中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第8回);第3日目(3);芦田宿

2013年07月25日 02時42分04秒 | 中山道六十九宿

                                                                   <芦田宿本陣>

 [改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第8回);第3日目(3);芦田宿
                    (五十三次洛遊会)
          2010年6月12日(土)~14日(月)

※本稿の初出は2010年7月21日である.
 初稿の地図を改訂版に差し替え,本文の加除修正を行った.

第3日目:2010年6月14日(月)
 (つづき)

<ルート地図>

■芦田宿・笠取宿

                      ↓
■芦田宿拡大図               拡大


<芦田宿に到着>

 ■芦田宿入口

 休業中の「レストラン笠取」の庭で立ち休憩を取った後,10時44分に出発.
 緩やかな下り坂を進み,芦田川を渡る.川を渡ると,ごく緩やかな登り坂になる.
 10時47分,中居という交差点に到着する.交差点手前左側に「芦田宿入口」という案内杭が立っている.その傍らに常夜灯を模した塔が立っている.辺りは田畑と民家が混在している田園地帯である.自動車の往来も殆どなく,人気もない.

<芦田宿の常夜灯を模した案内塔>

■大庭遺跡
 地図で確かめると,信号中居から南へ100~200メートルほど下ったところに大庭遺跡がある.私としては,一寸だけ立ち寄って見たかったが,先頭を行く2人がどんどん先へ行ってしまうので,とりつく島がない.いつの日にかチャンスがあったら立ち寄ることにして,やむを得ずここには通過する.この辺りがグループ行動の辛さである.
 資料10によると,「
大庭遺跡は、芦田川の氾濫原である沖積地に形成された縄文時代,古墳時代,奈良時代,平安時代わたる複合遺跡である.
 
平成元年の発掘調査により検出された遺構は,縄文時代前期中葉・後期初頭(約6500年~4000年前)の竪穴式住居が17棟,墓壙(ぼこう)(墓)が85基検出され,古墳時代末(約1400年前)~奈良平安時代の住居址(じゅうきょし)(約1200年前)が18棟,掘立柱建物址(ほったてばしらたてものし)(高床式倉庫)(たかゆかしきそうこ)が1棟検出された.
 
特徴は,各時代の過渡期に形成された遺跡あり,中でも縄文時代中期~後期にかけての集落は,南北60メートル,東西40メートルの範囲に11棟の大型で円形・楕円形の住居が配置され,その内側に墓壙(ぼこう)群が巡っている典型的な環状集落遺跡である.沖積地で湿気が多かったことにより墓壙内には骨片(こうへん),さらに柱穴(ちゅうけつ)には木材の一部が残存し,甕(かめ)の埋設,鉄平石(てっぺいせき)を敷いた屋内祭壇(おくないさいだん),玉斧(ぎょくふ),丸石(まるいし),石棒(せきぼう)等信仰に関わる遺物が祭壇周囲から出土している.
 
現在は貴重な遺跡保存のため、調査跡地は原形のまま覆土し史跡公園として保護・保存に努めている.」

■芦田宿概要

 いよいよ芦田宿に入る.
 資料5によると,「芦田宿は,中山道六十九次のうち江戸から数えて26番目の宿場.現在の長野県北佐久郡立科町芦田にあたる.難所であった笠取峠の東の入口にある.生糸の産地でもあった.天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば,芦田宿の宿内家数は80軒,うち本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠6軒で宿内人口は326人であった。」.
 資料3(p.148)によれば,芦田宿には本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠6軒を含めて80軒の家屋(惣家)と326人(男177人,女149人)の人口があったようである.

■道祖神
 10時51分,進行方向右手の道端にある道祖神の前を通過する.
 登り坂がやや急になる.交差点を渡る.両側に芦田宿の民家が建ち並んでいる.静かな街である.

<道祖神>

■立科町役場
 先ほど休憩を取った場所にはトイレがなかったので.立科町役場に立ち寄って,トイレを拝借することにする.
 中山道から左折して,広々とした2車線の道路を200メートルほど歩いた突き当たりに,立科町役場がある.周囲の鄙びた環境には不釣り合いなほどの立派で四角いコンクリートの庁舎である.
 庁舎の入口の階段を登る.建物の周囲には全く人気がなく,広場に駐車している車もない.庁舎に入るのは,何となく気後れがするが,まあ,叱られることもあるまいと思って,建物の中に入る.
 天井が高くて広々とした事務所である.私が平素行き馴れている鎌倉市役所は,立科町役場に比較するといかにもゴチャゴチャ,チマチマしている.
 事務所は静まりかえっている.受付らしいところで,
 「芦田宿の資料があったら頂戴したいんですが・・・」
と声を掛ける.
 近くに居た若い女性職員が,
 「どうぞ,そちらにあります・・」
と右手の手のひらを上にして資料のあるところを指し示す.
 「・・トイレも拝借します・・」
 厚かましくも私たちは,町役場のロビーで,ユックリと休憩を取らせて貰う.昨日今日と人の気配のないところばかり歩いていると,人の姿のある役場がとても居心地がよい.
 立科町が観光に力を入れているのか,宿場跡や,この地方に関連する有益な資料を入手することができた.役場に備え付けられている冷たい水をご馳走になって,11時08分,役場から外に出る.私たちが休憩を取っている間に,役場を訪れる方は1人も居なかった.絶えず沢山の市民が出入りしている鎌倉市役所とは大分違うなという印象を持つ.
 親切に応対して戴いた立科町役場の職員の方に,この場を借りて厚く御礼申し上げたい,
 往路を引き返して,もとの中山道に戻る.

<立派な立科町役場>

<芦田宿本陣土屋家>

■立派な門構え
 11時10分,本陣跡に到着する.長屋門って言うのだろうか.白壁の立派な門構えのお屋敷である.門の入口,向かって右側の門柱に「芦田宿本陣」と書いた立派な門札が下がっている.
 門の外から中を覗いてみる.人気は全くないが,敷地内にも説明文がある.どうやら中も見学できそうなので,恐る恐る庭に入ってみる.

<芦田宿本陣跡>

■本陣庭園
 鬱蒼とした植木の間に通路がある.その通路を辿ると,「芦田宿本陣」と書いてある木柱と案内板が立っている.案内板には,次のようなことが書いてある.
 「芦田宿は,慶長2年(1597年)に設立,江戸幕府の交通政策施行(慶長6年)より4年前で北佐久郡では一番早くできた.
 本陣土屋家は,問屋を兼ね,芦田宿の開祖でもあった.
 本陣御殿(客室)は寛政12年(1800年)に再建されたもので,イチイの木を使った京風上段の間があり,大名の宿泊を今に伝える「宿札」も残され,往時をそのまま伝える建物は,中山道唯一と言われている.」

<本陣跡の庭>

■建物の様子
 建物の内部は見学できないが,往時の間取りや,建物の特徴などの詳しい図面が表示されている.私には,建築のことは全く分からないが,間取り図を見ると,その規模の大きさに驚かされる.

<本陣の図面>

■建物の概要
 案内板の説明によると,「客殿は,間口5間(約9メートル)奥行11間(約20メートル)の切り妻造り.妻入り,桟瓦葺で屋根の前後に鯱をかかげている.玄関は唐破風・・(略)・・江戸後期の様式を良く表している.建物全体の規模が大きく,・・(略)・・,原型がほぼ完全に残され,江戸時代後期の建築物としては数少ない一つであり大切に保存されている」.

<脇本陣など>

 ■脇本陣山浦家

 11時14分,本陣と交差点を挟んで筋向かいにある脇本陣山浦家を訪れる.「脇本陣山浦家」と書いてある案内柱が立っている.
 資料7によると,「芦田宿には脇本陣が2軒あったが,そのうちの1軒が本陣の向かい側にあった山浦家脇本陣である.残念ながら昭和52年(1977年)の火事で焼失してしまい,今は駐車場の奥に「芦田宿脇本陣」と記された標柱があるのみ」とのことである.


■酢屋茂
 脇本陣と道路を挟んで反対側にある酢屋茂の建物を拝見する.木造の立派な建物である.私には,酢屋茂の由来は皆目分からないが,資料5によると現在も「みそ醸造 しょうゆ醸造 」をしているようである.
 酢屋茂の製品の評判は良さそうである.資料7には,「もう10年も昔の事ですが,この近くの宿で出された味噌汁がとてもおいしかったので詳しく聞いたところ,このお店の味噌でした.宿の人曰く,別に普通の味噌汁だけど? きょとんとしていましたけど...いつもおいしいもの食べているので特別だとは思わなかったのでしょう.『本当においしいお味噌はダシなんかいらない』って聞いた事ありますけど,ほとにそう思います.しょっぱい味がきつくなくて,まろやかなかんじです.」という感想文がある.
 何だか酢屋茂の味噌を味わってみたくなった.

<酢屋茂>

■正明寺
 11時22分,正明寺参道入口に到着する.長い敷石の参道を進むと,突き当たりに質素な造りの本堂がある.
 正明寺の宗派,山号,開基,開山などの情報をインターネットで調べたが,今のところ,全く分からない.ただ,この寺の境内にある枝垂れ桜が有名なようである.

<正明寺>
 
■芦田宿入口と常夜灯

 11時29分,国道142号線と斜めに交差する.交差点を渡ったところに常夜灯がある.ここで芦田宿も終わりである.
 私たちは,三十町の登り坂笠取峠に差し掛かる.今回最大の難所である. 
 
<芦田宿入口>                               <常夜灯>

                                        (つづく) 
[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E7%94%B0%E5%AE%BF
資料6:http://www.takeshige-honke.co.jp/
資料7:http://blogs.yahoo.co.jp/akira_o2ka/59370212.html
資料8:http://www.dynax.co.jp/sinsen/sake/kura/js_e/js_e_zenkoji.html
資料9:http://www.town.tateshina.nagano.jp/gaiyo/bunkazai/236/000212.html
資料10;http://www.town.tateshina.nagano.jp/gaiyo/bunkazai/238/000217.html

                              
[加除修正]
2013/7/25  地図の差替えと追加.誤字脱字転換ミスの修正,加除訂正, 推敲を行った.


「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/5fa70eabad873523eac122b21df6deec
 「中山道六十九宿」の次回の記事
 http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/82cb15566c7f823fd576f462683cccc9
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


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