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本と音楽とねこと

言葉を失ったあとで

信田さよ子・上間陽子,2021,言葉を失ったあとで,筑摩書房.(6.22.24)

「聞くの実際」。アディクション・DVの第一人者と、沖縄で社会調査を続ける教育学者。それぞれの来歴から被害/加害をめぐる理解の仕方まで、とことん具体的に語りあった対談集。

 カウンセリングと社会調査、仕事の土俵は違っても、虐待、暴力とそのトラウマに苦しむ多数の人びとと関わってきたお二人なだけに、鋭い観察眼が随所にひかる。

 女性に暴力をふるう加害者の男が、子ども期、虐待を受けていた被害者であることは多い。

 しかし、その被害者性を認めることには、加害者としての自らの免責につながりかねない危うさがある。

信田
 けっこうね、このへんのことってどこでも語られてないんですよ。被害者性を強調することが、彼らの加害責任を免責・免罪してしまうかもしれないという。この微妙で危ういバランスをどのように扱うのか、綱渡り的なところがありますね。
(p.213)

上間
 コミュニティに出入りする調査だからでしょうね。地元を共有している別の方の、子どものお祝いごとや誕生日に声をかけてもらったりしているので、
 信田さんがおっしゃっていた、お父さんと身長が並んだり超えたりした時期に和解する、というのはそのとおりで、和樹は自分を殴っていたお父さんのことをかばう。父親をかばうときに、母親のことを悪く言って、二人がつながる、そういう構図なんですよね。これは、ひろく、おうちにDVがある子の特徴でもあるように思います。元妻を殴った男性とお会いしているんですけど、彼のおうちは、兄が殴るひとなんですよね、母親がやられている。そのとき、彼は、兄ではなく、母がうまく立ち回らないことにいらだつんですよね。そういう構図がやっぱりあるなあと思って聞きました。
 私は暴力に対して腹が立っているので、生活史調査みたいなかたちで、被害者がなぜ加害者になっていったのか書くことは、やっぱり彼らの暴力の擁護という手法になるようにしか思えないでいるというか。調査によって尋ねられて自分の人生を語る、それによって気づきが進み、自分の被害者性を引き受けたりするようなものになるかどうか、まだわからない。
 書いたものを読んでくれて、だから自分は被害者として育ち、だんだん加害者になっていったんだと気が付いてくれれば、それはとても大事な話になると思うんですけど。でもなんか、男の子たちは読んだからといって気づくような気もしない。
 女性のほうが再帰的に自分の物語を構成したがっているような気がします。原稿にしたあと、付き合う恋人には必ず読んでもらうという子がいたり、本のゆかりの場所の名前を生まれた子につけた子がいたりして。そういう入れ子構造というか、再帰的に自己物語を構成しているというのを女性たちには感じるんですけど。
 男の子にそれを感じないんですよね。だからやろうと思わない。
(pp.214-215)

 セックスワーカーの権利擁護を行う者のなかには、一部の女性が、セックスワークを肯定的に受け入れていることを強調し、それが、性搾取であること、買われた女性の尊厳を損なうものであること、そして、セックスワーカーには、虐待や性暴力等、子ども期に不幸な経験をした者が多いことに目をつぶる者が少なくない。
 しかし、女性が、自由選択の結果としてセックスワークに就いているというのは、あまりに現実を見ていない暴論と言うべきだろう。

信田
 セクシャリティの戦略的利用というのは、その通りですね。
 それとセックスワーカー論とはつながっています。一部のひとたちは、過去の性被害とセックスワークをつなげるような言説を潰して回るようなところがあって。私は、やっぱりどこかでつながってるとしか思えないな。
上間
 そうなんですよね。そもそもセックスワークの権利を訴えるときのロジックの立て方が、ポジショナリティの問題を主題にして、「キャリア女が何を言うか、当事者のことを知っているのか」という、ずっと同じパターンですよね。
 私も批判されたことがあるんですけど、でも、原稿をちゃんと読んでもらえばわかるはずなんです。私はセックスワーカーの研究をしている同業者である研究者に対してその解釈は違うと、『こころの科学』の「貧困問題と女性」を書いたのです。当事者団体が貧困問題と関連させてセックスワーカーのスティグマを強化するな、そんなことを言うなと研究者に言ったからといって、目の前にいる社会調査で話を聞いた当事者は、自分が選べなかった状況を話しているのだから、研究者としてはそれを無視できないはずだという話をしたんですね。
 私は、ある当事者団体の闘いのための政治的な言葉によって、目の前の当事者の言葉の解釈を変更している研究者に対して批判しました。そこをポジショナリティの議論で批判されたので、そういう話ではないという思いがあります。
 同時に、そもそも当事者だから何を言ってもいいっていうわけじゃないという思いもあるんです。それぞれの体験は個々で違うし、沖縄のセックスワーカーになっている子たちの選べないことのすさまじさは、東京や大阪なんかとは違うようにも思うんです。それこそ中学生くらいから業界に出入りしているような子たちが、子どもをもってお金がなくなったときに、再び戻っているんですよ。
 未成年のときに働いていた子の話は本当にひどいですよ。計算すると、時給一〇〇〇円くらいで挿入までやってるみたいな実態があって、それでもおうちにはいたくなかったという話をするんです。そして、その子たちが業界に戻っているのは、豊かな選択から選びとられているわけではありません。だから、そこは文脈をきちっとわけて、分節化して丁寧に論じることをやっていくしかないと思います。
信田
 選択不能性というのは、大きなポイントですね。意味があるのかもわからないですけど。私も上間さんのもう一回読んで、どうしてこんな批判するのかなっていう。そのときから距離感があって。

 暴力の加害者は狡猾だ。
 被害者が自らの被害者性に気付かず、苦痛を容認してしまう、この不幸な罠に子どもながらに気付く教育が大切なのだと思う。

上間
 ただもう、それは語るに任せていて。この前はこう言ってたよねという言い方はしないで、バクッと、嫌でつらいことを話そうと思って、なんとか自分で腑分けしながら話しているんだなあと思います。
 話を聞いていると、とにかく加害者はズルいなぁと思うんですね。グルーミングというんですか、飼い馴らしていくんですよね、ほんとに上手に。それによって被害者が、自分も仕向けてしまったんじゃないかという思いを持たされてしまう。とくに幼いときに始まったものって、そういうふうになりやすくって。
 だから、そういう概念がもっと広がるといいなあと思います。加害者たちは、あなたを獲物としてターゲットとして馴致して、それを愛情だとかなんらかの交換関係ということにして、飼い馴らしたんだと。本人たちがそういう概念と解釈を手にすることができるといいなと思うんですけど。
 こういうグルーミングのなかで思わされていた認識は、そもそも警察の調書からは抜かれるんですよね。それは裁判では不利になるから。自分も好きだったかもしれないと思っていたので、そのときは訴えようと思わなかったとか、それ自体が加害者が仕掛けていることが広がらない。
 「嵌められている」、ずっとそういうことが周到になされているということの了解が本人たちにも伝わってなくて苦しんでいる。信田さんの教科書が必要だというご指摘は、本当にそうだよなあ、詳らかにされてないなあという思いがあります。
信田
 まさにDVと同じだね!まったく同じだなと思って。彼らのグルーミングってすごいから。ちょっとでも愛想尽かして家を出るようなそぶりを見せると、すぐにそれを感知するんですよ。なんとも言えない懐柔っていうか、お茶碗洗ったり、滅多に言わないこと言ってみたり、それを性行為でやろうとする男もいるしね。
 伊藤詩織さんの事件のときに山口某という男性が問題になりました。彼にしてみたら伊藤さんの態度が自分に対して好意を持ってるように思えたというのは、男性にとっても、教科書がなかった悲劇ですね。
 変な言い方だけど、警察の調書も含めて、歴史って男性の視点だから。昭和三〇年代四〇年代の小説なんて、今からは読めないでしょう。渡辺淳一の晩年の作品なんかほんとうにリアリティゼロですから。いちど八重洲ブックセンターで、渡辺淳一のサイン会をやっているときに出くわしたことがあるんですが、会場の三階から一階までずらーっとぜんぶ中高年の男性が列をなしてました。みんな女性ファンタジーを求めてるんだなって。
(後略、pp.246-248)

 暴力の加害者が自らの有責性に気付くのは難しい。
 当たり前だ、気付ける人間であるのなら、そもそも暴力などふるわないだろうからだ。

信田
 ふふふ、語るものもないっていうかね(笑)。ほんと、私厳しいから。
 なかにはね、こんな男性もいます。彼は、パニック障害になった娘から、もう父親とは暮らせない、顔も見たくないって言われて、家を出て会社の近くで一人で暮らしてるんですね。家族と再同居する条件として、娘に言われてカウンセリングにやってきたんです。
 一回目のカウンセリングでひととおりこれまでの状況を話してもらったんですが、二言目には「僕が悪かったんです」って言うんですよ、口ではね。「妻にも苦労かけました、ほんとに。」ってまるで反省してる自分を誇示してるみたいなんですね。
 二回目のカウンセリングで手渡されたのが、イラスト入りの歌集でした。
上間
 うわ、気持ちわる。
信田
 気持ちわるいでしょう?薄い本なんですけど、「いっぱい泣いていいんだよと言ってあげたい」とか。
上間
 相田みつをみたいな?
信田
 そうそう、そうそう(笑)。そういう短歌がいっぱい並んでて、ちょっと読み進めることができなかったんですが、せっかく持ってきてくれたのですから、「素晴らしい。うわ~、これ、全部ご自分でお書きになったんですか?」って。
 そうしたら、カバンから次々と歌集を出して、「ぜんぶ自費出版なんですよ」って。「こんなにいただいていいんですか?」って言ったら「あ、どうぞ。邪魔だと思うんですけど、どうぞどうぞ」って。
 これまでのカウンセラー生活で、何度も遭遇したことがありますよ、そういうの。
上間
 これ、なん、なん、なんのときに書いてるんですか?
信田
 どういうときに書いてるのかな。聞く気もないから聞かなかったけど。表紙も凝った紙でしたね。
 彼は、まちがいなく娘に対する言葉の虐待があったんです。娘が顔を合わせるのが限界になるくらいですから。ひょっとしたら性虐待もあったかもしれない。「もう、お父さんと同じ空気を吸いたくない」って、そういうことでしょう。
上間
 すごい破壊力ですね、あっぷあっぷです。
信田
 それでも、いいほうですから。
(pp.289-291)

 背筋がぞわっとした。
 ホラーである。

 以下の話は、さらに怖ろしい。

上間
 そうやって、特別な関係をつくろうとするんですかね?
信田
 そうですね。この対談を通して男性の暴力性の問題が通奏低音みたいになってますよね?私たちがカウンセリングでお会いするとしたら、妻が出て行ったとか、もしくは娘から親子の縁切りたいと言われているとか、そういうある種の外圧的なもので、何かを迫られて来るひとが八割方なんですね。そういうひとって、来てすぐ「僕が悪かった。本当に反省してます」って必ず言うんですよ。
 いちばん私が緊張するのは、性虐待の父。あのひとたちは、娘が言ってることが嘘だと思っている。
上間
 記憶にも留めてないということですか?
信田
 いや、自分からしたら愛情表現だと思っていたりするんでしょうね。だけど、娘が摂食障害で手首切ったりしてるわけだから、その治療に協力しないのは父として恥ずかしいわけでしょう。だから、最後のキーパーソンみたいな感じで来るの。主役みたいにして(笑)。
 前の日は眠れないわけです。性虐待加害者が来談した際にどういう顔して会ったらいいんだろうとか思って。きっと深刻な顔をして息絶え絶えじゃないか、とか。
 でも意外と本人は、けろっとしてるんですよ。それで拍子抜けしたりするんですが。中には最初名刺を渡してくるひともいて。こちらのほうが、どれほど大変な思いをしてるかって気を遣ったことが肩透かしをくらったように、意外とライトな感じです。「あっ、今日はどうも、お忙しいなかありがとうございます」って言って、たいてい核心を外したところから話を始めるんですが、そんな気遣いも必要ないんです。彼らは率直に「娘には悪いことをして」と言います。
 ああ、ついにここか告解の時間か、って思ってると、「でも先生、ほんとは娘はかわいそうなんですよ」って少し涙ぐむ。「どうしてあんなふうになっちゃったんでしょうか、哀れです」って。「なんでも親のせいにして、嘘までつくなんて、哀れでたまりません。あんな人間になってしまったのも、あんなふうに育てたのは僕にも責任があります」って。
上間
 つらい、聞いてるだけでつらい。すごい。
信田
 ですよね。それ聞いたときに、やっぱり呆然というかびっくりしちゃうわけですよ。前の晩に悩む必要なんかなかったんだって。そのとき同時に、ふざけんじゃねえよって言いたくなりますよ。でも、それ言ったら職業的にアウトなんで。クールに。
 「そうですか、じゃあお嬢さんのおっしゃったことはすべて嘘だとお考えなんですか?」「先生、ありえないでしょう?僕はいちおう真面目なサラリーマンとしてやってきて、妻とはいろんなことがありましたけど、娘はほんとにかわいいんです。性虐待だなんて、そうやって父親を陥れることで、自分が大学中退したり引きこもっていることを正当化しようとする。ああ、ほんとに情けない、そんな娘ですが、どうか先生、よろしくお願いいたします」というようなことを言うんですね。
上間
 完全な支配者ですね!どこからこのズレは直したらいいんですか?調査で語られたら、私、たぶんNGです。無理です。いやぁ、加害者の言葉をいっぱい聞かされるっていう体験はないのですが、とんでもないですね。
信田
 カウンセラーとして、暴力ふるってる側の言葉は、八〇年代からずっと聞いてきた気がします。日本でDVという言葉がまだ使われていなかったころからですね。
 一九九五年になって初めてDVが広がるようになりましたが、それ以前から依存症の本人や家族には数多く会ってきました。お酒をやめて半年経ったアルコール依存症の男性の話を聞いて、いっぽうでグループカウンセリングでの家族の話を聞くと、くくらしました。自助グループに通って回復を目指している彼らが、飲んでいるときに妻を殴ったり蹴ったり、酔って娘の体に触ったり、娘の面前で妻に性行為を強要したり、ものすごいことしてたわけですよ。
 だから、その父親のしれっとした感じは、私のなかでは既視感があるというか、精神科病院やカウンセリングで会ったアルコール依存症の男性たちとおんなじだって。だから、そんなに違和感はないです。目の前の模範的な態度の男性が、妻や子どもに対しては、想像もできないひどいことをしてる、こういう感覚は常にあります。 DV加害者プログラムを実施しているときの感じも、精神科病院で実施していたアルコール依存症患者さんのグループセラピーとおんなじですからね。グループの真ん中にファシリテーターとして座ったときの、彼らの刺すような視線は、生意気な女が出てきやがって、俺はほんとはアル中で入院するような人間じゃないんだ、妻のせいなんだ、でも早く退院したいから仕方なくおとなしく座ってるだけなんだ、って訴えてます。DV加害者のプログラムのファシリテーターとして最初に経験したのは、まったく同じ空気感でした。
(pp.292-296)

 鳥肌が立った・・・。

 以下は、痴漢行為も含めた性加害が、一種のパワーゲームとして遂行されているのではないかという指摘だ。
 目からうろこが落ちる思いがした。

上間
 あ、なるほど。このあと逮捕されなくて、健康的に過ごせるかどうか。・・・・・・身も蓋もないけれど、それはあるでしょうね。よりよい人生でありたいから、二度としない。
 結局、性加害に、自分の力を確かめてしまうような作用があるからなんですかね?痴漢を何度もして捕まってた方がネット上に書いてた記事を読んでなるほどと思ったんですけど、痴漢をしてるときに自分は、それが被害者にとってトラウマになってほしいと思っていたと。影響ができるだけあるようにと思って痴漢をやっていたと。要するに、痴漢のコミュニティではそれが競われている。そういうパワーをめぐる磁場から、どうにか逃れていくかしかないというのは、とても腑に落ちるというか。
信田
 なるほど。つまり、被害の深刻さを言えば言うほど、彼らは変な意味で、エンパワメントされるという。それってやっぱり、同じこと言ってるかもね。つまり、こんな被害を与えてしまって恐ろしい、死にたいくらいだっていうのと、どっかでつながってるのかもしれない。まったく対極なんだけど、被害者におけるトラウマの深度が加害者のパワーになっていく。
上間
 どちらも、自分のパワーの源泉みたいなものは、手放さないロジックですよね。そういうパワーの原理から逃れないといけない。被害者の受けた傷の深さそのものが、自分のパワーの証拠なわけです。性暴力をしているときもそれを確かめる。つかまったあと、反省しているときにであってもそれをパワーとして認知し、パワーのある主体になろうとする。
信田
 そういうことですよね。だから、自分が平和で心安らかに、みんなと仲良くなっていく生活がどうやったらできるのかを考えると、その円環を破るプログラムっていうふうにも言えるのかもしれない。いま思ったんだけど。
(pp.318-319)
 
 上間さんは、「腑に落ちるというか」と言っているが、わたしには十全には理解ができない。
 性加害の相手方(被害者)に深い傷を負わせることが、自分はそれだけ影響力のあることをしたのだという自己効力感につながる、ということかな。
 いかん、吐き気がしてきた・・・。

 いやはや、なんとも、想像を絶するもの凄い世界を垣間見た気分だ。

目次
まえがき 信田さよ子
第一章 言葉を失ったあとで 二〇二〇年一一月二七日
中立の立場とはなにか/加害者の話をどう聞くか/加害を書けるか/加害者が被害を知る/性被害の特殊性/仏壇継承者/暴力の構造を知る/スタイルの違い/学校が話を聞けない場所に/援助が料金に見合うか/質疑応答へ/加害者の普通さ/厳罰化は何も解決しない/言葉をいっしょに探す/ゼロ・トレランスの弊害/まずはいい時間をつくる/三つの責任
読書案内①
第二章 カウンセリングという仕事、社会調査という仕事 二〇二一年二月六日
精神科医にできないこと/教室の実践記録のおもしろさ/原点は児童臨床のグループ/沖縄から離れて/「性の自己決定」の実際/社会調査が示すこと/医者になるか、女性のアルコールやるか/女性の依存症の特異さ/八〇年代の精神病院の経験が一生を決めた/生身の人間の話がおもしろい/ネクタイを褒める/沈黙に強くなる
読書案内②
第三章 話を聞いて書く 二〇二〇年二月二三日
精神疾患の鋳型/解離は手ごわい/医療との関係/加害はパターン化している/精神科の役割/値踏みされている/お金をもらうか払うか/許諾のとりかた/書く責任/モスバーガーの文脈/身体は触らない/身体は自分のもの/聞きとりのあと/トランスクリプトの確認の仕方
読書案内③
第四章 加害と被害の関係 二〇二一年三月一二日
被害者元年/起源は七〇年代/仲間は当事者/学校現場の変化/公認心理師の国家資格/被害者の両義性/暴力をなくす練習/加害者プログラムの順番/加害者の書きづらさ/映画で描かれる暴力/打越正行さんの調査
読書案内④
第五章 言葉を禁じて残るもの 二〇二一年三月二七日
性被害をどのように語りはじめるのか/臓器がぶらさがっている感覚/フラッシュバックの意味/被害経験の読み替え/選択肢のすくなさ/家族の性虐待/語りのフォーマット/言葉を禁じる/性加害者の能動性/ユタを買う/一二月の教室/オープンダイアローグの実践
読書案内⑤
第六章 ケアと言葉 二〇二一年五月一一日
カウンセリングに来るひとたち/男性の語りのパターン/加害者の語り/加害者プログラムの肝/DV被害者支援と警察/家族はもうだめなのか?/使えるものはぜんぶ使う/親との関係を聞く/被害者共感の効果/権力と言葉/「加害者」という言葉の危うさ/ブルーオーシャンへ/被害者は日々生まれている/当事者の納得する言葉
読書案内⑥


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