中学2年生のときだったと思います、埼玉県は川越市に遠足に行きました。
クラスの5~6人でグループを作って(たしか、任意のメンバーではなかった)、
事前につくった行動計画のようなものに基づいて、
決められたコースを巡るスタンプラリーみたいな町歩き。
いま考えると不自由で窮屈なものに思えますけれども、
当時としてはこれでも日常で味わうことのない開放感が存在する、
それなりに楽しめたイベントなのでした。
一時的であれ「先生の目」から逃れられるわけだし、
服装も普段の制服ではなく私服が許可されていたし、
途中でお菓子を「買い食い」したって怒られないわけだから、
これは中学生のぼくにしてみれば革命的に息のしやすい一日だったわけです。
決められた行程を終えると、しばしの自由時間が与えられました。
この時間こそ、好きな友だちと好きなように遊べる、お楽しみの時間です。
みんながてんでばらばらに、街に散っていきました。
ぼくは普段帰り道が一緒になるような友だちとのんびり商店街を流していたのですが、
そんな比較的穏当なぼくらに、運動部を中心に構成される「やんちゃ」な男子集団から声がかかりました。
「××中のヤツらが来ている!各自石ころを携帯せよ!」
いわく、当時抗争関係にあったらしい隣の中学がときを同じくして川越に遠足に来ていたというのです。
まさかのニアミス、一触即発の危機。
すれ違いさまに投石による「市街戦」が勃発しかねないとのことで、備えをしておくようにということになったのです。
なんともスケールの小さい(石ころってね…)微笑ましい話ですが、その頃は真剣そのもの。
ぼくも高鳴る心臓の鼓動を感じながら、道ばたの石ころをポケットに忍ばせ、
ゲリラ戦を戦う兵士さながらの気分で川越の街を闊歩したのでした。
結論から申し上げますと、それらの石ころはどれも出番を迎えることもなく、電車に乗って帰宅する道すがらで捨てられる運命を辿りました。
血気盛んに武装してみたところまではよかったものの、いざそれらしき人たちとすれ違ってみると、
ポケットの石ころを武器に転じさせる勇気のあるヤツなんて、そうはいないわけです。
せいぜい、ガンを飛ばしてみたり、大声で威嚇(「オレ、○○(プロレス技の名前でも入れてください)できるからね!」とか)するのが関の山。
市街戦は起こらず、川越の街は普段の平穏を保ったままぼくらの遠足は幕を下ろしました。
こうやって書いてみると、なんらとるに足らない、いかにも中学2年生の中途半端さ全開のエピソードです。
でも、ぼくが思い出したのは、「石ころ携帯」を指示されたときに感じた、ある種の高揚感なのです。
ぼくは、地域の中でも平穏と評された中学校の中で、比較的まじめな友だちと気が合うことの多かった、
「穏健派中学生」の王道を行くような平凡な子どもでした。
そんなぼくですが、石ころで武装を進めていたとき、ぼくの心を支配していたのはワクワクとした胸の高鳴りでした。
戦闘行為への後ろめたさよりも、いや、その後ろめたさをあえて味わうことへの背徳感のようなものも相成って、
ぼくは日常生活で感じることのない生き生きとした充実感を、その時間に見出していたんです。
「武器をとれ」ということばは、ぼくらの動物的本能に働きかける、ある種の効用を持つことばであるように思います。
言うまでもなく、ぼくたちにんげんは、その歴史の中で幾度もの命の奪い合いを繰り返してきた動物種であります。
そして、現在を生きるぼくたちはみな、その歴史を生き抜いてきた、「勝者」の側の血を受け継いでいることになるのです。
穏当派が散り、過激派が生き残るのが闘いの理であるとするならば、
ぼくたちの血の中には、濃淡こそ違えど、他者を差し置いて自らの命をつないできた、
そういう「強者」の遺伝子が、確実に受け継がれている。
このことは、いつでも忘れちゃいけないなあと、思っています。
希望にも、戒めにも、どちらにもつながっていく話だと思うんです。
あの川越遠足の日、誰かが勇気を振り絞って先制攻撃をしかけ、
それをきっかけに交戦状態でも勃発していたら、
ぼくはおそらく、その戦闘員の一員として、投石に加わっていただろうと思います。
そこから逃げることっていかにも男らしくないし、面子も立ちませんしね。
そして、その戦闘行為の中で、ぼくは他人を傷つけることへの後ろめたさよりも、
それがもたらす非日常的なスリルと、「戦ってるオレ」への自己陶酔により、
たいへん「いい気分」に浸れたのであろうなと、想像します。
なんとも心もとないけれども、他ならぬじぶんがそういうにんげんだっていうことを、
たまには思い出してみることって、それなりに大事なことであるように思います。
「現代の暴力は単なる野蛮ではない。単なるエゴイズムでもない。
それは霊的危機の込み入ったほつれを解きほぐすものだと自称している。
それは救いの道、魂の癒しを名乗っている。」
~哲学者・レヴィナス~
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