十条跨線橋 調査日 2015年12月20日
橋長:30.5m
十条跨線橋は、1931(昭和6)年にJNR線を跨ぐ橋として架設されたものである。しかし、それだけのことならば、わざわざ休日を利用して見に来たりはしない。実は、この橋は、荒川を渡河するために架橋されていた日本鉄道の路線を複線化する際に、新たに購入して設置したトラス橋であり、その後、当橋梁の一部を転用し、ここに跨線橋として移設されたものなのである。つまり、元は明治時代に創架された百年橋梁の生き残りと言ってよい代物である。
もとより、明治時代の鉄製の鉄道橋梁は、鉄道に関する顧問技師がイギリス人であったためか、その多くがイギリスから輸入され、初期の鉄道橋として利用された(地域によって隔たりもあるが・・・)。その後、転用されるケースがとても多い。とくにポニーワーレントラスは、鉄道橋梁としての耐重性の問題から、架け替えられたケースが多いようである。
古い橋梁は、旧弾正橋に代表されるように産業遺産としての価値が高いものは、移設保存される場合もある。しかし、1世紀を経過しても、まだ現役の橋として使用されているものは、今や稀少だといってよいだろう。十条跨線橋は、実に産業遺産としての価値の高い橋梁だと思うのだが、芸術的な作品とも見なされる橋梁とは異なり、普段の日常的な役割のみを果たすこれら縁の下の力持ちたちは、老朽化によって、ただ消え去るのみなのだろうか・・・
当橋梁は、荒川橋梁複線化のために購入した4連のワーレントラスのうちの一つであり、下路の形式となっている。鋼鉄製であると土木学会の調査データ(HP)に記されているが、西大助氏が、久保田敬一氏の論考における鋼鉄製の表記に疑問を付していることもあるからか、その断定を疑問視するネット投稿もある。なお、土木学会『日本の近代土木遺産 改訂版』平成17年 86-87、304頁では、錬鉄ワーレントラスとの記載となっている。ただ、1893(明治26年)頃からイギリスの鉄製橋梁は、その素材が錬鉄から鋼鉄に代わっていることを指摘する調査報告もあるので、この点は、もはや現物の硬度などを実際に調査しないと解らないのではないかと思う。
この歩道用橋梁を通るだけだと、このトラスの物体は何だろうかと思ってしまうかもしれない。
このトラスには、製造会社と年代が記されたプレートが貼り付けてあり、素人とって調査の助力となる。表記は、コクラン社 1895 ダドリー イングランドである。よって、この橋梁は、1895(明治28)年にダドリーのコクラン社で生産された鋼材?橋梁?であることがわかる。コクラン社は、コクランとブラマーによって興され、ブラマーの死後、ギーチとスレートを伴って19世紀の半ばに起業した会社らしい。
荒川橋梁の複線化工事の竣工は1895(明治28)年の3月である。もし、そうだとしたら、トラスを組み立てるだけとはいえ、かなりの突貫工事ではなかっただろうか。
稲村和彦氏による調査報告によれば、上弦材の格点に組み立て時の分かり易さに配慮してピンカラーにアルファベットの印が施されているとのことであったが、今回は確認ができず、残念である。
十条跨線橋・歩道橋部部分から、東十条駅ホームと路線を眺望する
2021年9月補足:踏査・撮影は2015年の12月である。当時、僕は、レンズ交換式の一眼レフのカメラのレンズとして50mm単焦点のレンズしか持っておらず、しかもカメラの方は、APS-Cのセンサーサイズであったから、ポートレート用のレンズを持っていったに等しかった。よって、橋梁全体を撮影することが難しく、大失敗であった。でも、超広角だと、上手に撮影しないと歪みが気になるし、これはこれでありかなあとも、勝手に思い直してもいる。東十条駅にある古レールも調査したいので、再び訪れて、撮影し直そうかなあと検討中である。
以上