今日は5月31日。
今月の出勤回数をこなした私は、月末出勤することも叶わず、お休みです。
黄いろのトマト・・・は
宮沢賢治の本です。知っていますか?
一部、原稿が失われた話で、忠実に落丁のまま出版されています。
絵は、降矢ななさんが書いています。
ん?私ってば
宮沢賢治には「さん」をつけなくて
降矢ななさんには「さん」をつけるの?
んん・・・少々迷いますが、生きている人には「さん」を
もう、過去の偉人には「さん」とつけない方がいいよう・・かな?
きっと国語の先生に言わせたら、セオリーがあるのでしょうね。(*'▽')
黄いろのトマト・・・少々原本の抜け落ちた作品です。
なので、話の欠落部分は、想像するしかない代物です。
一方、作画の降矢ななさんは、私はとても大好きで。
見る人の心をゆさぶる
圧倒的な画面構成と色づかいが魅力的な人です。
この二人が合わさった本。
よまなきゃね(*^-^*)
少し、文章も多く
子どもには長いかと思います。
だから
「本読むよ、でも10分ね。
こんどの読み聞かせ会も時間が10分だから、
10分でどこまで読めるか見てみたいし。」
と子供に話、納得をもらって読み始めました。
『生まれたときはミイミイとなき蝶のように花の蜜をたべるあの小さなかあいらしい蜂雀』が
『銀の針のようなほそいきれいな声で』
『わたし』に語る、かあいそうなお話です。
本編の物語だけでなく、そこに聞き手と
神秘的な剥製の蜂雀が語りかけるというシュチュエーション。
そして、なんとも繊細な単語の羅列と、古い言い回しのはずなのに丁寧で引き込まれる文章。
そこには、今まで賢治がこの物語を書いたときから
現代までの時間を感じさせない物がありました。
案の定、本編の半分もいかないところで
「はい10分。」
ちょうどかの蜂雀は拗ねて、語るのをやめてしまうところです。
(この蜂雀は、かあいらしく繊細でうつくしいのに、すこしひねくれて居て、お高く留まっていて・・こんな蜂雀に好かれたいと思わせるような魅惑を持っています。)
「ええ~・・!もうちょっと!」
結局半分、物語の転換ぐらいまで読み進めてやめましたが
物語に引き込まれた子供たちは15分ほども本当に集中して聞いていました。
「もっと、ききたい!おかあさん、ひどい!いじわる!」
「でも・・・かあいそうな話だよ?蜂雀もそう何度もいっているでしょう?」
ま、その日は時間もなくて、結局後日、後半をよみました。
さて・・・・
読み終わった後、子供たちは感想も言えぬまま
なにがどう、と言えぬまま、布団にくるまっていました。
胸に去来するものを、言葉にはしがたかったようです。
なので
私はこういいました。
「なにがかあいそうか分かった?」
子どもたちからは、まあ少し感想がかえってきます。
「あなたたちは、大丈夫。
おかあさんとおとうさんがあなたたちを守っているから。
お母さんとお父さんが、あなたたちに色々なことを教えて、守っているから。
お父さんがお仕事でお金を稼いでくれて、お母さんがこうして傍にいて心を支えて
あなたたちはちゃんと守られているから。
大丈夫。」
そういうと、ああそうかと納得したように安心して眠りました。
物語に出てくる子供は、ほんとうにいい子だったんですけれど・・・
どうしようもないことで、悲しい目にあってしまうのです。
その子供たちが悪いわけでも全くないのですが・・・
ふう・・・(´・ω・`)・・・
宮沢賢治、恐るべし。
私でさえ、この物語をいま思い返してみて、曖昧に色ずく心模様を伝えきれません。
絵本仕立てになっていて、楽しいですよ。
よかったら・・・
今月の出勤回数をこなした私は、月末出勤することも叶わず、お休みです。
黄いろのトマト・・・は
宮沢賢治の本です。知っていますか?
一部、原稿が失われた話で、忠実に落丁のまま出版されています。
絵は、降矢ななさんが書いています。
ん?私ってば
宮沢賢治には「さん」をつけなくて
降矢ななさんには「さん」をつけるの?
んん・・・少々迷いますが、生きている人には「さん」を
もう、過去の偉人には「さん」とつけない方がいいよう・・かな?
きっと国語の先生に言わせたら、セオリーがあるのでしょうね。(*'▽')
黄いろのトマト・・・少々原本の抜け落ちた作品です。
なので、話の欠落部分は、想像するしかない代物です。
一方、作画の降矢ななさんは、私はとても大好きで。
見る人の心をゆさぶる
圧倒的な画面構成と色づかいが魅力的な人です。
この二人が合わさった本。
よまなきゃね(*^-^*)
少し、文章も多く
子どもには長いかと思います。
だから
「本読むよ、でも10分ね。
こんどの読み聞かせ会も時間が10分だから、
10分でどこまで読めるか見てみたいし。」
と子供に話、納得をもらって読み始めました。
『生まれたときはミイミイとなき蝶のように花の蜜をたべるあの小さなかあいらしい蜂雀』が
『銀の針のようなほそいきれいな声で』
『わたし』に語る、かあいそうなお話です。
本編の物語だけでなく、そこに聞き手と
神秘的な剥製の蜂雀が語りかけるというシュチュエーション。
そして、なんとも繊細な単語の羅列と、古い言い回しのはずなのに丁寧で引き込まれる文章。
そこには、今まで賢治がこの物語を書いたときから
現代までの時間を感じさせない物がありました。
案の定、本編の半分もいかないところで
「はい10分。」
ちょうどかの蜂雀は拗ねて、語るのをやめてしまうところです。
(この蜂雀は、かあいらしく繊細でうつくしいのに、すこしひねくれて居て、お高く留まっていて・・こんな蜂雀に好かれたいと思わせるような魅惑を持っています。)
「ええ~・・!もうちょっと!」
結局半分、物語の転換ぐらいまで読み進めてやめましたが
物語に引き込まれた子供たちは15分ほども本当に集中して聞いていました。
「もっと、ききたい!おかあさん、ひどい!いじわる!」
「でも・・・かあいそうな話だよ?蜂雀もそう何度もいっているでしょう?」
ま、その日は時間もなくて、結局後日、後半をよみました。
さて・・・・
読み終わった後、子供たちは感想も言えぬまま
なにがどう、と言えぬまま、布団にくるまっていました。
胸に去来するものを、言葉にはしがたかったようです。
なので
私はこういいました。
「なにがかあいそうか分かった?」
子どもたちからは、まあ少し感想がかえってきます。
「あなたたちは、大丈夫。
おかあさんとおとうさんがあなたたちを守っているから。
お母さんとお父さんが、あなたたちに色々なことを教えて、守っているから。
お父さんがお仕事でお金を稼いでくれて、お母さんがこうして傍にいて心を支えて
あなたたちはちゃんと守られているから。
大丈夫。」
そういうと、ああそうかと納得したように安心して眠りました。
物語に出てくる子供は、ほんとうにいい子だったんですけれど・・・
どうしようもないことで、悲しい目にあってしまうのです。
その子供たちが悪いわけでも全くないのですが・・・
ふう・・・(´・ω・`)・・・
宮沢賢治、恐るべし。
私でさえ、この物語をいま思い返してみて、曖昧に色ずく心模様を伝えきれません。
絵本仕立てになっていて、楽しいですよ。
よかったら・・・