中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第1日目(6);今須宿

2012年09月27日 16時39分14秒 | 中山道六十九宿

                                                  <今須の常夜灯案内を覗き込む>

    歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第1日目(6);今須宿
           (五十三次洛遊会)
    2012年9月15日(土)~17日(月・敬老の日)

第1日目;2012年9月15日(土)  (つづき)

<今須宿地図>(再掲)




<今須宿>

■今須宿の概要
 今須宿は江戸日本バスから59次目の宿場である.資料3(p.320)によれば,宿内人口1784人.内,男891人,女876人.宿内惣家464軒,内,本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠13軒.
 資料1(p.152)によれば,ここは伊吹山の影響で雪に悩まされ,今須宿は交通のネックになっていた.難所のために問屋が7軒も置かれ,今須宿と垂井宿の間で板車が最初に許可されたという.


■妙応寺
 14時05分に今須の一里塚を通過した私達は,いよいよ今須宿に入る.
 14時07分,妙応寺の立て看板の前を通過する.地図を見ると,妙応寺はここから北,東海道本線の踏切を越えたところにあるようである.
 資料6には,「
今須宿の中ほど、国道21号線の高架を越えたところに「妙応寺」があります。この寺は室町時代の初め、正平15年(1360年)に、今須領主長江重景が、亡き母・妙応のために創建した県下で最も古い曹洞宗寺院です。門扉には菊花紋章が埋め込まれ、荘厳な本堂が建ち、五百羅漢が整然と並ぶ姿は壮観です。美濃三十三霊場の第18番札所でもあります。宝物館には史料・寺宝・妙応が使った枡・関ケ原出身の喜田華堂筆の縁起絵巻…などが残っています。また、この寺の裏山には伝説の巨人・ダダ法師の足跡があります。モッコ(縄を網状に編んだもので、主に土や砂などを入れて運ぶ)で伊吹山と養老山を作り、モッコから落ちた土で南宮山ができたと伝えられ、その時の足跡だといわれています。」という説明がある.
 時間があれば立ち寄って見たかったなと思うが後の祭りである.


<妙応寺の案内板>

■二つの橋を渡る
 14時09分に関前橋を,さらに今須橋の2本の小さな橋を渡る.
 辺りは人影が殆どない閑静な集落である.
 
                              <二つの橋を渡る>

■妙応寺入口
 二つの橋を渡って2分ほど歩いたところに,「妙応寺」と刻字した立派な案内柱が立っている三叉路がある.どうやら,この三叉路を右折すると,先ほど小さな立て看板があった妙応寺に通じるようである.
 東海道本線のガードの向こう寺の建物の屋根らしいものが見えている.

<妙応寺入口>

■本陣・脇本陣跡
 14時11分,本陣と脇本陣跡に到着する.
 ただ,ここには何の変哲もない現代風の民家が建っているだけで,当時の面影は微塵もない.民家の前に,ここが本陣・脇本陣であることを示す立て看板が立っているだけである.
 この立て看板の記事によると,本陣の広さは215坪,脇本陣は美濃16宿の中で,この今須宿だけ2軒あったという.また,本陣と脇本陣は,ここから直ぐ近くの今須小学校駐車場付近にあったようである.

<本陣・脇本陣の案内板>


<今須小学校>

■問屋場
 14時14分,トン耶馬に到着する.真っ白な壁が目立つ立派で大きな建物である.
 軒先に立っている案内板の記事によると,今須宿には一時7軒の問屋があったという.これは全国的に見ても珍しいことのようである.
 美濃16宿の内で,当時のまま,現在まで,その偉容を今日まで伝えているのは,この山崎家だけだという.

<問屋場>

■常夜灯
 14時15分,常夜灯に到着する.一同群がって常夜灯の案内板を眺める(冒頭の写真).
 板塀の奥まったところに立派な常夜灯が立っている.
 常夜灯の近くに立っている案内板によると,京都の問屋河地屋は,大名の荷物を運ぶ途中,ここ今須宿付近で,この荷物を紛失した.途方にくれて,金比羅に願を掛けたところ,幸いなことに荷物が出てきたので,そのお礼にこの常夜灯を建立したという.

<常夜灯>

■真宗寺
 14時18分,真宗寺に到着する.真宗大谷派の寺で山号は大渓山.
 帰宅後,インターネットで真宗寺のことを調べたが詳細不明.



<真宗寺>

■法善寺
 続いて,14時23分,法善寺に到着する.山号は金剛山.この寺の詳細は手許の資料では不明.

<法善寺>

■某神社
 14時23分,立派な鳥居の前を通過する.立派な灯籠が並んでいる.ただ手許の資料では,この神社の資料は見当たらない.

<某神社>

■車返しの坂
 14時29分,車返しの坂に到着する.こんもりと盛り上がった土手に石柱と案内板が立っている.
 案内板には次のような説明が書いてある.
 「南北朝の時,酔狂な人もいたものです.不破関屋が荒れ果て,板庇から漏れる月の光が面白いと聞き,わざわざ都から牛車に乗ってやってきました,その御人は公家の二条良基という人.ところがこの坂道を登る途中,屋根を直したと聞いて引き返してしまったという伝説から,この名でよばれるようになったのです.」
 正に酔狂な話である.

<車返しの坂>

■中仙道今須宿石柱
 14時30分,「これより中山道今須宿関ヶ原町」と刻字した石柱に到着する.
 私達も,いよいよ今須宿を通過して,柏原宿へ向かう.

<今須宿石柱>
                                 (つづく)
[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;「岐阜県十七宿散策ガイド」日本歴史街道美濃中山道連合・岐阜県
資料6;http://n-hp.com/navigate/public/mu8/bin/view.rbz?cd=103
資料7;「せきがはら巡歴手帖」関ヶ原町役場地域振興課

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/63afaca2318196b0600a06c7df3f6815
「中山道六十九宿」の次回の記事

http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/7274b604668dd45c939f588ec09e7e53

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