right time right place

「正しいときに、正しい場所にいる」

うれしいことや、いやなこと。
なんでもとりあえず、必然だと思ってみる。

考えることについて考えるときにぼくの考えること。

2013-12-05 09:29:53 | 日記


朝ドラ「ごちそうさん」にヒロインの旦那役として登場する「悠太郎」がよくする姿勢に、「考える」ポーズがあります。
キュッと結んだ口から顎のあたりに手を乗せて、難しい顔をして遠くを見つめたりする、あれです。
そう言えば、ロダンの「考える人」像も、同じような姿勢をしていますよね。
どうやら、ああいう「手を顔のどこかにあてる姿勢」というのが、古来「考える」の定型みたいにして認知されてきているみたいです。



考えること。
これは、興味深い題材であります。



今日のタイトルは、珍しくスッキリと決まりました。(いつもは、わりと苦労するんです。)
村上春樹のエッセイ集に「走ることについて語るときに僕の語ること」というのがあるんです。
レイモンド・カーヴァーの短編集に「愛について語るときに我々の語ること」というのもあります。
たぶんこちらが源流で、英語にすると(もともと英語ですが)"What We Talk About When We Talk About Love."。
いかにも英語らしく、きれいに韻を踏んでいるところが素敵です。



「考えることについて考える」なんていうと、
いかにも大層な、もしかすると深遠な、かなりの確率でとっつきにくい、
難しい話が始まりそうな予感が漂ってきます。


この「考える」ということばの持つなにやら重厚な雰囲気の中にこそ、
ぼくが考えることについて考えてみたい(ややこしいですね)事柄が存しているように思います。



考えることは、すごいことなのか。
それは、難しかったり、偉かったり、高尚だったりするのか。



考えることは、呼吸することに似ていると思います。
考えることには、技術も、資格も、免許も何もいりません。
子どもにも大人にも、部長さんにも課長さんにも、奥さんにも旦那さんにも、誰もに等しく開かれている行いであります。
ふぐの調理とか、スーパーコンピューターの設計とか、水陸両用バスの運転とは、この点で大きくちがっています。


けれども、誰にでもできることだからといって、
それを簡単とか単純と見なす態度は、拙速として咎められなければなりません。


事実、誰にでもできることであっても、
その仕組みは実は大変に複雑かつ高度なものであるという場合があります。



たとえば、ぼくらは本を読むときに「飛ばし読み」という読み方を採用することができます。
開いたページを一瞥し、「大事そうなところ」とそうでないところを瞬時に判別し、前者に相当する部分だけを読んでページをめくる。
これは、いまのところ、コンピューターにはできない人間の特殊能力ということになっています。


考えてみると不思議です。
どうして、開いたばかりの、当然まだ読んでいないページの中から、
「大事そうなところ」を予め(多少の当たり外れはあるにせよ)識別することができるのでしょうか。


経験とか、語彙力とか、文脈読解術とか、専門的な要因は様々あろうかと思います。
けれどもまあ、ここはひとまず、「ぼくたちには、そういうことができるんだ」というところで話を収めさせてください。
とにかく、ぼくたちは、コンピュータにできないことをやってのけることができる。
しかも、特別な苦労もなしに、なんとなく。手を口にあてることもしないで。



考えることについて考えるときにぼくが考えることは、このことです。



ぼくたちは、こうしている今も、いろいろなことを考えているのです。
そんなつもりはなくたって、特別意識しなくても、ぼくたちの頭は勝手に考えることを続けています。
ぼくがこうやって駄文のタイピングに夢中になっている間も呼吸することを忘れていないみたいにして。


そして、それらの考えは、「飛ばし読み」が実はそうであるみたいに、思ってる以上にすごいものだったりするんです。
どんなスーパーコンピューターも、有名大学の教授さんでも真似できないようなすごい考えが、
こうしている今にも、ぼくらの頭の中で勝手に生まれていることを否定する根拠は、どこにもありません。



「考える」ということばが身にまとっているある種の荘厳な印象は、
そう遠くない未来において、時代遅れの幻想として切り捨てられる運命をたどるのではないかと、ぼくは勘ぐっています。


考えることは、ほんとうは、難しくも偉くも高尚なものでもない。
むしろ、難しくも偉くも高尚でもないし方で生まれてくる考えが、実はすごいものだったりする。
考えることは、もっと自然で、肩の力が抜けていて、無色透明無味無臭であるようなときにこそ、本物なのだ。


ぼくは、いまのところ、そういう風に考えています。



ぼくたちはふだん、呼吸について特に考えることなく日々を暮らしています。
ぼくらがそれについて考えるのは、何らかの不具合で呼吸に問題を抱えてしまった場合に限られるでしょう。
考えることもそれと同じであろうと思います。


考えることについて考えるときにぼくが考えることは、「考えないのが一番いいのだ」ということです。
ぼくがわざわざ構えて「考えるぞ」とポースをとるまでもなく、
ぼくの頭の中ではさまざまな考えがこうしている今も半ば自動的に生産されている。


それらの考えを信頼して、頭を空っぽにしておくぐらいが、きっとちょうどいいのです。



…ときれいに結んでみたものの、それができずに「考え過ぎ」に陥ってしまうのが、他ならぬぼくの悪癖であります。
「『考え過ぎ』にならないためには、どうすればいいのか」と考えているいまのぼくこそが考え過ぎの代表例であり、
そのことをこうして記述しているぼくはさらに輪をかけて考え過ぎており…以下、無限。


こんなときは、昼からも放送している「ごちそうさん」でも見て気分を替えるのがいちばんであります。
「ゆず」の主題歌が歌っているではありませんか。

「どんな君でも愛している」


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