「踊り念仏」で全国を行脚した一遍の人と思想とが、とてもよく理解できる。
現代まで継承されている「踊り念仏」と、一遍のそれとは、まるで異なるものだろう。栗原さんが思い描いているように、その踊りは床板を踏み抜くほど激しく、踊り手はトランス状態になる。倒れて死ぬ者がいても。「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」、狂ったように踊り続ける。白骨化した仲間の死体のそばで踊り続けていたというから、すごい。
栗原さん、『村に火をつけ、白痴になれ』では伊藤野枝に憑依されたかの如くポップな文体で思いっきりはじけたが、いくら、アナーキーな「踊り念仏」のスターとはいえ、鎌倉時代の僧侶である一遍に憑依されるのには、少し無理があったようだ。
それでもじゅうぶん楽しめる評伝である。
いくぜ極楽、なんどでも―他力の信仰をきわめた果てに家も土地も、奥さんも子どもも、全部を捨てて一遍は踊り狂った。その数奇でアナーキーな生涯を踊り狂った文体で甦らせた奇蹟の評伝。この地獄のような世界を極楽として生きるための、いま最も注目される思想家の傑作。
最新の画像もっと見る
最近の「本」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事