中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第5回目):(3)本庄を目指して長閑な散策

2013年02月14日 04時15分06秒 | 中山道六十九宿

                  <長閑なキャベツ畑が続く>

[改訂版] 歩いて巡る中山道六十九宿(第5回);(3)本庄を目指して長閑な散策
              (五十三次洛遊会)
           2010年3月13日(土)

※本稿の初出は2010年3月17日である.
 初稿の地図を改訂し,本文の加除修正をおこなった.

<ルート地図>


※再掲



<岡部中宿へ>


■宝登山神社
 岡部六弥太の墓近くの交差点を通過して,北西に進路を取る.地図によると,この辺りの標高は48メートルである.海から大分離れているのに,鎌倉の高台にある我が家より標高が10メートルほど低いのは意外である.
 11時34分,宝登山神社の脇を通過する.この神社の境内は17号線沿いに隣接している.神社の由来も分からないまま通過する.
 帰宅後,インターネットなどで,この神社のことを調べたが,あまりはっきりしたことは分からない.


<宝登山神社>

■姿の良い塚(雲雀塚?)
 辺りの風景は,だんだんとのどかな郊外に変わる.広々としたキャベツ畑の向こうに,大きなビニールハウスが見えている.心地よい散策路である.
 11時37分,進行方向右手,つまり北側に小綺麗な塚がある.沢山の木が生えている塚の上には小さな祠がある.
 「何だろう・・?」 
私一人で歩いているのなら,当然,この塚を見に行くところだが,残念ながら,今日は団体行動.黙って自粛する.
 地図で確かめると,この塚はどうやら雲雀塚というらしい.
 資料6に,雲雀塚の記事が掲載されているが,果たして,下の写真の塚が本当に雲雀塚かどうかは,私には分からない.


<雲雀塚かな?>

■島護産泰神社
 北西に真っ直ぐな道が続く.
 途中のY字型分岐を右に進む枝道に入る.地図を見ると「蛇喰」という面白い地名のところである.やがて十字路が見えてくる.
 11時43分,この十字路の手前にある島護産泰神社に到着する.私たちは直ぐ前の十字路を右折する予定である.この神社の境内を通り抜けて近道があるのではないか思ったこともあって,境内に入ってみる.境内の奥には,なかなか立派な社殿が建っている.
 資料7には.「景行天皇の御代,日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国平定の途中に,当所で皇運の隆昌を祈願されたという.旧称「島護明神」.社地の東北は低地地帯で,たびたび利根川の水難を被った.この地方は,南西島,北西島,大塚島,内ヶ島,高島,矢島,血洗島,伊勢島と瀧瀬,小和瀬,横瀬,中瀬の四瀬八島に分れ,これらの住民たちにより,当社を諸島の守護神として信仰したことにより,「島護」の名がついた.また榛沢郡の総鎮守という.天明3年(1783年)の浅間山の噴火,利根川の氾濫のときに,当地方で災難を免れることができたのは,当社の霊験によるものといわれた. 文久元年(1861年),皇女和宮殿下の御降嫁の折り,中山道に面した鳥居前の社標に,[榛沢郡総鎮守安産守護神」とある文字を御覧になって,篭を停め御翠簾をあげさせ,容を正して御遥拝されたので,村民は遥かに御宮を拝して,慈しみに感じ入り,弥さらに奉斎の念を深からしめたという.また安産の信仰から,周辺地域からも多くの参拝がある.旧社格は,郷社.」という説明がある.
 傍らに建つ案内板によると,「この神社の創立年代は不明.旧榛澤郡内の開拓が,当神社の加護により進められたため,郡内の各村の信仰が厚くなり,総鎮守といわれるようになったと伝えられる.このために当神社の再建および修築等は,郡内各村からの寄付によりなされた.祭神はニニギノミコト・コノハナサクヤヒメノミコトという.当神社を島護(しまもり;“とうご”等とも読まれている)と称するのは,この地方が利根川のしばしばの氾濫により,ことに現在の深谷市北部に位置する南西島,北西島,(中略),中の地名をもつ地域(四瀬八島(よせはっとう))は,常に被害を受けたため,当神社をこれらの守護神として信仰したことによると伝えられる.また,当神社は,安産の神として遠近より,信仰者の参拝が多く,この際には,底の抜けた柄杓を奉納することでも有名である.4月10日の春祭りには,里神楽が奉納される.」

<島護産泰神社>

<道の駅>

■国道17号線沿いの道の駅へ
 神社の境内を抜けることができないので,参道入口まで戻る.そして,交差点を右折する.緩やかな下り坂を進むと,直ぐに視野が開ける.目の前には広大な芝生が広がっている.ここは水質管理センターである.広場の先には,国道17号線が走っている.その国道沿いに道の駅の建物が見えている.
 11時50分,私たちは道の駅に到着する.沢山の人が集まっている.道の駅の建屋の中に入ってみる.土産物,飲料,食品などの売店が並んでいる.
<道の駅>

■道の駅で昼食
 道の駅の建物の広さは500平方メートルほどもあるだろうか.売店の奥に「そば屋」がある.私たちは,ここのそば屋で昼食を摂ることにする.私は,冷やしうどんを注文する.
 食堂は丁度昼時なので結構混雑している.

<道の駅で昼食>

■道の駅展示場
 昼食後,まだ集合時間まで間があるので,道の駅展示場を覗く.壁一面に,道の駅の近くにある宿場の案内図が掲示されている.なかなか良くできているので,デジカメに収める.
 折角の展示場なのに,誰も入ってこない.

<熊谷宿案内図>


<深谷宿案内図>

<滝岡橋を渡って本庄へ>

■道の駅を出発
 昼食を終えた私たちは,12時36分に道の駅を出発する.

<集合して,いよいよ出発>

■大種(?)山
 数分ほど往路を戻って,もとの交差点に到着する.交差点を右折して,再び旧中山道を北西に歩き始める.地図を見ると,この辺りにはいくつかの社寺が集まっているようである.
 12時42分,進行方向左手に,寺の山門が見えている.山門には「大種(?)山」と書いてある.デジカメを望遠にして写真を撮るが,山号はハッキリわからない.まあ,いいか.


<名称が分からない寺>

■八坂神社

 12時48分,岡迺宮神社参道入口と思われる場所から,案内板に従って左に分岐する細い道に入る.閑静な田舎道を進むと,やがてやや急な下り坂になる.12時49分,坂道の左側の斜面にある八坂神社に到着する.
 やや小さく質素な社殿である.
 
<小さな案内板に従って路地へ入る>                                     <八坂神社>

■百庚申
 八坂神社に隣接して,坂の斜面に沢山の石塔が密集している.ここが百庚申である.
 近くにある案内板には,以下のような説明がある(一部省略.書き換え).
 「百庚申が建立されたのは幕末,庚申の年(1860年)で,岡の有志13人により計画され,翌年の蔓延2年にかけて完成を見た.このことは,庚申塔群の中に大型の板石に庚申と記した庚申塔があり,その裏面に刻まれている文字によりうかがいしることができる.これによれば,百庚申造立の中心人物は,「田島新兵衛,田島喜蔵,(中略),発起人中野屋宗助.」という人物であったことが分かる.もともと,この場所には,1716年(享保元年)に造立された庚申塔があって,二十二夜待塔,馬頭観音の石塔が立っていた.万延元年は,徳川幕府の大老井伊直弼が江戸城の桜田門外において水戸藩士達により,暗殺されるという大きな事件があったり,黒船来航により永い鎖国の夢をやぶられた日本の国情は騒然としたもので,民衆の生活も不安なものであった.このような状況にあって神仏に頼ろうという心理と,万延元年(庚申の年)がかさなり百庚申塔が造立されたと言えよう. 平成3年3月 埼玉県・岡部町.」(一部省略)
 この説明文を読んで,私は自分が住んでいる鎌倉と意外な結びつきがあるのに気がつく.
 鎌倉の大町に上行寺という日蓮宗のお寺がある.この寺に桜田門外で井伊直弼を襲撃した水戸浪士の1人,広木松之助の墓がある.松之助は,上行寺にかくまわれていたが,ここで切腹して果てたと伝えられる(鎌倉商工会議所(監),2009,p.105).
 私は,今日ご一緒しているメンバーも,2回ほど上行寺に案内している.この百庚申の説明文を読んで,上行寺の広木松之助の墓のことを思い出してくれる人が1人でもいることを期待しているが無理だろうな・・・
 街道歩きをしていると,思わぬところで,思わぬことが結びつく意外性が,実に楽しい.

<百庚申>


<百庚申の写真を撮る>

■滝岡橋
 細い道を下り終えると自動車道路に出る.本来の中山道は,この自動車道路を通り抜けて真っ直ぐ続いていたが,今は畑や堤防下の荒れ地になっている.ここで,右折して自動車道路に入る.この自動車道路をほんの少し進んで直ぐに左折,消えた旧中山道と平行に走る道路を進む.
 この辺りで,一行の1人が,小賢しく,
 「・・こっちですよ・・」
と私に指示をする.
 「・・あなたに言われなくても,とっくに分かっていますよ・・・あなたが持っている地図より,ずっと詳しい地図を準備しているんだから・・・」
と心の中だけで言い返す.口に出すと,角が立つので,ジッと我慢である.
 12時58分,小山川に架かる滝岡橋に到着する.重厚な感じのする花崗岩で作られた欄干が見事な橋である.橋のたもとに設置されている石碑によると,この橋は1928年(昭和3年)に建設された.橋の長さ147メートル,幅7メートル.文化庁登録有形文化財になっているようである.橋から小山川の長閑な風景を見下ろしていると,心が和んでくる.

<滝岡橋>

■諏訪大明神
 橋を渡り終える頃,前方にこんもりとした森の中に神社の社殿が見え始める.地図で確かめると諏訪大明神である.ちょっと,立ち寄ってみたい気もするが,今日は団体行動なので,立ち寄らずにそのまま直進する.
 暫くの間,堀田という長閑な集落の中を歩き続ける.

<諏訪大明神>
                                 (つづく)

[加除修正]

2013/2/14  ルート地図の追加と本文の加除修正を行った.

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;鎌倉商工会議所(監),2009,『鎌倉観光文化検定公式テキストブック』かまくら春秋社
資料6;http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/okabe2.html
資料7;http://fukapedia.com/wiki/%E5%B3%B6%E8%AD%B7%E7%94%A3%E6%B3%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE


「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/4d4f2f8589e58336b315f6885d3c4e33
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/ed8f433ca39604d605ffadf58c12a759
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e

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