コケコッコー‼🐔と、早天祈祷に参加された方、嬉しく感じます。
誰が嬉しいかというのは、まず、神様御自身が一番嬉しく思われてます(^^♪ルンルン
神様は、神格&人格を兼ね備えた、私たち人間と同じく豊かな感情を持ったお方です。私たち人間に喜怒哀楽の豊かな感情を与えて下さったのも神様です。ダビデ王も嬉しさがあふれた時、民衆の前で神様に向かって歌って踊りました(半分裸踊り)。そのため馬鹿にされましたが、神様を見ている人は、人からどう思われるかなど人を恐れません。
ただ、神様が人間と違う点は、一点の非もなく(spotless)、公正で(justice)、普遍で(never changing)、完ぺきで(perfect)、聖く(holy)、善で(good)、愛(love)のお方であるということです。一点の暗いところも影もない方です。
良い贈り物、完全な贈り物は全て、天から、光の父から来ます。父は移り変わる影のように変化したりはしません。ヤコブ1:17
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます - Rolling Hills Covenant Church Japanese Ministry
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聖書は少ない箇所をじっくり噛みしめて学ぶことを継続することで自身の実になります。祈りの静寂の時間は決して無駄にはなりません。目に見えない力による平安と導きがあります。
自分の日々の時間の一部を神さまに捧げることを続けて下さい。ひょんなことから、日常に神様の関与と介入が働き始めていることに気付きます。私自身、はじめて、聖書を読み始めた時は16歳でした。罪と言われても、チンプンカンプンでした。しかし、継続により少しずつ理解出来ていきます。
7月は、新約聖書ローマ書(ローマ人への手紙)です。
以下に、ローマ書のバックグラウンドの解説を引用してみます。
ちなみに、英語で使途はapostle(アポッスル)。
弟子はdisciple(ディサイプル)。discipline(ディシィプレン:訓練・しつけ・規律)という単語もあります。
使徒はメッセンジャーであり、大使です。 弟子を導く人。弟子は、メンター、教師、またはその他の賢明な人のフォロワーおよび学生です。 教えを受け入れ学ぶ人です。
パウロについて知るためには、この映画とても おススメです。
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パウロは新約聖書の中の7つの手紙を書いています。第二回ギリシア訪問のころで、西暦58年初頭のローマ訪問の直前の冬に書かれたと推定されています。
マルティン・ルターは『ローマ書』を「新約聖書中もっとも重要な書簡であり、すべてのキリスト者によって精読されるべきもの」と激賞しています。「ローマ書のあゆみ」という言葉があり、それは『ローマ書』にあらわれる語句を追っていくことで人間個人の救いの道が現れるという理解に至ります。
たとえば・・・
- 3:23 - 「すべてのものが罪を負い、神の栄光を失った」
- 6:23a - 「罪の結果は死である」
- 5:8 - 「しかし神はイエスをとおして永遠の命を与える」
- 10:9 - 「口でイエスを主であるといい、心で神がイエスを死から復活させたと信じるならあなたは救われる。」
- 10:13 - 「主の名を呼ぶものは誰でも救われる」
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。1コリント1:22~24
本書の中心テーマはイエス・キリストへの信仰を通して得られる救いであり、人が義(正しい)と神により決定させられるのは、神の一方的な恩寵のみによることで、自分の功績ではないからこそ、決しておごってはならないとあります。また、ユダヤ人・異邦人とも、誇ったり自分を他人よりも高めたりする理由は何もないとあります。
信仰義認は万人に適用:人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。ローマ書3:28
ソンミンさんが何回も繰返されるポイントは、割礼という儀式がその人を義とするのではなく、心に割礼を受けるということです。礼拝、宮詣り、寄付、奉仕などの儀式を熱心にすれば救われるのではなく、まず、神を畏れ愛する心が大事だということです。十戒ですら、完全に守れる人は存在しません。守れないからこそ、イエス様を信じることで救われるように、神様が最後の突破口(永久必殺技)として、御子イエスをこの世に送られました。
有名な話で、善きサマリア人という話がります。英語では、good Samaritan(サマリタン)と呼ばれます。
救いの保障
5~8章にかけて、パウロは信じるものは救いの約束を受け、罪と律法のくびきから解放されるとあります。ただし、律法の役目は、自分の行いが悪であり、罪であることに気づかせてくれる基準であり、善いものと見なしています。その反面、人間にできることは罪の自覚を得ることだけでは救済には至らないと結論付けています。
パウロはイエスを信じる信仰によって罪から解放され義とされ、さらに信じるものは希望をもって喜ぶべきであると述べています。また、この約束はすべての民族・人種に開かれているので、全ての人が罪によって神から離れたように、イエスの償いによって全ての人の罪がゆるされるとあります。
9~11章にかけてはパウロは神が選んだイスラエルに対して忠実であられたことに触れ、同じように神は信じる者すべてに忠実であられます。パウロ自身もユダヤ人で、自身もイスラエルの一員であり(11:1)、かつてキリスト者を迫害していました。彼は、後悔し、イスラエルの民が、イエスこそメシアであり人類の救済者だという真実に気づくことを望んでいます(9:1-5)。神がかつてイスラエルの民を選んだように、キリストに従うものを新しい民(御自身の民)として選ぶと述べています(11:19-22)
12~15章前半では、パウロは福音がいかに人を変えるか、そして変えられた人はどのようにふるまうべきかを述べています。さらにユダヤ教の習慣を固守するなら、そうでない人々の間の緊張関係についても述べている。書簡の終わりにパウロは今後の旅行計画とあいさつを述べている。名前が出ている21人のうち三分の一は女性ですが、これはローマの共同体で女性が大きな役割を担っていたことを示すものです。OGPイメージ