1875年(明治8)
◇1ー19 内務省勧業寮十四等出仕・町田呈蔵,果樹栽培は実地を見学の上,指導の必 要を,勧業権助・岩山敬義,六等出仕・田中芳男,七等出仕・青山純に提出(「菓木栽 培の法経検の為近傍へ派出之儀上申」),この考え方は2月9日付けで内務卿大久保利 通に伺い文が提出されている.彼が調査の場所として挙げた果樹の産地は次の通り.
1.梨種類(武州川崎在,下総八幡在,同古河在)
2.葡萄種類(甲州勝沼在,同??,信州松本在)
3.柿種類(武州稲毛在,同所沢在,同秩父在,同青梅在,甲州在)
4.柚子種類(武州沢井在,同青梅在)
5.梅種類(相州杉田在,武州平在,同高尾在,同五日市在)
6.桃種類(武州二たまとう在,下総流山在,同野田在,房州在)
7.蜜柑種類(下総在,上総在)
8.橙種類(伊豆在,房州在)
9.枇杷種類(武州青梅在,房州在)
10.胡桃種類(甲州在,信州在)
11.林檎種類(上州高崎在)
12.栗種類(信州飯田在,野州在,甲州在,遠州こうみゃう在)
13.椎種類(豆州在)
上記は概略40里以内地方菓木産調に候とある.
◇1 ヂッケルメン著,河出良二訳『葡萄樹栽培新方』(和31,20丁〈上下合本〉)三楽堂発 行.
◇1 東京の泉水(いずみ)新兵衛,フランス製のコーヒーを輸入し,売り出す.
◇4 サンフランシスコ駐在領事高木三郎(1841~1909,わが国生糸直輸出の先覚者,
1872.2~80.5駐米),オレンジ,レモン,イチゴ,ホップ等の種苗を勧業寮に送付.
◇6 東京府,店先に不熟の果物を置かぬよう注意.
◇6 勧業寮,アメリカからリンゴの苗木を輸入し,北海道・東北諸県に配布.
*青森県では,旧弘前藩士らに分与して栽培させ,1880年(明治13)秋に初結果.一般 に普及の先駆をなす.
*青森県庁山林係の菊池楯衛(1846~1918.4.8)は,役目柄,自らもその試植者となる. 77年(明治10)北海道にある開拓使の勧業場に出向き,アメリカ人からリンゴなどの 栽培,接ぎ木,苗木仕立て法等を5ヵ月にわたって習得し,弘前に帰る.その後,青森リンゴの研究グループを結成し,今日の青森リンゴ発展の基礎を作り,「リンゴの 恩人」といわれた.長男の菊池秋雄(京大名誉教授)も果樹園芸学の発展に寄与.
*青森県は100年後の1975年(昭和50)9月17日,県庁前の庭に建立された,青森りんご栽培百年を記念する石碑の除幕式を行うと同時に「りんご百年記念展」を開催.
◇8 内務省蔵版,『獨逸 農事図解』三十葉之内,第2葡萄栽培法,第3葡萄酒管理法 を刊行.翻訳者は平野榮,鳴門義民.
*明治10年10月改正『内務省官員録』によると,平野榮(勧農局所属)は愛媛出身 で3等属,鳴門義民(同)は東京出身で5等属.
◇11ー20 千葉県,果樹の試作希望者を募る.
*県の告示
勧業寮ニ於テ接挿木分賦培養有志ノ者出願方ヲ達ス.
勧業寮出張所ニ於テ当春接挿候菓木別紙品数今般当県管下ヘ可及分賦候間,
有志ノ輩有之候ハハ此願書可差出,尤苗木ハ下切相成候ニ付運賃其他培養等
之費用ハ一切給与不到旨,同寮ヨリ通達有之候条得其意,培養有志之者ハ品数等書載, 早々扱所ヨリ区内ヘ無洩相達,毎該区願書取纏,12月15日迄ニ企望ノ者有無トモ 可申出候,若日限後願書差出候儀ハ採用不相成候,此段相達候事.
但品数多寡有之ニ付,願書次第ヲ以可為分賦候ニ付テハ願書落手ノ順ニ番号記載可差 出候,?ハ運賃其他費用計算ノ上苗木渡ノ節可相達候間,速ニ上納可到儀ト可心得事.
明治8年11月20日
千葉県令 柴原 和
明治8年接挿候米国産菓樹
1.苹菓 アップル 75本 1.梨 ペイル 60本
1.桃 ピーチ 25本 1.李 プロム 30本
1.杏 エプリコート 5本 1.?旦杏 アーモント 10本
1.葡萄 グレープ 5本 1.?花果 ヒッグ 5本
1.フサスグリ カレンツ 5本 1.スグリイースベルクト60本
1.?? クイーンス 1本 1.桜桃 チェルリー 65本
計 拾弐種 本数 346本
(『千葉県果樹の歩み』)
◇アメリカから帰朝した柳沢佐吉(生没年不詳,留学1869~76),大藤松五郎(?~1890), 勧業寮の新宿出張所で缶詰の試験製造を開始.初めは果物の缶詰から始める.
◇開拓使,この年から12年にかけて葡萄園を札幌に次々と開設,第1号園(現在の北十条) 1万4千余坪,第2号園(開拓使本庁内)4,500余坪,第3号園(現在の北十条)3万300 余坪,第4号園(苗稲)10万6,600余坪.
◇現青森県弘前市の藤田半左衛門(後に息子・久次郎経営),藤田葡萄園を開園し,葡萄 酒醸造. *当地に寄留の外人アルヘーから指導を受けたといわれる.
◇岩手県のリンゴの始祖の1人・横浜慶行の紅魁(アストラカン),見事な大果数果を初結 果し,人々を驚嘆させる.翌9年には数十果の結実をみる(『岩手りんご100年のあゆみ』).◇勧業寮,中国から天津水蜜桃,上海水蜜桃,蟠桃(はんとう)の苗木を輸入.
*在来種のモモは観賞用の花モモとして栽培されており,食用にはほとんどされなかっ たという.
◇勧業寮,旧長野県へ12種346本,筑摩県へ11種39本の果樹苗木を配布.
*新・長野県は1876年8月21日発足,筑摩県は廃止(一部岐阜県に編入).
◇前田正名(1850~1921),フランスからリンゴの苗木を輸入.
1876年(明治9)
◇2ー8 「横浜新聞」に,大阪府でも西洋の果物を栽培することになり,アンズ,モモ, サクランボ,リンゴ,ブドウなどを東京から輸送したとの記事がみえる.
◇4ー13 「朝野新聞」に,新宿で栽培されたリンゴ,アンズ,ナシ,スグリ,イチゴ などを,希望者に払い下げる広告がみえる.
◇8ー14 札幌農学校開校.アメリカのマサチューセッツ州立農科大学学長ウイリアム・ エス・クラーク(1826~86),初代教頭として就任.
*クラークが実際に教育にあたった期間は1876年8月から翌年4月までのわずか8ヵ月
すぎなかったが,学生に与えた影響はきわめて大きかった.
◇9ー8 開拓使,札幌に麦酒醸造所(サツポロビールの前身)を設立.ドイツで醸造技 術を修得した新潟県出身の中川清兵衛(1848~1916,嘉永1~大正5),主任技師となる. *現在,サツポロビールのラベルには「since1876」の表示あり.
◇9ー8 開拓使,札幌に札幌葡萄酒醸造所を設立.
*同醸造所は1886年(明治19)9月,その担当者であった桂二郎へ経営を委託し,翌年
12月同人に払い下げられる.87年(同20)刊行の『札幌繁栄図録』に札幌葡萄酒醸造所の図あり.
◇9 岩手県令・島惟精,明治天皇東北御巡幸の折,横浜慶行が栽培したリンゴ(横浜早生〈紅魁〉)を天覧に供し,これを機にリンゴ栽培を奨励.
◇11 津田仙,「農業雑誌」を創刊し,果樹,なかでも,リンゴとブドウの奨励に過半の頁をさく.例えば,リンゴに関する記事では,「養樹園の事」(創刊号),「林檎の 説」(11月第2号),「林檎培養法」(10年2月下旬号)等がある.
◇11 ブドウ酒醸造勧奨のため,山梨県の詫間憲久ほか1名に資金1,000円が貸下げら れる.
◇政府,アメリカからブドウの苗木3万6,000本,フランスから2万本を輸入.
◇勧業寮,フランスから,リンゴ106,西洋ナシ125,モモ14,油桃5,スモモ20余,ブドウ99,サクランボ30品種,合計約400品種の苗木を輸入.
*苗木は東京三田薩摩原にあった育種場で委託栽培され,全国各地に配布される.
◇岸田吟香(1833~1905)の精き堂本店(東京銀座),レモン水を発売し評判となる.
◇和歌山県で夏ミカンの栽培が始まる.
◇岡山県岡山区天瀬(現岡山市)の勧業試験場で,モモの栽培が行われる.
*モモの穂木は倉敷出身の勧農局官吏衣笠豪谷(きぬがさ・ごうこく,1850~97)が清 国(中国)視察の際,天津,上海から持ち帰ったものといわれる.
◇この年以降,温州ミカンの苗木,アメリカへ輸出される.
*薩摩(鹿児島)から輸出されたため,サツマと呼ばれるようになる.その後,愛知県 から輸出されるようになり,オワリまたはオワリサツマの名を得る.
◇この年~明治11年,藤井徹著,加藤竹斎画『菓木栽培法』(和4冊〈第1ー8巻合本〉) 東京・静里園刊行.
*藤井徹は信濃国旧藩士で,東京府下内藤新宿下町で果樹園を経営し,浅草蔵前南元町
に出張所をおいて果実と苗木を販売.本書は整枝,肥料等に西洋の影響が見られるが,在来栽培法の集大成として幕末農書の系譜に属する.
◇岩手県令(知事)・島 惟精(いせい,1834~86),岩手県にリンゴ栽培が適することを認
め,苗木を東京方面から求め,希望者に配布.また,県庁隣接の地に種芸所を開設し,東 京より植木師小栗嘉兵衛を招へいし,苗木の養成,増殖を図る.県としての奨励の始まり(『岩手りんご100年のあゆみ』).
◇山形県令・三島通庸(1835~88),開拓使よりリンゴ苗,葡萄苗,桜桃苗(サクランボ) を取り寄せ,苗木を養成して配布,特に,桜桃は気候風土に適し,今日では山形県の代 名詞になるほどまでに発展.
*三島通庸は桜桃が冷涼な山形の地に適すると判断し,県庁のそばの公園に栽培させ,
有望であることを実証してみせ,積極的に普及に乗り出したといわれる.
◇長野県,勧業寮から14種1,835本の果樹苗木の配布を受ける.
◇この年に小倉県令を退官した旧山口藩士・小幡高政(おばた・たかまさ,1817~1906.7. 27,文化14~明治39),山口県萩に帰住し,失業武士の授産事業として,武家屋敷に夏ミ カンを栽培することを奨励し,萩の地をわが国最初の夏ミカン集団産地とした.
写真は,現在も旧武家屋敷邸内にたわわに実る夏みかん。
◇fruitの訳語……実,水菓子,果物 【E.M.サトウ・石橋政方共編著『英語俗語辞 典』】*訳語に初めて「果物」が登場したのではないか.
1877年(明治10)
□1ー4 地租を地価の3%から2.5%に軽減.
*「竹槍(たけやり)でどんと突き出す2分5厘」といわれた.
◇3ー1 「朝野新聞」に,静岡県下駿州庵原郡あたりはミカンの産地として有名だが, 山原村の一村は古来より氷川神社の大禁物なれば,ミカンの木を1本でも植えれば熱病 を発すると伝えられていた.しかし近頃ある人が思い切って植えと ころ,何のたたり もなく,良くできるので,村民が我も我もと植えはじめ,この 頃では村中に大利益を もたらしていると報じている.
◇3 内務省勧業寮御用掛,前田正名(1850~1921),フランスから果樹・蔬菜類・草木・ 良材などの種子,苗木をたずさえて,7年ぶりに帰国.
◇6ー18 東京銀座の岸田吟香,「東京日日新聞」にレモン水の広告を掲載.「私方にて 精製のレモン水は此まで世間にありふれたるそ品にあらず,専ぱら西洋の法に従がひ味ひの清涼甘美なることは申すに及ばず。養生の為を第一としたる良品なり。庶希くは諸君お上り有ってお試し下されよ。実に其味はひ極り無しで御座ります。○大瓶四合五勺入,代金三五銭 ○小瓶二合五勺入,代金二十銭り 但し水呑コップ一盃の水に少し ばかり注ぎ込んでのむんだよ」
◇8ー21~11ー30 内務卿大久保利通の建議による第1回内国勧業博覧会,東京上 野公園で開催.
◇8 わが国最初のぶどう酒会社「大日本山梨葡萄酒会社」(一般的には祝村葡萄酒醸造 会社と呼ばれた),山梨県東八代郡祝村(現勝沼町下岩野にあるメルシャン勝沼ワイナ リー所在地)に設立.
□9ー24 西郷隆盛(1827~77),政府軍に包囲され鹿児島の城山で自決.
◇9ー30 東京三田四国町の旧薩摩藩邸跡(5万4千余坪)に三田育種場(場長は前田 正名)を開場し,前田正名がフランスから持ち帰った果樹・蔬菜類などの種子,苗木を 植え付ける(『明治前期 勸農事蹟輯録』).
◇9 小沢善平(1840~1904,カルフォルニア留学1868~73or74),『葡萄培養法摘要』(和30丁)を著わす.*国会図書館のHPで閲覧できる.
*内国博覧会会場に隣接した善平の谷中の撰種園にはぶどうの種苗等を買い求める人々
が多数来園したといわれる.
◇10ー10 前田正名,パリ万国博覧会参加のため,出品物4万5,316点を持参し, パリへ出発.ブドウ酒醸造の研究のため,山梨県の高野正誠,土屋龍憲ら6名を同行.
◇10ー10 現山梨県甲州市(旧勝沼町上岩野)の高野正誠(まさすみ,1852.11.2~192 3.9.4,嘉永5.9.21~大正12),同町下岩野の土屋龍憲〈助次郎〉(1859.7.13~1940.8.18,安政6. 6.14~昭和15)「大日本山梨葡萄酒会社」の設立に伴いぶどう酒醸造技術習得のため,フランスに派遣される.
*高野正誠は同社の株主でもあり,すでに,同年弱冠25歳の若さで山梨県最初の公選
県会議員に当選していた.土屋龍憲は弱冠18歳.二人はフランスではトロワ市のシャルル・バルテ(Charles Baltet)の養樹園及びモーグ村のピエール・デュポン(Pierre Dupont)でぶどう栽培法やワイン醸造法などを学び,期限の1ヶ年を半年近く 過ぎた1879年(明治12)5月帰国.帰国後,葡萄産業の発展に貢献.二人がフランス に出発してから100年目に当る1977年(昭和52)に,両人をワインの先覚者として鑽 仰する顕彰碑が「勝沼ぶどう丘センター」の一角に建立された.また,この年の8月, 正誠の孫に当たる高野英夫氏はトロワ市でシャルル・バルテの孫と孫同士の100年ぶ りの再会を行った.
◇11 勧業寮,洋種果樹苗木有償払下げを開始.
◇山梨県令・藤村紫朗(1845.4.7~1908.4.1,弘化2.3.1~明治41),山梨県勧業場に大藤松五郎(?~1890,米国留学1869~1876)を主任にブドウ酒醸造所を設立.
*藤村紫朗は在任14年(明治6.1.22~20.3.8)に及び殖産興業に力を入れる.後に貴族院議 員,男爵.
◇勧業局内藤新宿試験場,モモの砂糖煮,桃李の砂糖漬,イチゴジャムを製造販売
◇三代目広重,『大日本物産図会』を東京日本橋の錦絵問屋大倉孫兵衛から出版.下総国 西瓜之図,甲斐国葡萄培養図,甲斐国白柿(ころがき)製之図,紀伊国蜜柑山畑之図(『紀伊 国名所図会』〈1811年刊=文化8〉からとる),説明文つきで掲載.
◇この頃,現福島県伊達郡桑折(こおり)町で,在来種の船戸(ふなど)モモが栽培され 始まったといわれる(福島県におけるモモ栽培の起源二説のうちの1つ)『福島大百科 事典』).
◇神奈川県小田原の杉本正左衛門,十字町の御鐘台付近に数反歩の温州ミカン栽培を始め る(『神奈川柑橘史』).
◇この頃から,温州ミカンの栽培,愛媛県北宇和郡立間(たちま)村(現宇和島市,旧吉 田町)を中心に増加(『愛媛県果樹園芸連史』).
◇「米津風月堂」(両国若松町〈現東日本橋1丁目〉)のビスケツト,上品な味が評判と なる.第1回内国勧業博覧会で賞を受ける.
*「米津風月堂」は風月堂より暖簾分けされた米津松造(1839~1908.12.31)が経営.
78年,チョコレート(猪口令糖)を製造販売.