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反キリストが負う腕の怪我

2022-05-04 11:46:53 | 反キリスト

前回、ゲマトリアの一種であるコトバの隠語を教えてくれた数学者に返信している最中、

神様があるジョークに導いて下さいました。

そのジョークを読んだ時、トランプに関するジョークだと感じました。

神様は、トランプが頭部に致命傷の怪我をする時、他にどの箇所に怪我を負うかを示して下さいました。

その男性にこのジョークの意味を告げなさいとおっしゃいました。

なぜなら、彼はトランプが反キリストかも知れないと思いつつ好感を抱いていたからです。

彼は、自分をこう表現していました・・・自分には感情がないと。だから、反キリストにも恐怖を抱いてないのです。逆に言えば、神に立ち返る心情も湧かない人なのです。

>>ある人々は、その思考と言葉において非常に数学的であり、それらは全く感情を持っておらず、彼らが知っている唯一の感情の下でより不純に動作し、それは権力欲と自己愛が絡み合っているのです。個人的には、私はただの数学者でありプログラマーです。

 

コチラがそのジョークです。

>> What did the man tell the baby clown's father?

A baby clown fell down and broke a bone. The doctor told the baby clown’s father that they broke the bone in between their shoulder and elbow. The man laughs. “Why would you laugh!?” “Its humerus.”

訳)医者は赤ん坊ピエロの父親に何を話したか?

Babyピエロが転んで骨を折ってしまった。

医者は、babyピエロの父親に、❝肩と肘の間の骨が折れてしまっています。❞と伝えた。すると、ピエロの父親は笑った。

医者:"なぜ 笑うんですか!?"

babyピエロの父:" だっておもしろいから! its humorus! ( humerus ) ! ” 

 

反キリストは、腕と右目をやられます。実際には、骨折どころではありません・・・。

このジョークから、片腕の上腕部分/上腕骨部分(humerus)が完全に再起不能になってしまうというのが、Joker(ピエロ)=反キリストの運命だと示されました。片腕といっても左腕か右腕かは判りません。左腕の可能性のほうが高いのかも知れませんが、今の時点では断定できません。

主はわたしに言われた、「おまえはまた愚かな牧者の器を取れ。

見よ、わたしは地にひとりの牧者を起す。彼は滅ぼされる者を顧みず、迷える者を尋ねず、傷ついた者をいやさず、健やかな者を養わず、肥えた者の肉を食らい、そのひずめをさえ裂く者である。

その羊の群れを捨てる愚かな牧者はわざわいだ。どうか、つるぎがその腕を撃ち、その右の目を撃つように。その腕は全く衰え、その右の目は全く見えなくなるように」。ゼカリヤ11:15-17


Woe to the idol shepherd that leaveth the flock! the sword shall be upon his arm, and upon his right eye: his arm shall be clean dried up, and his right eye shall be utterly darkened.  Zechariah 11:17

 

まさか、こんな馬鹿げたジョークから預言の解析なんて出来っこない、と考える人が多々だと思います。

でも、そういう固定観念から逸脱すべきです。神様はユーモアに富んだおもしろい方です!(^o^)👍

神のイメージを堅苦しい真面目な鋳型に押さえ込むなら、神様の語りかけを逃してしまいます。

神様は、ロバに喋らせたり、海を真っ二つに割って民を渡らせました。

なんとも、おもしろく、カックいい神です!💐(*^-^*)💐

 

神様は個性を重視される方です。神様の語りかける方法は1人1人に対して違います。

その人の判る方法で、あらゆる方法を用いて語りかけられます。

私たちの日常には、クリプトメッセージが存在しています。

神様は、私たちにコミュニケーションの信号を送られています。

ただ、ほとんどの人が日常ごとに忙しかったり悩みや葛藤に追われていて、語りかけに気付きません。

神様に対する心の目(霊の目) を開き、耳を澄ませておく必要があります。

 

 

個性を大事にされる神様>

レンガの壁と ニムロデ

訳)バベルの塔: レンガか石か。ニムロデとは何者か?


クシュにはまた、ニムロデが生まれた。ニムロデは地上で最初の勇士となった。彼は、主の御前に勇敢な狩人であり、「主の御前に勇敢な狩人ニムロデのようだ」という言い方がある。 10彼の王国の主な町は、バベル、ウルク、アッカドであり、それらはすべてシンアルの地にあった。 彼はその地方からアッシリアに進み、ニネベ、レホボト・イル、カラ、 レセンを建てた。レセンはニネベとカラとの間にある、非常に大きな町であった。創世記10:8-9

この時代には、誰もが狩人であった。では、なぜニムロデを強力な狩人だと呼ばれているのか?

その疑問に答えるために、1つ質問します。彼の獲物は何だったのでしょうか?

創世記11:1-2
人々は彼の獲物であって、殺すためではなく、むしろ彼に従わせるためであった。狩人が獲物を狩るように、彼は人々を狩ったのである。彼は自分の計画を完成させるために人を必要としたのです。

計画

彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。創世記11章

なぜレンガなのか?

当時、建築には岩石が使われ、モルタルには泥が使われていた。当時、建築には岩石が使われ、モルタルには泥が使われていた。これらは一般的で簡単に手に入る材料だった。しかし、なぜニムロデはレンガを選んだのだろうか。

素材の違いを少し見てみましょう。この違いがわかりますか?
岩と泥とレンガとモルタルの違いは明らかです。

まず第一に、岩と泥は3日目に神の手によって創造されました(創世記1: 9-13)。しかし、岩とレンガの違いをもっとよく調べてみてください。どちらが形や大きさが均一で、どちらが均一でないでしょうか。
明らかにレンガの方が形も大きさも均一です。しかし、神によって造られた岩は、大きさも形も独特であり、神が造ったモルタルの材料である泥で接着されています。それぞれの個性的な岩が、泥によってさらに結合されるように、丁寧に組み合わされているのです。その結果、非常に丈夫なものになりました。

神様は、レンガよりも丈夫にするために、そのユニークさを利用されたのです。レンガは丈夫ですが、岩のような応力に耐えることはできません。それにレンガは人間が作ったものです。しかし、見てください、それはすべて同じで、スライムでできたモルタルという人工的な材料で支えられています。材料にユニークなものは何もなく、いつも同じものです。レンガが同じであったように、ニムロデがバベルの塔を建てることに携わった人々も同じであったと創世記11章6節に❝民は一つであり、彼らはみな一つの言葉を持つ❞とあります。

主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。

※ 同じということは、世界政府統治がはじまり、ニムロデの血族である反キリストに従った者たちが、❝獣の印❞を受けてロボット化し❝同じ❞になって行くことの象徴にもなります。


神は、ご自分が創られた人々に、何の特徴も見い出すことは出来ませんでした。もともと、私たちは一つの体でありながら、それぞれが異なる役割を持った異なる部分です。神様の働きをするために、それぞれの賜物が与えられています。


世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、 言われた。
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。 創世記11:1-9

 

私たちは皆、体の中で異なる役割を持っており、同じ人は一人もいません。私たちは、過去に使われた岩と泥のようなものであり、それらは神の作った泥と一緒に注意深く組み合わせれば、最も強い材料となります。神は私たちが同じでなくユニークであることを望んでおられます。私たちの独自性によって、私たちは教会で一つの体として働くことができるのです。

レンガとモルタルは、岩より弱い人工の材料です。それぞれのレンガは、材質、大きさ、形、重さが同じでした。その中にユニークなものは何もない。例えば、教会の形式やプログラムを複製しなければならない、政府が富を再分配しなければならない、社会主義/共産主義などです。私たちは、神が私たちをお造りになったユニークさの中で共に働くとき、最高の力を発揮するのです。私たちは皆、それぞれ異なる賜物を持っており、それを用いて主に栄光を帰すべきなのに、この世のシステムと価値観においては、個性を抑圧し、皆と同じ、周りと同じ、価値観に誘導します。

それに対し、神はどのように対応されたのでしょうか?

我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
創世記11:7-9

神は彼らを全地のさまざまな場所に散らし、さまざまな言語を与えられた。しかし、問題は、これが怒りにまかせて行われたのか、ということです。

この時、神が人間に対して怒っておられたとは思えないというのが十分だと思います。創世記11章のどこにも、神がお怒りになったとは書かれていません。興味深いのは、ユダヤ教のラビが、神は人間の個性を愛してこのようにされたと教えています。個性を消すことは決して神が本来望まれたデザインではなく、人間社会が個性を消し、皆を同じ価値観で統一するように働きかけて来たのです。

神は、私たち一人一人を目的を持って造られました。

「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。」エレミヤ1:5

島々よ、わたしに聞け遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。イザヤ書49章1節

主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。イザヤ49:5

神は私たちを形造られる前から個々のことをよくご存じでおられ、1人1人が果たすべき目的をもって創造されたことは明らかです。皆が、唯一無二の存在であり、神によって結びつけられているのです。私たちは一つの体でありながら、その体の異なる部分であり、教会の中でのあなたの役割は、私たちの人生全体において異なるべきであるように、異なるものであるべきなのです。同じであることは退屈であり、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストをほめたたえるという同じ目的のために、しかし、それぞれの独自性の中で協力し合うということです。個性のない者の集まりは弱いのです。

 



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