【日本建国史】は河内の八尾(ΙΑΩ)から始まった

『日本(ヤマト)・神話』が創作されたのは3世紀~4世紀頃の事でした…

最初の日本語「タコチ」(竹渕神社縁起書は日本の国宝に値する)

2018年09月18日 09時39分25秒 | 「日本建国史」

2018年09月18日(火曜) 

…日本語の始まり「タコチ」(タコチ神社=竹渕神社・縁起書は日本の国宝に値する)…

 …八尾市【光正寺文書】(URL  http://web-lib.city.yao.osaka.jp/yao/yao-archive/pdfs/117075879/117075879-k011s.pdf )…

 

…【GHQ/神道指令】(戦後・アメリカ占領軍政策)による「日本の歴史教育の否定」…

…「GHQ・検閲指針30項目」( http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317996.htm)により、それ迄の日本の優秀な国学者や歴史学者等の人達は【GHQ】(連合国軍最高司令官総司令部の略称)によって戦後に於ける日本の教育の場から排除されました。その後釜に入ったのがアメリカよりの人達(理由無き神代文字の否定者)で、此の人達が戦後の日本の教育現場で幅を利かせるようになり現在に至っています。従って、「或人の話」★(次に記す)として…

 

★…(現在)日本の歴史学者や言語学者には学問の自由がなく、学生が「神代文字」に付いて卒論を書こうとしたら止められた。

★…日本の言語学者はヤマト言葉を否定し上代語と言い換え、恬(テン/外のものに心を動かさず落ち着いている)として恥じない。

 

…戦後に於ける日本の国学者が書いた本…『日本語はなぜ変化するか』(小松英雄・著/笠間書院)によると、「国学とは国語学の事である」と言う。従って、日本には【日本建国・創建史学】等の歴史学は全く存在しないと言う事です。つまり、戦前(昭和20年AD1945年/大東亜戦争終結以前)の国学(日本国の起元学)と違って、今の国学は国語学(言語学)の事であり、その研究対称は奈良時代(710年~794年迄)頃の万葉仮名言語の事と言う。そして、飛鳥時代(592年~710年)以前の言語に対しては全く解らないとされている。

 

…戦後に於ける国学(言語学)界と同じ事が神道界にも言えます。それは、戦後の国状(政治の動向)を鑑みた神道の事典作成に当っては、そのノウハウ(方法を知る事/専門的な技術や蓄積)を良く知る人達が【GHQ】によって排除されていた事です。ちなみに、そんな事情を知った柳田国(日本民族学の長)の強力を得て『神道事典』は完成しました。

 

…戦後の昭和41年(1966年8月)に松本義之助(ヨシノスケ)氏が、「カミナ」(カミ字=神代文字)で書かれた『ホツマツタヱ』(秀真伝)文書を再発見(明治時代に存在した神代文字文書は既に国会図書館に保存済み)し、此の『ホツマツタヱ』文書が解読された結果、万葉仮名は神代文字で書かれた和歌や文言に対し、「1語・1音」として当て字した漢字群である事が判明しています。然し、此の事は江戸後期の究理学者【鶴峯戊申】(ツルミネノブシゲ)が『嘉永刪定神代文字考』の文書を用い…「日本書紀には神代文字が存在する」。として、既に指摘していました。又、落合直澄(明治の国学者)も、欽明天皇(AD540年~AD571年)★2年条の処に、「神代文字で書かれた文書が漢字に書き換えられた」。とする記述(古字フルキナ=神代文字)がある事を指摘しています。

 

★注(欽明天皇・2年条)…「帝王本紀(先代匶事本紀大成經・72巻本)、多有古字(フルキナ=神代文字)、撰集之人(撰集する人)、屢經遷易(伝え写す)。後人習讀(後の人が習い読む時)、以意刊改(意図的に削り改め)、傳寫既多(伝え写す)、遂致舛雜(違い迷う)、前後失次(前後の順序が失われ)、兄弟參差(暦の順序・間違い)。今則孝覈古今(今古い事を考え推測)、歸其眞正(マコトに帰す)、一往難識者(知り得ない事一つ選ぶ)、且依一撰而註詳其異(異なるを注釈し詳細に書く)。他皆效此(皆・此れに習え)」(日本書紀)…。

 

…万葉仮名に言う「マンヨウ」(万葉)の語元(語源の意ではありません)は、『ホツマツタヱ』(秀真伝・1章)に書かれている文言に言う「人の言の葉」(ヒトのコトのハ)が語元(語源の意ではありません)である。だが、何故、★「人の言の葉」に対し「万葉」の漢字が当て字されたのか?…

 

★注(人の言の葉=万/ヨロヅの言の葉)…「5・7調言語/昔いわくは、人はカミ(KaMi)、カミ(上/髪も同義語)は人なり、名も誉れ、道(3千)立つノリ(律法)の、カミ(上)は人、人素直にて、ホツマ行く(秀真行く)、まことカミ也」(秀真伝・40章)…

 

…以上の文言…「人はカミ」。その逆の…「カミは人也」。此の文言は、ヒトの言葉は【カミの息】(カミの御魂・Τ=三百/文字順数値・19)であると定義して成る【アワ(天地)の歌】(ゲマトリア数値方式/基本・24文字×2=48文字)を示唆し、尚、イオニア式数値(文字配列順数値)を取り込み初期的に造語した【カミ/ΒΚ=58】と【ヒト/ΘΒ=39】とは、神代文字言語数値(カミの息・Τ三百/文字配列順数値)【19】の介在(58-39=19)を用いて同義語と定義した文言であった。此の定義付けを以て、予め設定していた【日本建国・創建史】(初代・神武天皇~第12代・景行天皇迄の歴年史)文書、即ち、『ホツマツタヱ』(姉妹書・ミカサフミ)文書の作成数枠数値(1160+31+3910+4900=1万)を施行する役目を受け持つとする【天御中主】(フトマニ/アウワ=370)を出現させました。それは、占い用語のフトマニ(太占)を用い…「トホカミ・ヱヒタメ」(95)+「ヒト」(39)=「134」+「236」(カミの寸法値/詩篇・147-5)=「アウワ・370」として設定されていました。つまり、「ヒト(日本人)の言葉」に対し「ヨロヅ(万)の言葉」。と言い変えが出来るのは、【天御中主】(アウワ・370/Yahwehが発する光線の数値)を【フトマニ・図】の中心に据え、それを取り囲む「基本48文字」(ヤマト言葉文字)を用いて発せられる言語(ヤマト・言葉)は…「カミ(天の歌…地/ワの段…第三番目文字・ロ=万)の息」(エロヒムの御魂の息)による【ヤマト・言語】として定義していたからです。

 

…戦後の日本の言語学者達が必死になって研究する万葉仮名とは、戦後に再発見(昭和41年=1966年)された『ホツマツタヱ』に起因する訓読漢字群(上記で既に説明済み)である事が解明されています。然し、【神道指令】により…「自国(日本)の歴史の始まりを知る権利」…を自ら放棄した戦後の国学者(国語/言語学者)の人達は、先述の★「或人の話」の如く、「理由無き神代文字の否定」を改める事が出来ない限り、何時迄まで経っても「元初の日本語(ヤマト・言葉/上代語)の本質」を解明する事は不可能であり本末転倒である。尚、換言すれば…「木(万葉仮名)を見て森(ホツマ文字)を見ず」(小さい事に心を奪われ全体を見通さない事の例え)…と言っても過言でありません。

 

…八尾市(大阪府)に唯一建立する【竹淵(タコチ)神社】(大阪府八尾市竹渕2丁目154/祭神=天照大神)…此の【タコチ】(竹渕)の語元(語源の意ではありません)も先述に説明の如く、古代地中海沿岸文化圏のイオニア式ゲマトリア数値(文字&数値転換・隠語解読方式)を用い、【ΙΑΩ】(八尾)と造語(紀元前1世紀の終わり頃)された単語であるが、それはレビ記(旧訳聖書)に記された「カミの御名」(Yahweh/ヤハウェ)の別称であった。それが地名「ヤオ」(八尾)としての初出年は、長髄彦の討開始年(紀元前7年)から「満・4年目」(紀元前3年/戊午)の時であり、それは「ホツマツタヱ」文中で暫定的に設定された「アスズコヨミ・55年」(天鈴暦・55年)として記されている。ちなみに【タコチ】(竹渕)の語元は、その【ΙΑΩ】(八尾)の語元数値(三角数・507)に関連付ける必要(次に説明)があったからである。つまり、先ず「ヤマト・言葉」としての最初の単語(造語)は【ヤオ】(祭司系レビ記・断片文字/ΙΑΩ=八尾)であった。その単語対し、同時期に【タコチ】(1000/千)を造語した目的は、究極的な完成(千木の語元)を意味付ける為である。それは、聖書的文書を作成するに当たり聖なる数値枠を設定する必要があり、そして 作成されたのが「日本人の聖書」として、尚、【日本建国・創建史】としての「ホツマツタヱ」(秀真伝)と「ミカサフミ」(三笠文)文書であった。  

 


…初期的に造語された「タコ(463)・チ」(竹渕神社の語元)の語意が意味する処は、ヤマト国家として建国する以前(紀元前31年頃)から既に設定済みだった「ΙΑΩ/507」(八尾の語元…死海文書・レビ記断片文字)の単語。そして「エロヒムの霊」(Τ・三百)を意味表す「ネ」(190/寝&冬)のゲマトリア数値(507+190=697)に合体(697+463=1160)させる為であった。その数値言語「タコ・チ」とは、イオニア式数値「1000・千」(千木の語元数値/400+600・チ=千)と、三角数(トライアングラ-・ナンバ-)の「210+253=463・チ」(Π/アメ値点数値)とを同時に意味表す単語として念入りに考案された末に設定された単語であった。つまり、此の数値枠(枠・物語)を用いる事によって【第二・新約聖書】的、且つ、【日本建国・創建史】(日本神話を含む)としての『ホツマツタヱ』(秀真・思想国の歴史書)の作成を可能とした。ちなみに、「ホツマ国」(秀真国)の初出は…「昔、伊弉諾尊目、此國曰(イワク)、日本者浦安國、細戈千足國、磯(シ)輪(ワ)上(カミ)秀眞國(秀眞國、此伝袍圖莽句爾)←(此れ言うホツマクニ)」(日本書紀・神武天皇31年条)が初出です。

 

…反逆者とされる長髄彦の討伐に当たり、タケヒト(神武天皇の幼名)が「ΙΑΩ」(八尾)の地域(澁川郡/元初のヤマアト川を溯る)を経由した理由は、先ず、初代王となれる権利を有す宝璽(ジ)字入り「羽々矢」を祭祀者の長であるヤオのアラヒトから授かる事が必須的制約だったからである。そして目指した龍田越えは、道が険しく進みえず引き返す事となる。そして、日下(クサカ/東大阪市)越えを決行するが、皇子のヰツセ御子が肱を射られ苦戦する。それで、更に八尾(タコチ・地域)迄戦を退いた時の事が、唯一、【タコチ(竹淵)神社】(大阪府八尾市竹渕2丁目154/祭神=天照大神)の由緒書にだけ書き残されていました。それは当時(紀元前3年/天鈴暦55年・ヲシヱ=戊午)の人だけしか知り得ない内容が書き記されていました。従って、若しも、GHQによる【神道指令】が無かったならば、此の【タコチ・文書】(竹渕神社・縁起書)は、今頃、国宝に指定されていたかも知れません…

 

…此の続きは後日と致します…

 

 

…此の文書は、「日本語の始まり」URL( https://ameblo.jp/erusaremu464/entry-12381392458.html ) ← (クリック・検索)の続きとして書いています…

 

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