展示されていて、ぜひとも見に行きたいのですが、花粉が舞い散らないように祈るばかりです。
すぐ歳のせいと・・
何時の間にこんな体質になったのでしょう。
春のうららかなやわらかい日差しの中に京都の町を取材したいにもかかわらず、かような状態ですのでつい出かけるのが億劫となりまして、天気予報で「明日は、雨模様となるでしょう」と予報士の解説にほっとして雨のほうが気が晴れるなんて・・歳のせいなのでしょうね。
まもなく・・ではないでしょうか、紫陽花の雨露がよくお似合いでして、その頃には晴れの天気が恋しくなっているかもしれませんね。
「穀雨」
4月20日は二十四節気で「穀雨」。田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨の降るころを表し旧暦では4月2日。お米を始めとして穀物を育てる大地そのものに降り注ぐ慈雨の季節なのでしょうね。
私にとっても、花粉の舞い散るのが和らぐ慈雨なのです。
「八十八夜」
それが終われば「立夏」ですが、その立夏までに「八十八夜」という雑節があります。立春から数えて88日目にあたる日で、その頃には遅霜が降り農作物に被害をもたらす恐れがあるので農業に従事する人に注意を促すため、その日を八十八夜と呼ばれているそうです。
「茶摘風景」(So-net Photoから)
一方、この日に摘んだ茶は上等なものとされ、この日にお茶を飲むと長生きするとも言われています。
お茶の産地で名高い京都府宇治市などでは、昔ながらの赤いたすきにかすり姿の女性達が茶畑に入って茶摘みの実演を行い、お茶のPRも兼ねて一般の人達も参加するイベントが行われます。
お茶の名産地・深草?
私が寓居する深草の里は、平安時代には都の辰巳の方角として大寺院や貴族の別荘が立ち並んでいたのですが、応仁の乱によってことごとく灰燼に帰し歴史の舞台から消滅しました。
薄などが覆い茂る深草の土地は大阪群層の酸性粘土と水はけの良い礫層(れきそう)がモザイク状に広がっていて、水田には適さなかったものの、そのような土地にぴったりと当てはまる農作物がありました。「お茶」です。
「深草谷口町の地層」(京都市青少年科学センターで展示)
宇治のお茶が近郊作物として発達した背景の一つに京都と言う大都市から排出される人糞を肥料として使うことができたからといわれています。
当然ことながら、宇治と同じ条件の土地であるなら、深草のほうがより京都に近い地理的条件におかれていて有望でした。事実、お茶の栽培がされていました。
茶化されたのでなく軍隊の町に
それを地域産業として奨励されていれば「宇治茶」以上に「深草茶」「桃山茶」が一流のブランドとなっていたはずですが、悲しいことに深草の地が選ばれたのは「お茶」ではなくて「帝国陸軍第十六師団」でした。
深草は軍隊の町になってしまいました。
(「伏見学ことはじめ・第一章 伏見深草の自然環境 久米直明筆」 聖母女学院短期大学伏見学研究会編 思文閣出版)より引用
軍隊が設けられたことで商売を始めた人も数多く見受けられ、事実私の祖父もそのうちの一人だったのでしょう。第十六師団の兵隊さんを見込んでタバコや軍足などの雑貨を売る店を営んでいました。
軍隊の町のことについては別項で述べたいと思いますが、そういう地域でありながらよくぞ空襲にも遭わずに(連合軍から見ますと標的にもせずに)深草の町は残ったものだと思います。
「騎兵連隊跡石碑」(京都市伏見区深草西伊達町)
→16師団の設置に伴い騎兵を始め歩兵隊・野砲隊などが深草に置かれていました。
京都人の京都知らず
不思議なことですが、京都の人間はあまり京都のお寺のことを詳しく知っているものは数が少なく、また、近所でなかったら小学校の遠足で行ったきり一度も足を運んだことがない「金閣寺」と言うように、近くにありすぎていつでもいけるとでも考えているのでしょうね、京都人の京都知らずとはそんなもんです。
深草も同じ。深草原人は数多くいてもどれだけ「深草博士」がいることやら。そんなもんです。
土地への誇り
前回の富山県五箇山でもそうですが、住んでいる土地への尊厳を守っていることのすばらしさは何物にも代えがたい貴重な財産ではないでしょうか。
閉塞感からの脱却、観光資源の掘り起こしなどの方法で住んでいる地域を活性化するとか、その地に生まれ育ち、その地で生きていることへの誇りや、先祖代々、大事に丁寧に守り継いで来た土地の誇り、田植えや家作りを協同で行うなど何よりもその地に住む人たちの強い絆があってこそ、培われてきた地域の財産となってくるのです。その財産は未来の子どもや孫、子々孫々の活力ある資源なのです。
「富山県五箇山」(ひっそりとした「誇り」が漂っています)
深草を始めとして伏見や京都は、先人達のたゆまなく培われてきた大きな財産を持っています。しかし、その財産の上で安閑としていれば過ごす日時が空虚なものとなり、資産の浪費ともなってきます。
「自分の生まれ育った土地を大切にしたい、誇りに思いたい」そんな思いでこのブログを続けていきたいものです。
できたら、花粉も仲の良いお友達になって欲しいものです。
「シャガ」(京都府立植物園)