先日「親が死ぬまでにしたい55のこと」にコメントをいただきました。
そこで 「この父があちらの世界から戻ってくるという貴重な体験をしたお話しをいつか書きますね」
と書いていたのが目にとまりました。
遅くなりましたが本日はそのお話です(別に誰も待ってはいなかったとは思いますが)
こちらもつい先日書いたと思いますが きままん家の子どもたちは小学校のお受験というものを経験しています。
まぁ~1号さんって教育ママだったのね って思われる方は現存するきままん家の子供たちを知らない方
実際を知っている方は「何かの間違いよ」と一笑に付すと思われます 正解です
2号さんが年中組さんになる時に きままん家は大阪府池田市に住まいを移しました。
息子2号は生まれたときから髄膜炎やら小児ぜんそくやらとにかく病院と縁が切れることがなく
それは大阪に行っても健在で 喘息で入院してしまいました。
その退院を配偶者と迎えに来た2号さん・・・年長さんの秋でした。
帰る道すがら
「ねぇ なんで道を挟んだこっちとあっちに小学校があるんまちがわへんの」
『こっちはね緑が丘小学校、この辺の人はみんなこの小学校に行くんよ
こっちはね 大阪教育大学の小学校、試験があって合格した人が行くんよ』
「ふ~ん おもしろそうやね 姉ちゃん試験受ける」
その頃 お受験がなんたるものか知りもしないものだから 笑って『そうすれば』と答えた親もまた究極のアホだった
それからは まじめにお受験に取り組んで準備をしてきた方からは考えもつかないほどの冗談のような日々でした。
が、書くと長くなりますので割愛して・・・ 一次試験(筆記・面接)合格発表の日。
まさか 4倍の倍率を合格するなんて思いもしないものの 受けたからには結果くらい見ないとね
ということで2号さんに下の二人の世話をさせながらお留守番をさせて チャリとばして発表会場に。
着いたとたんになんか雰囲気がおかしい
ご父兄は両親揃ってスーツ姿で お子たちも幼稚園の制服や上品な面接スタイル。
「念のため・・・」状態の1号は忘れもしない膝の抜けたジーンズに時代遅れのブルゾン
でも ここまでは良かった
結果見たら帰るんだし・・・子供たちも待ってるし・・・。
貼りだされた掲示板
「えっ・・・」
もう一度見ても 「ある・・・番号がある」
これはなんだぁ
泣いてる方も・・・ その番号を写真に収める方もいる中で 違う意味で涙
「この後 クジひくんだろ どうするよ 本人いないよ
試験受かったのあの人なのに 親がひいたクジで不合格 まずいでしょ それは」
いろんな想いがグルグルで 「うれしい」とか全くなかったです ひたすら熊みたいに回ってた気がします。
だいたい知りませんでしたから 親と子が一緒にいなくてはいけないなんて。
ここで解説入れますと・・・
国立の小学校ではおおよそこのような受験様式のようでした 当時は。
面接はまずお子が三人一組で面接を受け 時間をおいて親がはいって面接を受けます。
筆記試験はその数日後
その二つを合わせた1次合格者が2次の抽選にのぞみます。
この抽選 合格定員より数十名多い数の1次合格者がくじを引きます。
箱に入っているくじの数は1次合格者より1枚多い数。
受験生が次々にくじを引いて 最期の残った1枚を校長先生が読み上げます。
その次の番号から定数が合格となるわけです 不正は一切できないよというスタイルのようです。
合格者が体育館に収監され 重い扉が閉じられました もう逃げ場がありません。
椅子は揃えて2客・・・右に父兄が左に受験生 当然1号の隣にはだれもいません。
腹をくくるしかないと思っても、やはり・・・
親子で手を握ったり 子の背中をさすったりする他の受験生親子の その後ろ姿を見ながら
出来ることは祈る事しかなく、「神さま 仏さま」よりかは もっと具体的で身近な神仏の名前を呼んでいました。
わずか1年前に旅だった父の名前を・・・。
「頼むからさ あの子を守ってよ」
何度も何度も念仏のようにそう唱え続けていました。
その時 ふっと見上げた2月の温かい日差しが差し込む窓に 笑ったんです 父が。
「なにうろたえてんだ あの子はもっとしゃんと試験受けてたぞ」って
たまに実家を訪ねたとき 孫を迎えたあの笑顔が 確かにそこにあったんです。
空いていた隣の席に温かく柔らかい風がとまりました。
「来てくれたんだ」確信できました もう窓には父の笑顔は何度見てもありませんでした。
震えていた膝も落ち着いて無事に抽選を終えることができました。
その夜 父の夢を観ました。
「お祝いだから今日くらい飲ませろよ」ビールをねだる父の笑顔でした。
肝臓ガンがわかってから一滴もお酒を口にしなかった父の久しぶりの酔顔でした。
はっとして飛び起きたその枕元には懐かしい父の匂いがして とても幸せで・・・
たぶん葬儀の時よりも長い時間 慟哭にも似た涙を流していた気がします。
もちろん翌朝 実家に電話をして 仏壇にビールを供えるように
それもちゃんとコップについでくれるように・・・と伝えました。
と ここまで お涙ちょうだいSTORYを書いてきましたが まぎれもなくこれは事実です
そして・・・ここまで冷静にしらっ~と読んできた2号さんが思っていることもわかってるので
コメントを入れられる前に書いておきます。
くじを無事に引いて・・・校長先生が読み上げた数字
たとえば合格者が80名いたとします、定員は60名 校長先生が引いた数字が50番だったとしましょう。
合格者は51番~80番 折り返して1番から30番までってことになりますよね。
1号にはこの「折り返す」ってのが理解できなかったようでですね。
1号がひいた番号は校長先生が読んだ番号より たしか前の番号だった気がします
で 「あ~あ」とおもって 他のくじに外れた方と一緒に退席してしまったんですね。
事が終われば早く帰らなくてはと上り坂をチャリ押してましたら・・・なにか後ろ髪を引かれるような気がして
立ち止まって指を折って数え直したら なんとなく なんとなく番号はいってるような気がして
歩道の真ん中で指折って数えてるおばちゃんをいぶかしがる小学生と伴に来た道を戻りました。
おそるおそる小学校の重い体育館の扉をノックしてみたら
「戻られて良かったです 電話しようかと思いました 合格おめでとうございます」
もうすっかりおバカがばれていた次第でした そそっかしいのは今に始まったことではなかったようです
わずか5年間ではありましたが とてもたのしい小学校でしたね。
自然観察三昧や夜中に屋上で流れ星を観察とか・・・手塚治虫先生の在籍中と変わらないくらい
自由な発想と企画で、本当に本当に親も子も楽しかったです。
あのまま あの教育熱心な地域に住んでいれば 子供たちの今も変わっていたかもしれませんね
でも 本質はやはり今と変わらずに・・・このように成長していたと思います。
通ってきた道はすべてどこかでちょろちょろと顔をのぞかせているのを感じることがありますし。
懐かしい話書いてたたら アルバムでもめくりたくなりました。
こんな長文書いたら かならずついてくる誤字脱字にはご勘弁くださいませ。