right time right place

「正しいときに、正しい場所にいる」

うれしいことや、いやなこと。
なんでもとりあえず、必然だと思ってみる。

人と人。

2012-09-30 20:15:10 | 日記

う~ん、なんかとても、気持ちいい!
ひっさしぶりな、この感覚。
よっ、待ってましたよ、心から。


9月はむやみに忙しくて、心が荒んだまま日々を過ごしていました。
働くことを、教えることを、耳を傾けることを、ぜんぜん楽しめない。
乾いた心のまま職場に身を置いて、仕事に想いをこめられなくて、毎日後悔しながら帰る。
来る日も来る日もそんな感じが続いたんです。
もう、ホントに、嫌だったし、苦しかった。

そんな9月が終わる今日、仕事終わりに同僚を誘って思ってることを話すことに。
普段そんなことしないのに、今日はなぜだかそうしたくなって。
今の自分への不満、会社への違和感、抱えているモヤモヤ。
包み隠したり、形を整えたりしないで、ありのままをありのままの言葉で。


こういうこと、昔は絶対できなかったな。
「愚痴を言う」とか、ありえないと思ってました。
そんなの弱い人間がする無意味なことだと思ってた。
でも、働くようになって自分のことを知るにつれ、私もれっきとした弱い人間だって分かりました。
卑怯だったり、ずるかったり、卑屈だったり、よくよくするする。

そういう弱いところ、ダメなところを「込み」で自画像を描き直すみたいなことを、今やっている気がします。
「そんなのオレじゃない」と否定してみたところで、オレですからね、事実。

弱さやダメさを取り込めたことで、人と繋がりやすくなった実感があります。
強さや立派さでは、人は通じ合わない。多分、それらは「カッチリ」し過ぎてるんです。
弱さやダメさみたいに、「やわらか」な部分で人は通じ合う。そう思います。


話しているうちに、気持ちが変わっていきました。
実は相手も同じようなモヤモヤを抱えていることを話してくれて、お互いの話が深まっていって。
仕事の忙しさとか、人手の足らない環境とか、そういう「外側」の部分に原因があると思い込んでた私の苦しさは
「自分ががんばれてない」という「内側」の不調から生まれてるんだって気付けたんです。

私たち「他人の目」はよく気にするけど、「自分の目」もありますよね。
「自分の目」に自分がどう映っているか。
「自分の目」に写る自分は輝いているか。
「他人の目」より前に、「自分の目」は自分を見てます。

苦しかった9月の間、「自分の目」が私を見る目線は冷ややかでした。
「自分の目」に写る自分がカッコ悪かった。
これが苦しさの根っこだって、分かったんです。
それも、理屈で理解した感じじゃなく、心の真ん中に入ってきた感じで。


こうして文章に書き起こすとなんてことない話かもしれません。
よくある人の悩みが、よくある形で解消しただけかもしれない。
でも、こんな風に気持ちが変わっていくことって「よくあること」じゃないと思う。
実際にそれを感じた生身の人間として、そう思います。
それは、一人ではきっとできなかった「小さな奇跡」なんです。


「愚痴でも言ってやろう」と思って入ったカフェを「がんばるぞ」って気持ちで出たとき、「人と人」のすごさを思い知りました。

今の自分がカッコ悪くて苦しいなら、カッコよく生きてみればいい。
誰よりも働いて、笑顔を配って、そういう自分に変わればいい。
他人も世界も変わらなくても、自分はすぐに変えられる。

力んだりせず自然に、そういう気持ちになったんです。
モヤモヤが薄まっていって、希望がじんわりと満ちていくような、そんな気持ちに。
二人してビックリでした。
「前を向こう!」って思って話し始めたんじゃなかったのにね。


でもきっと、いやかなり切実に、「前を向きたかった」んだと思います。
仕事帰りにカフェなんて普段しない行動を採ったのも、きっとチャンスを探していた無意識の導きで。
「一人じゃできない」ってことも、無意識は知ってたんでしょう。

胸のうち、話してよかった。
弱さやダメさをさらけ出し合って生まれる強さがあるんだってこと、分かりました。
人と人のかけ合わせ、バカにしちゃダメですね。
トンネルの出口は、気付かないくらい近くにちゃんとありました。



「一人で見る夢はただのファンタジーだが、一緒に見る夢は世界を変えられる。」(ジョン・レノン)

雑記。

2012-09-25 08:51:38 | 日記

またもやご無沙汰してしまいました。
よくわからないけど、今月は大変です。
みんな、お疲れさま。


久しぶりにブログを更新しようと思ってこうして書いているのですが、なんだかうまく言葉が出てきません。
(↑の文ですら5回くらい書き直しました。笑)
ブランクってよくないですね。感覚を忘れちゃう。

高校のサッカー部で怪我をしたときのことを思い出します。
比較的大きな怪我で、確か1ヶ月くらい運動できなかったんです。松葉杖ついてました。
怪我が治って「いざ!」と思ったら、身体が別人のように感じられて。

「以前の自分にできていたことが今の自分にはできない」っていう経験、本格的にはそのときが初めてでした。
これは、高校生で16歳の私にはショックでしたねー。
そのころって、「日々是成長」みたいな感じで、「明日は今日より良くなる」ってことを当然の前提として生きてました。
それだけに、「停滞」とか「後退」みたいなことに極端な恐れがあったんです。


それから10年(!)経って、26歳の今です。
10年経てばそれなりに考え方も変わるものですね。
今は「停滞」とか「後退」とか、さほど怖くありません。
「成長」へのこだわりも、あまりない。
「変化」を楽しもうって考えに変わってきています。


「成長」は英語にすると“grow up”。
「up=上へ」という方向性を想起させる言葉です。
成長は上を目指すこと。
具体的であれ想像の中であれ、「上」があって成り立つ概念です。

学生の頃は、分かりやすい「上」がありました。
先輩の姿、成績の数値、「なりたい自分」。
そうしたものを基準にして、今の自分は常に何かが足りなくて、その差を埋めていくことが成長でした。

それからいくらか大人になった今、「上」は以前ほど絶対的な存在ではないです。
上司とか、稼ぎとか、基準にできるものはあります。
「なりたい自分」だって、相変わらずいます。
でも、それらと今の自分を比較して、足りないものを埋めようとするってことがなくなった。

変ですよね。でも、面白い。


きっと、「ある方向を目指して一直線!」っていうものとは違う生き方を探しているところなんだと思います。
「上」だけじゃなく「横」だったり、ときには「下」にだって行ける。
そういう生き方。
まだ漠然としたイメージです。いつかうまく言えるようになりたい。

「方向性から自由になる」っていうのが大事なことじゃないかと思います。
「変化」を無色透明なものとして受け入れる。
「良い変化=成長」「悪い変化=後退」みたいな価値判断を止めてみる。


う~ん、やっぱりうまく言えないや。
またの機会に、もっと整った言葉で、必ず。

思考の断片。頭の中のメモ。言葉を綴ることのリハビリ。

「わたし」

2012-09-09 20:11:56 | 日記

皆さん、お久しぶりです!
長く留守にしておりました。
ちょっと嫌な感じで忙しい日々を続けてしまい、気付けば9月の今日です。
「忙しい」は「心を亡くす」ですからね。
なるべくやめるように。


忙しくしていると、ついミスも増えます。
そうすると余計に仕事が増えて忙しくなる…って悪循環なんですよね~。
でも、そういうことは起こるし、そういうときはある。
誰が悪いわけじゃないし、黙って(なるべく笑って)やり過ごせばいいんです。

それで誰かが怒ったって、いっしょです。
誰も悪くなくたって怒りたい人は怒るし、ただ怒りたいってだけの人も(残念ながら)いる。
怒ったって仕方ないことにだって、怒る人は怒る。
真正面から相手にせず、黙って頭を下げてやり過ごせば、だいたいはOKなんですよね。


予備校で怒る人といえば、ご想像の通り、「保護者」の皆さんです。
何かあれば、ときに何にもなくっても、保護者の皆さん、怒ります。
そうなると、やっぱり慌てます。
電話を握る手が汗ばんだり、声が変に上ずったり、敬語が重なりすぎて何言ってるのか分からない言葉を発したり、します。
でも、なにごとも経験。
場数(まさに)を踏むごとに、慌てたり凹んだりする度合いは減ってきました。
キーワードは「起きたことは仕方ない」と「なんとかなるさ」です。


「怒れる保護者」は「わたし」を主語にして話さない。
これ、最近自分の中で温めている仮説です。
別に保護者である必要はなくて、「怒れる人」でいいですね。
耳を塞ぎたくなるような辛らつな言葉でも、「わたし」を主語にして語られることってうんと少ないんじゃないか。

「怒れる保護者」が好んで使う主語は、「みんな」です。
「予備校では普通どこだって」「他の親御さんもみな」「お金を払ってる人なら誰だって」…こういう言い方、多いんです。
その人が感じた不満を、世間の常識的(多数派の)見解として伝えようとする。
こういう言い方は、どうしても嫌いです。
不満を持ったなら、それは他ならぬ自分の不満として伝えればいいじゃないですか。
「私はこうこう考え、あなた方のあの振る舞いを不満に感じた」って言えばいいのに。


「わたし」の不満が「みんな」を主語にして語られる。
これ、ちょっと気をつけないとなあと思います。
なぜ「みんな」を主語に使うかというと、それはきっと「わたし」を主語にしたときよりも簡単にパワーが出せるからなんです。
「わたし」を主語にして語ることと、「みんな」を主語にして語ること。
これはきっと、後者の方が楽ちんなんですよ。

大げさかもしれませんが
「わたし」を主語にして語られた内容について、「わたし」は責任を負うことが求められます。
「わたし」を主語にしなければ、その責任は発生しません。
この違いは、大きいですよね。
テレビの討論番組に出てくる「コメンティエーター」(なんなんでしょうね、あの人たち)みたいな感じです。
「わたし」を勘定に入れなければ、どんなことだって言えちゃうわけです。


「わたし」を主語にしたとき、その語りには必ずいくらかの節度を求める力が加わります。
語っている当の「わたし」が、ほとんどの場合、無垢でも秀才でもないからです。
「まあ、オレだってやっちゃうもんな…」という気持ちが入るか入らないかで、大きな違いでしょう。
「わたし」を主語にして人を傷つけるのは、限界があると思うんです。

でも、主語が「わたし」じゃなくて「みんな」になった途端、危ない感じになります。
主語が「みんな」になると、「わたし」が勘定から抜けちゃうんですね。
「みんな」を主語にして語ると、自分を簡単に棚上げできちゃう。
すると、「わたし」を主語にしたら語れないような言葉を語ることができる。


今騒がれてしまっている「いじめ」も、同じ根っこの問題かもしません。
「わたし」を(なぜか)省いた「みんな」を主語にして語られた言葉が、誰かを傷つける。
傷つくほうは、当然ひとりの「わたし」ですからね。



「みんな」を主語に語られる節度を欠いた言葉。
これ、他ならぬ自分がそれをやってないか、ホントに怖くなります。
ついついやっちゃってることが、案外すごくひどいことだったりするんですよね。

「みんな」じゃなくて、「わたし」でいること。
「わたし」として語ること。
ちゃんとしないと、つい楽がしたくなっちゃいますからね。
気をつけよっと。