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本と音楽とねこと

スカートの下の劇場──ひとはどうしてパンティにこだわるのか

上野千鶴子,2019,スカートの下の劇場──ひとはどうしてパンティにこだわるのか(新装版),河出書房新社.(6.29.24)

なぜ性器を隠すのか?どういう基準でパンティを選ぶのか?セックスアピールかナルシシズムか?―女と男の非対称性に深く立ち入って、下着を通したセクシュアリティの文明史をあざやかに描く。初版刊行直後から大反響を呼び、またたくまにベストセラーとなった記念碑的名著。新装にあたり、「自著自解―上野千鶴子によるウエノチズコ」を収録。

 森岡正博さんの『感じない男』は、男の性欲を解発する、滑稽で倒錯的な妄想がこれでもかというくらい開陳された男性当事者研究の書であったが、本書は、その女性版、といっても、自己の経験よりも、下着(の表象)の変遷とそれにみられる人びと全般のセクシュアリティのありように重点を置いて分析したものだ。

 女はなぜああも同性の友人どおしでいちゃつくのだろう?
 これは、古くからの疑問であったが、こう言い直した方が適切かもしれない。
 男はなぜああも同性同士の身体接触を嫌うのだろう?

 わたしたちは、この問いについての答えをすでに与えられている。
 男同士のホモソーシャルな連帯においては、異性愛強制規範、ミソジニー(女性嫌悪)ともども、ホモフォビア(同性愛嫌悪)──身体接触は同性愛の「嫌疑」につながる──が貫徹するからだ。

 もっとも、お互いにパンティを贈りあうのは、かなり親しい間柄の友人です。女友だち、シスターフッドというのはおもしろいもので、人格が溶解するみたいな独特な親密さを持っています。洋服をとりかえっこするのはもちろん、あとちょっとのところで下着までとりかえっこするようなきわどい親しさが成り立つことがあります。女同士のあいだには一種の非常に身体的な親密さが存在することがあります。言語的なコミュニケーション以前に、ヒタッと体が寄っていく感じがあるのです。
 女学生同士のシスターフッドは、レズビアンと見られたり、異性愛への前段階と思われたりしがちですが、必ずしもそうではありません。異性愛を経過したあとの女たちの中にも、身体的な親密さが成り立ちます。ボディタッチやスキンシップがすごく多い。触るし、ひっつくし、抱き合うし、そうしたスキンシップは女性の間ではふつうです。身体接触はシスターフッドの一つの戦略です。つまり、一定の親しさのある人たちのあいだでそういうことをするというだけではなくて、逆に親しさをつくりだすために身体的なインティマシー(親密さ)を利用するということがあります。
 パンティを交換するというのはそれとよく似たところがあります。「シスターフッド」というのは日本では「姉妹愛」と訳しますが、文字通り一種の姉妹関係なのです。姉妹の間には、身体的なインティマシーと、人格が溶解するような関係があります。
(pp.107-108)

 上野さんは、女性身体の性的客体化とナルシシズムについて、次のように述べる。

 具体的な一つのイメージを思い浮かべますと、鏡ばりの部屋の中に女性が閉じ込められているというシーンを想定してみて下さい。鏡の面になっているところが全部男性の視線だとします。そうすると、部屋自体が男性だから、ここで女性の性的なファンタジーは男性の視線を媒介にしています。
 逆に、鏡ばりの部屋の中に男を入れておいて、女性の視線から見るというような逆転の構図が成り立つかというと、そういう形での男性の性的客体化は女性の場合には起きないようです。女性にとっての性的客体というのは、対象の身体ではなくて、自己身体でしかないのです。ですから女性にとっては自己が完全に二重化する。鏡ばりの部屋があって、その部屋の鏡にあたるのは男の視線で、中にいるのは女という、最初の構図は変わらない。ただ女が今度は、ぽちっと目を開けて見ると、相手ではなく鏡の中に自分が映っているというわけです。女性の性的なファンタジーは対象にではなくて、対象化された自己像にあります。女はそれに興奮するのです。
 これはナルシシズムと呼んでもいいと思います。ただ、ナルシシズムという場合、男のナルシシズムと女のナルシシズムが同じだろうか違うだろうか、という問題がのこります。ナルシシズムでも、自己充足的なナルシシズムと、自己客体化的ナルシシズムというか、自己に分裂を強いるようなナルシシズムという二つのベクトルがあるのではないか、と思うのです。
(pp.148-149)

 女性身体の道具化、商品化の弊害を思い起こすと、女性が「自己充足的ナルシシズム」を志向するところに、自己のセクシュアリティからの疎外から抜け出す可能性があるように思う。
 鏡映的(looking-glass)ナルシシズムとしての「自己充足的ナルシシズム」は、オナニズムもじくはレズビアニズムに向かうだろうが、女性身体の性的客体化を抑制する男が現れれば、ヘテロセクシャルであっても、セクシュアリティからの疎外の害悪は軽減されるのかもしれない。

 ひるがえって、女性の視線による男性身体の性的客体化、その可能性はあるのだろうか?

 かつて、女性誌に男性ヌード写真が掲載されたり、女性向けアダルトビデオが発売されたりしたことがあったが、どれも一過性の話題にしかならなかった。

 しかし、マジョリティとは言えないとしても、男性身体へフェティッシュな欲望をもつ女性はいることにはいる。

 岩井志麻子さんの『チャイ・コイ』には、女性から男性身体へまなざされるフェティッシュな欲望が細やかに描かれている。
 もっとも、それは、「ベトナムの美少年」という、日本からみたオリエンタリズムの表象でしかなかったわけだが。

 身体像の形成というのは女の子にとっては他者が、もっとはっきりいうと、男性が与える身体像を内面化していくプロセスといえます。身体像は、自力で自己調達できません。何らかの形で社会が与えるものですけれど、女の場合はそれは非常にはっきりしていて、男性の与える価値によって決まります。男の子の場合には、女によって身体像が与えられるということは考えられません。
 ただ最近は、女性の視線だとか女性の評価によって影響を受ける若い男の子が出てきたようです。しかも個別性のレベルではなく、規範性の高いレベルで起きているようです。いま、光GENJIが若い女の子に大人気ですが、彼女たちが客体化している彼らのボディ・イメージの共通の特徴は、性的な意味でニュートラル(中性的)な身体です。どちらかといったら、男性性がない身体です。非常に無性的で、抽象的な身体です。少女マンガに出てくるような少年の肉体です。すると今度は、女性が理想化する身体イメージが男の子たちの規範になります。そうすると、男の子たちのなかにも成熟拒否という現象が起きるかもしれません。体毛に対する拒否や、汗臭さに対する嫌悪──男らしさの身体イメージにマイナスの価値が与えられています。身体の客体化を拒否した女の子たちの復讐かもしれません。
(pp.166-167)

 これまで男性用化粧品の売り上げが伸びてきたが、それは男性身体の「女性化」──まなざされる身体への変化を意味しているが、セクシュアリティにおける圧倒的なジェンダー非対称をふまえれば、歓迎すべきことであるにちがいない。
 今後の課題は、男性が、貨幣と権力の獲得ゲーム──しばしば暴力の行使をともなう──から降りることができるかどうかにあるだろう。

目次
序 PR´E‐TEXTE―女だけの王国
1 歴史―下着進化論
2 家族―下着と性器管理
3 現代―パンティはカジュアル化する
4 心理―鏡の国のナルシシズム
5 生理―性器を覆う絹のラップ
自著自解―上野千鶴子によるウエノチズコ


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