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年表でたどる日本の果物受容史

果物がどのような歴史をたどり,私たちの生活の中に受容され,定着してきたかを知る一助とするため,作成してみました。

室町時代・織田豊臣時代

2010-05-28 10:49:43 | weblog
室 町 時 代

1336年(延元1・建武3)
◇足利尊氏(1305~58),「建武式目(けんむしきも)」を制定,幕府を開く.

1359(正平14)
◇南禅寺の僧・義堂周信(ぎどうしゅうしん,1324~88)の『空華(くうげ)日用工夫集』 にスイカの漢詩がみえ,「西瓜今見生東海。剖破新含玉露濃」と詠む.
 *スイカのわが国への渡来年代は明らかでないが,既に南北朝時代渡来していたことになる.

1400(応永7)
◇南北朝後期から室町初期に成立したとみられる(諸説あり)『庭訓往来(ていきんおうらい)』に,取り上げられた果実・堅実は,梅,桃,楊梅(やまもも),枇杷,杏(からもも),栗,柿,梨子,椎(しい),榛子(はしばみ),柘榴(ざくろ),棗(なつめ),樹淡(こねり),柚柑(ゆこう),柑子,橘,雲州橘,橘柑などで,この頃,一般に普及していたものとみられる.
 *『庭訓往来』は社会生活上の心得を,25通の手紙文の形式で記した総合教科書的なもので,長きにわたって広く流布し,特に江戸時代には寺小屋などで教材として用いられた.
 *菓子として熟しガキ,串ガキ,樹淡(きさわし),木練(こねり)があげられ,甘ガキを示す言葉の初出であるといわれる.

1420(応永27)
◇11ー9~10 伏見宮貞成(さだふさ)親王の自筆本,『看聞御記(かんもんぎょうき)(日記)』に,「九日。晴。柑子二合室町殿〈将軍足利義持〉進之。三位為御使 参。蜜柑室町殿好物云々。病中願物之間 諸人進之。當年蜜柑難得也。諸人奔走云々。蔵光菴有蜜柑令所望百獻之。但不足之間 柑子相副進了〈不足分は柑子を交えて進上〉」,「十日。仙洞蜜柑二合 熟子柑子入交 進之。以下略」とミカンのことがみえる.蜜柑の文字の文献初出か.この頃はまだミツカンと呼ばれていたと思われる.
 *『看聞御記』は1416年(応永23)から~1448年(文安5)までの宮廷の事柄をはじめ,民衆の生活の実態,民間の諸芸能など幅広く観察したもので,室町時代最盛期の政治・社会を知る基本史料(『続群書類從』所収).
 *この時期以降,ミカンは近世初期の大名家等の贈答品として用いられる.
 *ミカンの語源(『日本国語大事典』) ユカン(柚柑)の訛りか[本居宣長 古事記伝 1798刊]その味からミツカン(蜜柑)の義[屋代弘賢 古今要覧稿 1821~42刊].

1456(康正2)
◇竹田昌慶の衛生書『延寿類要』の菓部に,梅実,杏(あんず)実,枇杷,覆盆子,楊梅(ヤマモモ),李,林檎,石榴(ざくろ),葡萄,棗(なつめ),桃実,梨,柿,栗,乳樹子(柑カ),橙子(ユカウ),柚(ゆず),胡桃,橘を掲載.(  )のカタカナは原文のまま.
                            
1477(文明9)
◇11ー6 天皇の側近に仕えた禁中の女官の日記,『お湯殿の上の日記(おゆどののう えのにっき)』に,「しんせう寺殿よりみつかんまいる。とん花院殿よりもかちんの御 ふたまいる」とミカンのことがみえる.8年後の文明17年には「みかん」の語がみえる.
 *本日記ではミカンに関する語彙(みつかんのひけこ,きの国みつかん等)が28語 (小高 恭著『お湯殿の上の日記主要語彙一覧』に依る,以下同様)あるが,「みかん」 は 文明17年の1例のみ.
 *『御湯殿上日記』は宮中における日常生活の様子をうかがい知ることができる史料で,  平がなで書かれ,1477年(文明9)から~1687年(貞享4)に至るまでは現存.『続群書類従』(全11巻)に所収.

1478(文明10)
◇6ー1 『お湯殿の上の日記』に,「二そん院よりりんこ一折まいる」とリンゴのことがみえる.
 *この当時のリンゴは,「和リンゴ」と呼ばれるもので,西洋リンゴより小形.わが国  最初の漢和辞典『倭名類聚抄』〈937年頃〉には,「利宇古宇(りうこう)」と記されており,中世以降,りんきん,りんき,りんごう,りゅうごう,りむごなどと呼んでいたようである.『本朝食鑑』(1695)に,「近代称 利牟古(りむご)」とある.

1479(文明11)
◇閏9ー7 『お湯殿の上の日記)』に,「みん部卿なしのかこしん上」とナシを籠に入れて贈ったことがみられる.
 *「なし」の語は「無し」に通ずるとして,「ありのみ」の語が使用されることがある.  当日記での「なし」の使用はこれを含め3例.「ありのみ」の使用は4例.

◇12ー13 『お湯殿の上の日記)』に,「二そう院御れゐにしこう。つくしよりほられたる御みやけに。御かなうす。御くわんす。十めんの御すゝりのいし。からのみつかんなとまいる」と唐のミカンのことがみえる.
 *ミカンは唐から伝来したとみられていたので,この言葉が使われたと思われる.本日記ではからのみつかんの使用はこの1例のみ.

1480(文明12)
◇5ー24 『お湯殿の上の日記』に,「はるゝ。ひむかしの とうゐんとのより御うり一ふ たまいる。みん部卿よりりんこのひけこまいる」とウリとリンゴのことがみえる。リンゴが鬚籠(ひげこ=竹で編み,編み残しの端を,ひげのように出して飾りとしたかご)に入れて届けられる.

1481(文明13)
◇この年以前に成立したとみられる一条兼良著『尺素(せきそ)往来』に,「菓子者,… …栗,椎,金柑,蜜柑,橙橘,鬼橘,柑子,雲州橘等」とあり,蜜柑の文字がみえる.まだ,ミツカンと読んだと思われる.

1484(文明16)
◇5 公卿・中院通秀(なかのいん・みつひで,1428~94)の日記『十輪院入道内府記( 塵芥記〈じんかいき〉)』に「西瓜五果」とスイカを贈られた記載がある.     

1485(文明17)
◇11ー4 『お湯殿の上の日記』に,「雪ふりてつもる。源大納言より御たる一。みかんまいる」 とミカンのことがみえる。ミカンという言葉の文献上の初出と思われる.
 
1487(長享1)
◇8ー2 東山殿よりすもも,10月17日大通院よりあまほし(=甘干柿)進上(『お湯殿の上の日記』).

1488(長享2)
◇8ー2 『お湯殿の上の日記』に,「みん部卿よりありのみのかこまいる」と,ありのみ(ナシ)が籠で贈られたことが記される.

1496(明応5)
◇明応本『節用集』に,蜜柑の文字がみえるが,ミツカンと訓じている.

1500(明応9)
◇9ー5 『お湯殿の上の日記』に,「めうほう院殿よりこねりのかこまいる」と,木練カキが籠で贈られたことが記される.

1513(永正13)
◇パイナップル,ヨーロッパに初めて渡る.
1532(享禄5・天文1)連年の戦乱のため7ー29改元
◇3ー8『お湯殿の上の日記』に,「御みつかんまいる」とミカンのことがみえるが,この頃,「ミツカン」から「ミカン」という言葉への移行期と思われる。
◇山科言継(やましな・ときつぐ,1507~79)の『言継卿記』に,言継がカキの接ぎ木を行ったとみえる.
 *言継は衰退しつつあった皇室経済の維持に努めた公卿.『言継卿記』は皇室経済にとどまらず,当時の芸能,文学及び家業の医薬関係についても詳述.

1533(天文2)
◇2ー29 『言継卿記』に,「四條へ罷向,蜜柑木継候了」とあり,この頃,既に,ミカンの接ぎ木が行われていたものと思われる.

1549(天文18)
◇10 雨宮織部正,武田信玄(1521~73)にブドウを献上し太刀を賞賜される.
◇8ー20 『お湯殿の上の日記』に,「ふしみ殿よりありのみの枝まいる」とアリノミ(ナシ)のことがみえる.

1564(永禄7)
◇この頃,日本最古の農書といわれる伊予国(現愛媛県)北宇和郡の土居清良の『清良記 (親民鑑月集)』に,木類として,くるみ,栗,柿,椎,茶,杏子(あんず),梅,楊梅(やまもも),桃,李(すもも),枇杷,青梨,秋梨の収穫時期を書く.柑橘類として柑子,九年甫(ママ,母),櫁柑(ママ,みかん),柚(ゆず),だいだい,かふす(ママ,かぶす),花柚,実柚をあげ,この外,種類多きも農家には不必要なものであると記す.
 *『清良記』は戦国時代の伊予の武将・土居清良の一代記.その7巻目がわが国最古の  農書とされる『親民鑑月集』である.

1573(天正1)
◇この年死亡した浅井長政(1545~73)の書状に,林檎1籠を貰ったことへの礼状あり(滋賀県立琵琶湖文化館編『近代の歴史を築いた人々』).

1574(天正2)
◇紀伊国有田郡宮原組糸我荘中番村(現和歌山県有田市)の庄屋・伊藤孫右衛門(1543~ 1628.7.15,天文12~寛永5),肥後国(現熊本県)八代地方のミカンの苗木を移植.紀州ミカンの始まりという.始まりについては異説がある.
 *有田郡井村矢船氏の書上に,「有田郡蜜柑の儀は,享保一九寅年より百六拾年程以  前,天正2甲戌年中,同郡内宮原組,糸我庄中番村,伊藤仙右衛門と申す者,肥後国  八代と申所より蜜柑小木を求め来り,始て宮原糸我の庄内に植継侯処,蜜柑土地に応  じ,風味無比類,色香菓の形他国に勝れ侯に付,次第に村々へ植広げ申侯。百三十年  以前慶長始には,保田の庄田殿の庄内へも一ヶ村に五十本七十程づゝ生立侯由云々」  とある。
  *孫右衛門は他国への移植が禁じられていたミカン苗木を盆栽にすると称して持ち帰  り繁殖に成功したと伝えられるが,ミカンはすでに戦国期に紀州の産物だったことか  ら,この説には疑問もあるという.
 *一説には,永享年間(1429~41)に中番村楯岩の麓神田峯にミカンが自然に生育し,  文正年間(1466~67)にこの種を山田に植え,大永年間(1521~28)には接ぎ木をし  て,近郷にふやし,天正年間(1573~92)に糸我,宮原の二荘にわけて植えてから各地  にひろまったという(『和歌山の歴史』)

1575(天正3)
◇6ー25 『お湯殿の上の日記』に,「のぶなか(信長)より美濃のまくはと申す名所 の瓜とて二籠進上」とマクワウリのことがみえる.
 *当時,美濃国の真桑瓜が名産として知られていたことがうかがえる.



織 田 豊 臣 時 代

1576(天正4)
◇9ー9 『お湯殿の上の日記』に,「たけたほうゐんこねりのかき一折まいる」と木練 柿のことがみえる.

1579(天正7)
◇『長崎年暦両面鏡』(1828)に,この年,長崎に「西瓜,南瓜(なんきん=カボチャ) 来(きた)る」と記載あり.→1359(正平14)

1580(天正8) 
◇6ー21 『お湯殿の上の日記』に,「さんち(し)の弁右少弁殿。中納言あつちよりの ほりて。まくわと又たゝのうりとひやしたるとてまいる」とマクワウリのことがみえる。 
*マクワウリの語彙はこれ以降も,「まくわの御うり(天正9年6月28日)」「まくわのうり(天正9年7月26日)」「まくわ御うり(天正15年7月14日)」「まくわのうりのかこ〈=かご,籠〉(天正14年6月22日)」「まくわのひけこ〈= ひげこ,鬚籠〉(天正15年6月23日)」「まくわうりのひけこ〈=ひげこ,鬚籠〉(天正17年6年23日)」がみえ,天正年間集まっており,このころより普及し始めたものとみられる.
◇10ー26 『お湯殿の上の日記』に,「いけよりかき一ふたまいる。ふしみとのへみ なみの御かたよりこねりのしゆくし一ふたまいる。三位とのよりかき一ふたまいる」と木練の熟柿のことがみえる.
◇この頃から,茶の湯の催しが盛んになり,懐石料理に果物や唐菓子が最後に供される例 がみられるようになる.
 
1587(天正15)
◇6ー25 神谷宗湛(1551~1635)が秀吉を招いた宴での最後の出し物 の菓子は,く るみ,松の実,桃,たたき牛蒡,麩.

1591(天正19)
◇天正年間,会津身不知柿(あいづみしらずがき)のもととなる柿の苗数本を,中国に留 学した現福島県安達郡岩代町小浜の西念寺住職夕安和尚が帰朝の折,持ち帰ったと伝え られる.

◇この年死去した千利休(1522~91)に,スイカにまつわる話
 「西瓜に砂糖をかけることを非難」
 *『雲萍雑志』に「飛喜(ひき)百翁が利休を招きし時,西瓜に砂糖をかけて出しけれ  ば,利休砂糖のなきところを食いて帰り,門人に向ひ,百翁は人に饗応することをわきまへず,われ等に西瓜を出だせしが,砂糖をかけて出だせり,西瓜は西瓜のうまみを持ちしものを,似げなきふるまひなりとて笑ひ侍りき」とある.茶の湯に南蛮渡来  の西瓜が使われていたようだが,甘味はあまりなかったとみられる.
◇この頃の茶菓子は主に干しガキで,当時,これを上回るほどの甘いものはなかった.
 *現在,干しガキをベースにした銘菓が多い(香川の木守など)
◇『加賀藩史料』によると,この頃,ミカンが上流武家層で貴重品であったことがうかが える.
 *「天正の頃,(前田)利長公越中守山に御在城の時,御夜ばなしに,上方にはもはや   みかん在るべし,?もくひ度事かな,遠国に居ては左やうの物もおもひ出したる計   なりと,事の外みかんをまゐりたき御意なり,然ども其時分は北国にみかんなどは   見たる事もなし」(18世紀初頭に前田綱紀編『桑華字苑』).

1595(文禄4)
◇『文禄四年御成記』に記す御菓子12種の中に,「やうかん,椎茸,薄皮,くずいり,薯蕷,結び昆布,姫くるみ,花おこし,つりがき,きんかん,みかん,松こんぶ」とみ え,この頃には,蜜柑はミツカンではなく,ミカンと呼称される.

1596(慶長1)
◇慶長年間(1596~1615)初め頃,ミカンが紀伊国保田(やすだ)荘,田殿(たどの)荘 内でも,1村にそれぞれ50本,70本と普及『和歌山の歴史』
◇慶長年間 紀州有田郡地方の紀州ミカンが,大坂,堺,伏見(京都市)へ小船で出荷さ れる.当時すでに山城国からも出荷されていたが,紀州有田ミカンは美味なため,高値 で取引されたという.

1598(慶長3)
◇8ー18 精力をつけるために「そば」を食べたといわれる豊臣秀吉,死去(61).
◇11ー12 『お湯殿の上の日記』に,「近衞殿よりみつかん枝まいる」とミカンの枝 のことがみえる.

1599(慶長4)
◇白井光太郎の『日本博物学年表』(1891)に,この年,スイカ,日本へ伝来と記載あり.

1600(慶長5)
◇10 関ヶ原の戦いで敗れた石田三成(1560生れ),六条河原で処刑される.
 *刑死の直前,馬で洛中を引き回された三成は喉の渇(かわき)きをおぼえて白湯を所   望したところ,警護の者が,湯がないので代りに干柿をすすめると,柿は痰(たん)に  よくないからといって断ったという.
◇この頃,ヨーロッパで果物の砂糖漬け保存法が発見される..







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