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年表でたどる日本の果物受容史

果物がどのような歴史をたどり,私たちの生活の中に受容され,定着してきたかを知る一助とするため,作成してみました。

明治時代(2)  明治8~10年

2015-12-30 14:24:46 | weblog


1875年(明治8)
◇1ー19 内務省勧業寮十四等出仕・町田呈蔵,果樹栽培は実地を見学の上,指導の必  要を,勧業権助・岩山敬義,六等出仕・田中芳男,七等出仕・青山純に提出(「菓木栽 培の法経検の為近傍へ派出之儀上申」),この考え方は2月9日付けで内務卿大久保利  通に伺い文が提出されている.彼が調査の場所として挙げた果樹の産地は次の通り.
 1.梨種類(武州川崎在,下総八幡在,同古河在)              
 2.葡萄種類(甲州勝沼在,同??,信州松本在)
 3.柿種類(武州稲毛在,同所沢在,同秩父在,同青梅在,甲州在)      
 4.柚子種類(武州沢井在,同青梅在)
 5.梅種類(相州杉田在,武州平在,同高尾在,同五日市在)
 6.桃種類(武州二たまとう在,下総流山在,同野田在,房州在)       
 7.蜜柑種類(下総在,上総在)
 8.橙種類(伊豆在,房州在)       
 9.枇杷種類(武州青梅在,房州在)
 10.胡桃種類(甲州在,信州在)
 11.林檎種類(上州高崎在)
 12.栗種類(信州飯田在,野州在,甲州在,遠州こうみゃう在)
 13.椎種類(豆州在)
   上記は概略40里以内地方菓木産調に候とある.      
◇1 ヂッケルメン著,河出良二訳『葡萄樹栽培新方』(和31,20丁〈上下合本〉)三楽堂発 行.
◇1 東京の泉水(いずみ)新兵衛,フランス製のコーヒーを輸入し,売り出す.
◇4 サンフランシスコ駐在領事高木三郎(1841~1909,わが国生糸直輸出の先覚者,
  1872.2~80.5駐米),オレンジ,レモン,イチゴ,ホップ等の種苗を勧業寮に送付.
◇6 東京府,店先に不熟の果物を置かぬよう注意.
◇6 勧業寮,アメリカからリンゴの苗木を輸入し,北海道・東北諸県に配布.
 *青森県では,旧弘前藩士らに分与して栽培させ,1880年(明治13)秋に初結果.一般  に普及の先駆をなす.
 *青森県庁山林係の菊池楯衛(1846~1918.4.8)は,役目柄,自らもその試植者となる. 77年(明治10)北海道にある開拓使の勧業場に出向き,アメリカ人からリンゴなどの 栽培,接ぎ木,苗木仕立て法等を5ヵ月にわたって習得し,弘前に帰る.その後,青森リンゴの研究グループを結成し,今日の青森リンゴ発展の基礎を作り,「リンゴの  恩人」といわれた.長男の菊池秋雄(京大名誉教授)も果樹園芸学の発展に寄与.
 *青森県は100年後の1975年(昭和50)9月17日,県庁前の庭に建立された,青森りんご栽培百年を記念する石碑の除幕式を行うと同時に「りんご百年記念展」を開催.
◇8 内務省蔵版,『獨逸 農事図解』三十葉之内,第2葡萄栽培法,第3葡萄酒管理法 を刊行.翻訳者は平野榮,鳴門義民.
 *明治10年10月改正『内務省官員録』によると,平野榮(勧農局所属)は愛媛出身  で3等属,鳴門義民(同)は東京出身で5等属.
◇11ー20 千葉県,果樹の試作希望者を募る.
 *県の告示
  勧業寮ニ於テ接挿木分賦培養有志ノ者出願方ヲ達ス.
  勧業寮出張所ニ於テ当春接挿候菓木別紙品数今般当県管下ヘ可及分賦候間,
  有志ノ輩有之候ハハ此願書可差出,尤苗木ハ下切相成候ニ付運賃其他培養等
  之費用ハ一切給与不到旨,同寮ヨリ通達有之候条得其意,培養有志之者ハ品数等書載,  早々扱所ヨリ区内ヘ無洩相達,毎該区願書取纏,12月15日迄ニ企望ノ者有無トモ  可申出候,若日限後願書差出候儀ハ採用不相成候,此段相達候事.
  但品数多寡有之ニ付,願書次第ヲ以可為分賦候ニ付テハ願書落手ノ順ニ番号記載可差  出候,?ハ運賃其他費用計算ノ上苗木渡ノ節可相達候間,速ニ上納可到儀ト可心得事.
              明治8年11月20日
                   千葉県令   柴原 和
        明治8年接挿候米国産菓樹
 1.苹菓  アップル  75本   1.梨  ペイル    60本
 1.桃   ピーチ   25本   1.李  プロム    30本
 1.杏   エプリコート 5本   1.?旦杏 アーモント 10本
 1.葡萄   グレープ   5本   1.?花果 ヒッグ    5本
 1.フサスグリ カレンツ 5本   1.スグリイースベルクト60本
 1.??   クイーンス 1本   1.桜桃 チェルリー  65本
                   計  拾弐種  本数 346本
                             (『千葉県果樹の歩み』)
◇アメリカから帰朝した柳沢佐吉(生没年不詳,留学1869~76),大藤松五郎(?~1890), 勧業寮の新宿出張所で缶詰の試験製造を開始.初めは果物の缶詰から始める.
◇開拓使,この年から12年にかけて葡萄園を札幌に次々と開設,第1号園(現在の北十条) 1万4千余坪,第2号園(開拓使本庁内)4,500余坪,第3号園(現在の北十条)3万300 余坪,第4号園(苗稲)10万6,600余坪.
◇現青森県弘前市の藤田半左衛門(後に息子・久次郎経営),藤田葡萄園を開園し,葡萄 酒醸造. *当地に寄留の外人アルヘーから指導を受けたといわれる.
◇岩手県のリンゴの始祖の1人・横浜慶行の紅魁(アストラカン),見事な大果数果を初結 果し,人々を驚嘆させる.翌9年には数十果の結実をみる(『岩手りんご100年のあゆみ』).◇勧業寮,中国から天津水蜜桃,上海水蜜桃,蟠桃(はんとう)の苗木を輸入.
 *在来種のモモは観賞用の花モモとして栽培されており,食用にはほとんどされなかっ  たという.
◇勧業寮,旧長野県へ12種346本,筑摩県へ11種39本の果樹苗木を配布.
 *新・長野県は1876年8月21日発足,筑摩県は廃止(一部岐阜県に編入).
◇前田正名(1850~1921),フランスからリンゴの苗木を輸入.

1876年(明治9)
◇2ー8 「横浜新聞」に,大阪府でも西洋の果物を栽培することになり,アンズ,モモ, サクランボ,リンゴ,ブドウなどを東京から輸送したとの記事がみえる.
◇4ー13 「朝野新聞」に,新宿で栽培されたリンゴ,アンズ,ナシ,スグリ,イチゴ などを,希望者に払い下げる広告がみえる.
◇8ー14 札幌農学校開校.アメリカのマサチューセッツ州立農科大学学長ウイリアム・ エス・クラーク(1826~86),初代教頭として就任.
  *クラークが実際に教育にあたった期間は1876年8月から翌年4月までのわずか8ヵ月
すぎなかったが,学生に与えた影響はきわめて大きかった.
◇9ー8 開拓使,札幌に麦酒醸造所(サツポロビールの前身)を設立.ドイツで醸造技 術を修得した新潟県出身の中川清兵衛(1848~1916,嘉永1~大正5),主任技師となる. *現在,サツポロビールのラベルには「since1876」の表示あり.
◇9ー8 開拓使,札幌に札幌葡萄酒醸造所を設立.
  *同醸造所は1886年(明治19)9月,その担当者であった桂二郎へ経営を委託し,翌年
12月同人に払い下げられる.87年(同20)刊行の『札幌繁栄図録』に札幌葡萄酒醸造所の図あり.
◇9 岩手県令・島惟精,明治天皇東北御巡幸の折,横浜慶行が栽培したリンゴ(横浜早生〈紅魁〉)を天覧に供し,これを機にリンゴ栽培を奨励.
◇11 津田仙,「農業雑誌」を創刊し,果樹,なかでも,リンゴとブドウの奨励に過半の頁をさく.例えば,リンゴに関する記事では,「養樹園の事」(創刊号),「林檎の 説」(11月第2号),「林檎培養法」(10年2月下旬号)等がある.
◇11 ブドウ酒醸造勧奨のため,山梨県の詫間憲久ほか1名に資金1,000円が貸下げら  れる.

◇政府,アメリカからブドウの苗木3万6,000本,フランスから2万本を輸入.
◇勧業寮,フランスから,リンゴ106,西洋ナシ125,モモ14,油桃5,スモモ20余,ブドウ99,サクランボ30品種,合計約400品種の苗木を輸入.
 *苗木は東京三田薩摩原にあった育種場で委託栽培され,全国各地に配布される.
◇岸田吟香(1833~1905)の精き堂本店(東京銀座),レモン水を発売し評判となる.
◇和歌山県で夏ミカンの栽培が始まる.
◇岡山県岡山区天瀬(現岡山市)の勧業試験場で,モモの栽培が行われる.
 *モモの穂木は倉敷出身の勧農局官吏衣笠豪谷(きぬがさ・ごうこく,1850~97)が清  国(中国)視察の際,天津,上海から持ち帰ったものといわれる.
◇この年以降,温州ミカンの苗木,アメリカへ輸出される.
 *薩摩(鹿児島)から輸出されたため,サツマと呼ばれるようになる.その後,愛知県  から輸出されるようになり,オワリまたはオワリサツマの名を得る.
◇この年~明治11年,藤井徹著,加藤竹斎画『菓木栽培法』(和4冊〈第1ー8巻合本〉) 東京・静里園刊行.
  *藤井徹は信濃国旧藩士で,東京府下内藤新宿下町で果樹園を経営し,浅草蔵前南元町
     に出張所をおいて果実と苗木を販売.本書は整枝,肥料等に西洋の影響が見られるが,在来栽培法の集大成として幕末農書の系譜に属する.
◇岩手県令(知事)・島 惟精(いせい,1834~86),岩手県にリンゴ栽培が適することを認
め,苗木を東京方面から求め,希望者に配布.また,県庁隣接の地に種芸所を開設し,東 京より植木師小栗嘉兵衛を招へいし,苗木の養成,増殖を図る.県としての奨励の始まり(『岩手りんご100年のあゆみ』).
◇山形県令・三島通庸(1835~88),開拓使よりリンゴ苗,葡萄苗,桜桃苗(サクランボ) を取り寄せ,苗木を養成して配布,特に,桜桃は気候風土に適し,今日では山形県の代  名詞になるほどまでに発展.
  *三島通庸は桜桃が冷涼な山形の地に適すると判断し,県庁のそばの公園に栽培させ,
  有望であることを実証してみせ,積極的に普及に乗り出したといわれる.
◇長野県,勧業寮から14種1,835本の果樹苗木の配布を受ける.
◇この年に小倉県令を退官した旧山口藩士・小幡高政(おばた・たかまさ,1817~1906.7.  27,文化14~明治39),山口県萩に帰住し,失業武士の授産事業として,武家屋敷に夏ミ カンを栽培することを奨励し,萩の地をわが国最初の夏ミカン集団産地とした.

 写真は,現在も旧武家屋敷邸内にたわわに実る夏みかん。


◇fruitの訳語……実,水菓子,果物 【E.M.サトウ・石橋政方共編著『英語俗語辞 典』】*訳語に初めて「果物」が登場したのではないか.

1877年(明治10)
□1ー4 地租を地価の3%から2.5%に軽減.
 *「竹槍(たけやり)でどんと突き出す2分5厘」といわれた.
◇3ー1 「朝野新聞」に,静岡県下駿州庵原郡あたりはミカンの産地として有名だが,  山原村の一村は古来より氷川神社の大禁物なれば,ミカンの木を1本でも植えれば熱病 を発すると伝えられていた.しかし近頃ある人が思い切って植えと ころ,何のたたり  もなく,良くできるので,村民が我も我もと植えはじめ,この 頃では村中に大利益を もたらしていると報じている.
◇3 内務省勧業寮御用掛,前田正名(1850~1921),フランスから果樹・蔬菜類・草木・ 良材などの種子,苗木をたずさえて,7年ぶりに帰国.
◇6ー18 東京銀座の岸田吟香,「東京日日新聞」にレモン水の広告を掲載.「私方にて 精製のレモン水は此まで世間にありふれたるそ品にあらず,専ぱら西洋の法に従がひ味ひの清涼甘美なることは申すに及ばず。養生の為を第一としたる良品なり。庶希くは諸君お上り有ってお試し下されよ。実に其味はひ極り無しで御座ります。○大瓶四合五勺入,代金三五銭 ○小瓶二合五勺入,代金二十銭り 但し水呑コップ一盃の水に少し ばかり注ぎ込んでのむんだよ」
◇8ー21~11ー30 内務卿大久保利通の建議による第1回内国勧業博覧会,東京上  野公園で開催.
◇8 わが国最初のぶどう酒会社「大日本山梨葡萄酒会社」(一般的には祝村葡萄酒醸造  会社と呼ばれた),山梨県東八代郡祝村(現勝沼町下岩野にあるメルシャン勝沼ワイナ リー所在地)に設立.
□9ー24 西郷隆盛(1827~77),政府軍に包囲され鹿児島の城山で自決.
◇9ー30 東京三田四国町の旧薩摩藩邸跡(5万4千余坪)に三田育種場(場長は前田  正名)を開場し,前田正名がフランスから持ち帰った果樹・蔬菜類などの種子,苗木を  植え付ける(『明治前期 勸農事蹟輯録』).
◇9 小沢善平(1840~1904,カルフォルニア留学1868~73or74),『葡萄培養法摘要』(和30丁)を著わす.*国会図書館のHPで閲覧できる.
  *内国博覧会会場に隣接した善平の谷中の撰種園にはぶどうの種苗等を買い求める人々
   が多数来園したといわれる.
◇10ー10 前田正名,パリ万国博覧会参加のため,出品物4万5,316点を持参し, パリへ出発.ブドウ酒醸造の研究のため,山梨県の高野正誠,土屋龍憲ら6名を同行.
◇10ー10 現山梨県甲州市(旧勝沼町上岩野)の高野正誠(まさすみ,1852.11.2~192 3.9.4,嘉永5.9.21~大正12),同町下岩野の土屋龍憲〈助次郎〉(1859.7.13~1940.8.18,安政6. 6.14~昭和15)「大日本山梨葡萄酒会社」の設立に伴いぶどう酒醸造技術習得のため,フランスに派遣される.
  *高野正誠は同社の株主でもあり,すでに,同年弱冠25歳の若さで山梨県最初の公選
     県会議員に当選していた.土屋龍憲は弱冠18歳.二人はフランスではトロワ市のシャルル・バルテ(Charles Baltet)の養樹園及びモーグ村のピエール・デュポン(Pierre Dupont)でぶどう栽培法やワイン醸造法などを学び,期限の1ヶ年を半年近く 過ぎた1879年(明治12)5月帰国.帰国後,葡萄産業の発展に貢献.二人がフランス  に出発してから100年目に当る1977年(昭和52)に,両人をワインの先覚者として鑽  仰する顕彰碑が「勝沼ぶどう丘センター」の一角に建立された.また,この年の8月,  正誠の孫に当たる高野英夫氏はトロワ市でシャルル・バルテの孫と孫同士の100年ぶ  りの再会を行った.              
◇11 勧業寮,洋種果樹苗木有償払下げを開始.
◇山梨県令・藤村紫朗(1845.4.7~1908.4.1,弘化2.3.1~明治41),山梨県勧業場に大藤松五郎(?~1890,米国留学1869~1876)を主任にブドウ酒醸造所を設立.
 *藤村紫朗は在任14年(明治6.1.22~20.3.8)に及び殖産興業に力を入れる.後に貴族院議 員,男爵.
◇勧業局内藤新宿試験場,モモの砂糖煮,桃李の砂糖漬,イチゴジャムを製造販売
◇三代目広重,『大日本物産図会』を東京日本橋の錦絵問屋大倉孫兵衛から出版.下総国 西瓜之図,甲斐国葡萄培養図,甲斐国白柿(ころがき)製之図,紀伊国蜜柑山畑之図(『紀伊 国名所図会』〈1811年刊=文化8〉からとる),説明文つきで掲載.
◇この頃,現福島県伊達郡桑折(こおり)町で,在来種の船戸(ふなど)モモが栽培され  始まったといわれる(福島県におけるモモ栽培の起源二説のうちの1つ)『福島大百科 事典』).
◇神奈川県小田原の杉本正左衛門,十字町の御鐘台付近に数反歩の温州ミカン栽培を始め  る(『神奈川柑橘史』).
◇この頃から,温州ミカンの栽培,愛媛県北宇和郡立間(たちま)村(現宇和島市,旧吉  田町)を中心に増加(『愛媛県果樹園芸連史』).
◇「米津風月堂」(両国若松町〈現東日本橋1丁目〉)のビスケツト,上品な味が評判と  なる.第1回内国勧業博覧会で賞を受ける.
 *「米津風月堂」は風月堂より暖簾分けされた米津松造(1839~1908.12.31)が経営.
   78年,チョコレート(猪口令糖)を製造販売.


















明治(10)明治40~45

2015-01-06 14:58:07 | weblog

1907年(明治40)

◇1 夏目漱石〈39〉(1867~1916),『野分』に「軒の深い菓物屋の奥の方に柿許りがあかる   く見える」とある.*この頃,まだ,果物を菓物と書くこともあった.*4月,東大を辞し,朝日新聞に入社.

◇1 和田歌吉著『果物利用法』(通俗産業叢書3) 博文館

◇4ー1 寿屋洋酒店(サントリーの前身),甘味葡萄酒「赤玉ポートワイン」発売.

 *昨年9月1日,鳥井商店を「寿屋洋酒店」に変更.

◇5 西田藤次著『柑橘病害編:全』 日本柑橘会 静岡県庵原村

◇5 横浜の神奈川県農工銀行,『相州蜜柑 附,柑橘栽培法』(75,19頁)刊行.*相州は相模国

◇7 青森県弘前のリンゴの小売価格,1斤(=600g,約4個)4銭5厘.*葉書1銭5厘(明32~昭12).◇ミカンの生産量,12万9,500トンと全国公式統計作成後,初めて10万トンを超える.

 *1995年(平成7)の生産量(137万8,000トン)の約10分の1.

◇北海道産リンゴの移・輸出量,400万斤に達するが,東北産リンゴの進出で,この年を境に, 特に,内地市場での独占的な地位の確保が困難となる(『日本産業史大系.第2』).

     (単位:千貫,%)(資料)農林統計研究会編『都道府県農業基礎統計』

         全国 北海道 青森  岩手  全国   北海道 青森  岩手

 明治38  6071  2527  2169   99  100.0  41.6  35.7  1.6

   39  5669  1981  2272  281  100.0  34.9  40.1  5.0

   40  6703  2592  2705  206  100.0  38.2  40.4  3.1

   41  5187  1485  2252  254  100.0  28.6  43.6  4.9

   42  6308  1991  2856  175  100.0  31.6  45.3  2.8

   43  12743  2439  8398  296  100.0  19.1  65.9  2.3

   44  10790  3668  5237  228  100.0  34.0  48.5  2.1

 大正 1  8382  2384  4426  115 1 00.0  28.4  52.8  1.4

◇青森のリンゴ生産量,42万2,714箱と豊作(『青森県りんご発達史 第5巻』).

◇津軽リンゴ地帯一円に袋かけが普及.      ◇青森県地方,リンゴ景気を反映して,農    民が共有地の山すその傾斜地(草刈り場)を分け合ってリンゴの木を植える.*現在,    岩木山や八甲田山の山すそに広がっているリンゴ園はこの頃つくられたものである.

◇この頃から,果実産地に近い地方都市にも,ジャム製造業者が増え,新聞にジャムの広 告がさかんに掲載される.原料はイチゴ,アンズ,ブドウ,リンゴ,モモなど.なかで もイチゴジャムが最も好まれた(『近代日本食物史』).

◇この頃から,日清戦争で領有した台湾のパイナップル缶詰が出回り始める.新聞に「缶 詰中の最珍品生蕃印パイナップル缶詰」広告あり.

◇イチゴ(俗に徳利と称する晩生もの)の需要,東京付近で増大.    ◇この頃,果物を 進物に用いることが流行,カキ,ミカン,リンゴ,ブドウ,ザボン,ナシ,バナナ等.

◇この頃の東京銀座の果物千疋屋の様子「万屋の隣りは千疋屋果物店で,間口5,6間の白壁の瀟酒な洋館だった。底の浅い盆のような樽には季節季節の果物が店頭を飾っていたが1年のうち秋から冬にかけて種類が多かった。(中略)当時,丸い筒形の竹籠に檜の青葉を敷いて蜜柑ゃ林檎を入れ,進物用としていた。私(明治31年東京銀座四丁目生まれの浅野喜一郎氏)がまだ幼なかった頃,母に林檎を買ってくれとせがむと,あれは病人の食べ物だ,と一口に言い聞かされてしまったものだ。この店先を通と,店の鼻ッ先に樽柿の熟(う)んだのや,蜜柑の熟んで青黴が生えているのを1山5銭で売っていた(後略)」(『明治の銀座 職人話』).

 

1908年(明治41)

◇1~2月 川田龍吉男爵(1856.4.18~1951.2.9,安政3.3.14~昭和26),英国のサットン商 会ほか2社から種ジャガイモを輸入し七飯の自家農場に栽培,これらの中に病害に強い ジャガイモの品種(アイリシュ・コプラー)が含まれいた.1913年(大正2)頃から

 「男爵いも」として北海道に普及. *龍吉の父親の小一郎(1836~96,天保7~明治29)は  土佐藩士で財界人として活躍し,日銀総裁などを歴任し,男爵となる.長男の龍吉は船 舶機械の専門家で,1877~84(明治10~17)に英国に留学し造船工学を学ぶ,函館ドッ ク専務(実質社長),植物を愛し「川田牧場」も経営.1978(昭和54)9月,龍吉が欧米 から輸入した珍しい農機具類を中心に,当時の農場生活をしのぶ貴重な資料を展示した 「男爵資料館」が北海道の現北斗市(旧上磯町当別)にオープンした.

◇3 梅田矯菓著『果物菓子手製法』(136p)東京園芸出版部 刊行.

◇7ー25 東大教授池田菊苗(1864.10.6~1936.5.3,元治1.9.6~昭11),昆布のうま味の研究の結果,工業的分離に成功,「グルタミン酸塩ヲ主成分トスル調味料製造法」の特許を得る.これを鈴木三郎助(1867~1931)が事業化して,1909年(明42)化学調味料〈味の素〉を製造発売.◇8ー20 赤堀吉松,峰松,菊子共著『惣菜料理』(263頁)菊判和装大和綴,博文館    発売.定価45銭(古書 昭58年1,200円).果物に関する記述,栗,柿,柚子(ゆず),銀杏の調理法.「柿の調理法」では,柿は如何にして白和(しらあえ)と為すべきか,柿の黒あへは如何に調理せばよろしきや,柿の海苔たゝきとは如何なる調理法なるか,柿は如何にしておろしあへとなすべきか.*赤堀吉松は宮内省大膳寮包丁,赤堀峰松は日本女子大学教授,赤堀菊子は東京女学館教授.◇9ー22~23 全国園芸大会を岡山の後楽園で開き,併せて果物共進会,肥料展望会 を開催(第1回は前年静岡県で開催).

◇9 河村九淵著『柑橘の栽培』 智利硝石普及会日本本部

◇11 青森県産リンゴ価格,ウラジオストック,上:3円(1箱),普通:2円(『青りん5』).◇12ー4 川上善兵衛,『葡萄提要』(594頁)を著わす.定価1円80銭.実業之日本社.

□  日露戦後恐慌,前年より続き,会社の倒産増加.倹約の詔書下る.

◇青森県地方を中心に,リンゴの落葉病(褐斑〈かつはん〉病)が大発生し,青森県の収  穫量は前年の42万2,714箱から35万1,832箱に減少.*不作にもかかわらず市況は下落.

*この頃,落葉病は青森県だけではなく,朝鮮,ヨーロッパ,アメリカなど世界各地のリンゴ園で発生し,大きな害を与えた.落葉病はモリニア(Monilinia)病の一種で,越冬した病原胞子が葉に付着し,葉に斑点ができ,その斑点が次第に大きくなって,葉がすっかり枯れ落ちる病気で,明治の終わりから大正の初めにかけて猛威をふるい,リンゴ農家を脅威に落とし入れた.この落葉病を克服するために,ボルドー液の研究が見直される(『りんご作りに生きる』)

◇北海道のリンゴ主産地平岸(現札幌市豊平区内)に,平岸果樹組合(組合長上野 喜六)が  設立され,栽培法の改善,農薬,肥料,農具の共同購入など,先駆的活動を行う(『札幌収穫物語』).

◇オリーブ,農商務省の指導のより,小豆島で初めて栽培に成功.

 *オリーブは現在,香川県の県花・県木となっている.

◇この年以降,台湾バナナ,大量に輸入されるようになる(『バナナ輸入沿革史』).

◇東京銀座の明治屋,ダイヤモンド印のシャンパン,オレンジ,レモナード(レモネード),  ジンジャエール4種の清涼飲料を販売.

◇時事新報(「文芸週報」),懸賞当選の料理集『家庭料理の栞』を刊行.

 *料理を餅料理,野菜料理,果物料理,魚貝料理,肉料理,豆腐料理,卵料理,雑に分類.

 

 1909年(明治42)

◇1 大和田建樹〈51〉(たけき,1857.5.22~1910,安政4.4.29~明治43),新しい交通や産業事情 等に適応するように,初めの「鉄道唱歌」(明治33年5月)を新しい「鉄道唱歌」に作 りかえる.この中で,初めの唱歌にはなかった川崎のナシが歌い込まれる.

 ♪♪♪ 多摩川下流の六郷を / 渡ればやがて川崎の 

     大師参りの乗り下り場 / 梨子(なし)の産地はここと聞く ♪♪♪

◇3ー13 「東京日々新聞」に「成田線は蜜柑屋」の記事.私設成田鉄道はオモチャの ような食堂車を連結しているが,売品は食パン,蜜柑,林檎,サイダー位しか置いてお らず,和洋の料理など一品もないという.

◇3 森永製菓,板チョコレート4分の1ポンド型(1ポンド70銭)を製造販売.

◇4 高峰譲吉(1854.12.22~1922.7.22,安政1.11.3~大正11),コウジカビから抽出 したタカジアスターゼ(消化剤)を創製.

◇6ー20 千葉県富浦村南無谷の木村兼吉の房州ビワ,天皇,皇后両陛下と皇太子殿下 に献上の栄誉をになう.

◇6 味の素の広告,「東京朝日新聞」に初めて掲載.

◇6 青森~ウラジオストック間が定期命令航路に指定され,大阪商船交通丸が就航し, リンゴ131箱を運ぶ.7月(2回目)端境期のため僅か29箱,8月(3回目)577箱,

  9月(4回目)5,387箱に増加(『青森県りんご発達史 第5巻』).

 *明治43年には21,916箱,44年には26,623箱を運ぶ.馬鈴薯,味噌,醤油,木炭な   ども輸送したが,大部分はリンゴであったため,「交通丸」はリンゴ運搬船といってよ    かったという.

◇6月発行の「日本園芸雑誌」,台湾バナナが東京,大阪等の大都会で多く出回っている ことを報じる.

 「台湾甘蕉(バナナ)  東京は勿論関西等の大都に於て甘蕉の店頭に顕はるゝこと実 に盛なり.東京の如き,小笠原島,布畦(ハワイ)よりも来れども,其大部分は台湾よ り来るものにして,聞くが如くは大阪商船株式会社,神戸台湾直航船には毎次少きも二 千籠,多きは四千籠に近からんとすと.如何に需要の大にして,輸出力の加はりたるか を知るべきなり.且つ専ら基隆(キールン)港より輸出するものにして,彼地北部より 中部の産に係ると云ふ」.

◇9ー1 ウラジオストックへのリンゴ輸出を主とした県策的青浦商会,北山一郎(1870 ~1949,衆議院議員,青森市長)の献身的な尽力で設立.

 *発足当初から第一次世界大戦前後までは順調であったが,ロシア革命による共産政府   の樹立により,輸出は激減,1926年(大正15)に17年間の歴史に終止符を打つ(『青り5』)

◇9 大日本麦酒,ミュンヘン式生ビールを初めて製造.東京の新橋,京橋,吾妻橋のビ ヤホール,目黒庭園で試飲発売.

◇10 山田勝伴,『最近苹果栽培法』(48頁)を著わす.

  ◇鳥取県に「二十世紀ナシ」を導入した気高郡松保村の北脇永治,緑白色のみずみずしい 「二十世紀ナシ」を市場に初出荷,好評を博する.綿作の代替作物を探していた農家の 間に「作るなら二十世紀」の声が高まり,栽培面積急増→1904,28,81

◇鉄道の発達により,遠隔地の特産の果物(例えば,越後名産のナシなど)が東京などの 都市へ出荷されるようになる(『近代日本食物史』).

◇この頃から,朝鮮でリンゴ栽培が盛んになる.後に,日本に輸出され日本産リンゴの脅 威となる.

◇神奈川県柿生村王禅寺(現川崎市麻生区王禅寺)の森七郎栽培の禅寺丸柿,明治天皇に 献上される.

◇この頃のカキ売りの様子(絵),『明治物売図聚』にあり.

◇「青い甘藷みたいな妙な水菓子」とみられていたバナナ,この頃から次第に庶民のもの になっていく(『近代日本食物史』).

◇岡山県御津郡馬屋下(まやした)村(現岡山市),モモ2万箱,ウラジオストックへ輸出.

◇広島県の種苗商・桝井光次郎,イチジク(「桝井ドーフィン」)をアメリカ・カリフォ ルニアから導入(『日本うまいもの辞典』).

◇長野県北佐久郡三岡村(現小諸市)の塩川伊一郎(1870~1927,明治2~昭和2),父,  先代伊一郎(1846~1906)の農産缶詰製造業を発展させ,いちごジャムを製造し,明治 天皇,皇后両陛下に献上.

◇川上善兵衛,政府に『葡萄業に関する卑見』を提出(『川上善兵衛伝』).

 

◇この頃,「宮川(みやがわ)早生」発見される.福岡県山門郡城内村(現柳川市城内) の宮川謙吉医師の庭に植えられていた普通温州の樹上に枝変わりとして発見される.

1925年(大正14)に田中長三郎博士(1885~1976,明治18~昭和51)によって命名,原木は1948年(昭和23)に枯死(『原色果実図鑑』).

 *早生温州の中では樹勢が最も強い方で,豊産性で隔年結果が少ない.味は濃厚で糖酸  ともに高く,品質良好の経済品種.

 

1910年(明治43)

◇3 青森県産の貯蔵リンゴの価格,優良品と普通品との価格差.

  明治43年3月神田市場における国光の平均相場(1箱当たり円)

        100玉  120玉  140玉  160玉  180玉

 長峰付近極上 4.50 4.00    3.00   2.50   2.00

 山辺の普通上 4.00 3.50    2.90   2.40   1.90

 一般 中位  3.50 3.00    2.50   2.00   1.70

 出所『青森県りんご発達史第5巻』(原資料「東奥日報」明治43年3月20号) 

◇7 池本文雄,『最近苹果栽培書』(234頁)をわ著わす.

 *この頃も苹果という言葉が一般に用いられていたようである.

◇10ー28 「東奥日報」社説に「りんごと販売ー販路拡張と信用」と題して,同業組 合設立の必要性と移出リンゴの信用確立の急務を説く(『青森県りんご発達史第5巻』).◇10 和歌山県のミカン主産地4郡の柑橘同業組合,紀州柑橘同業組合連合会を結成し,  病虫果等の輸出検査を強化.明治44年度には「米国向」16万8千箱,「大陸向」30万4千  箱を検査したといわれる(『和歌山の100年』).

◇12ー13 東大教授・鈴木梅太郎(1874.4.7~1943.9.20,明治7~昭和18),米ぬかの成分   の中からオリザニン(折座人ビタミンB1)発見の論文を発表.*12月13日は「ビタミンの日」.

 

 

◇果樹の栽培面積,10万900haと初めて10万haを超える.

 *1996年(31万4,900ha)の約3分の1.

◇青森リンゴの生産量,839万7,696貫(3万1,491トン)と前年の2.9倍と大豊作のため価格暴落,販売拡張論起こる.全国の生産量は前年の約2倍の1,274万3,145貫(4万7,787トン). *特に,早熟の出回り期に赤痢が流行したため,青森では1箱当たり30銭~50銭という大   暴落に見舞われ,一大同業組合の結成をはじめ販路拡大必要論が活発に議論される(青り5).◇北海道産リンゴ,この年の調査によると,「運賃の低廉ならざるにより,京浜市場に於  いては価格に於いて青森産と競争すべからざるして現今は全くその跡を絶つに至った」(北海道之殖産)とあるが,さらに栽培法の拙劣,病虫害の被害,販売方法の幼稚がその重要な原因であるとしている(『日本産業史大系.第2』).

◇この頃,果物は,子供にとっては消化不良や疫痢の原因となる危険なものという風潮が 強い(『近代日本食物史』).

◇二十世紀ナシ,ロンドンで開催された日英大博覧会に出品し,最高の名誉賞を授与され る(『明治農書全書 第7巻 果樹』).

◇この頃から,徳島県の日本ナシの作付面積急増.栽培本数12万3,207本と10万本を超え, 収穫量30万6,602貫(1,150トン)も30万貫を超える.

◇この年の石川啄木(1886.2.26~19124.13,明治19~45)の歌

 「のどがかわき まだ起きている 果物屋を 探しに行きぬ 秋の夜ふけに」

 *明治大正のころは,夜遅く市街電車の停留場の前に果物屋とそば屋だけが店を開いていた(『くだもの百科』).

◇房州ビワ,需要の増大に対応し,栽培面積60町.樹数約4万5千本に達する.*反(約10a)当たり75本.

◇東北,関東,関西,九州に天明以来といわれる大水害起こる.米収穫量699万5,000トン(前年787万トン)と700万トンを割り,米価高騰.

 


1911年(明治44)  

◇3ー31 岡山県知事,果樹園芸功労者山内善男(1844~1920)を表彰し,銀盃一組を 贈呈(『続岡山の果樹園芸史』).

◇4 青森県,リンゴについて,量産よりも良果を生産するように諭告(『青森り4』).◇6 西田藤次著『桃・葡萄・柿の病害』(148頁) 岡山県内務部.

◇6 廣田鐵五郎,谷本真司,『甘柿禅寺丸栽培法』(72頁)を著わす.

◇7ー15 「山陽新報」,岡山県で,この頃,ラムネ,サイダー,ミカン水,リンゴ水 などに腐敗や混濁がみられ,1割程度の廃棄処分されたと報ず.

◇7 前年の凶作により,米価連日高騰し,買占めが横行.政府は取引中止命令,外米の 緊急輸入,関税一時引下げ,鉄道運賃割引など,対策に苦慮.

◇8 恩田鉄弥(1864~1946),『実験苹果栽培法』(374頁)を著わす.

◇8 この月から「東京朝日新聞」に連載を始めた徳田秋声(1871~1943)の『黴』に, 「二人は此頃TIの処へ届いた枝ごとのバナナを手断(ちぎ)りながら,色々の話に耽 った」とバナナのことがみえる.

◇9 青森県,主要物産販路拡張費補助規程を制定し,その第1号にリンゴを指定(青り4).

◇12 徳島県農会,『阿州の果樹』(132頁)刊行.

 

 

 

◇リンゴ栽培に致命的打撃を与える落葉病等の研究を進めるため,青森県農事試験場に「病理部」を新設.三浦道哉(みちや)技師,薬害のおこらないボルドー液の配合に成功. (『りんご作りに生きる』).

◇岡山県のブドウ収穫量35万7,198貫(1,399トン)と前年を57%上回る.

◇徳島県産スダチの利用法を解説したパンフレット5万枚を大阪市の百貨店の前でスダチ とともに無料配布→1789,93,1835

  

 1912年(明治45・大正1)

◇3 興津(おきつ)園芸部(旧農林水産省果樹試験場興津支場),地方のカキの品種を  広く採取して,『柿ノ品種ニ関スル調査』結果を発表(46頁,農商務省農事試験場特別報  告 第28号).採取品種3千余点,品種名を有するもの1,030種,異名同種93種,無名のも  ののうち,異品種と認められたもの937種の多数にのぼる(『くだものの歳時記』).

◇3 小島嘉七編,矢田貞吉訂補『柿栗乃栽培と製造法』(25頁図)山梨県松里村.

◇4ー2 和歌山県農会編輯『蜜柑乃紀州』(256頁)和歌山県農会報 臨時増刊,定価40 銭,郵税8銭(古書,東京,平成5年4月30日,2万円,定価の5万倍).

◇4ー10 堀内仙右衛門編『柑橘案内』(39頁)和歌山 紀州柑橘那賀郡同業組合発行.

◇7ー30 明治天皇ご逝去(59),大正と改元.

 

 

◇リンゴ,ナシ,かんきつ類など品種改良によりすぐれた品種が出回る.

 リンゴでは「祝」「国光」「紅玉」など,ナシでは「二十世紀」「長十郎」など,柑橘 きつでは「紀州」「温州」「九年母」「文旦」「三宝柑」「ネーブル」など.

◇広島県加茂郡竹原町の米原歌喜知,初めて梅酒をつくったいわれる?

◇この頃,果実の種類も多彩になり,消費がふえ,大都市を中心に果実専門店が現われ始 める.東京銀座の千疋屋,和洋くだもの,同缶詰,乾燥果実を扱う専門店として有名.

◇この頃,中国から初めてポンカン輸入される.「天与の甘露で逆上気味の時 胸騒の時 不愉快な時にこれを吸へ全身を流れ浄めた様な好い心持に成る」ともてはやされ,「水 菓子界の寵児」と喝采を博する(『近代日本食物史』).

◇この頃から,モモ,リンゴの衣和え,バナナのサラダなど果物も料理にも使われるよう になる(『食生活世相史』).

 

◇『本場の柑橘』 紀州有田柑橘同業組合所

◇『全国柑橘大会報告書』 第2回 紀州柑橘同業組合連合会


明治(9)明治35~39年

2015-01-06 14:41:49 | weblog

1902年(明治35)

◇2 岩淵直治著『青森県ニ於ケル苹果栽培法』(41頁)(農商務省農事試験場 特別報 告 第16号)刊行.

◇3 台湾総督府嘱託岡村庄太郎(大阪出身),高雄州鳳山街に鳳桃(パイナップル)缶 詰工場を設立→1907,22

 *台湾パイナップル缶詰の始まり.わが国最初のパイナップル缶詰工場.

◇6 静岡県興津〈おきつ〉町(現静岡市清水区)に,旧農林水産省果樹試験場,野菜試 験場の前身,農商務省農事試験場園芸部(旧農林水産省果樹試験場興津支場)を設置. 初代部長は恩田鉄弥博士.

 *国の園芸試験研究施設が整備されるにともなって,各府県の農事試験場にも園芸試験  研究施設が設置され始める.

 *興津を中心とする清水市のミカン生産は現在も活発であり,平成5年の生産量は2万4,  400トン(全国の1.6%)にのぼり,三ヶ日町に次いで県下2位,全国7位を誇る.輸出  ミカンの主力産地でもあり,カナダ,米国等に向けて清水港から輸出される.

◇8ー17,正岡子規(34),この日の随筆『病牀六尺』の中で,玉利喜造(たまり・き ぞう,1856~1931,農学者)の果物の説に賛意を示し,「果物も培養の結果段々甘美 (うま)いものが出て来るやうに成つたが,そのうち堅い果物が段々柔かくなつて来ると いふのも一つの傾向である。(中略)果物でも水蜜桃の如きは極端に柔かくなつて,し かも多量の液を蓄へて居るから善いが,林檎の如く肉が柔かでも液の少い者は(甘味と 酸味と共にあつて美味なる者のほかは)咽喉を通りにくいやうで余り旨くもなく従つて 沢山は食はれぬ。(中略)柔かな者には濡(うるお)ひが多いといふが通則である」と, 果物のソフト化とジューシー化について述べている.

 *子規は1ヶ月後の9月19日結核性脊椎(せきつい)カリエスのため死去.

 

◇12 長崎県西彼杵郡(にしそのぎぐん)農会,郡内で栽培されているミカンの呼称を「伊木力(いきりき)ミカン」に統一.

 

 

 

◇ハッサク,八朔ザボンの名で初めて世間に紹介される.

◇富有(ふゆう)ガキ,農商務省農事試験場園芸部で,全国のカキ品種を収集調査中,  恩田博士によって見出される.この甘ガキを栽培すると,農家は富をなすと称賛し,富 有と命名,紹介され,広く栽培されるようになったという.→1899

◇スイカの優良品種(アイス・クリーム,シュガー・クリーム,マウンテン・スウィート) をヨーロッパ,アメリカより導入,奈良県を中心に改良・栽培され急速に普及.

◇岡山の果樹園芸家小山益太,農業用殺虫剤「六液(ろくえき)」(除虫菊浸出石油の冷 乳化剤)を創案.氏の果樹園六六園にちなんで六液と呼ばれたという.

◇宮城県の桔梗(ききょう)長兵衛,この頃から,果汁の試作を続け,1918年(大正7) ブドウのコンコード種の果汁の販売を始める.

 

 

◇東北地方,大凶作,青森,岩手,宮城,福島は平年作の50%前後の収量.翌春にかけて 飢饉おこる.

 

     水 稲 の 収 穫 量 と 前 年 増 減 率   (単位:石〈150 〉,%)

          青森県      岩手県      宮城県       福島県

 明治33 679,779(▲8.6) 557,809(▲5.2) 1,265,966(20.8) 1,323,594(12.8)

     34 807,985(18.9) 662,391(18.7) 1,323,839(4.6)  1,363,651(3.0)

   35 347,964(▲56.9) 219,610(▲66.8)  572,969(▲56.7)   745,103(▲45.4)

   36 769,184(121.1) 577,731(163.1) 1 143,881(99.6)  1,343,957(80.4)

 

◇明治35年の柑橘主産地(原典:安部熊之輔『日本の蜜柑』)は下記の通り(『柑橘栽 培地域の研究』).

 

  紀州(和歌山)…………3,707町(39.7%)

  泉州(大阪)……………1,735町(18.6%)

  駿遠(静岡)……………1,081町(11.6%)

  長州夏橙(山口)…………405町( 4.3%)

  前川(神奈川)……………363町( 3.9%)

  立間〈たちま〉(愛媛)…280町( 3.0%)

  河内〈かわち〉(熊本)…279町( 3.0%)

  津久見(大分)……………186町( 2.0%)

  綴喜〈つづき〉(京都)…181町( 1.9%)

  河内〈かわち〉(大阪)…172町( 1.8%)

 その他…………………………945町(10.1%)   

  計          9,334町(100.0%)

                     

◇徳島県鳴門の寺田健太郎,長十郎ナシを兵庫県川辺郡より導入.鳴門における長十郎ナ シ栽培の始まり.

 


1903年(明治36)

◇1ー2 村井弦斎〈39〉(1864.1.26~1927.7.30,文久3.12.18~昭和2),和食,洋 食,中華料理をテーマにした家庭小説『食道楽』を報知新聞紙上に,12月27日まで1日 も休まず掲載.

 *果物関係では,蜜柑の葛掛,蜜柑のフライ,蜜柑の丸煮,蜜柑の寄物,林檎のフライ,  林檎の丸焼,林檎のパイ,林檎のジャム,苺のジャム,レモンのゼリー,柿料理,柿  ナマス,葡萄のジャム,菓物(ママ)の効などを取り上げる.

◇3ー1~7ー31 第5回内国勧業博覧会,大阪天王寺で開催.

  *川上善兵衛,出品したブドウ苗木が一等賞を受ける.

◇春 初めてボルドー合剤を散布して,猛烈な被害を与えていたミカンの瘡痂病の防止に 成果を挙げる.

□5ー22 第一高等学校学生藤村操(16),日光華厳の滝に投身自殺

◇9 神谷伝兵衛(47),現茨城県牛久市に牛久醸造場(牛久シャトー)を竣工.

 *11月1日,神谷酒造合資会社設立.この年,イギリスで開催された万国衛生食料品  博覧会に出品した「牛久葡萄酒」が名誉金牌を受ける→1881,94,97

 *現在,牛久シャトーのワイン資料館には,その当時使用された多くの樽,珍しい機械  類,貴重な資料・写真などが多数公開展示されている.JR常磐線「牛久駅」東口か  ら徒歩12分.

◇10 北海道産リンゴの輸出振興を図るため,札幌で苹果輸出組合が結成され,等級標 準を決める.

◇12 横井時敬〈43〉(1860~1927),『菓物の話』(163頁)を著わす.言文一致農 芸叢書の第4編として刊行.

 *横井時敬は熊本生まれ,駒場農学校出身の農学者,農政学者,帝大教授.伝統農法の  再評価と西洋農法の適用を説いた『栽培凡論』を著わす.東京農業大学初代学長.

 

 ◇台湾の基隆(キールン)の芭蕉商・都島金次郎,日本郵船の西京丸で篠竹製の魚かご詰め   て7かごを神戸に送る.商品として台湾バナナ初めて輸入される(『バナナと日本人』).◇ 農商務省,『職工事情』を刊行.政府が実施した労働者の実態調査で,とくに女工の  惨状を詳述.

◇この年,リスボン レモン(Lisbon Lemon),わが国に導入される.

 *ポルトガル原産で,1874年,米国に導入される(『原色果実図鑑』).

◇千葉県富浦村南無谷の中村角次郎等,ビワの生産過剰を予想し日本枇杷酒株式会社設立.

 *その後,ビワの品種改良等のため品質の優秀な生果が生産されるようになり,生果の  需要が増大し,価格が上昇した.このため,枇杷酒醸造は困難となり,会社は1912年 (大正1)に一時解散する(『富浦枇杷の歴史』).

 

  1904年(明治37)

□2ー10 日露戦争始まる(~1905年9月5日)

◇3 鳥取県気高郡松保〈まつほ〉村(現鳥取市)の北脇永治(1878.10.1~1950.1.23, 明治11~昭和25)現千葉県松戸市の松戸覚之助を訪れ,二十世紀ナシの苗木10本購入 して持ち帰る.鳥取県の二十世紀ナシの始まり.

 *彼は導入した苗木を親木として育苗するとともに,広く分譲し,その普及に努めた.  この間,黒斑病防除体系の確立,共同出荷販売体制の確立などに取り組み,今日の「鳥     取二十世紀ナシ」盛隆の基礎を築く.県会議員,鳥取県果物組合連合会会長などを歴任.◇4 日露開戦により陸海軍衛生材料として,川上善兵衛製造の「菊水」印ブドウ酒が採 用される(『川上善兵衛伝』).

◇5ー28 福岡県企救郡西谷村高野(現北九州市)の安部熊之輔(1862~1925,文久1 ~大正14),わが国最初のミカン専門書『日本の蜜柑』を著わし,天覧を賜わる.

 *果樹園芸の将来性に着目し,明治21年より36年まで16年間,全国各地のミカン栽培    地をあまねく巡歴し,卓越した観察力で詳細な調査を行ない,ミカンの研究に従事し    た.本書の内容は,みかん系の図,地理と気候,地形と地味,種類の選択,蕃色の方    法,施肥の方法,みかんの手入れ,病虫の駆除,みかんの採取,みかんの貯蔵,販路    の状況,収支計算,各地の産額,みかんの沿革など多岐にわたって記述されており,    画期的な書である.現北九州市小倉南区湯川の地で3万坪を開墾し,柑橘,ナシ,ビ    ワ等を栽培するとともに,技術指導,農村青年の育成に力を注いだ.県会議長,衆議    院議員としても活躍した.また,桜の品種を多数収集して,後年安部山の桜として有    名になった.没後,安部山に「安部熊之輔翁頌徳碑」(碑文は多年師事した横井時敬    博士の撰)が建立された.『日本の蜜柑』は明治農書全書第7巻 果樹〔校注・執筆   松原茂樹 農山漁村文化協会 昭和58〕に『実験応用梨樹栽培新書(松戸覚之助)』     『葡萄提要(川上善兵衛)』とともに収録されている.

 

◇7ー10 この日発刊の村井弦斎著『台所重宝記』で,日本各地の果物の名物を挙げる. *ビワ…房州(千葉県)の南無谷(なむや)/梨…川崎,越後/西洋梨…北海道,庄内/桜の    実…北海道,庄内/西洋桃…大森,稲田桃は大阪の名物/ミカンのおいしいのは台湾,     温州ミカン…紀州の有田郡に相州(神奈川県)の前川/文旦…薩摩と台湾(嘉宜〈か     ぎ〉産)/バナナ…台湾/ブドウ…甲州/柿…美濃/干し柿…大垣,広島,甲府.夏ミカ  ン…長州/リンゴ…北海道,青森/西瓜…大阪の新田/梅の実…小田原,紀州,豊後.

◇8 東大講師・池田伴親(1878.2.22~1907.3.15,明治11~40),『園芸果樹論』

 (442頁)を成美堂より刊行→1898,1905

 *二十世紀梨の命名者の1人ともいわれる池田伴親は3年後に死去.

◇秋,千葉県の松戸覚之助育成のナシ「新太白」,「二十世紀梨」と命名される.当時の 在来品種が1個1.5銭くらいであったのに対して,二十世紀梨は20~30銭で販売され, 生産者に異常な関心をよび,急速に普及→1898

◇11ー9 「大朝」,紀州ミカンの関東地方へ輸送される量は毎年約100万箱にのぼり, その運賃は平年3銭なるも,今年は6~7銭に上がると報ず. 

 

 

◇この頃から,きれいな籠(かご)に入れた果物が贈答品に用いられるようになる(『近代日本食物史』) これらの果物の値段(「時事新報」7ー7):西洋モモ15個(1籠40銭),西洋ビワ(1斤30銭), リンゴ20個(1箱70~80銭),夏ミカン(1個3~7銭),ブドウ2斤入り(1箱45銭).◇この頃,水蜜桃の栽培が盛んになる.

◇ジャム製造業者が増加し,技術も進歩,果実加工業の基礎をつくる.主にイチゴジャム.

◇岡山県のモモの栽培樹数36万630本,生産量40万貫(1,500トン)に達し,生産過剰に陥 り,缶詰,乾果,ジャム,桃酒の製造に着手するが,成功にいたらなかったという

(『続岡山の果樹園芸史』).

◇英国種のメロンが輸入され,新宿御苑と興津園芸試験場で栽培を始める.

◇山梨県の宮崎光太郎(1863.12.5~1947,文久3.10.25),ブドウ果汁に砂糖を加えた

 「宮崎ぶどう液」を発売.

 *現山梨県甲州市(旧勝沼町)出身の彼は,1889年(明治22)東京日本橋区に葡萄酒販  売専門店「甲斐産商店」を開き,東京人の口に合った「甘味葡萄酒」を販売し売上げ  を伸ばした。92年(同25)勝沼町に大黒葡萄酒株式会社(メルシャンの前身)を設立,  ブドウの栽培ー醸造ー販売の一元的なルートを確立し,成果を上げた.そのトレード  マークは大黒天印であった.生涯をワインづくりとその普及に努めた.1904年に建て    られた「宮崎第2醸造場」は現在,改築されて「メルシャンワイン資料館」となっている.◇明治37,8年に,青森地方に猛烈な被害を与えたシンクイムシは,外崎嘉七等指導的 栽培家の袋かけ法の採用奨励によって防除された(『青森県りんご発達史第4巻』). *袋かけ法はシンクイムシの防除に歴然たる効果をもたらしたが,果色を鮮やかににす  るという思いがけない効能があった.

◇堀田伯爵家,現千葉県佐倉市に,堀田伯爵家農事試験場(ナシ,リンゴ,その他)を創 設し,農家に協力(『明治農書全書 第7巻 果樹』).

 

1905年(明治38)

◇8 和歌山県の蜜柑栽培者4,000余人,紀州柑橘同業組合を結成(『和歌山県の歴史』).

◇早生温州ミカン,広島から愛媛県越智郡関前村に初めて導入される?愛媛事典518

◇東大の園芸学者・池田伴親(1878.2.2~1907.3.15),柿樹も他のリンゴ,ナシと同様に, 果樹園として経営すべきであると提言.

*この提言が今日,カキ栽培が盛況をみるに至った大きな要因の一つとなっているといわ れる.氏は1906年(明治39)助教授に就任.翌年3月13日農学博士となるが,15日病没. 実父は園芸学者池田謙蔵.

◇この年から,主要果樹の各都道府県別の栽培樹数,生産量が統一的に把握されるように なる.

 

    主  要  果  樹  の  栽  培  樹  数,生  産  量

     栽培樹数(本) 生産量(貫)(トン)  構成比

 カキ    8,111,416  43,314,555(162,430)   38.5

 ミカン   9,053,194  23,227,716 (87,104)  20.7 

 ウメ    4,066,226  471,032(石) (65,400)  15.5

 日本ナシ 4,305,458  15,211,265 (57,042)  13.5

  リンゴ  1,811,980   6,070,647 (22,765)  5.4

 モモ    4,507,349   5,413,099 (20,299)  4.8

  ブドウ  1,102,838   1,783,944  (6,690)  1.6

  計               (421,730) 100.0

 

 (注)*ウメの生産量の単位は石(1石=138.5kgで試算).

      *計は7果樹の合計.

 初の公式統計(全国)によると,7果樹の合計生産量は421,730トンで,カキ生産量が

 全体4割近くを占めている.次いで,ミカン,ウメ,日本ナシ,リンゴ,モモ,ブドウの  順となっている.

 

◇この頃の果物,菓子の値段:北海道リンゴ1個2~10銭,台湾バナナ1斤48銭,阿 波鳴門ミカン1個3~6銭,長州夏ミカン2~7銭,菓子玉うさぎ1斤50銭,三笠山 1個2銭,たそがれ5個1銭,あゆ1斤50銭.

◇岡山県御津郡馬屋下村(現岡山市),果樹園芸家・斉藤喜八,敦賀の外海清三郎を介し, モモ1万箱をウラジオストックに輸出.岡山県モモの海外出荷の始め.生産過剰に苦慮 する業界に朗報をもたらす(『続岡山の果樹園芸史』).

 *果物にも「生産過剰」ということば登場し始める.

◇この頃から,静岡県久能山の石垣イチゴ,名声をあげ始める.

 *石垣イチゴは1896年(明治29)久能山東照宮の宮司の松平健男がアメリカの友人から  もらった1鉢の西洋イチゴ(ビクトリァ種)に端を発している(『さくもつ紳士録』). *その後,石垣イチゴは「新鉄道唱歌」の歌詞にも入れられ,知名度を高める.

   霞の高嶺   雪の富士 / 松原遥か  静岡へ

   石垣苺   澤(つや)そえて / 三国一よ  世界一    

◇青森県のリンゴ生産量,34万箱となり,今までの倍近く伸びる(『りんご作りに生きる』). *ただし,水稲(543,935石)は前年(996,637石)の45.4%減.

◇日露戦争によって経済は活況を呈したため,青森県産リンゴの引合いが多くなり,これ に対応して,リンゴの仲買業や移出業を始めるものが増加.

 *生産者からもリンゴ成金が多数出現したという.例えば,当時3町2反歩のリンゴ園  を経営していた三戸郡向村正寿寺(現南部町)の某はたちまち大金持ちとなり,これ  を元手に金貸業を営み,数人の妾を囲って各々にリンゴ園を与え,彼は人力車に乗っ  てこれを巡視したという.このようなことが開園熱を煽り,明治40~44年の5年間に  栽培面積は2倍以上に増加(『青森県りんご発達史第4巻』). 

 

◇東北地方大凶作,とくに宮城,岩手,福島では平年作の1~3割台の収量.

   水 稲 の 生 産 量(石)と 対 前 年 比(%)

 宮城 37年 1,119,820―→38年 142,742(12.7)

 福島 37年 1,472,244―→38年 313,674(21.3)

 岩手 37年   649,741―→38年 193,190(29.7)
1906年(明治39)

◇1 凶作地福島県地方に,餓死・凍死者続出

 *小学生の生徒が互に弁当を盗み食いしたといわれる

◇月 初物の値段:イチゴ1粒約5銭,ミカン並1つ5~7銭.

◇4 青森港,特別輸出港に指定され,リンゴ輸出に好影響(『青森県りんご 第5巻』).

◇5 富益良一著『果実蔬菜新調理法』(80頁)耕牧園 刊行.

◇8 松戸覚之助著 田中芳男訂『実験応用 梨樹栽培新書』(130P)刊行.

◇9 夏目漱石(1867~1916),『新小説』の9月号に『草枕』を発表.この中で,「三 丁ほど上(のぼ)ると,向うに白壁の一構(ひとかまえ)がみえる。蜜柑のなかの住居 (すまい)だなと思う。(中略)崖の下は今過ぎた蜜柑山で,村を跨(また)いで向を 見れば,眼に入るものは言わずもしれた青海(あおうみ)である」とあり,この蜜柑は 熊本の小天(おあま)ミカンともいわれている.

◇10 津軽林檎輸出業組合結成,組合長に弘前の皆川藤吉が選任される.

 *皆川藤吉はこの年個人で初めて500箱を長崎港から上海へ輸出,失敗にもかかわら  ず40,41年と送り続け,上海市場に青森リンゴの地歩を固める(『青森りんご 5巻』).◇11ー9 「大朝」に,紀州ミカンの関東地方への輸送量は毎年約100万箱で,その運 賃は平年1箱3銭であるが,今年は6銭~に上昇と報ず.

◇農商務省農事試験場園芸部(静岡県興津町),見習生に蔬菜,果実の水煮・砂糖煮・  ゼリー等の缶詰製造の伝習開始(『日本食品産業発達史』).

◇徳島県の中川虎之助(1859.2.5~1926.3.16),板野郡上板でブドウ(甲州,ナイヤガ   ラ)を県内で初めて栽培し,ブドウ栽培の基礎を築く.

 *虎之助は糖業者で代議士として初めて鳴門海峡に橋を架けることを提唱.

 

 

      生産量(箱) 1箱当たり円

 明治24  7,443 1.92

  25  10,216

  27  23,867 1.69

  28  31,870 1.33

  29  38,164 1.29

  30  34,887 1.39

  31  72,647 1.12

  32  77,442 1.15

  33  57,449 1.41

  34 144,928 0.99

  35 162,080 1.03

  36 172,200 1.01

  38 338,832 0.85

  40 422,714 1.61

  41 351,832 1.43          

  42 446,321 1.36          


明治(8)明治30~34年

2015-01-06 14:33:58 | weblog

1897年(明治30)~34

 1897年(明治30)

◇2 堀内謙一著『ネーブル柑栽培全書』(33頁)和歌山県安楽川〈あらかわ〉村(現 紀の川市,旧桃山町) 堀内仙右衛門 発行.

◇2 川上善兵衛(1867~1944),『葡萄種類説明目録』を著わす.

◇4 蜂印香竄葡萄酒で知られる神谷伝兵衛(1856~1922),フランスに留学していた養 嗣子伝蔵(1870~1936)が帰朝に際し,持ち帰ったワイン用ブドウ苗木6,000本を東京 豊多摩郡東大久保村(現新宿区)に仮植.

◇11 恩田鉄弥著『実用苹果栽培法』(128頁)博文館 発行.

 

◇北海道産のリンゴ,内地市場で独占的地位を確保し,道産リンゴの名声が大いに高まる

 栽培面積1,425.7町  *30年代末期病虫害の大発生で打撃をうけ,40年代には内地 市場で青森産リンゴにシェアーを奪われる.駆逐される.

 

◇リンゴの害虫駆除に石油乳剤が普及.

◇この頃から,東京市中に果物屋が増え,リンゴなどが次第に普及.

◇正岡子規(1867~1902),リンゴの句を詠む. 林檎くふて 又物写す 夜半哉 

 柿好きの子規,この年も多くの柿の句を詠む.

  つりがねという柿をもらいて

 ・つり鐘の 蔕(へた)のところが 渋かりき

 ・柿熟す 愚庵に猿も 弟子もなし

 ・稍(やや)渋き 仏の柿を  もらいける

  愚庵より柿をおくられて

 ・御仏に 供へあまりの 柿十五

 ・三千の 俳句を閲(けみ)し 柿二つ

◇紀州ミカン,ウラジオストック航路でロシアヘ輸出される.

◇沖縄・小笠原・奄美大島産のバナナ,市場に出回る.

◇鉄道網の発達により,サクランボが東京に初入荷.

◇川上善兵衛,キャンベル アーリー(Campbell Early)をわが国で初めて輸入.

 *キャンベル アーリーは米国人のキャンベルが米国種に欧州種と米国種の雑種を交配  して育成した品種(『原色果実図鑑』).

◇噴霧器輸入.フランスから茨城県へ,アメリカから青森県弘前へ(『青り7巻』).

◇民間の果樹栽培技術の改善指導のため愛知県及び兵庫県の県立農事試験場に園芸部設置

◇和歌山県の北部,紀ノ川の南岸に位置する旧安楽川〈あらかわ〉村(現紀の川市,旧桃 山町)のモモ栽培,明治30年代に本格的に広まる.

 *江戸後期に始まり,現在は,関西第1位の生産量を誇り,旧町名の由来にもなった.

◇この頃から,徳島県阿波郡市場町で県下で初めてモモ(天津・上海水蜜桃など)栽培される.◇この頃,現徳島県小松島市の島田幸一郎,果実飲料「ミカン水」を製造.

 *小松島は勝浦川の伏流水によって,良質の地下水に恵まれていたので,清涼飲料の製  造に適していた.

 

1898年(明治31)

◇4 神谷伝兵衛(1856~1922),東京豊多摩郡東大久保村(現新宿区)に仮植したワイン用   ブドウ苗木6,000本を茨城県稲敷郡岡田村(現牛久市,牛久シャトーのある処)に移植.

◇9 千葉県東葛飾郡八柱(やはしら)村大橋(現松戸市二十世紀が丘梨元町)の松戸覚之助(1875~1934. 6.21,明治8~昭和9),育成した梨を「青梨新太白(後の二十世紀梨)」と命名. *明治38,37年の説あり.

 *松戸覚之助は小学校高等科2年在学中(13歳)の1888年(明治21)に,近所の分家の  石井佐平氏宅のゴミ捨て場で実生のナシ苗木2本を見つけ,これを移植した.当初は  黒斑病などのために果実はなかなか実らなかったが,苦心して管理していたところ,  10年後の1898年9月に,従来のナシとはちがった色の白い,上品でおいしい味のナシ  の収穫に成功し,「青梨新太白」と命名.この苗木を養成し,覚之助経営の錦果園の  名で分譲を開始.この新しい品種のナシは時の総理大臣大隈重信(1838~1922)や田    中ビワの田中芳男男爵からも賞賛され,1904年(明治37)秋に東京興農園主・種苗商    渡瀬寅次郎(1859.7.24~1926.11.8,安政6.6.25~大正15)や後に東大の助教授になった池    田伴親(1878.2.22~1907.3.15,明治11~40)〈当時園芸学者として活躍していた父の池    田謙蔵(1844.11.20~1922.2.20,弘化1?~大正11)ともいわれる〉によって,二十世紀時代    の品種になるであろうとの意味で「二十世紀梨」と命名され,有名となった.その後,    各地から苗木の注文が殺到し,全国的に栽培されるようになった.特に,鳥取県は風    土に適したことと関係者の並々ならぬ努力によって全国一のナシの栽培地に成長した.    1906年(明治39)に『実験応用 梨樹栽培新書』を著わし,明治,大正時代の梨栽培  の代表的な指導書として好評を博した.昭和9年,59歳で死去.ナシの原樹は35年(     昭和10)に「二十世紀原樹」として天然記念物に指定されたが,45年(同20)米軍空  襲の焼夷弾を受け衰弱し,惜しくも47年(同22)に枯死した.

 *渡瀬寅次郎は札幌農学校第1回卒業生.北海道勧農協会を創設,ロンドン万博に出席,  帰国後,水戸中学校長,師範学校長を歴任.1892年(明治25)東京興農園を設立し,  欧米諸国から各種の種苗を輸入するとともに,西洋農業知識の普及に努めた.ワシン  トンのポトマックの桜苗木を東京市長尾崎行雄から請負発送するが,病虫害のため焼  却された.その後,苗は熊谷八十三技師が育成,12年(同45)2月送付.元外務大臣  小坂善太郎(1912~2000),元運輸大臣の徳三郎(1916~96)は娘・花子の次男と3男.

◇福羽逸人(1857~1921),宮内省の新宿御苑でフランスイチゴ(ジュネラリ・シャンジー) と「ドクトル・モーレル」から新品種「福羽イチゴ」をつくる.

 *福羽イチゴは門外不出として皇室用に栽培されていたが,1919年(大正8)に民間栽  培が許された.

◇川上善兵衛(1868.4.2~1944.5.20,慶応4.3.10~昭和19),新潟県頸城(くびき)郡高士村(現 上越市北方)で,菊水ブドウ酒,菊水ブランデー大量生産し,販売.

◇この頃から,ブドウ棚に針金が使われはじめる.従来は栗の木を支柱にし,横木に竹を使   用. *当時勝沼郵便局に勤務していた電信技師が架線技術をたくみに利用して考案し たといわれる.

◇米価騰貴(白米1升17銭).安い外米が都市の中等以上の家庭や農家にも普及.台湾 米の移入で価格安定が容易になる.

◇横山源之助(1871~1915,明治4~大正4),『日本之下層社会』を著わし,翌年出版.  貧民や労働者に深い同情をよせ,その惨状を詳述.

 

1899年(明治32)

◇2ー1 鳥井信治郎〈20〉(1879.1.30~1962.2.20,明治12~昭和37),鳥井商会(サント リーの前身)を大阪市西区に開業し,ブドウ酒の製造販売を開始.*現在,サントリー のウィスキーには「established 1899」の表示がある.

◇3 川上善兵衛〈30〉(1868~1944),『葡萄種類説明』(80頁)を著わす.

◇8ー15 米国から帰朝した森永太一郎〈34〉(1865.6.17~1937.1.24,慶応1~昭和12),  東京赤坂溜池に2坪の製菓工場を建て「森永西洋菓子製造所(森永製菓の前身)」の看  板を掲げ,キャンデーの製造に着手.

◇9 川上善兵衛,『葡萄栽培書』(序文品川弥次郎)を著わす.

◇11 岐阜県本巣郡川崎村(現瑞穂市,旧巣南町)の福嶌才治(1865~1919)が作出した   カキ,後の名称,富有(ふゆう)柿が,岐阜県農会主催のかき展覧会で一等賞を得て,  世に出るきっかけとなる.また,果樹園芸学の第一人者である農商務省農事試験場園芸  部の恩田鉄弥博士が富有柿の優秀さを称賛し,広く世に紹介したこともあり,全国的に  栽培されるようになる。*当展覧会は時の知事がカキ栽培奨励に行ったものでである.

 *優秀なカキの品種であったが,地主ー小作関係が厳しかったこの地方では,小作人は  作りたくても勝手にカキの栽培ができなかったので,自宅の庭先や自作地の不良畑に  植栽した.この状態で無計画に拡大してきたため,散在園が多い.

◇青森県の果実商・堀内喜代治,ウラジオストックの商況を視察し,青森リンゴを直輸出.◇国産噴霧器第1号発売される(『青森県りんご発達史 第7巻).

◇この頃,現岡山市古京町に住む内田百  (1889~1971,明治22~昭和46)初めてバナナの「にほひ」を嗅ぐ(『御馳走帖』).「明治30何年かに私は初めてバナナのにほひを嗅いだ.日清戦 争のすぐ後から台湾に渡ってゐた遠縁の者が暫らく振りに帰って来て,土産にバナナのお菓子をくれた.マシマローをバナナの形にこしらへて,バナナの風味がつけてある.(中略).生(なま)のバナナを初めて食べたのはそれからまだ十年近くも後の事であったと思ふ」.

 *内田百  は東大でドイツ文学を専攻,卒業後,陸軍士官学校教授.夏目漱石の門下  生で小説家,随筆家,本名栄造,百間は岡山市内を流れる百間川にちなむ.

◇この頃から,神奈川県橘樹(たちばな)郡を中心に,モモ栽培が盛んになり,県内で育成さ  れた伝十郎,早生水蜜桃が栽培され,明治40年には日月桃,43年には橘早生が発見される.

◇安部熊之助〈37〉(1862.1.18~1925.8.24,文久1.12.19~大正14),福岡県浮羽郡田主丸 町(現久留米市)で,ネーブルオレンジの苗に,当時北アメリカで最も恐れられていた 柑橘潰瘍(かいよう)病が発生したのを発見し,ネーブルオレンジの栽培地の和歌山県 に警告.→1904

 *現北九州市生まれの彼は,若い時,東京に出て果樹の研究を行う.果樹産業の将来性  に着目し,1888年(明治21)から1903年(同36)まで16年間,全国各地のミカン栽  培地を巡歴し,卓越した観察力で詳細な調査を行い,ミカン研究に従事した.その結  果を04年(同37)『日本の蜜柑』としてまとめ,天覧を賜る。後に,県会議長,衆議  院議員として活躍した.

◇この頃,明治学院の学生であった作家・生方敏郎(うぶかた,1882~1969),『明治大 正見聞史』の「明治時代の学生生活」で「春は大崎村へ苺を食べに行き,秋は目黒村へ 梨と栗を食べに行った(中略)監事からは寄宿生一同へ毎年の夏自分の畑に出来たとい う苺を振舞われ(後略)」とあり,果物を食べていた様子がうかがわれる.

 

1900年(明治33)

◇2ー23 わが国の食品衛生の主柱である「飲食物其ノ他ノ物品取締ニ関スル法律」  (現行の食品衛生法の前身)が初めて出来上がり,公布.4月1日より施行.

 *第1条 販売ノ用ニ供スル飲食物又ハ販売ノ用ニ供シ,若ハ営業上ニ使用スル飲食器,  割烹具及其ノ他ノ物品ニシテ衛生上危害ヲ生スルノ虞アルモノハ,法令ノ定ムル所ニ  依リ,行政庁ニ於テ其ノ製造,採取,販売,授与若ハ使用ヲ禁止シ,又ハ其ノ営業ヲ  禁止シ若ハ停止スルコトヲ得(後略).

◇3 徳富健次郎(蘆花)(1868~1927),国民新聞に『思出の記』を連載し始め,その中 で「夥しく菓樹を栽(う)へ茶や桑を仕立て,西洋蔬菜類を作って(後略)」と果樹に 菓樹が用いる.

◇4 堂本秀之助,森重之丈(香川県詫間村)編『ネーブル柑栽培全書』(29頁)刊行.◇6ー5 内務省,ラムネ,リモナーデ(果実水,薄荷水および桂皮水の類を含む),ソ ーダ水およびその他の炭酸含有の飲料水を対象とした「清涼飲料水営業取締規則」を公 布.清涼飲料水営業が許可制となり,混濁,沈殿物及び防腐剤を認めないこととなる.

◇6 島崎藤村,「椰子(やし)の実」を発表,翌年8月刊行の『落梅集』に収められる

  名も知らぬ遠き島より  流れ寄る椰子の実一つ

  故郷(ふるさと)の岸を離れて  汝(なれ)はそも波に幾月

  旧(もと)の樹(き)は生(お)ひや茂れる  枝はなほ影をやなせる

 *親友の柳田国男が愛知県知多半島の伊良湖岬において実見したことを藤村に語ったこ  とにヒントを得て作詩したものといわれる

 *1936年(昭和11年)ラジオ国民歌謡として発表される. 

 

◇東京.新宿の「現新宿高野」,果物問屋高野商店の看板を掲げ,果物を本業,繭仲買・ 古道具を副業とする.*同店は高野吉太郎(1859~1919)が1885年(明治18)25歳のと き東京都豊島郡角筈村(現新宿駅ビル駐車場入口辺り)に,繭仲買・古道具を本業,果 物を副業とする店を創業したことに始まる.

◇この頃から,果物を好むのは年少の子女に限り,大人の食べ物ではないという考え方が 少しずつ取り除かれる(『近代日本食物史』).

◇山梨県の小野義次,岡山県からモモの苗木を導入し,山梨のモモ栽培の基礎をつくる.

 *モモの主産地山梨,福島県はともに養蚕の衰退に伴い桑に代わって栽培されるように  なったものである(『さくもつ紳士録』).

◇松平候爵家,現福井市に松平候爵家試験場(ナシ,リンゴ,カキ)を創設し,農家に協 力(『明治農書全書 第7巻 果樹』).

◇千葉県安房郡長・江口英房,在任中(明治33~39),県全体としての果樹振興策がほとん どない中で,県を動かして当地方にミカン栽培を奨励し,兵庫,和歌山県等から温州ミカ ンの苗木の導入や,農商務省の専門家による技術指導をうける(『千葉県果樹のあゆみ』)◇現千葉県安房郡富浦町に南無谷(なむや)枇杷組合結成される.栽培技術の改善に乗り 出す 田中ビワの導入(田中芳男男爵に種子及び穂木を依頼) 病害虫の防除,肥培管 理の改善,肥料等共同購入,品評会の開催による優良品の奨励.

 

 1901年(明治34)

◇3 神谷伝兵衛,茨城県岡田村(現牛久市)の牛久ぶどう園に醸造場の建設を始める.

◇4ー11 奥羽本線が山形市まで開通したため,これを機に,山形産サクランボ,県外へ   の移出が容易になり,栽培面積も増え,傾斜地や畦畔にまで栽植される(『山形県大百科事典』).

◇4 川上善兵衛(1868~1944),『葡萄栽培提要』を著わす.

◇7 尾崎紅葉(1867~1903),日記に小笠原産のバナナをたくさん貰ったことを記す.

◇8ー6 正岡子規,『病床六尺』に,「頭苦しく新聞も読めず画もかけず。されど,  鳳梨(パィンアップル)を求め置きしが気にかかりてならぬ故,休み休み写生す。これ にて菓物帖(ママ)完結す。始めて鳴門蜜柑を食う。液多くして夏橙(なつだいだい) よりも甘し」と記し,パィンアップルがこのころ出回っていたことがうかがえる.

◇8ー16 平出鏗二郎(ひらで・こうじろう,1869.8.21~1911.12.19),『東京風俗志』 の中巻を著わし,第8章飲食及び料理店で果物について「果物は,都人総称して水菓子 という。桃・栗・梨・柿・蜜柑・林檎・枇杷・葡萄より,苺の類まで多く,栗は目黒・ 雑司ヶ谷の産著るしく,梨は大森の産名あり。台湾,我版図に帰してより,甘蕉(ばな な),龍眼肉(りゅうがんにく)・「パイン、アップル」等も輸入せられて,水菓子屋 の店頭に上るに至れり」と記している.

 *平出鏗二郎は名古屋の蔵書家として知られた平出順益の孫で,愛知県立医学校を卒業    の後,帝国大学文科大学国文学撰科を卒業.文部省に入り,史料編纂所員などを経て,    第一臨時教員養成所教授になるが,不治の病にかかり,42歳で死去.藤岡作太郎と    の共著『日本風俗史』(明治28年)は著名.

◇10ー10 正岡子規,この日の日記『仰臥漫録』に「夜,碧梧桐(へきごどう)来る. 林檎葡萄一籃をもたらす.余かつて林檎の名を知りたしといへるにより名を聞き来たれ りと直(ただち)にりんごの上に名を記して置かしむ.

 満紅(まんこう,最もうまき者なりと),大和錦(やまとにしき),吾妻錦(あずまに しき),松井(最大なる者),岡本,紅しぼり,ほうらん(黄)」と記す.この当時,す でに多くの種類のリンゴが出回っていたことがわかる.

 *満紅は紅玉のこと.1878年(明治11)生まれの日本最古の「紅しぼり」が,現青森県  つがる市(旧柏村)に青森県の天然記念物に指定され,現存している.

◇10ー16 内務省,人工甘味質取締規則を制定.糖業保護のためサッカリンなどを飲 食物に使用することを禁止.*サッカリンによる消化器障害の可能性も指摘されていた.

◇10ー25 正岡子規,この日の日記『仰臥漫録』に「加賀の洗耳(せんじ)より大和 柿一籃(かご)を贈り来る.客なし(以下略)」.終わりに四句があり,柿の句一句

  かぶりつく 熟柿(じゅくし)や髯(ひげ)を 汚したり

 この年には,

  「柿くふも 今年ばかりと 思ひけり」の句がある.この句の通り,柿を食べたのは この年が最後となり,翌35年9月19日,34年の短い生涯を閉じた.

*『松蘿玉液(しょうらぎょくえき)』に,柿は「冷腸熱血吾れ最も此物を愛す」と記し, あればあるだけ食べた.

◇12 相馬愛蔵(そうまあいぞう,1870.11.8~1954.2.14)・黒光(こっこう,1876.9. 12~1955.3.2)夫妻,東京本郷の東大赤門前に中村屋を開業.パンを製造販売し,後に カレーライスで有名になる.

 *1907年(明治42),当時の新開地新宿に着目し,追分に支店を出す.開店初日の売上  げは本店のそれを上回ったという。2年後の09年(同42)に駅前に移転し,現在の中  村屋の基礎が出来上がった.

 

◇この年の正岡子規の『くだもの』と題するエッセイの中に好みの果物類についての思い出話が綿々と語られており,子規の果物好き躍如たるものがある.奈良で御所柿を食べたくだり「或夜夕飯も過ぎて後,宿屋の下女にまだ御所柿は食へまいかといふと,もうありますといふ。(中略)やがて下女は直徑一尺五寸もありさうな錦手の大 丼鉢に山の如く柿を盛て来た。流石柿好きの余も驚いた。後略」

 また,バナナについて,「菓物は淡泊なものであるから普通に嫌ひといふ人は少ないが,日本人ではバナナのやうな熱帯臭いものは得食はぬ人も沢山ある」と言っているが,子規自身は「自分には殆ど嫌ひぢやといふ菓物は無い。バナナも旨い。パインアップルも旨い。桑の実も旨い。槙の実も旨い」と言っている.

    台湾に行く俳句仲間に,送る

  足立たば新高山の山もとにいほり結びてバナナ植えましを

  フォルモサの高砂島に君行かば島人さびてバナナくふらん

  相別れて バナナ熟する 事三 度

  初冬の 黒き皮剥く バナナかな       

 

◇この頃から,果物が消化不良や食中毒を引き起こす危険な食べ物であるという警戒心が 少しずつゆるめられる(『近代日本食物史』).

◇この頃の川柳に,「枕許(まくらもと) 医者が帰ると 梨をむき」水分の多いナシは 高熱の病人に喜ばれた(『時事川柳100年』).

◇この頃,丹波地方でリンゴ,バナナが食べられる.

 *阪鶴線の開通により,果物が鉄道輸送されたため.

 

◇ミカン栽培の大規模化により紀州ミカン,温州ミカンの名が全国に知られ,果物への関 心が高まる.

◇青森県のリンゴ生産量,14万5,000箱と大豊作で,前年の3倍となり,特に中弘地方は前 年の6倍といわれた.価格暴落(『青森県りんご発達史第4巻』).

◇岡山県赤磐郡可真村(現赤磐市,旧熊山町)の大久保重五郎(1867.9.10~1941.1.15, 慶応3.8.13~昭和16),1899年(明治32)偶発実生から発見したモモをこの年「白桃」 と命名.果皮は乳白色で美しく,多汁で甘味が強いことから注目を集め,栽培が広まっ た。また,24年(大正13)には「白桃」より豊産で糖度の高く,岡山県産モモの大半を 占める「大久保白桃」を作出した.赤星病防除用の噴霧器を発明(明治33年).

 *白桃の親品種は不明であるが,上海水蜜桃の血をひくものといわれており,最も長い  生命を保っている.

◇この頃から,福島県の阿武隈川流域を中心にモモの栽培が盛んになり始める.

 

 

   


明治(7)明治26~29年

2015-01-06 14:27:36 | weblog

明治26~29

1893年(明治26)

◇3 兵庫県洲本町の荻尾徳太郎著『淡路鳴門蜜柑栽培録』(24頁)刊行.

◇4 恩田鉄弥著『苹果栽培法』(184頁)博文館 発行.

 *恩田鉄弥(1864.12.14~1946.6.10,元治1.11.16~昭和21)は果樹園芸学の先覚者.大阪住吉 に生まれる.1885年(明治18)駒場農学校卒業後,福島師範,埼玉師範,岩手県農事講 習所などの教師を経て,1902年(同35)農事試験場園芸部長,1921年(大正10)初代園 芸試験場長に就任.地方で活躍する多くの園芸指導者を養成した.柿の代表的な品種  「富有柿」は氏が優秀さを称賛,広く世に紹介し,全国的に栽培されるようになった。 昭和21年疎開先の岩手県盛岡市で死去.享年81歳.

◇5ー5 青森県弘前元大工町の佐藤弥六編『林檎図解』(218頁)恵愛堂(東京)発行, 定価60銭(古書価格〔東京〕平成5年4月30日 1万5千円〈25,000倍〉)→1892年

 *本書ではまずリンゴの種類160種類( 1.American Golden Pippin~ 160.Mclntosh   Red)について,それぞれ図示し,元産地,樹性,果実の形状,熟期などを記し,続  いて,接木の方法や津軽で栽培されている61品種ついて説明.本書の大部分を占め  る160種類については外国書に依拠しているとみられるが原書名の記入はない.

 *パソコンのアップル(Apple)社の“マッキントッシュ”は,Mclntosh Red(日本名,   「旭」)にちなむという. 

◇9 函館に出荷した青森の敬業社のリンゴ,札幌産より評判がよく次々と出荷される  (青森県りんご発達史 第4巻』).

◇11 青森の黒石興農会社,1万斤(250箱)を横浜の青果問屋に出荷し,その成り 行きみるために,株主数人が上京(青森県りんご発達史 第4巻』).

◇川上善兵衛,初めて自家産ブドウでブドウ酒を醸造.また,ナイヤガラ(Niagara)を わが国に初めて米国から導入.

 *ナイヤガラは欧米両種の雑種.1872年米国ニューヨーク州でコンコード(Concord)  にキャッサデー(Cassady)を交配,育成した実生から選抜したもの(『原色果実図鑑』)◇福羽逸人,この頃のナシの代表品種として13種をあげ,この頃の市場で最も人気のあ るのは「大平(たいへい)」であり,従来の代表格の「淡雪」にとって代わっているこ とを指摘(『果樹栽培全書』第2巻).

 

  1894年(明治27)

◇5ー12 「都新聞」,「小笠原島レモン,初めて輸入される」「同島のレモンの実は 本年初めて輸入したるが,価は一果1銭5厘より2銭まで,香味は舶来より少しく劣る も廉価なれば洋食店に一寸捌け宜」と報ず.

□8ー1 日清戦争始まる (翌年4月17日 日清講和条約調印).

◇9ー24 蜂印香竄(はちじるしこうざん)葡萄酒で知られる神谷伝兵衛,養嗣子の伝 蔵(1870~1936,明治3~昭和11)を,ワイン用ブドウの栽培法及びワイン醸造の実際 を習得させるため,フランスに派遣(『神谷伝兵衛伝』).

  *伝蔵はフランス最大のブドウ産地・ボルドーのデュボア商会のカルボンフラン村醸造  所でワインづくりに必要な諸々の技術を習得し,ワイン醸造の修了書を授与され,18  97年(明治30)1月12日帰国.帰朝に際し,ワイン用ブドウの苗木6,000本,醸造用具,  土壌サンプル,多数の参考書など,ワインづくりに必要なものすべてを持ち帰る.

◇10 楠美冬次郎編『津軽地方苹果要覧』弘前津軽苹果名称一定会発行.

 *本書は販売上の品種名鑑で,5,000部印刷し全国に発送したが,特に需要地の東京,  京都,横浜,神戸,函館や競合産地の新潟,秋田,長野,岩手,宮城,山形の府県に  送付.

◇11ー30 岡山県果樹振興の先覚者・渡辺淳一郎(1858~94,安政5~明治27),明治27   年頃より農商務省園芸試験場創設の議起り,同県誘致に奔走中,脳溢血のため36歳の 若さで急逝.

◇12 「囲い物」と称する貯蔵リンゴ,弘前市から青森市へ初出荷(『青森り4巻』). *この月青森~弘前間の鉄道が開通したので,貨車によって出荷されたとみられる.こ  の頃から,大量のリンゴを抱える栽培者の間で貯蔵法の研究が行われるようになる.

 ◇リンゴの品種の呼び名を統一するため,「苹果(へいか)名称一定会」が仙台 市で開催さ れる.この時,命名されたものに,「祝」(原名アメリカン・サマー ペアメン),「紅玉」(ジョナサン),「国光」(ロールス・ジャネット),「生娘」(グラベン・ス タイン),「倭錦」(ベン・デビス)などがある.

 *当時,例えば,同じ国光でも北海道では49号,青森では雪の下,岩手では晩成子(お  くなるこ),山形ではキ印などと呼ばれていた.

◇青森リンゴ113斤(代価6円)を函館から清国(中国)へ初めて輸出.

◇北海道のリンゴ栽培面積695haと700haに迫り,その42%を札幌が占め,札幌はリンゴ栽 培の中心をなす.面積はさらに伸び,明治40年にはその2.7倍に(『札幌収穫物語』)

◇北海道産リンゴ,初めて海外に輸出(函館から中国へ267斤〈13円〉)

◇和歌山県有田郡広村(現広川町)の名古屋伝八,ミカンの搾り汁を「蜜柑水」と称して 売り出すが,殺菌不十分なため,事業に失敗.

◇福羽逸人(1856~1921),新宿御苑の温室でマクスメロンを試作.

 

1895年(明治28)

◇2 この頃,貯蔵リンゴが有利に販売される.1月青森で「2つ掛け3つ掛け」(1升 当たりの意)の上20斤が1円20銭(ハガキの騰貴率〈5,000倍〉からみた場合の現在 価6,000円)したものが,2月1円20~40銭,3月1円40~60銭,4月1円4 0~60銭, 5月1円80~90銭(同9,500円)に値上り(『青森りんご4巻』)

◇4ー1~7ー31 第4回内国勧業博覧会,京都岡崎で開催.

□4ー17 日清講和条約調印.

◇9 この月発表の樋口一葉(1872~96,明治5~29)の『にごりえ』に「あの水菓子屋 で桃を買ふ子がござんしょ」とある.

 *この頃も,まだ果物屋は一般に「水菓子屋」と呼ばれていたようである.

◇9 秋元寿詮著『実用梨樹栽培法』(38頁)(勧農叢書)有隣堂 刊行.

◇柿好きの正岡子規(1867.10.14~1902.9.19,慶応3.9.17~明治35),法隆寺の茶店に憩いて, 有名な法隆寺の句をつくる.

   柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 

 *この年は多くの柿の句を詠む ・柿落ちて 犬吠(ほ)ゆる 奈良の横町かな

  ・渋柿や あら壁つゞく 奈良の町 / ・渋柿や 古寺多き 奈良の町

  ・町あれて 柿の木多し 一くるわ / ・柿ばかり 並べし須磨の 小店哉

  ・村一つ 渋柿勝(がち)に見ゆかな /・嫁がものに 凡(およ)そ五町の 柿畠   ・柿赤く 稲田みのれり 塀の内

  道後にて  ・温泉(ゆ)の町を 取り巻く柿の 小山哉

◇この頃,正岡子規,汽車で六郷川(多摩川下流)を渡った時に,ナシの美しい白い花が 一面に咲いている情景を見て,

  「川崎を 汽車で通や なしの花」を詠む.

◇この頃,岡山県赤磐郡可真村(現赤磐市,旧熊山町)の六六園主小山益太(ますた,1861.9. 12~1924.7.1,文久1~大正13),缶詰桃に使われる金桃を産出→1902

 *小山益太は名主役の家に生まれ,郡立中学校教師,郡役所に勤めたが,家運が傾いた  ため,これを挽回すべく,果樹栽培に専念.特に,モモの品種改良に力を注ぎ,袋か  けや「六液(ろくえき)」と呼ばれる害虫防除剤を開発した.

◇この頃,早生温州ミカン,生まれる.温州ミカンの枝変わりとして,大分県北海部(き たあまべ)郡津久見村(現津久見市)の高橋勝蔵が青江村川村仲次から温州ミカンの接 穂をもらいうけたものから発見される(『果物のたどってきた道』).

 

◇この頃,青森県では,リンゴ1本から,米16俵分の収入があると,さわがれ,リンゴ 栽培熱たかまる(『りんご作りに生きる』).

◇弘前市蔵主町の菊池三郎(約1町歩のリンゴ栽培),自園の生産物のほか近辺からリン ゴを買い集めて青森に出荷していたが,この年,青森浜町に支店を開設し,翌29年函館  に函館支店を,東京神田区裏神保町に東京支店を開く(『青森県りんご発達史 4巻』).

◇青森リンゴ,函館港より清国に7,448斤(箱換算187箇)輸出(『青森県りんご史 5巻).◇北海道余市産リンゴ,小樽港よりウラジオストックに2,690斤(箱換算67箇)輸出(青り5)◇この頃,山形市の吉井賢二郎,サクランボの販路を仙台,さらには東京方面まで拡大  (山形県大百科事典).

1896年(明治29)

◇1月~6月号に青森リンゴの先覚者・菊池楯衛(1846~1918),「果物雑誌」(14号~ 19号)に「苹果栽培法」を連載.→1875

◇1ー29 静岡県久能山東照宮の宮司・松平健雄,アメリカの友人から盆栽として1鉢 の西洋イチゴ(ビクトリア種)をもらう.久能山は温暖な地であるため,イチゴは順調 に成育して,おいしい実を結ぶが,明治33年9月,松平宮司が伊佐須美神社(福島県 会津高田町?)に転任することになったので,人力車夫・川島常吉にイチゴの苗を3株 贈った.石垣イチゴの始まり(『さくもつ紳士録』).

◇10 島崎藤村(1872.3.25~1943.8.22,明治5.2.17~昭和18),四行四連の詩「初恋」を発表.(翌年『若菜集』に収録),この中で,「林檎」という言葉が3回用いられる.

 まだあげ初(そ)めし前髪の/ 林檎のもとに見えしとき

 前にさしたる花櫛(はなぐし)の/ 花あるきみと思ひけり    (第1連)

 林檎畑の樹(こ)の下に/ おのづからなる細道は   

◇秋に正岡子規が詠んだのナシの句                   

    仏へと  梨十ばかり  もらいけり

 誰が踏みそめしかたみとぞ/ 問ひたまふこそこひしけれ    (最終連)

◇12ー28 正岡子規,新聞「日本」に「菓物(ママ)ほど味の高く清きものはあらじ. 小児はこれを好み仙人もこれを喰うとかや.(中略)われこの夏頃よりわけて菓物を貪 り物書かんとすれば必ずこれを食ふ.書きさして倦(う)めばこれをまたこれを食ふ. 食へば則ち心すずしく気勇む.気勇めば則ち想湧き筆飛ぶ.われ力を菓物に借ること多 し.」.特に,柿については「冷腸熱血われ最もこの物を愛す」(『松蘿玉液(しょう らぎょくえき)』)と記し,あればあるだけ食べた.

 ◇ 神奈川県橘樹(たちばな)郡大師河原村出来野(現川崎市川崎区出来野) の当麻辰 次郎(とうま・たつじろう 1826.11.1~1905.4.11,文政9.11.1~明治38),梨の新品種を発 見し,家名をとって,〈長十郎〉と命名.

 *明治30年頃に,全国の梨園に黒斑病が蔓延していたが,〈長十郎〉は病気に強く,豊  産であつたため,全国に急速に普及.その功績を讃え,1919年(大正8)3月川崎大師  平間寺(へいげんじ)の境内に「種梨遺功碑(しゅりい こうひ)」が建立された.  現在は多摩川上流の東京都多摩市,稲城市などで栽培される長十郎は,多摩川ナシの  名でも知られる.

◇和歌山県の上山英一郎,ウラジオストックに紀北産ミカンを輸出し,出店を開く.

 

◇青森弘前の菊地三郎,函館,東京神田神保町にリンゴ販売の支店を開設.

◇北海道産リンゴ,海外市場にも販路を拡大し,この年,函館からウラジオストック

(43,182斤),サガレン(15,614斤),ニコライエフスク(5,300斤),上海(4,394斤),   香港(2,655斤)に輸出(『日本産業史大系.第2』).           

   

◇ネーブルオレンジ,愛媛県西宇和郡日土村(現八幡浜市)に愛媛で初めて導入される.

 

◇この頃,福島県伊達郡箱崎村(現伊達町箱崎)の小野三郎,甚兵衛モモ,半夏至モモを 栽培し,同じ頃,同村の伊藤喜市郎,日の丸,天津水蜜桃,上海水蜜桃などを栽植した といわれる.福島県におけるモモ栽培の起源の1つ(『福島大百科事典』).

◇スイカの購入価格(『ある明治人の生活史ー相沢菊太郎の七十八年間の記録』). 

 ・明治29年1個5.8銭(ハガキ1銭の場合〈5,000倍〉現在価290円,こんにゃく1枚5.8銭,    散髪代5.0銭)/・明治31年7.0銭(黒砂糖100匁〈375 〉5.8銭)/・明治38年9.0銭,    /明治43年9.5銭,/・明治44年11.0銭,/・明治45年12.0銭(現在価400円,大豆1    升〈1.8 〉11.5銭,白砂糖100匁12.0銭).

◇国木田独歩(1871~1908)『おとづれ』に,「悠々の月日をバナヽ実る島に送ることぞ と思へり」とバナナのことがみえ,文学作品に掲載されたものの中では早い方であろう.

◇この頃から,東京市中に水菓子屋と呼ばれる果物店がふえ,リンゴなどが多く出回るよ うになる.行商の八百屋も果物を持参.

◇福羽逸人著『果樹栽培全書』(4冊)博文館刊行              

 *平成6年1月 古書価格 第1・3編 各3,500円

 


明治(6)明治23~25年

2015-01-06 14:16:56 | weblog

1890年(明治23)

◇4ー1~7ー31 東京上野で第3回内国勧業博覧会開催.

 *「国光」を出品した札幌の水原(すいばら)寅蔵(1818~99),1等有功賞を受賞.

 *リンゴを出品した青森県弘前の楠美冬次郎(1893~1934),黒滝忠造,それぞれ2等    有功賞を獲得.

 *岡山県の大森熊太郎(1851~1902)は加温ブドウ,山内善男(1844~1920)はこれを   原料としたブドウ酒2種,景山一郎(1851~1913,嘉永4~大正2)は剪定バサミを考案創    製して出品.福羽逸人(1865~1921)を長とする審査で受賞.

 *レモン水,蜜柑水,珈琲(コーヒー),練乳,麺麭(パン)等を展示. 

◇4 友高猪之助著『洋種林檎之栽培』(勧農叢書) 有隣堂刊行.

◇5 前年の凶作で米価騰貴(前年の約2倍),東京・大阪・京都で窮民がふえ,東京で は餓死者発生.

◇6ー30 新潟県佐渡相川で,この年最大規模の米騒動が発生,鉱夫800余名参加.軍 隊出動.この年,各地で米騒動が頻発.

□7ー1 第1回総選挙.

◇8 ブドウ,コレラの流行で売行き落ちる.

 *赤痢,腸チブスも大流行,岡山県の場合,コレラ(患者1,499名,死者1,161名),赤  痢(389名,116名),腸チブス(563名,140名),防疫の観点から上水道の敷設の緊  要性の気運が高まる.

◇10 青森県弘前のリンゴ士族グループの楠美冬次郎・佐野熈,日本で最初のリンゴ解 説書『苹果(へいか)要覧』(当時,在来種の林檎と区別して西洋リンゴに苹果という 和語を用いた)を著わす.

 *楠美冬次郎(1863~1934)はリンゴ栽培の指導のため,関東州(中国旅大市)に紹へ  いされ,1934年(昭和9)同地で死亡.享年71歳.

◇11ー11 「郵便報知」に,津田仙(1837~1908)が東北地方遊歴中に各地で得た西  洋林檎20余種の果実数十顆について,来る15日,新聞記者や知友等を招き,何種の  味が最もおいしいかの品評を請う(林檎の味だめし会)という.米国にはしばしばある  例なれども,わが国では先ず珍しき会というべしと報ず.

□11ー29 第1回帝国議会の開催.

◇12ー15 山梨県祝村の高野正誠(1852~1923),『葡萄三説』(391頁)を著わす. 内容は葡萄園開設すべきの説,葡萄栽培説,葡萄醸酒説.

 *平成6年1月 古書価格 15,000円(定価2円50銭).

◇岡山県小田郡広浜村(現笠岡市広浜)の渡辺淳一郎(1858~94),宮内省より夏ミカン 300顆の御用を仰せつけられる.

 

◇この年~明25年 トーマス著,津田仙訳『菓実栽培』(上〈131頁〉 中〈115頁〉下〈164頁〉合本) 学農社発行

 *明治25年に合本が出て28年まで3版を重ねる.明治29年,福羽逸人の『果樹栽培全書』 (4冊)がでるまで,本書が栽培者の中心的拠り所であったといわれる.

 

◇この年の青森県のリンゴの生産量,3万5,728貫(134トン),価額1万6,707円,40斤箱 換算7,440箱,1箱単価2円25銭(『青森県りんご発達史 第4巻』)

◇山梨県白根町西野の小野要三郎,中央線の開通を機に,モモ栽培の有望性を唱えるが, 生糸相場が好調なため,聞き入れられず.

 *10年後の明治33年,小野義次が岡山県から苗木を導入し,モモ栽培の基礎をつくる.

◇川上善兵衛(1868~1944),新潟県頸城郡高士村北方(現上越市北方)に自費で山林21町3 反歩を開墾して葡萄園を開設し,400種の品種を集め,葡萄酒醸造の準備を始める.

◇和歌山県の堀内仙右衛門と堂本秀之進,カルフォルニア州からネーブル・オレン ジル 苗2本を日本に導入,最初は那賀郡安楽川(あらかわ)村(現桃山町)と田中村(現打 田町)に栽植(『柑橘栽培地域の研究』).

 *ネーブルはその後著しく普及し,1909年(明治42)には和歌山県で6万本,全国で63    万本(794ha)栽培された.

◇この年,東大教師(言語学)を辞任したバジル・ホール・チェンバリン(1850~1935), 『日本事物誌』を著わし,日本の果物について「土着種の梨はペアーと普通訳されてい るが,まったく異なった果物で,円くて木のように堅く,味がない。この土着種の梨は 石ころの親戚というべきものである。(中略)日本で最上の果物は蜜柑であり,一,二  種類の瓜である。(中略)日本では,果物は食事の中の正規の品目として認められる   ことがなかった」(高梨健吉訳)と記す.

 *小泉八雲はチェンバリンの推薦で東大教師となる.小泉八雲の後任が夏目漱石.

 

◇山形県鶴岡の酒井調良(1848~1926),同地の鈴木重行が越後の行商人から購入したタ ネのない柿に注目し,その栽培,普及,渋抜き法の研究に取り組み,平核無柿を全国的 に有名にする.*1925年(大正14),庄内柿と改名される

 

 

1891年(明治24)

◇1ー20 この頃,青森県弘前市のリンゴ生産者,新聞に販売広告を出す.

 *例えば        西 洋 林 檎 数 十 樽

             売 捌 度 ニ 付

            御望ノ御方ハ至急御申込被成下度

            此段公告仕候       以上

             弘前市元寺町

             二十四年一月二十日 黒滝七郎   (『青り4巻』)

◇3ー18 山陽鉄道(三石~岡山間)開通.4月25日 岡山~倉敷間,7月14日  倉敷~笠岡間が開通.   

 *山陽鉄道が開通したこの頃から,モモが岡山県特産として全国的に有名になる.

◇6 『菓木栽培説明書(幻灯応用)』(13頁)新成社 刊行.

◇7 真藤治六著『果苗仕立法』(38頁)勧農叢書 有隣堂 刊行.

◇9ー15 青森の『東奥日報」に,9月1日に東京~青森間の鉄道が全通したためにリ ンゴの出荷が活発化したことを記す.「弘前にては洋種りんごの栽培家年一年より多く なって毎年の収穫も中々尠なからぬ由なるが,本年よりは例年に比し一層その需用高を 増したるにや,此の頃は毎日りんご輸出の荷馬車5,6台にて当青森地方へ供給し居る  こと故,今は殆ど弘前市の一物産としてかぞえらるるに至りし由」(『青り4巻』).

◇10 大林雄也,『大日本産業事蹟』を著わす.農牧林業及物産,運輸交通,漁業及水 産,工芸製作物及鉱業の各篇から成り,上下巻併せて700ページの大著.それぞれの生 産の起源,伝来,沿革についての諸説を主要生産地について記述.果樹に関する項目は 次の9項目.

 1.甲斐葡萄樹繁殖の沿革       6.武蔵小向井梅林移植の起源

 2.安芸柿栽植の起源         7.上野大島梨移植者関口梨昌翁の来歴 

 3.紀伊蜜柑樹移植の起源       8.淡路鳴門蜜柑移植の起源

 4.近江源三郎柿栽植の起源      9.尾張知多郡盛田某葡萄栽培地開墾の事蹟

 5.武蔵橘郡梨樹繁殖の起源および沿革  

 

◇12 三田巳蔵著『果樹材木栽培概略』(39頁)函館 三田種苗商舎 刊行.

 

◇紀州及び静岡ミカン,アメリカヘ輸出される.

◇リンゴ,ブドウ,モモ,アンズなどを原料とするジャムを家庭でつくる方法,雑誌掲載 ふえる.

◇岩手県の中川良八ら,初めてリンゴに和紙で袋かけを行う.

◇この頃(明治24~25年),青森で銘柄の通っていたリンゴは,「敬業社もの」

「興農会社もの」「弘前菊池もの(菊池三郎)」「浪岡蛯名もの(蛯名文八郎)」等で仲買等 の流通業者を通さずに,すべて生産者によつて搬出されたもの.これらのリンゴは一部  は青森の消費に回されたが,大部分は函館や京浜方面に移出された(『青り4巻』)

 *浪岡は現浪岡町,浪岡町のリンゴ生産量(平成5年)は4万100トン(全国の4%)  で,弘前市(同13.5%),長野市(同4.5%)に次いで全国第3位を誇る.  

◇曲直瀬愛,『内国産柿一覧図解』を著わし,45種を記載.

◇谷七郎,現札幌市に谷葡萄園を開園.

 *1875年(明治8),開拓使開設の葡萄園を桂二郎(葡萄技術者,桂太郎の実弟)から  引き継ぐ.後に,札幌葡萄酒醸造場,札幌葡萄酒合資会社となる.

◇北海道札幌村に1.7haのリンゴ園を有する橘仁が発起人となり,「北海道菓樹協会」  を設立.明治24年,27年には協会主催の品評会が開催され,リンゴ栽培が,「1畝ノ地ヲ擁スルモノトイエドモ競フテ之ヲ栽植スルニ至ル」ほどに盛んになる.

 *石川啄木に「石狩の都の外の君が家 林檎の花の散りてやあらむ」とよまれた橘智恵  子は彼の娘である.1966年(昭和41)平岸の天神山に,この歌の碑が建てられた  (『札幌収穫物語』).


1892年(明治25)

◇2 小川安村編『梅譜』(19頁) 東京三田育種場発行.

◇春,岩手県の佐藤谷次郎,リンゴ袋を古新聞紙から考案使用.

◇ブドウが流行中の天然痘の口熱を去るということで,各問屋で品切れになり,価格が1 粒2銭5厘にも達したという(『近代日本食物史』).

 *当時,ハガキ1銭,現在50円,これをもとに現在の価格に換算(現在価)すると,12  5円〈5,000倍×2銭5厘〉)となる.卵1個が1銭〈現在価50円で〉あったから,い  かに法外な値段であったかがわかる.

 

 

◇東京神田の問屋で青森リンゴの取扱を開始.

◇岡山県のブドウ温室の栽培面積:4棟約148 .

 *明治30年:5棟178 ,35年:432 ,40年:10棟574 と栽培面積  の増加は微々たるもの.

◇甘ガキ「次郎柿」(静岡県周智郡森町の原産),雑誌に掲載されたのがきっかけで普及. 

◇仙台市で大日本農会主催の産物品評会が開催され,津軽リンゴが好評を博する.この時 の受賞者は次の通りで敬業社を除き他はほとんど弘前士族である(『青森り3巻』).

 ・3等賞  藤崎敬業社,佐藤弥六(*)

 ・4等賞  楠美冬次郎(『苹果要覧』の著者),松井竜太郎

 ・5等賞  武田永七,津軽 薫,佐野文右衛門,菊池楯衛,山中卯太郎

 ・6等賞  菊池三郎

 *佐藤弥六(1842~1923)は青森リンゴ栽培の先覚者.小説家・俳人・佐藤紅緑(1874~    1949)の父,「リンゴの唄」の作詞家として知られる詩人・サトウハチロー(1903~    73),作家・佐藤愛子(1923~)の祖父.津軽藩士佐藤甚内清朝の次男に生まれ,江    戸に留学して兵学,史学を修め,福沢諭吉に英学を学ぶが,廃藩置県で留学が打ち切    られ,郷里弘前に帰り,唐物店(用品店)を開き,また,養蚕を行うとともに,リン    ゴ,ブドウ栽培に取り組み,リンゴ士族のリーダーとして活躍するなど,農業振興に    尽力.得意の語学力を活かして翻訳的色彩の強い『林檎図解』を編纂している.郷土  史の研究にも先鞭をつけた.1896年(明治29)緑白綬有功賞を贈られる.

◇前年の9月,日本鉄道の青森上野間が全通したため,リンゴの貨車輸送が可能となった が,日本郵船が特約運賃でこれに対抗したので,明治30年代に至っても海上運送される リンゴが少なくなかった.例えば,この年敬業社の場合,荷馬車で青森へ運び,青森か ら船で品川へ送り,そこから荷馬車で神田市場に送った.良い値段で売れたため,途中 暴風にあって荷の半分を海に投棄してもなお十分の儲けがあったという(『青り4巻』).◇この頃から,北海道産リンゴ,内地へ移出はじめる.

◇北海道果樹協会,リンゴの優良品種14種を発表し栽培者の指針とした(『札幌収穫物語』)◇大分県,和歌山県のネーブルオレンジ栽培熱に刺激され,玉利喜造博士(たまり・きぞう,1856~1931,安政3~昭和3)の手を経て,米国より苗を取り寄せる.

◇appleの訳語……苹果(オオリンゴ)【珍田捨巳校閲,島田豊纂訳『雙解 英和大辞典』】 *珍田捨巳(1856~1929,安政3~昭和4)は弘前の東奥義塾出身,米・英国大使を歴任,伯爵.


明治時代(5) 明治19~22年

2012-05-22 12:09:25 | weblog

1886年(明治19)

◇3 農商務省,ブドウ栽培,ブドウ酒醸造法研究のため,福羽逸人をフランスに派遣.

◇夏から秋にかけて,コレラが大流行し,死亡者約11万人に達する.コレラの流行に関連 し,ラムネが急速に普及.

 *天然水は危険につきラムネを飲むようにとの宣伝の結果,一般市民がラムネを知る.

◇11 この年,カキの出来,良好.11月15日「内外新報」に「なかんづく,山城国宇治  郡より産出する田原柿は例年千駄余の収穫あり。この内,過半は枯露柿,串柿に製し, 生柿はわづかに伏見まで出して売る位なりしところ,本年は生柿のままにて広く売り出 せり」とある.

◇12 1877年(明治10)設立のわが国最初のぶどう酒会社「大日本山梨葡萄酒会社」(現山梨県甲州市,旧勝沼町下岩野),変味酒が多く出たため,解散の止むなきに至る.

この年

◇岡山県のブドウ作りの先覚者山内善男(やまのうち・よしお,1844~1920),片側ガラ ス張りの温室(約16 )でブドウ栽培を岡山で初めて開始.今日のマスカット・オブ・ アレキサンドリア作りの基礎をつくる.営利目的としては日本で最初といわれる.

 *1956年(昭和31)にガラス室が復元された.

◇この頃から,青森県地方では景気の回復に伴って,農業恐慌に勝ち抜いた豪農的地主や 土地集積を行って新しく登場した商人地主によって,リンゴが商品作物として投機的対 象にされ始め,園圃開園が続々行われ,明治24年頃ピークをむかえる(青り3巻)

 

    明 治 前 期に お け る 青 森 県 の リ ン ゴ の 栽 培 面 積

  年 次  栽培面積(町)   同指数     参考事項

 明治22    53.8   100

   23   104.4   194  

   24   141.4   262   この年東北線全通,敬業社7割配当

   25    不 明         各地に新植熱高まる

   26    不 明         各地に新植熱高まる

   27   690.6  1302   この年青森・弘前間鉄道開通

   28   925.3  1720

   29   952.3  1788  この年敬業社7割配当

   30  1262.0  2345

 

 (出所)『青森県りんご発達史 第三巻 明治前期りんご植栽拡大史』

     (原資料『青森県統計書』)

 

◇田中良純(1855~1935)ら,各種の食物栄養価調査を行う.

 *翌年,わが国で初めての食品成分表として発表.

◇東京三田農具製作所,日本で最初の剪定バサミをフランス製に模造してつくる.

 

 

 

1887年(明治20)

◇4ー1 福島県信夫郡野田村(現福島市)の鴫原(しぎはら)佐蔵(1838~1916),8 反8畝に日本ナシ苗木500本を栽植する.当初,村人からは場違いのナシ栽培にのけ者扱 いされ,辛酸をなめる。しかし,3年後収益を確保したため,周辺の農家もナシ作りに 注目し始め,萱場(かやば)ナシとして産地を形成するに至った.

 *市町村別では福島市の日本ナシ生産量(平成5年)は1万1,300トンで日本一を誇る.  県別では福島(平成6年)は鳥取,茨城,千葉県に次いで全国4位.

◇5 札幌の水原寅蔵(1818~99)の林檎園(面積:凡1万坪,木数:凡700本,収穫3万斤) と邸宅が『札幌繁栄図録』(高崎龍太郎)に掲載される(『明治商工便覧第1巻』).

◇12 岐阜県松森村(現美濃市)の古田東逸著『西洋葡萄樹培養法』(16頁)刊行

この年

◇和歌山県有田郡の上山英一郎(うえやま,1862~1928),アメリカに除虫菊の種子と交換す る条件でミカンを輸出.

 *この時はミカンより容器の柳行李(やなぎこおり)がめずらしがられたという.

◇イヨカン(伊予柑),山口県阿武郡東分(ひがしぶん)村(現萩市)の中村正路の果樹 園で発見され,穴戸(あなど)ミカンの名で紹介された.穴戸はまた穴門といい,長門 の古い呼び名.*1889年(明治22),伊予(愛媛県)に導入され,特に松山市周辺の気 候風土に適し,次第に栽培面積が増えた.当初は「伊予ミカン」と呼ばれていたが,愛 媛県の特産品となり,1930年(昭和5)イヨカンと命名された.

◇長野県で,水蜜桃などの缶詰業が始まる.

◇米国種ブドウ,この頃から,各地に広がり,一時非常にさかんになったが,1902年(明 治35)頃白渋病が伝染し,停滞する.その後,ボルドー液等の普及により,回復.

◇岡山の山内善男,大森熊太郎,共同でガラス室2棟を建設,翌21年6貫目(22.5 )の マスカット・オブ・アレキサンドリアを初出荷.

 *岡山区内で1貫(3.75 )当り2円で販売.さらに神戸へ販売.

◇岡山の森芳滋(1832~97,天保3~明治30),御津郡津高村栢谷(かいだに,現岡山市)で,ホ ワイト・マスカット・アレキサンドリアを栽培.

◇現新潟県上越市北方でブドウ栽培を志した川上善兵衛(1868.4.2~1944.5.21),東京   下谷の小沢善平に新しいブドウの品種や接木の方法について教えを受ける.     

◇リンゴ生産会社・興農会社,青森県黒石付近(現黒石市)に10町歩のリンゴを開園,発足(青り6)

 *黒石市のリンゴ生産量(平成5年)は3万2,800トンで,弘前市,浪岡町に次ぎ県下第  3位(全国4位).県のりんご試験場がある.

◇青森県弘前の私立東奥義塾,北津軽郡板柳村(現板柳町)の原野に10町歩の土地を得て,付属果樹園(リンゴ園)を開園(『青森県りんご発達史 第6巻).

 *板柳町のリンゴ生産量(平成5年)は県下第6位(全国7位)で全国の2.5%を占める.◇柳川藩主の子・立花寛治(ともはる)伯爵(1857~1929,安政4~昭和4),福岡県山門郡川 辺村中山(現柳川市,旧三橋町)に,立花家農事試験場を創立して,各種果樹,野菜等 を取り寄せ試作し,地域農業の発展に貢献,果樹部門では,山門(やまと),八女(や め)郡の柑橘,ナシ等の振興に大きな刺激を与えた.

 *立花伯爵は津田仙の学農社に学び,地元で農事の研究と奨励に専念し,百姓殿様として   農民に親しまれた.著書に『内外果樹便覧 附有用植物畧説』『穀菜栽培便覧』がある.◇曲直瀬(まなせ)愛著『日本柑橘品彙図解』大日本農会.

 

1888年(明治21)

◇2ー24 「時事新報」に,盛岡から東京まで鉄道が開通し,リンゴの需要が大いに増 えるだろうという記事がみえる.*輸送手段がないため,販路に苦しむ.

◇3ー19 「時事新報」に,伊予のミカンを春まで保存するための方法について,農会 へ質問が寄せられたという記事がみえる.

◇4ー6 鄭成功の子孫・元岡山県師範学校教頭,鄭永慶(てい・えいけい,1858~95. 7.17,安政5~明治28),東京下谷区西黒門町(現台東区上野1丁目)に日本初の本格的なコー ヒー専門店「可否茶館」を開店.

 *単にコーヒーを飲ませるだけでなく,トランプ,クリケット,将棋を備えつけたほか, 外国図書,新聞なども読める読書室や50~60人を収容する宴会場もあったという.コー ヒー代1杯1銭5厘,牛乳入り2銭,菓子つき3銭.お客は少数の学生と物好きな文士 であったため,経営は初めから赤字,明治24年,4年目に倒産.変名で入国した米国 シアトルで37歳の若さで客死.

◇10 渋カキを接木により甘カキにする技術などが学術雑誌に解説される.

◇11 兵庫県印南新村の片寄俊,『葡萄栽培要略』(122頁)を著わす.

 *片寄俊は現加古川市の播州葡萄園主.この年創業し,1900年(明治33)頃廃業.

この年

 ◇岡山の山内善男・大森熊太郎,マスカット・オブ・アレキサンドリア6貫目(22.5 ) 初結果.

◇北海道庁第二部,『果樹栽培心得』(99頁)刊行.

◇東京三田育種場竹中卓郎,『種苗定価表』

 *古書価格(群馬県高崎市),1996年(平成8)9月,3,000円

◇中浜東一郎,『成人の蛋白質需要と日本人の食物について』を発表.

◇この頃より,ラムネに玉ビンが用いられはじめる.

◇appleの訳語……苹果(セイヨウリンゴ)【杉浦重剛・井上十吉校閲,島田豊纂訳

 『附音挿図和訳英字彙』(大倉書店)】.

 

 1889年(明治22)

□2ー11 大日本帝国憲法が発布される.発布式典直前に文部大臣森有礼(1847.8.23~ 1889.2.12,弘化4.7.13~明治22),刺客に胸をえぐられ重傷,翌日死亡(41).

◇4 千葉県成東(現山武市)出身で,後に歌人として有名になる伊藤左千夫(1864.9.16 ~1913,元治1.8.16~大正2.7.30),東京本所区茅場町3丁目(現墨田区江東橋3丁目,JR 総武線錦糸町駅前付近,駅前公園に彼の歌碑がある)で牛乳搾取業を始める.

 *1日18時間働いたといわれ,「牛飼いが歌詠む時に世の中のあたらしき歌大いに起  る」という有名な短歌は明治30年前後の作だといわれる.

◇7ー1 東海道本線が全線開通し,果物の販路拡大のきっかけとなる.

◇8月 鈴木泰助著『柑橘栽培録』 三浦定吉(静岡県)刊行.

□9 この月以降,米価の高騰で外米の売行き良好.

 *廉価な外米は麦飯よりうまく,炊くと4割増えると好評.

◇10 山形県鶴岡町(現鶴岡市)の私立忠愛尋常小学校で,わが国初の学校給食が仏教 団体により実施される.

 *1959年(昭和34),文部省は学校給食の発展を記念して,同小学校跡をわが国学校給  食発祥の地とした.

◇11 梅原寛重著『菓樹栽培新書』(104頁)刊行.

◇12 兵庫県洲本町の新岡興文編『淡路鳴門蜜柑栽培要略』(31頁)刊行.

 この年

 ◇農商務省,種子島でハワイ産レモン苗木の栽培に成功.

◇農科大学(東大)教授・玉利 喜造(たまり・きぞう,1856~1931,安政3~昭和6),ワシントンネー ブルオレンジ(ブラジルのバイア地方原産)を日本に初めて導入(『果物の博物学』). *同オレンジは多雨地帯や風の強い地域では栽培されず,日本で栽培が多い地域は瀬戸  内海沿岸地帯や和歌山県南部など.

 *玉利教授は,東北地方の農業振興について,米作に偏ることを戒め,リンゴ,ジャガ  イモ,燕麦等の栽培(混合農業)を奨励した.

◇和歌山県那賀郡の堀内仙右衛門(1844~1933,現紀の川市,旧桃山町出身),堂本秀之 進(1864~1940),藤井孫八,藤田繁之助ら,温州ミカンを米国カルフォルニア州に輸 出するが,彼地産のネーブル・オレンジに圧倒される.このため,翌年ネーブル苗2本 を日本に導入(『柑橘栽培地域の研究』)

 *翌年,彼等が中心になってミカン直輸出会社である南陽社を設立,ミカン輸出は順調  に伸びなかったが,有田地方より品質が劣る紀北地方のミカン農家にとって海外市場  はきわめて重要であったといわれる.

◇愛媛県温泉郡道後村持田(現松山市持田町)の三好保徳(やすのり,1862~1905,文久2~ 明治38),山口県萩の穴門(あなど)ミカン(後の伊予カン)の苗木1本(50円〈現在 価約50万円に相当〉)を購入し,増殖をはかり,持田地区の各戸に無償配布する.今 日の伊予カン栽培の基礎を築く.

 *当初は伊予ミカン,伊予ポンカンと呼ばれていたが,同県産の温州ミカンとの混同を  さけるため,1930年(昭和5)イヨカンと改称された.三好保徳は日本ナシ,モモ,  リンゴ等の栽培の啓発や振興にも力を注いだが,43歳の若さで死去した.松山市の道  後公園内に頌徳碑がある(『愛媛県果樹園芸史』).

 

◇神奈川県川崎町(現川崎市)の六郷橋際から川崎大師(平間寺)まで,六郷川(多摩川 下流)に沿って,幅7.2m,長さ2.2 の長堤(「大師新道」と呼ばれた)が作られ, この新道の左右の畑にモモとナシの木が一面に植えられる.

 *日清戦争後のころ,正岡子規は,この美しいナシの花の情景を見て,

   「川崎を 汽車で通や なしの花」 と詠んでいる(『近代川崎の民衆史』).

◇パイナップル,沖縄県に小笠原諸島から持ち込まれ,初めて栽培される.

◇ライムが一般に出はじめる.値段は1本約3銭.

 

◇日本帝国農会初代会長に花房義賢男爵が就任した折に,集計した果物の栽培面積のベス トテン, 柿  梨  栗  梅  桃  柑橘類  葡萄類  枇杷  夏みかん

  真桑瓜類.

 

◇この年,各地で天候不順,暴風雨による凶作,米価騰貴で農民騒擾.

 


みずみずしい梨が出回り始めました

2010-09-13 09:30:31 | weblog
みずみずしい梨が出回る季節になりました。
かつては50万トンの生産量を誇りましたが,消費の多様化で30万程度で推移しています。

ご参考までに県別生産量(平成21年産)を掲載します。

梨生産の特徴は全国各地で栽培されていますが,二十世紀梨発祥の地の千葉県が首位を,首都圏近郊の茨城や栃木が上位を占めていることです。



明治時代(4) 明治15~18年

2010-08-06 08:17:22 | weblog
1882年(明治15)

◇4ー10 新聞に,「濠州へ柿苗を輸出」と報じる.「三田育種場にて培養せられたる柿の苗木を多く濠州へ差送らるゝよしなるが,是は彼地にある御国(みこく)人 が,該地に売捌んために注文ありしなりと云う」と報ず.
◇5 農商務省農務局育種場編『舶来果樹目録』(52頁),『舶来果樹.穀菜目録及繁殖 略表』(4頁)〈『舶来果樹目録』付録〉有隣堂.
□6ー25 日本銀行条例を定める.10月10日営業開始.
◇11ー13 桂二郎著『葡萄栽培新書』(110頁) 玉井治賢 刊行.
 *桂二郎(1857.1.17~ ?,安政3.12.23~ ?)は政治家桂太郎(1847~1913)の実弟. 兄の赴任とともにドイツに留学し,当時最高の銘醸地といわれていたラインガウ地方 のガイゼンハイムの葡萄栽培葡萄酒醸造学校に学ぶ.帰国後,1876年(明治9)山梨県 立勧業試験場でブドウ栽培の技師として活躍し,その後,北海道に渡り札幌葡萄酒醸造 所に勤務.現サッポロビールの前身会社の社長などを歴任.没年を調べているが,不明.
◇11ー29 海軍省医務局副長(のちに男爵)高木兼寛(かねひろ,1849.10.30~1920.4.13, 嘉永2.9.15~大正9),脚気と食物の関係を調べ,麦食推進の意見を天皇に上奏.
 *兼寛は翌年海軍兵食を麦飯に変更し,脚気予防を行う.脚気罹患率が1,000人当たり
3~5人に激減.成医会講習所(東京慈恵会医科大学の前身)の設立者.
◇11 福羽逸人著,衣笠豪谷訂『紀州柑橘録』(127頁,図版40枚)有隣堂.
 *衣笠豪谷(きぬがさ・ごうこく,1850~97)は岡山県倉敷出身の勧農局の技師.清国視察の際,天津,上海からモモの穂木を持ち帰り,岡山などの勧業試験場で栽培されたという.
◇12 米価1石7円10銭になる.1879年(明治12)末に比べ45%暴落.


◇播州葡萄園内にガラス室設けられる.
 *岡山県のブドウ作りの先覚者山内善男(やまのうち・よしお,1844.5.28~1920,天保15~大正9),大森 熊太郎(1851.5.16~1902.7.23,嘉永4~明治35)の両氏,度々同園を訪れ,福羽逸人園長の  指導を受ける.
◇農務局育種場,『舶来果樹栽培及び繁殖略表』を出版.
◇外人専用のラムネ,この頃から日本人も飲用しはじめる.
◇赤堀峯吉(1816~1904),東京日本橋に一般家庭の子女に料理を教える日本初の料理学 校「赤堀割烹教場(赤堀料理専門学校の前身)」を開設.
 *当初,生徒は僅か10人だったという.明治43年には400人を数える.
◇fruitの訳語……果子【柴田昌吉・子安峻同著『増補訂正英和字彙』】.


1883年(明治16)
◇3ー3 「郵便報知」に,近年新潟県でナシを作ることが流行し,到る所にナシ園がみ られ,利益も少なからずあるが,1昨年来は虫害を蒙り,価格が従前の4分の1に低落. このため,新潟勧農場ではナシで酒を造ることを試み,好成績が得られたので,あまね く醸造法を伝えると報じる.
◇8 三田育種場で果実品評会,果物模造品アルコール漬の参考品数十種.
◇11ー28 元薩摩藩装束屋敷跡(現千代田区内幸町1丁目の大和生命ビル)に,「鹿 鳴館(ろくめいかん)」オープン.内外の高顕官・淑女約千余名集まり夜会,舞踏会夜 半に及ぶ.成島柳北,「鹿鳴館落成式記」に「外務卿某婦人と與に主人格になり,夜会 を開き,以て之を落す。内外の嘉賓来り会する者一千余名。夫人と共に招かるる者多し」 と記す.
 *鹿鳴館は欧米列強との不平等条約改正の交渉を円滑に進展させるために建築された国  際的社交場.建築,服装,料理など,文化・風俗の近代化に演じた役割は少なくない.◇11 福羽逸人稿「鳴門蜜柑解説農産品評会出品解説〈論説〉」大日本農会報告


◇12 三田育種場,種苗払下げの広告を出す(『明治前期 勸農事蹟輯録』).
 本年新収ノ種苗左ノ代価ヲ以テ拂下候間有志者本場植物部へ照会アルヘシコノ段広告状 候也
       明治16年12月    東京三田四国町  農務局育種場
           
     品   種       種  類    1本ニ付價直
  欧州 米国  苹   果      105      5銭
   同  同  葡   萄       75      3.5
   同  同    梨        124      3.5
  欧米 清   桜   桃       31      3.0
  米  国   洋李(プラム)      1      3.0
  欧州 米国    杏         19      3.0
   同     桃           16      3.0
  清  国  水 蜜 桃        1      4.0
    以下略
      (但シ二百本以上1割引,五百本以上1割半引,千本以上2割引)


◇福羽逸人稿「播州葡萄記事」(農事報告第19号),同園の開設,栽培,醸造などについ て記述,関係者に多大の示唆を与える.
◇青森県中津軽郡の藤田葡萄園,欧,米両種の葡萄を栽培し,醸造葡萄の先駆をなす.

1884年(明治17)
◇1 松方デフレ政策の強行で,諸物価下落.
 *1881年(明治14)1石14円40銭に高騰した米価,4円61銭に急落.この年,農村は深刻 な不況に見舞われ,各地に農民騷擾が多発.
◇2 武内久?稿「温州蜜柑解説第5回農産品評会出品解説〈論説〉」大日本農会報告.◇4 葡萄組第四分社 橡谷(とちや)喜三郎編『葡萄効用論』(和12丁) 名古屋  伊東昌見 発刊 *米穀からの醸造に代えて葡萄酒醸造を提案.
◇4 大阪の藤江卓蔵,『葡萄剪定法』(和2冊〈上26丁,下38丁〉)を著わす.
◇6 農商務省,『内国産穀菜果一覽図解 柿実ノ部』 有隣堂 
◇8 竹中卓郎著『舶来果樹要覧』(144頁)大日本農会三田育種場出版,定価50銭(古 書価格,平成4年12月,3万5千円,定価の7万倍).
 *掲載果樹 購入希望者は申し込むこととなっている.
 ・漿果類 葡萄100種,無花果(いちじく)4種,ラスプベルリー(懸鈎子〈きいちご〉の類)1種,  くろいちご1種,すぐり2種,ふさすぐり2種,おらんだいちご7種.
 ・仁果類 苹果(をほりんご)108種,梨126種,榲?(まるめろ)3種,メドラー1種,甜橙(オレンジ)  1種,黎檬(レモン)1種,シトロン(黎檬の類)2種,石榴(ざくろ)1種.
 ・核果類 櫻桃(みざくら)31種,桃17種,油桃6種,杏(あんず)19種,プラム(李の類),阿利  襪(オリーブ)1種
 ・乾果類 榛(はしばみ)2種,胡桃(くるみ)1種,扁桃(アーモンド)
□10ー31 埼玉県秩父で秩父事件起こる.不景気に悩む農民が旧自由党の指導の下に 借金の年賦償還,村費半減,地租軽減を要求して蜂起.
◇10 千葉県松丸村(現いすみ市,旧夷隅〈いすみ〉町)の斎藤覚次郎,『果実製造要覧』(和13丁)を著わす.
◇12ー26 前田正名,在来諸産業の振興策の大綱『興業意見』(30巻)発表

◇青森県弘前のリンゴ士族グループの菊池楯衛(1846~1918),佐藤弥六(1842~1923) 楠美冬次郎(1863~1934)ら,津軽産果樹会を設立.
◇この頃,リンゴの苗木仕立と販売を始めた青森県弘前の士族,宅地栽培から1町歩以上 の園圃栽培に拡大し,その数,10名以上に及び,その急激な増殖ぶりがうかがわれる (『青森県りんご発達史 第3・4巻』).
◇青森県弘前の化育社改め私立農談会が,穀菜果実私立品評会を開催し,リンゴが初めて 品評会に出品される.
 *この品評会はこの年同じ弘前で開催された官設の青森県米大豆麻生糸共進会がリンゴ  を含まないのを不満として開催されたものである.明治20年地方物産私立品評会と改  められ,県下一円を対象に実施(『青森県りんご発達史 第3巻』).
◇現東京都稲城市のナシ栽培者・川島吉蔵ら13名,共盟社を設立し,苗木・肥料・容器な どの共同購入,販売を行う(『農業風土人物誌 東京』).
 *明治末年には水田の梨園化が進み,東長沼・矢野口を中心に栽培面積が増加し,販路  も横浜・東京市内へと拡大した.


1885年(明治18)
◇1 田中芳男稿「リンキ解説[ベニリンゴ]〈論説〉」大日本農会報告
◇7ー16 日本鉄道株式会社,宇都宮で初めて駅弁を売り出す.梅干入りの握りめし2 個,たくあん付で5銭.
◇11 静岡県の業者,ミカン500箱をサンフランシスコに初輸出.みかん輸出の始まり *カナダ,アメリカに渡った日本人移民向けに輸出されたもの.
◇12ー22 太政官制を廃止して,内閣制を採用し,第一次伊藤博文内閣が成立.初代 の農商務大臣は土佐出身の谷干城(1837~1911,天保8~明治44)
◇12 「女学雑誌」,女子の学科に割烹(料理)の科目を加える必要性を説く.

◇宮内省の内苑頭福羽逸人(1857~1921),ヨーロッパからメロンの種子をとりよせ,栽培 を開始.
◇この頃,早生温州ミカン,現大分県津久見市青江で,普通温州の枝変わりとして発見さ れる.
◇この頃,ミカンの液に酒石酸の酸味を加えた「ミカン水」,新聞広告にみえる.
 *ミカン水は洋酒と同じ扱いをうけ,値段も高価.一般に普及するのは日清戦争後の明  治27~8年頃.
◇青森県藤崎村(現藤崎町)に,大規模なリンゴ栽培を目的とした株式組織の敬業社が設 立される.7町5反歩に及ぶ荒蕪地を年米3斗7升5合で借入れ伐根整理し,翌19年4月東京 三田育種場と弘前から苗木を購入して栽植(『青森県りんご発達史 第3巻』)
 *栽植6年目から結実し始めたリンゴは1861年(明治24)から配当を開始し,その配当  額は毎年増加し,世人の羨望を集める.すなわち,1株10円に対して24年7円,25年8  円,26年10円,27年11円11銭,28年20円にのぼり,29年にはついに30円(30割)とい う破格の配当となった.
◇青森県弘前で,宅地内に競ってリンゴの植栽が始まる.

◇山梨県東山梨郡奥野田村(現塩山市)の雨宮竹輔(たけすけ,1860.5.28~1942.6.18,万延1.4.8 ~昭和17),小沢善平の指導をうけ,デラウェア種(米国種)の栽培に成功し,県内に広まる.デラウェア時代の基礎をつくる.1956年(昭和31)に塩山市の雨宮橋際に彰徳  碑が建てられた.事蹟については,『葡萄の父 雨宮竹輔翁』に詳しい(『山梨百科  事典 増補改訂版』).
◇フランスのボルドー大学・ミラーデ教授,ボルドー液(硫酸銅と石灰乳の混合液)を発明. *日本では1897年(明治30),茨城県牛久の牛久シャトーのブドウ園で初めて使用され,  全国に普及する.
◇山形県,東京の三田育種場から24品種の桜桃の苗木を取り寄せ,広く県内に配布.
◇柴田承桂訳『百科全書 果園篇』 東京 有隣堂
◇凶作のため,各地で野草,木の芽,松葉のだんごを食用,囚人の食糧であった麦の搗殻 を食べる者がふえ,麦の搗殻1升8厘に高騰.


明治時代(3)  明治11~14

2010-06-22 10:52:29 | weblog
1878年(明治11)
◇1ー24 東京駒場に内務省勧業局の農学校,駒場農学校(東大農学部の前身)開校.
◇3ー3 徳島県の勧業試験場において,スイカ,タマネギ,棉,インジゴ西洋藍など の種子を無料にて下渡す旨の広告あり.
◇4ー18 アニリンその他金属性絵具・染料の飲食物着色使用禁止を公布.
 *食品衛生に関する初の全国取締り.飲食物の着色に外国から輸入のアニリン系など  の有機合成色素が使用されるので,これを取り締まるためのもの.
◇5ー14 山梨のワインつくりなど殖産興業の推進者・内務卿大久保利通(1830~78),東京紀尾井坂で暗殺される.享年47歳.
◇11 福羽逸人(ふくば・やはと)〈21〉(1857.1.11~1921.5.9,安政3.12.16~大正10),甲州ぶどう沿革史編纂のため,山梨県庁,勝沼,東山梨郡役所などで取材.
 *福羽逸人は1986~89年フランス・ドイツに留学,旧式園芸法の改良に努め,ブドウ  の温室栽培の開発,福羽イチゴの創出等,わが国の園芸史上,きわめて大きな功績  を残す.石見(鳥取県)出身の国学者福羽美静(1831~1907)の養子.
◇12ー24 東京両国若松町の米津風月堂,初めて「かなよみ新聞」に貯古齢糖(チ ョコレート)の広告を掲載.

◇長野県,勧業場を長野町(現長野市)に設置.
◇御雇外人・札幌農学校教師の米人W.P.ブルックス(Brooks,1851~1938),北海道 開拓使の諮問に対して,印刷されたものではないが,答申した文書(邦文)の中で, 初めて「剪定」という用語を用いる(『青森県りんご発達史 第二巻』).
 *1888年(明治21)年10月,任期満了となり,帰国し母校マサチュセッツ農科大学教  授となる.昭和13年飛行機事故のため死去.
◇岩手県の古沢林,リンゴを船便で東京に移出.岩手県における東京出荷の始まり.1個25 銭で販売.本格的出荷は明治23年鉄道開設後である(『岩手りんご100年のあゆ  み』).
◇千葉県の房州ビワ,東京湾内汽船の発達により,栽培面積がふえる.
 *1909年(明治42)から,毎年天皇・皇后両陛下に献上されている.房州ビワは甲州  ブドウ,紀州ミカンとともに日本三州の名果といわれた.現在,生産の中心地は南  房総市の旧富浦町,最盛期は6月,実は生食のほか,羊羹,ジャム,シロップ漬   け,葉は,ビワ茶にも加工されている.
◇「農業雑誌」に「柿にて砂糖を製する事」の記事.

1879年(明治12)
◇2ー5 長野県,勧業課を設置し,勧業掛を置く.
□4ー4 琉球藩を廃止し,沖縄県を設置.
◇春ごろから,コレラが全国的に大流行し,年末までの患者総数は17万人,死者10万人 を超えるという惨状をきわめる.6月27日「虎列刺病予防仮規則」,7月14日 「海港虎列刺病伝染予防規則」が定められる.
 *この年,各府県に衛生課が設置され,食品衛生担当を明示.町村の衛生事務取扱い  の組織が定められる.
◇6 園芸学者・田中芳男〈40〉(1838.9.27~1916.6.22,天保9.8.9~大正5),長崎か らビワの種子を持ち帰り,東京本郷の自宅の庭に播種.8年後の明治20年に結実. この中から,田中ビワ生まれる.*その後,田中ビワは千葉県の特産となる.
◇7ー15 長野県,16郡に勧業世話掛各1名ずつを配置.
◇7 長崎県,わが国缶詰製造の始祖といわれる松田雅典(1832~95.5.20,天保3.10~ 28)の意見を取り入れ,県立缶詰研究所を設立.雅典は主任に任命され,モモ,ビ  ワ,イチゴ,トマト,タケノコ等の缶詰を製造し,これらの缶詰を持参し,勧農局に 納入したと ころ,好評を博したという(『農産缶詰の沿革と展望』).
◇8 新潟で米価高騰.コレラ予防のため野菜,果物,魚類が販売禁止になり,細民困 窮し,米商を襲撃.
◇8 神戸市元山町の農商務省勧農局所管の三田育種場付属温帯植物試験場(面積9反4  畝),前田正名の尽力でフランスから導入されたオリーブの苗木600本(550本ともいわ れる)を植え付ける.当試験場はこれを機に,「神戸オリーブ園」と改称される.
◇9 山梨県でブドウ酒150石を製造.
◇10 岡勇訳述『西洋果菜調理法』(12頁)札幌 報新舎刊行.


◇北海道で初めてリンゴが実る.場所は開拓本庁舎周辺の試作圃及び札幌の水原(すいば ら)寅蔵経営の果樹園.
 *水原寅蔵(1818.2.5~99.4.18,文化15.1.1~明治32)は中島遊園地付近にリンゴを中  心に2.4haの果樹園を開き,本道民設果樹園の嚆矢となり,まとまった形でのリンゴ  栽培は日本で最初であるといわれる.明治26年,北海道開拓の基礎をつくった黒田  清隆(1827~1900)より果樹園創始の記念として苹果紋章入りの羽織一襲(かさ   ね)を贈られる.
◇長野県更級郡真島村(現長野市)の中沢治五衛門,県からのリンゴ苗を植栽.
◇長野県上水内郡三輪村(現長野市)の原善之助,津田仙の学農社からリンゴ苗木を植 栽.
◇長野県東筑摩郡里山辺村(現松本市)の豊島新三郎,洋種ブドウを県下で初めて栽  培.
◇開拓使,ブドウジャムの製造を開始.
◇岡山県天瀬試験場(現岡山市)で栽培した洋種ブドウ苗を1本8厘で払下げる.

◇愛媛県宇和島に,夏ミカンが愛媛で初めて導入される.その後,1883年(明治16)に西 宇和郡三崎町,松山地方に導入され,特に南予を中心に産地化される.       
◇この年生まれの永井荷風(1879.12.3~1959.4.30,明治12~昭和34)は,『西瓜』に「明 治十二三年のころ,虎列拉(コレラ)病が両三度に渡つて東京の町のすみずみまで蔓衍 したことがあつた。(略)然しわたくしが西瓜や真桑瓜を食ふことを禁じられてゐたの は,恐るべき伝染病のためばかりではない。わたくしの家では瓜類の中で,かの二種 を下賤な食物としてこれを禁じてゐたのである。魚類では鯖,青刀魚(さんま),鰯の 如き青ざかな,菓子のたぐひでは殊に心太(ところてん)を嫌って子供には食べさせ なかつた。」と記 しており,当時の西瓜や真桑瓜の位置付けを知ることができる.
◇神奈川県根岸村の宮崎留五郎,アスパラガス,チョーセンアザミを栽培.
 *港町青物市場の西洋野菜問屋伊勢芳の主人の委託による.
◇小沢善平(1840~1904),『葡萄培養法上下』を著わす.
◇仏人カリエール著,大久保学訳『加氏葡萄栽培書』(全5冊,和装)刊行.
 *平成8年4月,古書価格(東京・神田)5万円.
◇西洋料理の広告「東京新聞」に掲載 *並20銭,中等40銭,上等 御好次第

1880年(明治13)
◇3 福羽逸人(1856~1921)・池田謙蔵(1844~1922)の提唱により,播磨国加古郡 印南 新村(現兵庫県加古川市)の地に30町歩を買収し,国立播州葡萄園(内務  省?三田育 種場に所属)設立.福羽逸人がその実務を担当.
 *当時の管理技術では,フランス系品種はわが国の風土での成功が望めなかったの   で,84年(明治17)に廃園.しかし,その中にあったマスカット・オブ・アレキサン  ドリア (Muscat of Alexandria)は,岡山の山内善男等の努力により温室ブドウとし  て成功.
 *マスカット・オブ・アレキサンドリアは芳香のある甘いブドウで,原産はエジプト  といわれる.マスカットは「じゃこう(のような臭いのする)」の意,アレキサン  ドリアは古代エジプトの首都.
◇5ー28 各府県に農事会,共進会の開設を奨励.
◇7 「農業雑誌」に「林檎梨子の類を来年多く実のらす法」の記事.
◇7 東京銀座3丁目の中川幸吉,リンゴ水を売り出す.1瓶25銭.この他,レモン  水,ミカン水,イチゴ水なども販売.
◇9 「農業雑誌」に「林檎を新鮮に年越さする法」の記事.
□11ー5 官営工場払下概則を制定.富岡製糸場,三井炭坑,長崎造船所など
◇12 米価高騰し,1875年(明治8)以来,最高値を記録.
 *最高値,1石東京12円11銭,大阪10円80銭,大阪の米屋では白米の1合売りが始ま   る.

◇この頃,青森県弘前地方でリンゴの結実を見て,苗木が競って求められるが,宅地内 の空地や,宅地続きの畑に数本ないし十数本植える,いわゆる宅地栽培が一般的であ ったようである.この宅地栽培は明治18~19年まで続いたといわれる(『青森りん3 巻』).
◇勧業寮から配布されたリンゴ苗木に綿虫が寄生し,長野県に侵入.
◇和歌山県の特産・サンポウカン(三宝柑),現在の集団産地,有田郡湯浅町栖原(すみ はら)に導入される. 
 *三宝柑の名は,江戸時代,和歌山城内に1本の原木があり,毎年三宝(三方)に果  物をのせて,紀州候に献上したことに由来するといわれる.果物の形状から,達磨  柑(だるまかん),壺柑(つぼかん)とも呼ばれる.当時,サンポウカンは藩から持出  禁止 のおふれが出されていたことから,通称「お止めミカン」と呼ばれていたとい  う.
 *和歌山県におけるサンポウカン栽培は,有田郡吉備町田殿の大江城平がつぎ穂を導  入して栽培にのり出したのが始まりだという.
◇中川幸七,果実シロップ漬缶詰を製造.
◇小沢善平(1540~1904),『葡萄培養法続編』を著わす.
 *善平の一連の著作は,氏の体験に基づいた西洋種の特徴をとらえ,西洋の栽培技術  を詳細にわかりやすく翻訳した研究書であった.
 *善平の経営する種苗園「撰種園」(東京府下谷中清水町〈現台東区池之端3~4丁   目〉)からは西洋穀菜果樹の栽培者に,特にブドウ苗木が多数供給された.
◇床井弘・斎藤時泰編纂,榊原芳野訂正,土方幸勝再訂『日本地誌略物産弁』に掲載さ れたもの.
 *遠江国(静岡県西部)…蜜柑,甲斐国(山梨県)…梨,柿,葡萄,下総国(千葉県  北部)…西瓜,梨,美濃国…柿,甜瓜(マクワウリ),紀伊国(和歌山県)…蜜   柑.

1881年(明治14)
◇3ー1~6ー30 東京・上野で第2回内国勧業博覧会開催.
 *東京府下谷中の小沢善平,「夙(つと)ニ外国葡萄ノ良種ヲ移植シ接挿及屈条切枝  等善ク法ニ適ヒ以テ栽培家ニ裨益ヲ与フ」をもって,有功賞を受賞.これを記念し  『撰種園開園ノ雑説』という小冊子を出し,その中で,ブドウ栽培の収益を下記の  ように明らかにする.
 ・明治9年の春に始めて50坪の面積に50株のブドウ樹を栽植した結果の損益比   較.  9年 損3円26銭8厘,10年 益1円44銭7厘,
     11年 損29銭3厘,12年 19円20銭2厘,
     13年 益46円28銭7厘,14年 35円51銭7厘
◇4ー5 大日本農会設立.7月,機関紙「大日本農会報」創刊.
◇4ー7 内務省勧農局と大蔵省商務局が廃止され,新たに農商務省が設置される.勧 農局の事業を引き継ぐ.
 *官房及び書記局,農務局,商務局,工務局,山林局,駅逓局,博物局,会計局の8   局. *1981年(昭和56)4月7日,農林水産省設立100周年記念式典挙行.
□8 北海道開拓使官有物払下げ事件が起る.
 *この年,開拓使第1,第2官園が民間に払い下げられる.
◇9ー8 「東京日日新聞」に,「谷中の撰種園の狐(きつね),ブドウを踏み荒ら  す」の記事がみえ,「葡萄,林檎,早熟?ながら,洋種にて尤も甜味なり.今年は葡 萄に狐かかりて,いたくふみ荒したりと園主物語られたりき」とある.
 *小沢善平の果樹園とみられる.
□10ー11 御前会議で,開拓使官有物払下げ中止,参議大隈重信(1838~1922)の 罷免,明治23年からの国会開催などを決定(明治14年政変).
□10ー21 松方正義,参議兼大蔵卿に就任.松方デフレ政策(不換紙幣整理,増税 等)の開始.

◇種子なしミカン(温州ミカン),東京・神田多町(かんだたちょう)市場に初入荷  し,業者たちは種子がないことに驚く.タネがないので縁起が悪いという人と食べや すという人の2派に分かれという.
 *それまでは,発祥の地九州を中心に消費されていた.
 *神田多町市場は慶長年間頃に,名主の河津五郎大夫が野菜市を始めたのが起源
  で昭和3年まで続き,以後秋葉原駅西側に移った.現在も千代田区に町名が存続.  神田多町2丁目の東北端に神田青果市場開場の地碑がある.

◇この年に始まる松方デフレ政策のため,青森県地方ではしばらくリンゴ栽培が宅地栽 培の段階とどまる(『青森県りんご発達史 第三巻』).
◇岩手県盛岡の人・古沢林のリンゴ園で,美麗な果実を結んだことが農商務省に報告さ れ,その後,青森,秋田,山形の各県で好結果を得たので,リンゴは寒地に適するも のとわ かったという.

◇岡山県のブドウ作りの先覚者山内善男(やまのうち・よしお,1844.5.28~1920.12.8,天 保15~大正9), 大森熊太郎(1851.6.15~1902.7.23,嘉永4~明治35),果樹指導者福羽 逸人長の播州葡萄園 を初めて視察し,指導を受ける.
◇後の牛久シャトーの設立者・神谷伝兵衛〈25〉(1856.3.18~1922.4.24,安政3.2.12~大 正11), 東京浅草花川戸町(現台東区花川戸)で,輸入ブドウ酒を日本人の口にあう ブドウ酒に 再製して販売を始める.口当たりが良いので評判となる.
 *伝兵衛は三河国幡豆郡松木島村(下総国多古藩飛地・現愛知県幡豆郡一色町大字松  木島)の出身.レッテルには父表助の雅号「香竄(こうざん)」を使用し,「香竄  印」の商標登録(明治19年3月19日)を行い,蜂印香竄葡萄酒の名は国内はもとより  海外でも評判を高めた.
◇塩川伊一郎(先代)(1846~1906,弘化3~明治39),長野県北佐久郡三岡村(現小諸  市)で,イチゴジャムの缶詰を製造.
 *1893年(明治26)には,洋桃の苗木10種類を東京興農園から購入して栽培,優良品種を 育成し,長野県における洋桃生産の普及に貢献.洋桃缶詰も製造し,海外にも販売.

明治時代(1)  明治1~7

2010-06-10 18:34:38 | weblog

               

1868年(慶応4・明治1)9ー8改元(新10.23)
◇4月 プロシア(ドイツ)人ガルトネル(Gaertner)兄弟(生没年不詳),蝦夷(北海  道)の亀田村や七重村(現七飯町)の土地を借りて農場を開墾し,洋種リンゴを栽培.
 *兄のR.ガルトネルは1865年(文久3)箱館で貿易を始め,弟のC.ガルトネルは1865  年(慶応1)プロシアの箱館領事となった.ガルトネル兄弟は榎本武揚との間に99ヵ年  間300万坪を租借するという契約を結んでいたことから,明治新政府は契約解除のため  1870年(明治3)賠償金6万1千両を支払う(「七重村租借事件」).

◇この頃,日本ナシの品種,29種存在し,その代表格は「淡雪」.
*「淡雪」の名はみずみずしく,雪をかむのに似ていることからつけられたいう.

◇この頃,新潟県中蒲原郡両川村の大野三之丞,ナシの防虫防除法として,紙袋で覆い,成 績をあげる.
◇中国人の蓮昌泰(れんしょうたい),東京築地入船町(現中央区)で,ラムネの製造を開 始.
◇イギリス人のJ・ノースとW・レイ経営のノースレー商会,横浜本町通り61番館で,ソフ ト・ドリンクス製造販売.ラムネも製造されたと思われる.


1869年(明治2)
◇2 木村安兵衛(1817~89),東京遷都を記念して東京芝日蔭町に文英堂(のちの木村屋 総本店)を創業し,麺包(パン)を製造販売.
 *木村安兵衛は現茨城県稲敷郡牛久町の農家の次男に生まれ,40歳すぎてからつてをたど  って藤堂藩の市中取締役,紀伊藩の御蔵番となる.徳川幕府崩壊後,次男の英三郎のす  すめで,パン屋を開業.文明開化の「文」と英三郎の「英」とをとって文英堂と名付け  る.  
◇6 横浜馬車道(現常盤町)で氷水店を営む町田房蔵,アイスクリームを日本で初めて製 造し,「あいすくりん」の名で売り出す.
 *町田房蔵は旗本納戸役の家に生まれた旧幕臣.16歳のとき咸臨丸の乗組員として勝海舟 とともに渡米したという.1976年(昭和51),日本アイスクリーム協会神奈川支部はアイ スクリームの誕生を記念して発祥の地・馬車道にモニュメントを建立.

◇下総(現千葉県)印旛郡出身の角田米三郎,肉食の必要性と豚の生育の早いことに着目し て養豚と豚肉奨励を建白し,東京麹町三丁目(今の上智大学)に協救社という結社を作  る.
 *平成2年6月,古書 角田米三郎誌『協救社衍義(えんぎ)要領・協救社衍義草稿22篇   号2冊』18万円.
◇官職を辞した津田仙(1837.8.6~1908.4.23,天保8.7.6~明治41),築地の「ホテル館」  に勤め,外人の食用に供すべき新鮮な野菜がないために,麻布本村町に土地を求め,米  国から取り寄せた野菜種を蒔きつける.
 *津田仙と果樹  津田仙は下総国佐倉藩(現千葉県佐倉市)の藩士の家に生まれ,江   戸,横浜等で蘭学及び英学を学び,幕臣津田栄七の聟(むこ)養子となる.抜擢されて  外国奉行通弁(通訳),1867年(慶王3)の遣米使節団には福沢諭吉等とともに随行し  たほか,1873年(明治6)にはウィーンの万国博覧会に出席するなどして,広く西洋農  業を見聞.帰国後,『農業三事』という翻訳書を出版し,福沢諭吉の『学問のすすめ』  と並んでベストセラーになったという.内容は,気簡法(暗渠気排水),偃曲法(果樹  の枝を曲げて結実を促す),媒助法(花粉をふりかけて結実を促す)の新しい農法であ  った.1876年(明治9),在来農法の改良と人材育成のため,東京麻布に学農社農学校  を創立するとともに,『農業雑誌』を刊行し,農業振興に多大の貢献をする.学農社農  学校は慶応義塾,同志社と並んで「四大私立学校」といわれるほどのもので,駒場農学  校(東大農学部の前身)の設立に強い影響を与えた.9年1月には『農業雑誌』を創刊  し,果樹栽培についても多くのページをさき,主としてリンゴの米国流の果林仕立法を  説いた.中村正直(1832~91),新島襄(1843~90)と並び称されたキリスト教界三傑  の1人.津田梅子は彼の先見の明と決断により,満7歳でわが国最初の留学生となり,  後に女子英学塾(現津田塾大学)を創設した.
 
 ◇この年に元飛騨代官所の地役人富田礼彦が編纂をはじめた飛騨地方の地誌『斐太後風土 記(ひだごふどき)』(1873年〈明治6〉刊行)について,小山修三氏の分析によると,  産物の記録のうち,食料品とみなされているものは,168品あり,全体の5割近くを占め, このうち,果実類は24品目となっている.種類は割合多く,分布も比較的ひろい.最 も 生産量の多いのはカキ(159村,46トン) で,次いでウメ,スモモ,ナシ,モモ  の順.カキはクシガキ,ウメはウメボシに 加工されて保存食で,スモモ,ナシは生食さ れていたとみられ,ナシは「古川ナ シ」として売り出された.寒冷な山間部にはリン  ゴ,マルメロが分布(小山修三「『斐太後風土記』にみる江戸時代の食生活」)


1870年(明治3)
◇1 静岡県周智郡森町の次郎柿の原木,火災のため焼失.
 *その焼株から発芽した現在の木は1952年(昭和27),県の天然記念物に指定される.
 
◇8 東京青山南町の開拓使用地に官園が設置され,第一官園と称し,主として果樹園とし て使用.アメリカからのりんご,西洋梨,葡萄,桃,李(すもも),桜 桃,その他あら ゆる種類と品種を導入し,日本の風土への適応を試験し,良好な ものを漸次全国に普及 する方針であった.
◇9 民部省に勧農局設置(農林水産省百年史).

◇政府,ガルトネル兄弟の天領農場を買収し,七重開墾場(勧業試験場の前身)と改め,ブ ドウを栽培.
◇甲府の山田宥教(ひろのり),清酒醸造業者の詫間憲久(たくま・のりひさ)ら,ヤマブ ドウや甲州ブドウを原料としてブドウ酒を試作し,京浜地方で販売. 
 *真言秘教の大応院の法員であった山田宥教は発明好きで,ブドウ酒のほかに白墨や石鹸  など,新しい時代を象徴する品物の製造に熱中したといわれる(麻井宇介「日本ワイン  のプレヒストリー」〈vesta,22〉)

◇工部大学教師アメリカ人ライマ,日本で初めて果物類の自家用缶詰をつくる.  


1871年(明治4)
◇1 津田仙(1837.8.6~1908.4.23,天保8.7.6~明治41),築地ホテルを辞め,北海道 開 拓使の嘱託となる.この頃,横浜在留の米国領事からリンゴ苗木を譲り受け試植,オラン ダイチゴやアスパラガスも試植.
◇4 仮名垣魯文(かながきろぶん,1829~94,文政12~明治27),『牛店雑談 安愚楽鍋(あぐらなべ)』を著す.流行の新商売牛鍋屋を舞台に牛肉を礼讃.
 *江戸白金の名主堀越藤吉は食肉・製氷事業の先覚者中川嘉兵衛(1817~97,文化4~明 治30)の協力を得て,明治1年(異説あり)現港区新橋付近牛肉店を開業したが,牛肉の 販売だけでは利益が少ないので,牛鍋屋も始めた  これが東京最初の牛鍋屋といわれ  る.
◇4 現長野県松本市の百瀬二郎,山ブドウを原料としたブドウ酒醸造許可願いを,松本県 を通じて大蔵省に提出するが,不許可となる. 
◇6 政府,リンゴ苗木74種をアメリカから輸入し,東京の青山官園で栽植.       *これらの苗木は,北海道七重試験場で繁殖され,明治8,9年頃,新政府の手によって  苹果(リンゴ)の名で苗木が各県に配布される.
◇7 民部省勧農局が廃止され,大蔵省に勧業司が設置され,8月 大蔵省勧業寮となる.
◇9ー7 政府,作付制限を解除し,田畑勝手作りを許可.農民は自由に自分の作りたい果 物,野菜などを栽培できるようになる. 
□11ー12(新暦12ー23) 津田仙の満7歳の次女・津田梅子(1864.12.31 ~   1929.8.16,元治1.12.3~昭和4),欧米文化視察特別使節・岩倉具視大使一行に加わり,日 本最初の女子留学生5人の1人として米国に出発.
◇12 開拓使御雇教師米人ルイス・ベーマー(1841~1892),大量の苗木携えて来朝,東 京第2官園の園芸作物主任となり,リンゴの試作等を行う.
 *1882(明治15)年4月30日任期満了し,横浜で花屋を経営したが,1892年(明治25)病  気のため帰国し,死亡.

◇京都舎密局,リモナーゼ,ラムネ,ビール,氷砂糖を販売.  
◇この年発刊の吉田耕(識)『袖珍(しゅうちん)英和節用』(辞書)のfruitの訳語は「菓(くだもの)」.
◇この年発刊の日本薩摩学生 前田正毅・高橋良昭編『大正増補 和訳英辞林』のpineapple の訳語は「草の名またその実」.


1872年(明治5)
◇1ー2 開拓使顧問アメリカ人ホーレス・ケプロン〈67〉(1804.3.31~85.2.2 2),北海 道開拓に対する意見具申の中で果樹について触れ,北海道のみならず,日本全土が果樹  栽培に適していると述べ,特に,リンゴが最も推奨に値いするとして北海道及び本州移植 を進言. 
*開拓使はケプロンの提案を採用し,リンゴ75,西洋ナシ53,油桃(ネクタリン)5,スモ モ22,サクランボ25,ブドウ30,アンズ40,ラズベリー14,ブラックベリー5,スグリ8, 房スグリ10品種,合計251品種をアメリカから輸入. 
◇1ー24 太政官,僧侶の肉食,妻帯,蓄髪を許可.
◇1 明治天皇(1852~1912,嘉永5~明治45),肉食奨励のため初めて牛肉を食される. *明治天皇に牛肉を召し上がるようにおすすめしたのは大久保利通(1830~78)といわ   れる.
□1 福沢諭吉(1835~1901),『学問のすゝめ』を著わす.
□2ー1 戸籍法が施行され,初めて戸籍が編成される.
◇2ー15 土地永代売買の禁が解かれる.
□9ー13 新橋~横浜間に鉄道開通.
◇10 勧業寮,東京内藤新宿(現新宿御苑)に試験場を置き,外来作物の育成に乗り出  す.*内藤頼直の邸宅地を買収したもの.
□11ー28 全国徴兵の詔.
□12ー3 太陽暦を採用,この日を明治6年1月1日とする.

◇勧業寮,デラウェア(Delaware)をフランスから初めて輸入.
 *デラウェアは欧米両種の雑種.1850年頃,米国で発見された偶発実生.オハイオ州  デラウェアのトムソンにより命名されたので,この名がある.
◇津田仙(1837~1908),西洋リンゴ,アスパラガス,オランダイチゴ等を試植. 
◇文部省,肉食と牛乳飲用普及のため,国学者近藤芳樹(1801.7.5~80.2.29,享和1.5.25~ 明治13)に『牛乳考』『屠畜考』を執筆させ,食事の迷信打破につとめる.
 *県令(知事)が牛肉の効能を宣伝する.「牛肉の儀は,人生の元気を裨補(ひほ)し,  血力を強壮にする養生物に候……敦賀(現福井県)県令諭達」.
◇中川嘉兵衛(1817.3.1~1897.1.4,文化14.1.14~明治30),東京築地新富町に氷室をつく  り,函館の天然氷を売り出す.
◇実業家高島嘉右衛門(1832~1914,天保3~大正3),横浜に石炭瓦斯(ガス)製造所を設  立.「高島易断」の創始者. 
◇盛岡の士族,横浜慶行ほか2名,函館よりリンゴ苗木5本(垂玉1,大錆1,アストラカ ンルージ2,晩紅絞1)を求め,宅地内に栽植.岩手県リンゴ栽培の始まり.また,岩手郡 中野村の士族,古沢林,横浜でリンゴ苗木6種16本を求め,栽植したと伝えられる.     
◇明治維新後,ハワイ群島からバナナが輸入されるようになり,この年刊行の寺小屋の教科 書『頭書註解,商家日用新語』に,「……石榴・仏手柑・無花果・芭蕉実等時々珍味可  無際限也」と記す.

◇神奈川県足柄下郡小竹(現小田原市)小沢富右衛門,武州安行(現埼玉県川口市)よりミ カン苗木を購入し,栽培を始める(『神奈川県柑橘史』).

1873年(明治6)
◇1 外国産果樹の種苗を各県に配布する旨各省に廻達.種苗の配布事業の始まり.
  
◇6 開拓使第壱官園,『西洋菓樹栽培法』『西洋蔬菜栽培法』を刊行.
 *果樹に菓樹の字が用いられる.『西洋菓樹栽培法』は木版刷,和装幀32p,定価8銭.

□7ー28 地租改正条例を公布.
 *地租改正の概要
 (1)地券を交付し,農民保有地に対する私的所有権を承認.
 (2)課税基準を収穫量から地価に改め,税率は地価の3%(改正反対の農民一        揆が各地に頻発し,明治10年2.5%に低減).
 (3)物納を廃止し金納とし,納税者は耕作者から地主に改められる.

◇現山梨県勝沼町出身の小沢善平(1840〈天保11〉生,カルフォルニア留学1868~73),東 京の谷中,高輪に米国から持ち帰った種苗の増殖販売を行う小沢葡萄園(「撰種園」と号 した)を開園,後に,群馬県妙義山麓に移転. 
      
◇岡山県小田郡今井村(現笠岡市広浜)の渡辺淳一郎(1858~94,安政5~明治27),徒歩 上京し,三田勧業寮から配布された樽屋桃の苗木6~9本を持ち帰り,モモの栽培をはじめ る.岡山県モモ栽培の始祖.その後,カキ,ナシ,リンゴ,ブドウ,夏カン,オリーブな どを栽培.
 *渡辺淳一郎は岡山県で傾斜地を利用した大規模果樹経営(明治16年17町歩)の最初の成  功者といわれる.          
 
◇pineappleの訳語……鳳梨(アナナス)の類【柴田昌吉・子安峻同著『附音挿図 英和字  彙』(日就社)】.
◇流行歌「坊さん頭」(坊さん頭に真桑瓜)はやる.

 
1874年(明治7)
◇1ー9 内務省に勧業寮を設置.   
◇5~6 内務卿大久保利通,殖産興業に対する考え方を,この頃,起草された「殖産興業 に関する建白書」で明らかにする.海外からの果樹品種の導入もこの政 策の一環として 強力に推進されたものと思われる.
 *これによれば,「大凡国ノ強弱ハ人民ノ貧富ニ由リ,人民ノ貧富ハ物産ノ多寡ニ依ル,  而シテ物産ノ多寡ハ勉励スルト否サルトニ胚胎スト雖モ,其源頭ヲ尋ルニ未嘗テ政府ノ  誘導奨励ノ力ニ依ラサルナシ」と主張し,殖産興業の必要性を強調.
◇5 ウィーンの万国博覧会から帰朝した津田仙〈36〉(1837.8.6~1908.4.23,天保8.7.6~ 明治41),オランダの園芸家ホイブレンクの口述した『Method of  Cultivation,    Explained by Three Different Processes』を訳述し,『農業三事』(上下2巻)と名づ けて刊行.*木版刷,和装幀,上巻23p,下巻23p 古書価格(東京)1995年(平成7)5 月1万3千円. *内容は明治2年の津田仙と果樹を参照.


◇6ー23 北海道に屯田兵制度を設ける.
◇7 岡山県,岡山区門田屋敷(かどたやしき,現岡山市)の丹波,石津,一森三氏の屋敷2 反歩を借入れ,蔬菜果樹の試験場として順致園を設け,勧業寮から払下げのモモ,ブド  ウ,イチジクなどを試植.  岡52
◇8ー18 医制(医療・医学)が公布され,食品衛生の事項も定められる.
◇8 内務省勧業寮,東京三田四国町元島津氏邸跡地約4万坪を買収し,内藤新宿 勧業寮 出張所付属試験地(後の三田育種場〈明治10年9月30日開業〉)とする. 
◇9 米価,明治3年以来の高値を記録(石当たり8円20銭).   
◇10 内務省勧業寮,果樹苗木11種を試作依頼する旨,各府県に通達. 
◇11ー27 岩手県令・島惟精,内務省勧業寮にモモ,ナシ,ブドウ,桜桃など11種の苗 木配布を申請.

◇内務省,東京・京都・大阪に司薬所を設置し,食品分析,衛生検査を開始. 
◇青森県弘前の東奥義塾教師アメリカ人ジョン・イング(1840~1920.6.4),リンゴの苗木を アメリカより移植.    72
 *リンゴ品種「印度」はジョン・イングの名前がなまったとも,あるいはアメリカのイン ジアナ州から送られてきた種子にちなんで命名されたともいわれている.
◇勧業寮,旧長野県へモモ,リンゴなど11種30本,筑摩県へモモ,リンゴなど11種33本を配 布.  
◇長野県更級郡真島村(現長野市)で,洋種リンゴを試作.   
◇開拓使,札幌本庁構内の5万8,500余坪を果樹園とし,東京から内外国種の梅,桜桃,スモ モ,アンズ,リンゴなどを移植.  さ
◇開拓使の土木請負人として知られる札幌の水原(すいばら)寅蔵(1818.2.5~99. 4.18,文 化15.1.1~明治32),後の中島遊園地付近に北海道における民間第一号の果樹 園を造成 し,米国から輸入したリンゴ,ナシ,その他の果樹を栽植.
 *特にリンゴは美味で「水原リンゴ」として好評を博した.明治20年刊行の『札幌繁栄  図録』に「水原林檎園」の図が掲載されている.
◇パンの文英堂,木村屋と改名し,木村屋総本店,銀座洋風街に進出.













江戸時代(6)  1840(天保11)~67(慶応3)

2010-06-02 11:44:53 | weblog

1840(天保11)
◇『諸国産物大数望(すもう)』に出てくる果物,駿河のミカン,飛騨の搗栗,安芸の西条柿,紀伊のミカン,美濃つるし柿,丹波のクリ,山城宇治のころ柿,豊後のウメなど, 全国に銘産品として知られる.

1841(天保12)
◇幕府,「初物その他無益の売物相仕込みの儀相ならず」の禁令を出す.

1842(天保13)
◇水戸藩第9代藩主徳川斉昭(なりあき,1800~60,寛政12~万延1),自ら造園計画の構想を練り,梅を中心とした「偕楽園」を開設.名称は『孟子』の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ,故に能(よ)く楽しむなり」に由来.
 *「偕楽園」は全国有数の梅の名所として知られ,春には100種3千本の梅が咲き誇   る.大正11年3月8日に史跡名勝に指定される.
◇平戸藩主松浦曜(てらす),長崎に赴いた折,ブンタンを献上される.この種子から生じた偶発実生が平戸文旦といわれる.

1843(天保14)
◇この年刊行された伊勢貞丈(1717~84,享保2~天明4)著『貞丈雑記(ていじょうざっ き)』に,「菓子の事は,いにしへ菓子といふは,今のむし菓子干菓子の類をいふにあらず,多はくだ物を菓子と云也,栗,柿,梨子,橘,柑子,じゆ(ゅ)くし,木練柿(コネリガキ)などの類」と記す.
 *本書は,貞丈が子孫のために,1793年(宝暦13)から死に至る84年(天明4)  まで書き続けた雑記を編集したもので,没後60年を経て刊行された.
◇現千葉県市川市八幡(やわた)の八幡ナシのこと,深河元儁著『房総三州漫録』(房総叢書所収)に,「八幡梨を持出して多く売る。是は市川の通りの八幡村の名産なり。(中略)市川以徃は大方沙地(すなじ)にして梨園多し。結実頃は渋紙の袋を一々にか けたり」と記し,袋かけが行われていたことがうかがえる.

天保年間(1830~44)
◇ハワイから小笠原にバナナがもたらされる.
◇肥前(長崎県)の茂木町北浦(現長崎市茂木)の三浦嘉平次の妹・おし又シオ輪または, 長崎代官所に奉公していたとき,清国船が持参したビワの種子をもらいうけて栽培.茂 木ビワの始まりという.
 *在来種とちがい,年を経るにつれて果形美大,品質佳良となり,ビワの品種改良の端  緒が開かれる.
◇この頃刊行された随筆『昔々物語』に,「むかしは,西瓜は,歴々その他小身ともに食ふことなし。道辻番などにて切売りにするを,下々仲間など食ふばかりなり。町にて売りても食ふ人なし。女などは勿論なり」とあり,ではじめの頃の西瓜は,江戸ではあまり品のよい果物ではなかったようである.

1844(天保15・弘化1)
◇初春 大蔵永常(1768~?,明和5~?),『広益国産論』を著わし,国の特産品になりうる品々として,果物では,ミカン,ブドウ,カキ,ナシをとりあげ,台木や接ぎ木の仕方について図解をして解説.
 *ミカンについて,「みかんハ紀州ニて多く作りて三都(=江戸,京都,大坂)に出して商ふ事一ヶ年ニ百五十万籠といへり。是は暖国の産物也」,ブドウについて,「ぶどうハ甲州より作りて多く江戸へ出して商ふ事おびたゞし。わづかの屋敷内ニつくり  ても相応に益となるものなり」,カキについて,「かきハよく作り出せバ其所の名産  ともなる也。烏柿(ひかき=渋柿の皮をむいて干したもの)にあらざれバ利を得るに  は至らず」,ナシについて,「美濃の国にて作り出して諸国にひさぐ事おびたゞし。  多く作れバ所の名産ともなる也。近来江戸在にて作りいだし利を得る事少なからず」  「いつの頃よりか此苗を下総国古河(現茨城県古河市)に植広め,作りて江戸へ出   (いだ)せしより古河梨とて賞翫せしを,寛政前後に品川河崎の在に植広め,所の益  となる事又夥(おびただ)し。かやうなる水菓子ハ,都会に近き所にあらざれハ売口  すくなくして,大益とハなるべからず」と記す.

◇この年刊行の岡田啓,野口道直撰『尾張名所図絵』に筏川畔の桃林の絵図あり

1845(弘化2)
◇オランダ船,パイナップルの種苗を日本本土に初めてもたらす.

1846(弘化3)
◇9ー22 紀州家,紀州藩産のミカン揚場として,江戸神田川稲荷河岸に84坪の地所 を拝借(『中央区年表』).
◇現愛知県知多郡南知多町内海の大岩金十郎,紀州から温州ミカンの苗木を導入.内海ミ カンの基礎を築く.
 *庄屋を務める金十郎は,貧しい農村を救うべく,ミカン栽培に取り組むが,村人から  は蜜柑狂庄屋と嘲笑され,迫害を受けながら栽培に専念.金十郎の苦闘の取り組みは  澤田ふじ子によって小説化された『蜜柑庄屋・金十郎』に詳しい.

1847(弘化4)
◇東都花隠老人編に,江戸を中心として栽培されているカキの品種として,代々丸,禅寺 丸,キザハシ,霜丸,大和柿,衣紋,鶴ノ子,蜂屋,渋柿などをあげる。

◇弘化年間(1844~47)甘ガキの品種「次郎」,遠州森の石松で有名な現静岡県周智郡森 町で松本治郎吉(1813~87,文化10~明治20)によつて発見される.次郎柿と呼ばれる ようになる.
*治郎吉が太田川の堤防の普請に出役した時,大水の後,寄せ州に流れついていたカキの 幼木を見つけ,自宅の井戸端に植えた.数年後にこの木が成長し結実,非常に美味であった.このため,近隣の人から「治郎柿」と呼ばれ,何時の間にか「次郎柿」になった という.
*1892年(明治25)頃,雑誌に公表されたのがきっかけとなり全国に普及.1908年(同41)から献上されている.原木は1870年(明治3)1月火災のため焼失したが,後に新芽を出した柿の木は,現在では町有となり,県の天然記念物に指定されている.

1848(嘉永1)
◇この年刊行の岡本尚謙(遜・桂園)著『桂園橘譜(けいえんきつふ)』に,温州ミカンが温州橘(一名李夫人橘)の名で図解される.これまでは正確な記録がなかった.温州 蜜柑の条に「筑後柳川に橘あり,即ち温州橘,伝えて往昔豊太閤朝 鮮陣の時持帰りし種の由云えり,実に然るか否かを知らずと誰も今処々に繁衍(はんえん=繁殖すること) して実を結ぶ,大さ九年母の如し,其味美なること蜜 柑よりも優れり,土人或は之を 李夫人橘とも云へり」とある.*写本は,国会図書館,東大,東北大などに所蔵.

1849(嘉永2)
◇徳川幕府の職員録『武鑑』に,
   御水菓子屋   三河屋五郎兵衛   神田須田町
   御菓子師    大久保主水     白銀町2丁目路次
           長谷川織江     飯田町坂下
           桔梗屋主膳     本町1丁目
 とあり,果物と菓子とが営業の上でも,文字の上でも区別されるようになる.これは, 安永2年(1773)版の『武鑑』にも載っているので果物が菓子と水菓子とに区別される ようになったのは江戸時代中ごろ以降とみられる(『菓子概論 上篇』).
◇絵本『浪速十二月画譜』にミカン売りの絵あり(『江戸物売図聚』).

1851(嘉永4)
◇この年刊行の大森快庵著『甲斐叢記』(甲斐名所図絵)に,柿(御所,蜂屋,百目,妙丹),梨の実の絵や「甲斐の八珍果(別名甲州八珍果)」の絵あり.
 *甲州八珍果として, ブドウ モモ ナシ カキ リンゴ ザクロ クリ ギンナン  が挙げられており,いずれも落葉果樹である.
 *モモについて,「桃樹多し,其の実最も甘くして名産なり」として一町田中村?(現山梨市)の名が記されている.

1853(嘉永6)
◇喜多川守貞(1810~?),『守貞漫稿(もりさだまんこう)』を著わす.
 *『後集巻一 食類』の菓子の項に「古ハ桃,柿,梨,栗,柑子,橘ノ類ノ,凡テ菓實ヲ菓子ト云コト勿論也,今世ハ右ノ菓實ノ類ヲ,京坂ニテ和訓ヲ以テクダモノト云, 江戸ニテハ水グワシト云也,是干菓子,蒸菓子等ノ製アリテ,此類ヲ唯ニ菓子トノミ云コトニナリシヨリ,對之テ菓實ノ類ハミヅ菓子ト云也」と,京坂では果物,江戸 では水菓子と呼んでいると記す.
 *枇杷葉湯売(びわようとううり)の挿絵が解説付きで掲載されている.枇杷の葉を煎  じて作った飲料は薬用として重宝がられた?.

◇嘉永年間(1848~54),甲斐国五明村(現?)の望月源太郎,医学修得のため長崎に赴き,帰途の際スモモを持ち帰り,落合村(現南アルプス市,旧甲西町落合)の福沢富蔵によって栽培される.山梨県におけるスモモ栽培の始まりという.
 *現在,山梨のスモモは全国生産量の3割強を占め,全国1位で,ブドウ,モモに次ぐ  山梨県3大果実である.

1854(嘉永7)
◇10ー15 和歌山藩の御仕入方,江戸でのミカン販売を直接支配しようとしたが,有 田郡下の生産者の反対にあい,失敗に終わる.

1856(安政3)
◇大坂町奉行・久須美祐雋(くすみ・ゆうせん,1796~1864)著,『浪花の風』に大坂の果物について,「果もの類の内,枇杷・桃は見事にて且多く,江戸にも優るべし。梨子は少しあれども,石なしといへるものにして至つて,中々江戸人の口には適ひ難く,江戸にて淡雪と呼ぶものの如きは,絶えて有ることなし。それ故梨子といふもの絶えて無きにあらざれども,なきも同様なり。栗・柿多くあれども,江戸の如く種類多からず。栗は大きにして見事なるものも,大味にして美ならず。柿西条柿第一とす。これはよろし。その余は江戸に及ばずかつ樽へ詰めて渋気を抜くことは絶えてなし。それ故多くは 堅き柿のみにして,老人など歯の 悪(あ)しきものは食ひ難し。葡萄は替ることなし。 棗(なつめ)は至つて多く,土産のもの実大にして味ひよろしく,中人以下専ら嗜むも の大子多し。栗柿よりも多し。江戸にはなきことなり。」と江戸との対比で述べている. 
1857(安政4)
◇アメリカ公使,江戸芝増上寺にリンゴの苗木3本を贈る.寺はこれを津軽の平野清左衛 門に贈り栽培さす.
◇十返舎一九(1765~1831),『甲州道中膝栗毛』の中で,勝沼ブドウ郷の盛況ぶりを絵いりで紹介.
◇現茨城県筑西市(旧真壁郡関城町)で,日本ナシが県下で初めて栽培されたと伝えられる。*1994年(平成6年)の茨城県の日本ナシ生産量は4万3,900トンで,全国の10.5%を占め,鳥取県に次いで全国第2位.関城町の生産量(平成5年)は全国市町村中,第5位.

1859(安政6)
◇大蔵永常(1768~?,明和5~?),『広益国産論』に梅干の製法が詳細に記す.
 *梅干が一般に普及しはじめたのは近世の後期以降からで,全国的に広く食されるよう  になったのは明治以降といわれる.

◇安政年間に,広島の因島(現因島市)でブンタンとカボスの交雑したものとみられる「安政柑」,偶発実生として発見される.果実は球形で1果重600g内外と大型,果面・果肉ともに黄色,食味良好.
 *2~3月に因島,隣の生口(いくち)島(現尾道市,旧瀬戸田町)で収穫期の安政柑をみることができる.平成5年2月下旬1個,200~500円.
◇安政年間に,大村藩西彼杵郡伊木力村(現長崎県諌早市,旧多良見町)で,温州ミカン の栽培が本格化する.後に「伊木力(いきりき)ミカン」と呼ばれるようになる.

1860(万延1) 
◇3ー5 日米修好通商条約批准交換の任務をおびた一行77名,ハワイで椰子やバナナの 実っているのを一見したのみならず,食後に出されたバナナを食べ,その美味なのに驚く.◇遣米使節に随行した玉虫左太夫(1823~69)の『航米日録』に「バナナと云ふ,我国の芭蕉実なり」とある.
◇広島の因島(現因島市田熊町)の恵日山淨土寺の住職・恵徳上人,境内に古くからあった実 生樹の偶然実生としてハッサクを発見.淨土寺の境内に「八朔発祥の地」の石碑がある.
 *旧暦の八朔(8月1日頃)から食べられるということから,発見者の上人によって,  1902年?1886(明治19)の説あり(日経9.2.16),八朔の名が与えられた.上人はこの  珍しい果物を八朔の日に檀家に配って賞味したという.ところが,実際の食べ頃は2  月から4月までであるので,なぜこのような名前がつけられたか,わかっていない.  因島では平成3年現在230ha栽培されており,3,100トン生産されている.因島市で  はハッサクを市の木として街路樹に用いている.
 *ハッサクはかつて瀬戸内海を根城としていた倭寇が,南海から持ち帰った珍果の種か  ら生まれたのではないかともいわれる. 

◇岡山の足守藩主木下利恭(としやす),領民の窮状打開のため,藩業としてナシ栽培を 企画し,上州(現群馬県)からナシ栽培の名手・関口長左衛門(1783~1856)を招へいし, 栽培指導に当たらせる.

1862(文久2)
◇越前福井藩主松平慶永(1828~90),アメリカからリンゴの苗木を輸入し,江戸巣鴨の別邸に栽植.
◇小笠原諸島移民団の介添医として同行した阿部喜任(1805~70,文化2~明治3),『南岐行記』にバナナのことを初めて記述.
 「始めて芭蕉の実を食せり.味甘くして液なし.遠州辺にてダイダイを食うが如し.バナナト云う.パインアップル又アナナス,梨子と柑子を合せ食するが如し.南島の美 果なり」.*著書に『草木育種』『絵入英語箋階梯』がある.

◇この年発刊の堀達之助編,堀越亀之助補『英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書』に掲載の 訳語「fruit……果実,apple……林檎」.

1863(文久3)
◇物産会においてフランスの蔬菜,樹木の種子を下種.
◇3 岡山の足守藩主木下利恭(としやす),上州(現群馬県)関口長左衛門のもとに,福田亀蔵,大月市之助,田口作次郎をナシ栽培方法を習得させるため出向させる.

1864(文久4)
◇この頃,フランスのクラウドブランセー(Claude Blanchet),西洋ナシ「ラ・フランス(La France)」を発見(『原色果実図鑑』).
 *わが国への導入はバートレットより遅れ,明治中期以降といわれている.現在,原産  地のフランスではほとんど栽培されていないという.
◇文久年間,フランスから購入したオリーブ苗木を現神奈川県横須賀にわが国で初めて植 える.

1865(慶応1)
◇岡山の足守藩主木下利恭(としやす),領内5ヵ村5町歩にナシ40~50本を植栽,岡山県の本格的な果樹栽培の始まりといわれる.
◇温州ミカン,伊予国宇和郡立間村(現愛媛県吉田町)に兵庫?から導入される.   
◇藤瀬半次郎(半兵衛),長崎で外国人商人からラムネの製造を学び,わが国で初めてレ モン水と名付けて製造販売したといわれる.
 *ラムネの名称はレモネード(Lemonade)の語尾が消え,レがラの発音に聞こえて「ラムネ」になったという.
 *半次郎が日本人として初めてラムネを造ったといわれる年から100年目に当たる1965  年(昭和40)5月に,全国清涼飲料工業会が「清涼飲料百年祭」を行った.

1866(慶応2)
◇春,幕府蕃書調所の田中芳男(1838.9.27~1916.6.22,天保9.8.9~大正5),福井藩主松平慶永の江戸巣鴨邸にあるリンゴの木から穂木をとり接木.わが国初の西洋リンゴの接木といわれる.
 *田中芳男は殖産興業の推進者.博物学者.田中ビワの育成者.天保9年,信州飯田の  久々利陣屋の典医の3男に生れる.幼少の頃より父に「人たる者,この世に生れたか  らには自分相応の仕事をして世用を済さねばならない」と常に教え諭されたという.  1856年(安政3),名古屋に出て,本草学者・伊藤圭介(1803~1901)に師事し,本草学を学ぶ.1862年(文久2),外国文献の翻訳,洋学研究のために開設された幕府の蕃書調所に伊藤圭介の助手として出仕し,蔬菜・穀物・草花等輸入種子の調査を行う.
◇俳人・霞江庵翠風(かこうあん・すいふう)の『甲州道中記』に,勝沼宿で画いた「ぶ どうの砂糖づけ」の図あり.

1867(慶応3)
◇10月 幕府蕃書調所にアメリカからリンゴ果実が届き,所員ら試食.




 

江戸時代(5)  1801(寛政13・享和1)~38(天保9)

2010-06-01 11:44:03 | weblog

1801(寛政13・享和1)
◇寛政年間(1789~1801),美濃国加茂郡上蜂屋村(現岐阜県美濃加茂市)では,枝柿
1万6千個,太白(たいしろ)柿1万5,6千個を産し,慶長以来将軍家に毎年献上する御用柿のために柿見役,柿庄屋がおかれた.
 *上蜂屋村のように,柿の実を上納することによって,村の課役を免除されるところが  あった.柿に課税された税を「柿木役(かきぎやく)」といい,柿の収穫が減っても軽減されないのを普通とした.『地方凡例録ー五』に「一柿木やくも古へより小物なりにて,かきの木の有無かかはらず,小物なりの目名となりてをさむ」とある.  

1803(享和3)
◇明治初年に初めて柚餠(ゆうもち)をつくったといわれる菓子司「鶴屋」,京都北船橋に創業.*随筆『一話一言』(1779~1820頃)に「柚餠。壱斤に付代拾匁」とある.
◇本草学者・小野蘭山(1729~1810,享保14~文化7),日本本草学の集大成たる『本草綱目啓蒙』48巻を著わし,25~30巻で果物をとりあげる.
 *当時,最も多く食べられていたカキについて,「品類多シ。和産二百余種アリ」と記  し,大和ガキ,蜂谷ガキ,祇園坊など主要な品種について解説.また,ナシの項で,越後新潟産の牛面(ごめん)ナシ(形が大きいため名付ける),丹後田辺の一升ナシ(一顆に水一升あり),斤九ナシ(顆の重さ一斤九両)など珍しいナシも紹介.ミカンについては,蜜柑の字は使用していないが,「柑 ミカン〔一名〕洞庭長者 平蔕  穣侯 金嚢 瑞金奴 瑞聖奴 金輪藏 洞庭霜 甘心氏 木密 水晶毬 金苞青華   朱実 楚梅 柑ハミカン類ノ総名ナリ。品類多シ。ミナ暖地ノ産ニシテ寒国ニハ育シ  ガタシ。紀州ノ産ヲ上品トス。ソノ献上ノ柑ハ有田ノ産ナリ。京師ニテハ好柑ヲ何レ  ニテモ皆紀伊国ミカント偽リヨベドモ,真ノ紀伊国ミカンハ有田ノ産ノミニシテ,即,  集解ノ乳柑ナリ。中略。味甘シテ酸味少シ。核少ク全ク核ナキモノモアリ。凡ソ上品  ノ柑橘ハ核ナシ。核多キモノハ下品ナリ」とあり,紀州ミカンの評価は定着していた  ようである.
 *本書は約1万語にのぼる方言を収集しており,方言研究の上でも貴重な資料となって  いる.
      
1804(文化1)
◇滝沢(曲亭)馬琴(1767~1848)著,『燕石 志(えんせきし)』に,奥羽秋田に「犬殺し」と異名をとる大きなナシがあることを記す.
 *「ある書に,犬ころしといふ梨子は,その大なるもの周一尺四寸,北国に多し。奥羽  秋田の産,他州に倍す。狗(いぬ)樹下にありて梨子落ちこれにあたるときは忽ち死  す。故に名づくといへり。この名もまた聞こえよからず。梨子は食物なり。あたりて  殺すといふ義をとりて,名とすることゆゝしからずや」.
◇黄表紙『栄花男二代目七色合点豆』に「桃売り」の絵(北尾重政画)あり.
 「桃売りの 来る頃雛の 土用干し」  武玉川 

1810(文化7)
◇江戸近郊のナシの名産地として知られる下総の八幡〈やわた〉(千葉県市川市)の八幡ナシのこと,『葛飾誌略』に,「八幡梨として名物なり,近年他の村々にも夥しく梨子を植えて江戸へ出す。其の植え始めし人は此の村の川上氏なり。甲府濃州?などへ立越 え,最上の穂を得て帰り,接穂してより段々諸村へ弘まりしという。経済に賢き人也。或人云ふ梨子,林檎の類は人家近く食烟かからざれば実結ぶこと薄しと。此梨子を始め たる川上某は真実にして孝子也」と記す.
 *上記の川上氏は村の指導的立場にあり,村の振興作物を探していた川上善六(1742~  1829,寛保2.1~文政12.8)で,明和6年(1769)8月15日,鎮守葛飾八幡の祭りに一 冊の古書・季太白の詩集『梨花白雪香(りかはくせつか)』を入手し,これにより梨を思いつき,寝食を忘れて梨の研究に没頭し,美濃地方から接穂を持ち帰り,八幡宮の境内に植樹し,八幡(市川)ナシ栽培の基礎を築く.その功績を後世に伝えるため,大正4年(1915)1月,市川市八幡4丁目の葛飾八幡宮境内に「川上翁遺徳碑」が建立された(総武線本八幡駅下車徒歩10分).現在も市川市は有数のナシ産地である.

1811(文化8)
◇この年発刊の『紀伊国名所図絵』に,「蜜柑山畑之図」あり.
 *この絵をもとに,3代目広重が1877年(明治10)発刊の『大日本物産図会』に「蜜柑山畑之図」を描いている.

1814(文化11)
◇この年発刊の本木正英等編訳『諳厄利亜(あんげりあ)語林大成』】に掲載の訳語.
「fruit……実子,菓物,菓実.lemon……枳,カブス,カラタチ.
dessert……三薦(さんせん),饗宴第3番の食薦また餅菓」.

1816(文化13)
◇スダチのことが,地誌『阿淡産志』(文化13~明治5年成立)に「宜母子」の名で紹介 される.

1817(文化14)
◇「成木責(なりきぜめ)」(果樹の豊熟を予祝する小正月の呪術的行事)のことが,『三河吉田領風俗問状答』に紹介される.節分に「果樹の実をむすびかぬるあれば,此日のうちに縄にて縛り置て黄昏に至て,此木を伐り倒すと云て,罵りつつ鋸(のこぎり)斧(おの)など持て,祖其木の下に至て,頻りに罵るなり.その時隣家或は常に来る人など,この罵る所へ来て,鉈(なた)ごとをする也ーー然れども容易に聴かず,猶罵りつつ,根の所へ疵(きず)のつくほど斧をあてなどす.ーー(すべてのさま小児のしつけなどのごとし)」とある.

1818(文化15・文政1)
◇岩崎灌園(常正)(1786~1842,天明6~天保13),この年発刊の『草木育種(そうもくそだてぐさ)』に,現在の接ぎ木法とほとんど変わらない技術が,挿絵つきで紹介.また,ナシについて「甲斐・相模・下総等」にて多作,砂まぢりたる真土よし」と記述するなど産地状況を紹介.

◇文化年間にできた村田了阿の『市陰月令』に江戸市中に流れていた食物振売りの各月毎 の売声を紹介.
 *「〇6月,真桑瓜,越売,丸漬売,西瓜,夏桃よぶ声いづれ暑し.…….〇7月,此  頃須田町辺,瓜,西瓜などさかん也.…….〇8月14日,枝豆売るも哀れなり.蛤  (はまぐり)売も3月の如く陽気にあらず.葉薑(はじかみ)売,鰌(どじょう)売,  梨子売,柿売,初鮭売,紫蘇(しそ)売さびし.…….〇9月6日7日頃,須田町に  て柿の市を見る.〇霜月(11月)干海苔売の声めでたし.こは早春むねと売る物故,  春めきて聞ゆ.冬菜売る声も少し春の心地す.蜜柑売も同じ.
 
1820(文政3)
◇3 津田大浄の紀行文『遊歴雑記』に,現千葉県松戸市の松戸,小金間の水戸街道両側 に梨の木がおびただしく植えられているとの記述あり「松任(松戸)の駅を出はなれて より街道の両側に梨の木を植る事夥し,みな棚を作りて枝を撓(たわ)めしに,此節花 盛にて最見事也.凡(およそ)通り筋弐里斗(にりばかり)の間,庭に背戸(せと)に 梨の木ならずいう事なし,頓(にわかに)て申(さる)の刻る頃小金の駅にいたる」

◇この年,18世紀の初期,オランダ,ドイツ,フランス,イギリスなどで栽培されはじ めたサクランボの品種に,ベルギー人が「ナポレオン」と名付けたと伝えられる.

1822(文政5)
◇江戸屈指の料亭八百善の主人・八百屋(栗山)善四郎(4代目,1768~1839)の著作『江戸流行料理通(初編)』に,「菓子といふは,砂糖にて製たるものにあらず,菓子はくだ物也,四季の木實,草實をいふ,料理の終りに出すは,料理の厚味魚鳥を食し,食熱をさますため也,料理にかゝはりたるにはあらず,後に工夫ありて作れる也」と,果物のデザートとしての役割を述べている.
 *『江戸流行料理通(1~4編)(1822~35)』は,版を重ね70年間ロングセラーとなった.

1823(文政6) 
◇江戸の雑俳句(柳樽七六)に,「水菓子を 三つ盗んで 長生きし」
 *数少ない「水菓子」の用例.

1824(文政7) 
◇この頃,信濃国小布施で栗羊羮を創製.
◇岩崎灌園(常正)(1786~1842,天明6~天保13)の『武江(ぶこう)産物誌』に,江戸付近で生産される果物(産地名)として,「まくわうり(鳴子村・府中),西瓜(大丸・砂村),梅(杉戸),梨(川崎・下総八幡),林檎(下谷・本所),くわりん(草加・下谷),柿(草加・赤山),びわ(岩槻・川口)」をあげ,これらの果実は大消費地江戸に出荷されたと記しており,当時の江戸への供給域をうかがうことができる.

1826(文政9)
◇4ー13(5ー19) シーボルト(1796~1866),江戸から京都への帰り旅の途中,鶴見のナシのことを紀行文に書く.「鶴見や生麦の村々では,去年のナシの実をうまく保存して売っていた。ナシの木はここでは,机の形をした格子垣はわせた独特の方法でつくられている」(斉藤信訳『江戸参府紀行』).
◇上方の雑俳句(腕くらべ)に,「すっぱりと みかん蒔く日の 男前」.
 *「鞴祭(ふいごまつり)」を詠んだもの.上方(京坂)でもふいご祭にミカンが用いられたことがうかがわれる.→1685
◇遠江国(静岡県)三保村の名主柴田権左衛門,漂着した清国寧波の船得泰号の船長楊嗣 元から数粒の珍しいキンカンの実をもらう.この種子をまいて育成したのがネイハキンカン(寧波金柑).
 *現在,日本で主に栽培されているのは,このネイハキンカンとナガキンカン(長金柑)  の2種類.

1827(文政10)
◇この年亡くなった小林一茶(1763~1827)のミカンの句.
  上々の みかん一山 五文かな

1828(文政11)
◇間宮士信等編『新編武蔵風土記稿』に「柿・禅寺丸と称して,王禅寺村(現神奈川県川 崎市王禅寺)より出るもの尤もよしとす。今はそこにもかぎらず,おしなべて此辺を産とす。村民江戸に運びて余業とせり。その実の味すぐれて美なり,……」と記す.
 *池上本門寺の御会式(10月12日)は,禅寺丸柿の出荷の最盛期で,枝柿の禅寺丸  は江戸っ子に水菓子としてもてはやされたという.

1829(文政12)
◇越後の本間屋,柚餅子(ゆべし)をつくり始める.

1830(文政13・天保1)
◇7 ネサルセーボン,小笠原の父島にパイナップルの苗をもたらす.
◇考証学者・喜多村信節(のぶよ,1783~1856,天明3~安政3),百科事典『嬉遊笑覧』 を著わす.論述の正確さ,厳正さにおいて江戸時代の類書の中で最も卓出しているとい われる.飲食の風俗考証にも多くを費やす.
 *『十巻上飲食』の菓子の項に「古へ菓子は木の實の外には,からくだものとて,…」◇上州(現群馬県)の関口長左衛門(1808~72,文化5~明治5),現前橋市下大島町が古
 利根川の砂礫質の河床で普通の作物の耕作に適さないことから,研究の末,不良土壌を 有効に利用してナシ栽培を始める.その後「大島梨」として栽培農家が増え,地域の代 表的特産品となる.
 *長左衛門はナシ栽培の実績を買われ,岡山の足守藩主木下利恭(としもと,1832~90)  から,ナシ栽培を藩業として振興させるため招へいされた.また,伊勢(三重県)から も招かれて,技術指導を行う.著書に品種名や品種の特徴を記した『家伝書』がある.
◇岩崎灌園(常正)(1786~1842,天明6~天保13),『本草図譜』(全72冊)を著わし,果部57~72冊に,色彩つきの見事な自筆本.林檎には「りんきん」の振り仮名あり,紀伊国みかんの説明に「形大にして皮厚く,肌は粗にして柔く,肉の味ひ甘味也」とある.また,温州みかんとみられる洞庭柑には,「筑後の柳川候が朝鮮から李夫人橘 を持帰り,その実は扁平で皮薄く肉の味甘く核少なし」とある.
 *国立公文書館(東京都千代田区北の丸公園)で1879年(明治12)購求の本書を閲覧することができる.
◇この頃,大坂浪花の東本願寺の難波別院付近の穴門で,西瓜を売る店が,参拝者や涼を 求めて西瓜を食べに来る人でにぎわう.酒脱な絵で知られる仙崖(1750~1837)の絵が 残っている(『花の下影』所収).

1832(天保3)
□天保の大飢饉(~37)始まる(近世三大飢饉の一つ).冷気,長雨に加え,水害,病 虫害が発生で収穫皆無の地域が多数出現,特に奥羽地方では餓死者続出.
◇佐藤信淵(1769〈異67〉~1850)著『草木六部耕種法』に,カキの代表的種類または品 種として,紅柿(ゴショガキ),方柿(ハチヤ),醂柿(サハシ),青?(シブガキ),君遷子(マメガキ)をあげる.

1834(天保5)
◇武蔵国埼玉郡千疋の郷(現埼玉県越谷市千疋)で槍術の指南をしていたという侍が,江 戸日本橋近くの葺屋町(現中央区日本橋人形町3丁目)に「水菓子安うり処」の看板を 掲げ,果物と蔬菜類を商う店舗を構える.出身地の名前をとって,千疋屋弁蔵と名乗る.千疋屋の始まり.64年(元治1)2代目文三が店を継ぐ.

◇江戸近郊のナシの名産地として知られる下総の八幡(現千葉県市川市)の八幡ナシのこ とが斎藤月岑(1804~78,文化1~明治11)の父祖3代の『江戸名所図絵』に,梨園(なしその)と題し,「真間より八幡へ行く道の間にあり,2月の花盛りは雪を欺くに似たり,李太白の詩に,梨花白雪香しと賦したるも諾なりかし」とあり,高下駄をはいた女性がナシをもいでいる絵が掲載されている.

◇江戸の雑俳句(柳樽一二三)に,「淡雪を 不二形(なり)に積む 水くゎし(菓子)や」とある.
 *「淡雪」はナシの品種名,みずみずしく,雪をかむのに似ていることからつけられた  という.

1835(天保6)
◇スダチのこと,国学者・神官・永井精古,『阿波国見聞記』に,「此国に酢だちという果あり,他の国にあるなし,吾大麻神の山見ゆる所ならではおいざるよしいひ伝えたり,されど讃岐などにも希にあるなり」と記す.
 *精古は代々大麻比古神社(現徳島県鳴門市大麻町)に奉仕する神官の家に生まれ,京都,伊勢内宮等で学び,長じて家業を継ぐ.

1837(天保8)
□2ー19 大塩平八郎(1792~1837),大坂で同志とともに一揆を起し,豪商を襲う.鎮圧されて自殺するが,幕府,諸藩への衝撃は甚大.

1838(天保9)
◇美濃国大垣(現岐阜県大垣市)の槌谷(つちや)柿羊羮の4代目・右助,美濃特産の渋 柿「堂上蜂谷柿」(干し柿)を主原料に丹羽産糸寒天,白あん,砂糖を合わせて「柿羊 羮」を創製.
 *96年(明治29)5代目祐斎は,自然乾燥した太い孟宗竹を二つ割にして,その半月形 の竹容器の中に柿羊羮を流し込み,現在の柿羊羮を作り上げる.



江戸時代(4)  1754(宝暦4)~98(寛政10)

2010-05-31 13:33:56 | weblog

1754(宝暦4)
◇平瀬徹齋,『日本山海名物図会(ずえ)』で,大和御所柿,京木練(こねり)柿,大和? 渋柿,美濃釣柿(つるしかき),紀伊国蜜柑,江戸四日市(現東京都中央区日本橋に近い旧魚河岸卸売市場の一部)の蜜柑市を挿絵(長谷川光信画)つきで紹介.
 *本書は大坂で版行され,近畿周辺にくわしく,江戸での販売の情景をえがいたのは江  戸四日市の蜜柑市の挿絵のみ.
 *大和御所柿……「和州御所村より出(いだす)柿の極品なり。余国にも此種ひろまり  て多し。御所より出る物名物なる故に御所柿という」
 *京木練柿……「山城の国より出(いで),これ柿の上品なり。其外諸国にも木練,近江,美濃,甲斐,信濃等におおし。九州の地柿の熟すること上方よりも早し。澁柿に上品あり。さわし柿となして甚だよき風味なり」.
 *大和?渋柿……「小柿なり。臼にてつきて柿澁を取て紙ざいくに用ゆ」.
 *美濃釣柿……「しぶ柿のいまだ熟せぬうちに取って,皮をむき糸を附て竿にかけ日に  ほす也。(中略)ほし上げて三寸ばかりの長さなる柿あり。其生(なま)の時の大さ思いやるべし。くし柿ころ柿も皆しぶ柿を以て拵(こしら)ゆる也。串柿は丹波よりおおく出,ころ柿は山城宇治名物也」.
 *紀伊国蜜柑……「紀州,駿河,肥後八代よりでるみかん皆名物なり。中にも紀州はす  ぐれたり。皮あつくして其味よし。京大坂の市中に売もの,おおくは紀州なり。山より出すに籠に入て風のあたらぬように認(したた)めて来る也。一籠百入二百三百あ  り。籠の大きさは何れも同じこと也。みかんの大きなるは数すくなし。其外余国にも  少々は有。加賀,越前等の雪国にはみかんの木なし」. 
 *江戸四日市の蜜柑市……「江戸の市中に売はおおく駿河より出,紀州みかんも大坂よ  り舟廻しにて下る也。江戸四日市の広小路に籠入のみかん山のごとくに高くつみて,  毎日毎日売買の商人群集す。江戸は日本第一の都会にて繁昌の津なれば,京大坂にま  さりて賑わえり」(『日本山海名産名物図会』)

1759(宝暦9)
◇川柳 「生(な)り初(そ)めの 柿は木に有る うち配(くば)り」 柳多留
◇川柳 「出て失しゃう 汝(なんじ)元来 みかん籠」     柳多留
 *みかん籠は捨て子のこと.→1694

1764(宝暦14)
◇博望子著『料理珍味集』に,蜜柑鱠(みかんなます=蜜柑の袋を裏返しにして15,6個を皿に盛り,砂糖をふりかける),源氏柿(こねり柿を2つに切り,うどん粉の衣をつけ,油で揚げた柿のてんぷら),琉球蜜柑(ゆでたサツマイモを摺りつぶしミカンの 形に丸め,青ノリをまぶし,軸にはミカンの葉をつける)を取り上げる.
1764(明和1)
◇川柳 「瓜(うり)食ふた 所(ところ)にわすれる 柄袋(つかぶくろ)」 柳多留
 *柄袋は武士の大刀,小刀の柄にかぶせる袋,小刀で瓜の皮をむき,柄袋を忘れてきた  という句意.
◇明和年間(1764~71),樽柿(たるがき)は,色も悪く,味も良くなかったが,この頃から大分優れたものができるようになる.
 *樽柿とは,酒のあき樽に渋柿を入れて,酒気で渋味を拔いた柿のことで,樽拔柿とも  いう.

1770(明和7)
◇八幡(やわた,現千葉県市川市)ナシの始祖・川上善六(1742.1~1829.8,寛保2~文政12),ナシ栽培を始める→1810
*川上善六については,日本食文化人物事典を参照されたい.

1772(安永1)
◇中国福建の人・謝(しゃ)文旦,鹿児島の阿久根に文旦(ぶんたん)をもたらす.
 *この年の晩秋,1隻の清国の船が暴風雨を避けるために,薩摩藩の阿久津港に入港し  た.この時,番所の通詞(通訳)が親切に対応した。これに感謝して船長の謝文旦が  南国の果物を贈った。贈られた果物の名前分からなかったので,船長の名をとって  「ぶんたん」と名付けた。実はこれはザボンであった.

1773(安永2)
◇3ー7 与謝蕪村(1716~83),モモの句あり.      
  もゝの花 ちるや任口(にんこう) 去りてのち     
 *任口は談林派俳人。桃の名所・伏見の西岸寺の住職。1686年没。

1778(安永7)
◇この頃(安永7~天明3),与謝蕪村(1716~83),カキの句あり
  柿の葉の 遠くちり来(き)ぬ そば畠    
◇川柳   みかん二ツでと 直をする 子のあたま  柳多留

1779(安永8)
◇西洋ナシ「バートレット(Bartlette)」は,イギリスのバークシア州のスティア(Stair) が発見.1816年頃,ロンドン近郊のウイリアムが拡め,さらに,米国のバートレットが 普及に努めたので,同氏の名が付けられた(『原色果実図鑑』).
 *わが国へは明治初期に勧業寮により導入され,主産県山形県へは1876年(明治9)勧  業寮などから配布された.

1781(天明1)
◇大村藩主・大村純鎮(すみしげ),西彼杵(にしそのぎ)郡伊木力村(長崎県諌早市,旧多良見町)の田中右衛門,田中村右衛門,中道継右衛門に温州ミカンの苗木を与え, 自家用として栽培させる.伊木力ミカンの始まりと伝えられる.
 *その後,安政年間(1854~60)から本格的に栽培される.

1782(天明2)
◇越後(現新潟県)の阿部源太夫,『梨栄造育秘鑑』を著わし,ナシ99品種名を挙げ, 早・中・晩に分類し,土壌,肥料,接木,栽植,棚仕立て,剪定,害虫,貯蔵,販売 方法などについて詳述.源太夫は血判をした梨栽培者と師弟契約を結 び,その技術の普及に努めた. 
 〔早生種〕祇園,氷崩,金ごめん,青ごめん,羽衣,白滝,兜(かぶと)ごめん,鶴の  子,鶴ごめん,星ごめん,猩々,玉子,みよし,猩々冠,淡雪,光眼寺科,甘露,隠れ蓑,千羽鶴,養老,朝日丸,粟盛,御所菊,かさゝぎ,24
 〔中生種〕明ぼの,赤の類,鶴の子,朝鮮,有明,赤ごめん,八朔,青ごめん,十五夜,飛鳥井御免,三笠,月影,三日月,玉垣,青の類,舞鶴,日の出,月山,月の出,19
 〔晩生種〕日の下,類産,こま?箱,雪通し,はんくハい,青竜,日乃出,大湊,大古  河,竜王丸,蟻通,鶴の子,明ぼの,赤坂,広島,青相模,赤相模,羅生門,重陽,  田子の浦,下の関,名古屋丸,甲州ごめん,浜松,熊谷,弁慶
 *源太夫は地の利を活かして海路で越中,越前,加賀に販路を開拓するとともに,広く  全国の主要な梨産地を訪ね,調査研究.
 *子孫阿部家(12代健作氏,13代源一郎氏)は当時と同場所・新潟県白根市東萱場(かやば)〈中之口川上流右岸〉に在住.
 *阿部家所蔵の本書は1990年(平成2),白根市の文化財に指定される.
 
◇ナシの「棚仕立て」の詳しい記録あり.
 *棚仕立ては日本独特の方法で,台風などで果実が落下しないための対策,幹や枝が大  きくなること抑え,収量増大につながる.
◇この頃,小天(おあま)ミカン産地・現熊本県玉名市(旧天水町小天)に,温州ミカンが植えられたと伝えられる.

1783(天明3)
□7 浅間山の大爆発で死者2万人にのぼる.
□夏,特に冷気強く,江戸でも綿入れを重着したという.
◇天明の大飢饉(1783~87)起る.奥羽地方(餓死者数十万人)は特に惨状をきわめる(近世三大飢饉の一つ).

1784(天明4) 
◇この年死亡した故実学者・伊勢貞丈(さだたけ,1717~1784)の『安斎随筆』(貞丈の没後, 門弟らが整理して編集した遺稿集)に,カキの実や実からとった渋は血を狂わすとして 産婦や傷のある人には禁じられたとある.

1785(天明5) 
◇器土堂なる者,『柚珍(ゆうちん)秘密箱』『大根一式秘密箱』を著わし,柚料理40種と大根料理50余種を紹介.
 *柚料理では,「柚飯之仕方」「百柚くすり湯の方」などを取り上げ,五臓六腑をおぎない内をあたためるとか,冷え症,夜尿症に効く,眼.のかすみを治すなど,他の百珍物の秘密箱シリーズにみられない本草的効能について記したのが特徴.

1786(天明6) 
◇徳川家康にサンショウを献上したことでも知られる林香寺(東光寺)の厳城住職(紀州 出身),現静岡県庵原(いはら)郡由比町に紀州ミカンの苗木500本を導入.当産地の始まりと伝えられる.

1788(天明8) 
◇天明年間(1781~89),カキの品種,祇園坊(ぎおんぼう)が安芸国(広島県)に出現, 京坂地方で評判を呼ぶ.安佐郡祇園村の祇園坊の住職が沢山のカキを植えていたいたも のの中から見出したことから,この名があるという.
 *天明は9年1月25日寛政と改元されたが,「天明は食うや食わずの八九年,もうこ  れからはたんと食わせ(寛政)ろ」と口ずさむ者もあった.

1789(天明9・寛政1)1月25日改元
◇この年,カキがヨーロッパに初めて伝えられたという.
◇三百諸候がその采地の名品を選んで,将軍に献上した物についてみると,カキ,ミカン, ナシなどがかなりみられる(寛政元年版『大成武鑑』).
 ・名古屋藩…甘干柿美濃柿(9.10月3度),水菓子(10月),枝柿(12月).
 ・和歌山藩…大和柿,水菓子,蜜柑(10月). ・水戸藩…水菓子(10月).
 ・松江藩…眞梨子,大庭梨子(8月). ・川越藩…熟瓜(=マクワウリ,7月),梨子(8月),栗(9月),枝柿(12月). ・会津藩…???,松尾梨子,胡桃(10月). ・鹿児島藩…櫻島蜜柑(寒中). ・熊本藩…銀杏(2月),八代蜜柑(11月). ・広島藩…串柿(12月). ・久留米藩…筑後蜜柑,九年母(寒中) ・豊後臼杵藩…蜜柑(寒中).
 ・浜松藩…枝柿(2月).白輪柑子(11月)
 *水菓子が柿,蜜柑と並んで出ているのは何故か,この場合の水菓子は,梨をさしてい  るのかもしれない.

◇スダチのことが,本草学者・小野蘭山(1729~1810)の『大和本草批正』に,「阿州方言すだちと云,淡路にあり,近年江戸にあり」とみえる.

1793(寛政5)
◇温州ミカン,伊予国宇和郡立間〈たちま〉村(現宇和島市,旧吉田町)に土佐(高知) から導入される.愛媛ミカン栽培の発祥地(『愛媛県果樹園芸史』).
 *吉田町のミカン生産量(平成5年)は3万3,800トン(全国の3.3%)で,同県八幡浜市,静岡県三ヶ日町に次いで全国第3位を誇る.愛媛県の生産量(平成6年)は19万トン(全国の15.2%)で日本一.
◇紀州藩伊勢松坂の国学者本居宣長(1730~1801,享保15~享和1)がこの年に起稿し,
 1801年(享和1)に没するまで書き続けた『玉勝間』(知的な随筆)14巻59に,「古よ りも後世のまされる事」としてミカンが優れていることを記す. 
*「古よりも,後世のまされること,万の物にも,事にもおほし.其一つをいはむに,い にしへは,橘をならびなき物にしてめでつるを,近き世には,みかんといふ物ありて,此みかんにくらぶれば,橘は数にもあらずけおされた.その外,かうじ,ゆ,くねんぼ,だいだいなどのたぐひおほき中に,蜜柑ぞ味ことにすぐれて,中にも橘よく似てことなくまされる物なり.此一つにておしはかるべし.」

◇徳島の特産スダチについて,阿波国(徳島)大麻比古神社社家の古文書に,「大麻山の見える処でないと,生育しない」とみえる.
 *「一,すだち 柚に似て柚よりちいさき者にて御座候,大麻山の見ゆる処ならでハ生  ヒ立不申趣古老申伝御座候……」.

1794(寛政6)
◇5 オランダ貢使江戸参府の際の問答顛末を記した大槻玄沢(げんたく,1757~1827) の『甲寅来貢 西客対話』の中に口取の密漬はコンヒチュールといい,ゲムベル(姜), カチャン,アナヽス,蜜柑を剥ぎるたるごときものなどいずれも珍しい天竺地方の果物 であったとアナヽス(パインアップル)のことを記す.

1795(寛政7)
◇国学者・津村淙庵(?~1806)著,『譚海(たんかい)』で,カキについて,「ねり柿 また飢を助くるには,比類なきもののよし.枴?腹(きょうふく=腹がすくこと)に成りたる時,一ッ二ッくへば,半日食を思ふ事なしとぞ」と記し,カキが代用食として用いられていたことがうかがえる.
 *藩政時代の鹿児島地方に,「柿は三月飯米(みつきはんまい)」(米の端境期の三ヵ月間,カキの代用食で暮らす)ということわざがあったという.

1797(寛政9)
◇3 木村桂庵,『橘品種考』を著わす. 

1798(寛政10)
◇この年完成した本居宣長著『古事記伝』25に,昔の橘は今の蜜柑説と,昔の橘即今の橘で,蜜柑は後来説との二説について考察を加え,いずれとも決めがたいと記している.






江戸時代(3)  1706(宝永3)~1751(宝暦1)

2010-05-30 12:04:07 | weblog

1706(宝永3) 
◇本草学者・井田昌胖(生没年不詳),『柑橘伝』を著わし,初めて柑と橘を結合した柑橘という言葉を使用し,ミカン類20種について名称,味,産地などを記した.写本は国立国会図書館白井文庫に所蔵.

1707(宝永4) 
◇この年死去した宝井其角(1661~1707)の句に,「西瓜くふ 奴の髭(ひげ)の 流れ けり」とあり,下種(げす)奴が切り売りの西瓜を食べて,墨で書いた髭が流れる様子を詠んだもの.この頃,まだ西瓜が下種の食べ物であったことがうかがえる.
 
1708(宝永5)
◇貝原益軒(1630~1714,寛永7~正徳4),『大和本草』を著わし,和・漢・蛮産1,362種の形状,効用などを記述.
 *巻之十,「木之上」の「果木類」に,橘,金橘,柑,柚,橙,佛手柑,柿,梨,マルメロ,桃など44種をあげるが,林檎については記述されていない.また,巻之八,「艸之四」の「?類」に,覆盆子(くさいちご),苺,甜瓜など9種をあげる.
・橘について,「タチハナト訓ス.ミカンナリ.甘花ヲ花タチハナト古歌ニヨメリ.…」. 御所柿について,「大和ノ御所ノ邑ヨリ多出ツ.故ニ御処柿ト云ウ.是亦木練ノ佳品也」 と記す.

1710(宝永7)
◇この年亡くなった大和絵師・土佐光成(1647~1710)が描いたと伝えられる,紙本著色「和歌の橘図巻」2巻(紀伊国屋文左衛門の一代記を描いたと思われる絵巻〈上巻:縦 28.5㎝×横718.5㎝,下巻:23.5㎝×722.5㎝〉)あり.制作年不明.
 *ミカンの収穫風景,荷積み,輸送,店頭風景などが緑青,金泥,金砂子を多用し,実  にあざやかに描かれており,当時の紀州ミカン事情を知る上で貴重な文化財(サント  リー美術館所蔵).1993年(平成5)8月31日~10月3日「三百年祭記念西鶴展」に部分展示.

◇宝永年間(1704~11),楊貴妃で名高いレイシ(茘枝),わが国に初めて中国船によって長崎にもたらされる(『熱帯の果物誌』).
 *唐の玄宗皇帝は,愛妾楊貴妃の欲するレイシを,数千里離れた嶺南(れいなん,福建 省方面)の地から,首都長安(現西安)まで,わずか八日八晩で運ばせたため,人馬 ともに多く倒れたという故事がある.

1712(正徳2)
◇ 有田郡内の蜜柑組,新たに3組の結成が認められる.
◇ 有田ミカンの江戸送りの籠数,およそ35万籠から50万籠に及ぶ.

1713(正徳3)
◇寺島良安(生没年不詳),わが国最初の図説百科事典『和漢三才図会』105巻(全文漢文)を著わし,86~91巻で果物を6つに分類し紹介.
 * 五果類(李〈すもも〉,杏〈あんず〉,桃,栗,棗〈なつめ〉を五果という.梅はこで説明)桃の産地として「山城伏見,備前岡山,備後,紀州」をあげる.
  山果類(梨,まるめろ,林檎,柿(*),石榴(ざくろ),橘,橙,柚,仏柑,枇杷, 桜桃,くるみなど).
  夷果類(茘枝,竜眼肉)味果類(山椒)  ?(ら)果類(甜瓜〈まくわうり〉,西瓜,   葡萄)水果類
 *柿の項では,五所柿,似柿(にたりがき),伽羅柿(きゃらがき,一名,透徹〈すきとおり〉柿),円座(えんざ)柿,樹練(きねり)柿,田舎柿,?(つつみ)柿,白柿(つるしがき),胡盧柿(ころがき,一名,豆柿),串柿,醂柿(あわせがき),柿の蒂(へた,しゃっくりを治す),柿の皮などを取り上げる.

◇貝原益軒,『養生訓』で「諸菓寒具(ひがし=干菓子)など,炙(あ)ぶり食へば害なし。味も可なり。甜瓜(あまうり)は核を去りて蒸し食す。味よくして胃をやぶらず。熟柿(じゅくし),木練も,皮共に熱湯にてあたゝめ食すべし。乾柿はあぶり食ふべし。皆脾 胃虚の人に害なし。梨子は大寒なり。蒸し煮て食すれば性(しょう)やはらぐ。胃虚寒いの人は食ふべからず」とあり,炙ぶってから食べることを強調している.  
 *また,同書に「凡(およそ)諸菓の核(さね)いまだ成らざるを食ふべからず。菓(このみ)に雙仁(そうじん=二の仁)ある物毒あり。山椒(さんしょう)をとぢて開かざるは毒あり」と記す.
 *益軒は『養生訓』完成の1年後に,人生50年に満たない時代に83歳の天寿を全うした。益軒のアシスタントを務めた22歳離れた妻の東軒は『養生訓』完成の年に,61歳で没した。
◇この頃,水菓子屋の幕府の御用商人は,須田丁の参河や五郎兵衛と品川丁の三河や平兵 衛の2店(『大武鑑』?).

1714(正徳4)
◇『節用料理大全』に柑橘類の図あり.
◇貨幣改鋳により,新金銀通用となり,紀州の蜜柑税は半減となる.
 ・江戸送り1籠につき5厘ずつ.  ・近国送り1籠につき5厘ずつ.

1715(正徳5)
◇この年亡くなった森川許六(1656~1715)の句に,紀陽柑園の景勝を憧憬して詠んだ
 「紀の国の 蜜柑に鳴くや 時鳥」あり.
◇正徳年間,紀州ミカン,領内から江戸へ35~50万篭が移出されるまでに成長.
 *ミカン畑の開墾が進み,畑の周囲の石垣を築くため尾張(愛知県)から工人が來藩.  彼らはオワリと呼ばれた.

1716(享保1・正徳6)
◇8ー13 紀州藩主徳川吉宗(1684~1751),8代将軍に就任.
 *この頃,将軍や大奥の貴人が果物のうちで口にするものは,ナシ,カキ,ミカンの類  で,スイカ,ウリ,モモ,リンゴ,スモモの類は見るだけとされ,食べることはタブーとなっていたという.
 *しかし,吉宗の生母・浄円寺は,このようなタブーを無視して,自分の好きなものを  食し,特に,熟した真桑瓜を好んだという.
◇甲斐国祝村のブドウの栽培面積15.4町歩,勝沼村5.1町歩(地検帳).

1717(享保2)
◇安芸藩(広島県)藩主,柿栽培振興のため,各郡草石100石につき,毎年柿樹5株を接ぎ木させる.その後,1株を亡えば1株を植えさせる.安芸柿栽植の起源という.

1719(享保4)
◇朝鮮通信使の製述官として随行した申維翰,『海游録』(姜在彦訳)で,日本のミカン を称賛している.この頃,ミカンが一般庶民の果物としてかなり出回っていたことがう かがえる.
・十月十七日,藤沢から小田原への道.「村里の左右に見る橘,柚,柑の諸樹は,江戸に向けて行った時は,実が枝いっぱいに累々として青く,食うに堪えなかった。今は,色が黄色いまっさかりで,異香郁々として人の裾を侵す。その味の爽 やかにして甘い者は,倭では蜜柑と号す。樹陰を過ぎるごとに,倭人が,数十顆がつらなるその枝を折って轎中に投じてくれた。ただちに皮を披いて嚼むと,香ぐわしい果汁が渇した喉をうるおし,とみに五官がやわらぎ,安期生(昔,長生した仙人)の火棗もまた羨ましくないほどである」.
・十月二十四日「赤坂で昼食をとり,夕刻に岡崎に着いた。路傍や市肆で蜜柑を売る者, 山丘の如し。文人や詩僧も,来たりて歓を接する者は必ず蜜柑を貯えた竹籠をもって坐 上に置く。そして飲を佐ける具となす。青葉を交錯したのは,愛すべきである。余はこ れを食べると,あるときは一筐を尽くしてしまう。いわば詩が蜜柑を多く食べさせるの かも知れない」.
・十月二十五日,名護屋(名古屋)にて「余もまた,ときに渇きを覚え,蜜柑をむいては 酒盃を佐けた」.
・十一月一八日「鞆浦(広島県)にいたる。過ぐるところの風物は以前と変らぬが,橘, 柚,柑がところどころに爛熟し,香気はなはだ美しい。蜜柑は季節が遅れているいるとのことで,やや稀である。大柑で九年母と名づくるもの,またもっとも奇,皮を剥いで口に入れると,芳鮮なること,歯に溢れる。日供として給せら れるほかに,倭人が, 余が柑をはなはだ嗜むのを知って,しばしば筐を携えてきてこれを饋してくれるものも のがある」.

1723(享保8)
◇この年の江戸の雑俳句(小倉山)に,「ほど走る 吹子まつりの 玉みかん」→1685
◇この年の江戸の雑俳句(わかみどり)に,「づらづらと 柿のかはむく みの女」(美 濃特産).
 
1725(享保10)
◇8 オランダ船,椰子苗30余株を舶載し,幕府はこれを駿河および伊豆大島に試植する.

1730(享保15)
◇京都洛西に住む茶人の嘯夕軒宋堅(しょうせきけんそうけん)著『料理網目調味抄』第 四巻菜瓜?(なうり)の部に,胡桃(くるみ),林檎,梨,栗,柚子,蜜柑,金柑(きんかん),銀柑(こうじ),久年母,柿,梅,榧(かや)子み,柘榴?,葡萄,覆盆子(いちご)などを掲載.


1731(享保16)
◇この年の上方の雑俳句(冬木立)に,「ありの実と 世にいひ梨や 手菓(てくだもの)」.

1734(享保19)
◇7 下総(現千葉県)産のスイカ2個を将軍に献上.
◇10 紀州国有田郡中井原村(現和歌山県有田郡金屋町中井原)の中井甚兵衛,『紀州蜜柑伝来記』を著わし,紀州蜜柑は天正年間に肥後国八代から導入されたと記す.
 *内容は紀州蜜柑の由来,蜜柑組株と問屋株,蜜柑税の税率,蜜柑組株と問屋株の増減,  蜜柑の荷送などについて.蜜柑問屋の変遷については天明8年,西村屋小市が書き足したもの.
 *本書は江戸紀州藩御会所への報告書となっている.原文及び解説,現代語訳原田政美  校注・執筆)は日本農書全集46巻に所収(底本は和歌山県立図書館所蔵).
 *写本『紀州蜜柑組由来』は,天理大学付属天理図書館所蔵.
◇幕令をうけて,丹羽正伯を中心に諸国の物産調査が開始される.
 *安田健氏の調査によると,諸国産物帳(42ヵ所)のうち,柑橘類の記載がないのは,  陸奥南部藩,出羽庄内領,出羽米沢領,信州高遠領,飛騨など10例にぎない.残り32例のうち,26ヵ所で蜜柑,みかん,みつかんの産が報じられている.この中には,常陸水戸藩(茨城県),越中(富山県),能登,加賀,越前福井領も含まれており,加賀ではたねなしみつかんをはじめ5つの品種が記録されている.以下,伊豆,遠江懸河領(静岡県掛川市),美濃,尾張,和泉岸和田,紀伊,隠岐,出雲,備前,備中,周防,長門,伊予越智島,対馬,壱岐,筑前福岡領,肥前基★養父両郡,豊後と肥後の熊本領,肥後米良山領,日向諸県郡である(塚本学).

1735(享保20)
◇8代将軍吉宗(1684~1751),現東京都中野区桃園町の田畝に悉くモモの樹を植えさせ, 桃園とよばせたという.『江戸名所図会』に「今も弥生の頃紅白色をまじへて一時の奇観たり。此地に大将軍家御遊猟の時の御腰掛の地あり。」と記す.

1736(元文1)
◇水戸藩の『御領内産物』に記載のカキ名は,御所柿,蜂屋柿,美濃柿,妙丹,四溝など 25品種.

1737(元文2)
◇金沢藩の『賀州物産志』に記載のカキ名 御所柿,木練(こねり),円座,蜂屋,
 八王子,妙丹,西条など45種.

1738(元文3)
◇文字(ぶんじ)金銀に改鋳されて通用することになったので,有田蜜柑について下記の 通り,毎年上納することとなる.
 ・江戸送り1籠につき7厘5毛ずつ. ・近国送り1籠につき6厘ずつ.

1741(寛保1)
◇この頃,西瓜がかなり普及し,西瓜賭博も行われたため,「西瓜商売の所所の揚場などにて西瓜の貫目をもって賭にいたし,博奕(ばくえき=ばくちのこと)がましき儀いたし候やからこれ有り不届に候,自今急度相止させ申すべき旨仰せ渡され候あいだ,西瓜 商売人は勿論,町々へ申渡すべく候」という禁止令が出る.

1742(寛保2)
◇6ー28 この日亡くなった甲州出身の俳人・蓮之,勝沼のぶどうを詠む.
 勝沼や 馬士(まご)もぶどうを 喰ひながら
 *芭蕉の句と誤って伝えられていた.彼の句に「果は 皆仏の道へ 落葉かな」
◇幕府,魚,鳥,野菜,果物の初物の売出時期を制限.
 *ビワ5月から,リンゴ7月から,ナシ8月から,ミカン9月から.

1751(宝暦1)
◇この頃,現千葉県南房総市南無谷(なむや)〈旧富浦町〉産の房州ビワ,初めて江戸に舟で出荷.
 *安房丘陵にビワがいつの頃から栽培されるようになったかは,はっきりしない.この  頃,「ビワを植えると家が絶え,早死にする」という迷信が広まり,「ビワが黄色くなると,医者は忙しくなる」という諺が生まれたといわれる.明治になり,迷信は下火になった.現在,果実の大きい品種の「田中ビワ」が栽培され,長崎県の「茂木ビワ」と覇を競っている
 *江戸への出荷は魚類運送専用の押送船(おしよくりともいう)の便をかりて行われ,  富浦から10時間を要したという(『富浦枇杷の歴史』).