it really is a cup of tea

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「孤独死」

2016-03-03 10:39:18 | 日記

与助は夢を見ていた。若い頃の夢が、いつか見た絵巻のように次から次からと現れる。外は雪が深々と降りつもっているだろう。その冷たい隙間風が、与作が寝ている煎餅布団を突き抜けて、容赦なく五臓六腑を責めている。

 与作は六十四歳、人間(じんかん)僅か五十年というが、それを十四年も生き存えてしまった。十八歳の時にもらった嫁との間に子は生まれず、与作は一代男である。その嫁も八年前にこの世を去った。
 体力が衰えたことから、年貢が納められなくなり、田畑と家を捨てて八年間、山中の荒ら家で独り生きてきたが、寂しいと思ったことはなかった。与作が拓いた一畝の畑で採れた野菜と、沢で漁った小魚や貝、山では茸や芋が与作の命を支えてきた。
 時折、麓の村から欲張り婆が残り物の古米を持って来て、山の芋や茸をどっさり背負篭に入れて帰る。与作が一人食うくらいの食料は、欠かしたことはないのだ保養肌膚

 しかし、最近は寄る年波には勝てずに、起きたり寝たりであったが、ここに来てとうとう寝込んでしまった。
   「もう、何日食っていないのだろう」
 支え棒の窓も、閉じたままで幾日か経っている。だが、一向に空腹感が襲ってこないのだ。這っていけば、食料はある。囲炉裏に火を熾すくらいの体力は残っ ている。温かい芋粥を作って腹に入れると、ちっとは気力が涌いてこようものを、布団の中から出たくない。このまま、じっとして夢を見続けていたいのだ迪士尼美語 世界

   「お、お前は弥助ではねえか、死んだと聞いていたが、生きていたのか」
   「……‥」
   「そうか、そうか、それは良かった、おら、お前に会いたかったのだ」
 与作と弥助は同い年である。一緒に野山を駆け回り、兎を捕えたり、スカンポや木苺を食べたり、秋には芝栗、木通がうまかった。
   「そうそう、タヌキの仔を捕えて、お前、母狸に見つかって尻を噛まれたことがあったなぁ」
   「……‥」
 後で弥助の親父に、野獣に噛まれたら死ぬこともあるのだと聞かされて、震えあがったものだ。
   「弥助、何か喋ってくれよ、おらを迎えに来てくれたのじゃなかったのか?」
 起き上がって、弥助の手を取ろうとして目が覚めた。
   「何だ、夢か」
 与作の目尻から、涙が一粒あふれ出て、耳朶を濡らした。
   「なあ弥助、おらを連れて行ってくれないか?」
 弥助の姿は消えて、板壁の隙間から陽が差し込んでいた。

 しばらくは、子供の昔に思いを馳せていたが、また睡魔が襲ってきた。

   「今度は女房のお松が来てくれたのか」
 お松は、与作に背を向けて、せっせと囲炉裏に粗朶をくべている。
   「お松、さっき弥助が顔を見せにきてくれたよ」
 弥助は、お松のことが好きだった。だが、お松が与作の嫁に決まったとき、何も言わずに引き下がった。与作は長男であったが、弥助は次男であった。次男はやがて家を出て、田畑を継ぐ男が居ない家に婿に入るか、仕事を求めて町へ出るしか生きる道はない。
   「弥助が村を出て行く日、お前は峠まで送って行こうと言ったなぁ」
 与作は、「行かん」と、お松の提案を無視した。弥助が可哀そうに思えたからだ。弥助は、お松を抱きたかったに違いない。与作も、幼馴染の弥助の思いを遂げさせても良いと思った。
   「弥助、一晩お松を抱いてもいいぞ」
 与作の口を衝いて出そうになったが、口を噤んでしまった。それは、弥助とお松までも屈辱すると思ったからだ。
   「お松、あちらの様子はどうかね」
 弥助と仲良くやっているかと言いたいのだ。お松は振り向いて、にっこりと笑った。
   「そうかい、弥助は優しいだろう」
 お松は鉄瓶に水を入れて、自在鉤にぶら下げた。
   「お松、もう食べるものは要らないよ」
 お松は、子供を叱るような表情を見せた。
   「食べないと、体力が持たないと言いたいのだろう」
 お松は頷いた。
   「駄々をこねているのではない、食欲が湧かないのだ」
 それでも土間へ降りると、お松は迷いもなく米櫃を開けると、米を一つかみ鉄鍋に放り込んだ。放っておけば、粥を煮て自分の口に運ぶのだろう。
   「お前なぁ、俺を死なせないためにここへ来たのか?」
 お松は、こっくりと頷いて、笑って見せた。
   「そうか、分かったぞ、弥助の差し金だろうが」
 お松と弥助が仲良くしているところへ、自分が行っては邪魔になるから、もっと生きておれということに違いない。
   「弥助、そこらで様子を窺ってニタニタしているのだろう、ここへ出て来い」
 お松の自分に向けた顔が、少し怒っているように見える。
   「お前さん、焼き餅を焼いているのかね」
 今度は窘める表情になって、行き成り与作の布団を捲って、手を握りしめた。
   「私は、お前さん一途に生きた女だよ、死んでからも浮気なんかしていないよ」
   「本当かね、若い頃お松はよく言っていたね、死ぬときはお前さんと一緒だなんて」
 お松は、「うんうん」と頷いた。
   「そのくせ何だよ、おらを置き去りにしてさっさと逝っちまいやがって」
   「そんなことを言ったって、仕方がないじゃないか」
 お松は不貞腐れている。
   「私だって、死にたくて死んだのではない、あれが私の運命だったのだから‥」
 元気で働いていたお松は、ある夜突然熱を出して寝込み、三日三晩魘されていたが、そのまま息を引き取った。
   「お前さんの泣き顔など一度も見たことが無かったのに、死んだ私の手を取って涙を零してくれたねぇ、嬉しかったよ」
 お松は何も喋らないが、与作にはそう言っているように思えた。

   「お松、お松、粥が吹き零れているようだ」
 与作は、叫びながら目が覚めた。もう、夕暮れ刻だろうか、赤い陽が差し込み、少し風が
出て来たようだ。すごく気持ちが良い。はらわたが凍り付いているように思えるが、決して冷たくも寒くもない。全身から、苦痛という苦痛がすっかり抜けだして、今は春の野で野苺を食っているような気分である。

   「お松、また来てくれたのか?」
 そう思って視線を向けたのだが、それは間違いだった。頭に掛けた手拭を取ると、真っ白の髪で母親のそれであった。
   「何だ、おっ母さんか」
 何も言わないが、「母親が来てやったのに、何だとは何事か」と、怒った表情である。
   「お松が来た頃のおっ母さんは、寂しかったのだろうなぁ」
 明けても暮れても、温和なお松に嫌がらせをして泣かせていた。与作がおっ母に注意をすると、いつも何度も繰り返していた。
   「お前を産んでくれた母と、他人の女とどちらを大切に思っているのだ」
 いつも黙ってしまう与作だったが、ある日ぶち切れて怒鳴ってしまった。
   「親と息子は、一世の隔たりだが、妻とおらは隔たりのない一心同体だ」
 お松を虐めることは、おらを虐めていることと同じである。これ以上お松を虐めるなら、おらはお松と共にこの家を出て行く。
 父は既に亡くなっており、この家の田畑は与作夫婦の肩にかかっていた。そんなことが出来る訳はないのだが、「おらは、いつも女房の味方だ」と母親に分からせたくて言ってしまったのだ。

   「この罰当たりが‥」
 母親は悲しげにそう言って黙り込んでしまった。与作の父親が死んだとはさえも泣かなかった母親が、井戸端で水を汲みながら泣いていた。
   「おっ母、あの時は御免よ、本当は心にもないことを言ったのだ」
 そのことがあってから、母親はお松に意地悪をしなくなった。自分には、もう味方は居ないのだと思ったからだろう。
   「あの世とやらで、親父に会ったかい?」
 母親は、後ろ向きのままで、頷いていた。
   「そうか、よかったな」
 戸を叩く風の音で、与作は目が覚めた。次から次と、夢ばかり見ているのは、眠りが浅いからだろう。それに、自分の死期が近付いているからなのだろうと与 作は思った。それは、孤独死と言われる見た目は哀れなものだろうが、与作の心は安らかであった。寂しくも心細くもない。ただ布団の中でじっとしていれば、 やがて訪れるものなのだ。
 もう、板壁の隙間から光は差し込まない。闇の中で目を開けてもどっちみち仕方がないことだ。
   「与作、与作、お前もここへ来てみろ、あの世も住み心地の良いものだぜ」
 弥助の声だ。
   「お前、喋れるじゃねぇか」
   「あたりめぇだ、俺はいまあの世から話かけているのだ」
   「へー、あの世からの声が、おらに聞こえるのか」
   「そうだ、ここにはもう妬みも恨みもない、変な想像をしないで、早く来なよ」
   「うん、だがなァ、おら兎を飼っているのだ、あいつを野に放してやらねばならない」
   「心配いらねぇよ、その兎なら既にここへ来ている」
   「死んでいたのか、可哀そうなことをしてしまった」

 喋り疲れた所為か、闇の中から強烈な眠気が襲ってきた。
   「弥助、おらは何も見えないのだ、ここへ来てくれ」
 返事は返ってこなかった。
   「お松、俺の手を取ってくれ」
 風の音が止みに呑まれた。