中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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中山道六十九宿巡り(第11回);第3日目(6):信濃国から美濃国へ

2012年01月04日 03時54分55秒 | 中山道六十九宿

                                  <落合の石畳を下る>

      中山道六十九宿巡り(第11回);第3日目(6):信濃国から美濃国へ
                 (五十三次洛遊会) 
          2011年11月11日(金)~14日(月)

第3日目;2011年11月14日(月) 

<ルート地図:新茶屋・落合宿>



<島崎家縁の地>

■馬籠城趾

 12時27分に「中山道馬籠宿」と刻字してある案内杭を通り過ぎる.すると,これまで散策していた沢山の観光客の姿が全くなくなり,長閑な田園風景が広がりはじめる.あんなに沢山居た観光客はどこへ消えてしまったんだろうと不思議にすら思える.多分,観光バスで馬籠宿へ来て,ほんの数時間,馬籠宿内を散策して,慌ただしく帰って行くのだろうと想像する.
 もちろん,昔の面影が残る宿場を見学するだけでも楽しいが,宿場から次の宿場へと昔を偲びながら歩くのはもっと楽しいと私は実感している.
 やがて緩やかな登り坂になる.そして,12時34分,馬籠城趾に到着する.
 辺りは高台になっているだけで,一寸目には城趾らしい痕跡は何一つ見えないような気がする.傍らに案内板が設置されている.
 この案内板によると,「戦国動乱の時代,馬籠は武田信玄の領地となるが,武田氏滅亡後,織田信長の時代を経て豊臣秀吉・徳川家康の両軍は小牧山に対峙した.秀吉は徳川群の攻め上がることを防ぐため,木曽義昌に木曽路防衛を命じた,義昌は兵三百を送って山村良勝に妻籠場を固めさせた.馬籠場は島崎重通(島崎藤村の祖)が警備した.
 天昇12年9月,徳川家康は,飯田の菅沼定利・遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた.・・・・島崎重通は大群の襲来に恐れ,木曽川沿いに妻籠城に逃れた・・
」と,縷々説明がなされている.
 資料3(p.43)によると,馬籠城は妻籠城の前進基地だったようである.



■諏訪神社
 12時36分,諏訪神社に到着する.立派な鳥居が見えている.鳥居の先の階段を登るのが億劫なことと,時間がないことから,諏訪神社の参拝は省略して通過する.

<諏訪神社の鳥居>

■島崎正樹祈念碑
 諏訪神社のすぐ近くに島崎正樹祈念碑がある.
 資料1(p.230)によれば,島崎正樹は島崎藤村の父親である.この碑は正樹の次男,広助の奔走で1912年(明治45年)に建てられたものだという.
 資料2(p.120)によれば,島崎正樹は藤村の『夜明け前』の主人公,青山半蔵のモデルである.


■路傍の双体道祖神
 12時43分,双体道祖神を見つける.可愛いので思わず写真を撮る.
 道祖神の前に数輪の可愛い花が咲いている.この道祖神を可愛がっている地元の方の信条が伝わってくる.本当に心温まる情景である.


■正岡子規の句碑
 12時48分,正岡子規の碑に到着する.
 「桑の実 木曽路 出づ■■方 穐麦■■ 子規」
と書いてあるようだが,■の部分は浅学の私には読めない.
 後日,資料3(p.43)で確かめると,
     桑の実の
        木曽路出づれば
             穂麦かな
と書いてあるらしい.
 なお,同資料によると,この詩碑の隣には,名物「ワラビ餅」を商う新茶屋があったという.
 新茶屋はこの辺りの地名にもなっている.

<四季の句碑> 

■芭蕉の句碑

 12時52分,芭蕉の句碑に到着する.
三角形の大きな石柱が句碑である.句碑の前の「拓本禁止」の立札がちょっと目障りである.
 資料1(p.239)によると,この句碑には,
       送られつ
          送りつ果ては
             木曽の穐(あき)
という句が刻まれているという.
 資料3(p.43)によると,松尾芭蕉は49歳のときに,ここを通ったという.
 私たちは,時間を掛けて拝見する余裕がないので通過する.


<美濃国新茶屋に入る>

■木曽路の道標
 12時53分,「是より木曽路」と刻字した石柱の前に到着する.
 ここで木曽路は終わりになり,私たちはいよいよ美濃路に入る.


■国境の案内杭
 木曽路の道標のすぐ近くに国境を示す案内杭が立っている.その脇にもやや小振りのセク中があるが,何の石柱か分からない.
 この辺りが信濃国と美濃国の国境であった.また,つい近年まで,ここが長野県と岐阜県の県境であった.

<国境の案内杭>

■新茶屋一里塚跡
 12時54分,新茶屋一里塚跡に到着する.「一里塚古跡」と刻字した大きな石柱が立っている.江戸日本橋から83里目の一里塚である.

<新茶屋の一里塚>

<難所の十曲嶺>

■落合の石畳道
 12時57分,国境を越えてすぐに,石畳道に入る.この石畳道は岐阜県氏邸史跡になっている.
 石畳道に入るところに立看板がある.ここには,「この道,石畳遊歩道につき車の・単車進入せざる事 平成十七年十月 中津川市観光奉行」と書いてある.
 いかめしい口調の立札だが,何ともユーモラスでもある.
 「今時,文語調は珍しいな,それに観光奉行とは面白い」
私は,この立看板がすっかり気に入った.


■深山の石畳道
 すぐに石畳道に入る.
 林の中の静かな石畳道である.感激!
 暫くの間,緩やかな上り勾配の石畳道が続く.気分は最高.



<石畳道を行く>

■なんじゃもんじゃの杜
 13時01分,なんじゃもんじゃの杜に到着する.
 傍らの案内板の記事によると,“なんじゃもんじゃ”は,“ひとつばたごとい”のことで,古生代の依存木だという.私には「依存木」の意味が良く分からないが・・まあ,いいか.
 案内板によると,5月中旬になると真っ白な花が咲くという.また,この杜は1961年(昭和51年)に落合老人クラブの方々が植樹したものだとのことである.
 資料3(p.43)によると,“なんじゃもんじゃ”はモクセイ科の高木だそうである.
 なお,下の写真の右端にあるのは馬頭観音だろうか.良く分からない.

<なんじゃもんじゃの杜>

■TBSドラマロケ地
 13時07分,TBSドラマロケ地の案内板の前に到着する.
 私は,このテレビを全く見ていないので,何のことかサッパリわからないが,どうやら田中康夫の小説に出てくる人物のようである.
 資料4によるれば,「1987年 - 1990年にかけて日本テレビの『火曜サスペンス劇場』で,水谷豊主演で(このシリーズでは浅見光彦ミステリーと題して),8作品が放送された.2002年には,火曜サスペンス劇場20周年特別企画として,高嶋政伸主演で『貴賓室の怪人』が放送されて・・・・」と紹介されている. ん!・・日本テレビ? 要するに私には良く分からない. 


■石畳道から一般道へ
 13時13分,石畳道を歩き終わって,一般道に出る.
 江戸から44番目の宿場,落合宿まで,あと僅かである.

<石畳道が終わる>
                               (つづく)

[参考文献]

資料1;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料2:岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料3;五街道ウォーク事務局『ちゃんと歩ける中山道六十七次』
資料4;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E8%A6%8B%E5%85%89%E5%BD%A6


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