right time right place

「正しいときに、正しい場所にいる」

うれしいことや、いやなこと。
なんでもとりあえず、必然だと思ってみる。

痛む胃のこと。

2013-11-29 10:44:43 | 日記


ここ数日間、絶賛胃炎中につき床に伏していました。
胃の調子が悪く、それゆえに食欲がわかず、であるからにどうも元気が出ない。
ううう、こうして書いている間にも…。
というのはウソで、それもなんとかおさまり、この散文を書き散らす元気も戻ってきました。


いま天体ものがお好きな方の間では「アイソン彗星」が盛り上がっていますが(消えちゃったんですっけ…)、
ぼくにとっての胃炎も周期的に回帰する彗星みたいなもので、
だいたい1年に一度はひどいやつに見舞われ、その間をげんなりとした気分で過ごすことを強いられます。


とは言え、たかが1年に一度の胃炎をブログのネタにできるのって、
ある種健康体の証というか、「馬鹿は風邪引かない」の見本というか、
そういうものですよね。


世の中にはもっと頻繁にいろいろな種類の体調不良に見舞われている方が少なからずいらっしゃるはずで、
そうした苦労を強いられている方と比べてみると、ぼくのところにやってくる年に一度の胃の痛みなんて、
超高性能次世代型望遠鏡でも観測できないような極小型の小石に満たない彗星(そんなのあるのかな)に過ぎないように思えます。



と言ってみたところで、小石でも、痛いものはまあ痛いのですが。



ぼくの「年イチ胃炎人生」が始まったのは、大学を卒業してからのこと。
社会人と呼ばれるようになった年のことからであります。
ある年は春に、次の年は秋に、またある年には夏に。
季節を問わず、しかし、律儀に年に一回のペースを守って、
ぼくのみぞおちの向こう側に異変が訪れるようになりました。



胃の痛みは、しばしば「がんばり過ぎ」の症状と診断されます。
オーバーワークとか過労とか言われ、まあ言われてみればそんな気もするものだから、
「働き過ぎに気をつけて。もっと肩の力を抜いて」といった穏当なアドバイスについ首を縦に振りそうになってしまいます。


たしかに、肩の力を抜けばいいのでしょう。
オーバーワークを避け、責任感を持ちすぎず、成り行きにすべてを任せるようにして暮らしていれば、
胃の痛みとも眠れぬ夜とも無縁のヘルシーな人生を生きることができるのだと思います。



そうなのですが。



ぼくにはどうも、この手の「もっと、リラックス」的なアドバイスをそのまま飲み込めない性質があります。
力を抜けって言われても、なんかなあ。
どうも不自然な姿勢を強要されているような感じがして、従おうとすると身体が言うことを聞かないのです。



ぼくは高校まで続けていたサッカーの中で、幾度となく故障を経験しました。
右足の足首が弱くて、何度もねんざをしてしまうんです。
その度にわりと痛い思いをし、包帯を巻いた足を引きずりながら学校に通う羽目になったことも少なくありませんでした。


一度そのねんざの進化版とも言うべきじん帯損傷に見舞われて、松葉杖生活まで体験したことがあります。
でも、べつにこんなこと、何らかのスポーツをやってきた人ならそれぞれに経験しているわりと普通のことですよね。


野球をやっている人だったら肩を痛めたことがあるでしょうし、
バレーボールやバスケットボールでは突き指が日常茶飯事だと聞くし、
ボクシングをやっていた友だちは試合の度に減量の負担から別人のような顔つきになっていました。



どれもこれも、総じて「不健康」極まりない事態です。
何が悲しくて身体の同じ箇所を繰り返し損傷し、
その理不尽な痛みをもたらしかねないその場所に戻っていかなくてはいけないのでしょう。



けれども、それでも、戻っていくんですよね。
ケガが治ったら、いや、ほとんどの場合治りきる前から、ぼくはボールを蹴っている少年でした。
どんなにケガをして痛い思いをしたって、嫌いになれずに、また始めてしまう。
やはり、風邪を引かない馬鹿なのです、ぼくは。



やはりというか、きっとぼくたちは、「健康第一」で暮らしていける生き物ではないのです。
ぼくたちが好むもののほとんどは、ぼくたちの健康を何らかの形で害するものなのです。


スポーツは適度にやれば健康的ですが、その面白さはだいたいその「適度」を過ぎたところにあります。
仕事だって精神の充足に効果を持ちますが、ぼくらはついつい「やりすぎ」てしまいます。
お酒も食事も、「飲み過ぎ、食べ過ぎ」にこそ楽しさがあったりするわけです。



ぼくの「年イチ胃炎人生」は、これからもきっと続いていくことでしょう。
もしかしたら、「年イチ」が「月イチ」とかに進化してしまうかもしれない。
それを避けて歩く道があることくらい、ぼくだって知っています。


けれども、そこは通らないんだろうなあ、おそらく。
ぼくは、繰り返しねんざをするためにサッカーをやっていたようなあの頃のままの頭で、
もうすっかり大人になってしまったいまを生きているのだと思います。



もうすっかり大人になってしまったいまでも、
足首を思いやることを忘れて夢中になっていたサッカーみたいに、
健康を思いやることを忘れてまでやっていられることがあるというのは、
それはそれで、馬鹿なりに、幸せなことなのではないかと思っているところです。





「人は健康になるために生きているわけではない。」
 ~解剖学者・養老孟司~

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